第21話:光と陰

「それでおめおめと帰ってきたわけか」

 イメディング城、領主の執務室で椅子にふんぞり返っているコンラートは、義理の妹ミーナに対して、心底くだらないとばかりに言い放った。ミーナはヘリガとともに、片膝をつきながら、義理の兄コンラートの冷たい視線に耐えていたが、耐えがたくなって口を挟んだ。

「帰ってきていいとおっしゃったのは、お兄さまですが」

「うるさい。今日は遅いから泊まっていって構わないが、ヘリガ、明朝にはこれを連れて帰れ」

 コンラートが吐き捨てるように言うと、ヘリガは恐る恐る顔を上げた。

「失礼ながら申し上げます。コンラートさま、イェルクさまのミーナお嬢さまに対する態度は、見ているこちらが辛くなるほど冷とうございます。わたくしは、ミーナお嬢さまをビルング城に連れ帰るつもりはございません……」

「うるさい。ウィルヘルミーナを甘やかすな。そう言えば、お前もずいぶん甘やかされて育ったようだが。母上に叱られて、めそめそ泣いてばかりだったな。うっとうしい」

 ヘリガはメイド見習いだった幼い頃を思い出して、小さくなってうなだれた。ミーナはヘリガをかばった。

「お兄さま、そんな昔のこと、蒸し返さなくても。……とにかくわたしは、イェルクのもとに帰るつもりはございません。あのような、恐ろしいことをする人のもとになど」

 するとコンラートは盛大に笑い出した。

「恐ろしい? 村に火をつけるよう命じたことが、か。そうか、それならば恐ろしいのはこの私だ。それをイェルクに提案したのは私だからな」

「お兄さまが?」

 そう答えながらも、ミーナはどこかで納得していた。このお兄さまならあり得ることだわ。いつも、人の心など無視して、物事をすっぱり切り捨ててしまうもの。そんなお兄さまなら、一部の人など平気で見捨てるでしょうね。

「そうですか。賢明なお兄さまならではですわ。でも、イェルクは自身の復讐を理由にそう命じたのです。それはあまりにも残酷ではありませんか」

「あの時点で赤髭は相当追い詰められていた。追い詰められた奴らが、何をしでかすかは火を見るよりも明らかだ。イェルクが命じなければ、奴らが先に村に火をつけ、食料を奪い、村人を虐殺しただろう。生きて逃げられただけましだと思ってほしいものだ」

 その言い草にミーナはかちんときた。

「ですが、愛する村や、大切な食料に、自ら火をつけた村人の思いはどうなるのです? あの人たちがどれだけ悔しい思いをしたか! それに、巻き添えをくった村人はどうなるのです? わたしは、ひどく傷つけられてぼろぼろになった娘を見ました。あの娘はおそらく一生苦しみ続けるでしょう。お兄さまたちは、人の気持ちをないがしろにしすぎです!」

「お前は本当に子どもだな。感情でしか物事を量れぬようだ。いいか、よく聞け。あそこでためらって、蛮族どもに食料を奪われ逃げられたならば、この戦はあと何年か延びたろう。それで、何人の女が犯されると思っているのだ。いくつの村が焼かれると思っているのだ。どれほどの人間が死ぬと思っているのだ! 修道院で祈っているだけのお前にはわかるまい」

 コンラートはミーナを怒鳴りつけ、しまいには鼻で笑った。ミーナは押し黙るよりほかなかった。

「それにお前は、本当はイェルクの浮気が許せなかっただけだろう? そうだな、イェルクはビルング領やイメディング領の北部を熱心に回っていた。このあたりは、二十数年前からしばしば、蛮族が攻めて来たのだ。父上が、あの女を保護したのも、そのあたりだったらしい」

「イメディング領にまで、蛮族どもは攻めてきたのですか」

「もともと、蛮族どもはイメディング領を狙っていたのだ。作物は豊かで、家畜もたくさん飼っている。人々は収入もあり、のんきに暮らしている。略奪行為を図るなら、ビルング領より好都合だろう? 腹立たしい限りだがな」

 コンラートの話を、ミーナは興味深く聞いた。コンラートは、そんなことも知らぬのか、とミーナをあざ笑った。

「お父さまがお母さまを保護したというのは?」

「あの女の話など、この際どうでもいいだろう。ただのついで話だ」

 コンラートは顔をゆがめた。ミーナは、コンラートがクラーラをひどく嫌っていることをわかっていたので、これ以上話を蒸し返すのはやめにした。

「イェルクはここしばらく、そうした地域を周り、民を慰めているようだ。悪名高い赤髭を倒したイェルクは、どうやら大層歓迎されているそうだ。そこで女の一人や二人作っても、全く不思議ではないな」

 コンラートは意地悪く笑って、話を続けた。

「結婚生活など、退屈なものだ。すぐに刺激が欲しくなる。あるいは、窮屈かもしれんな。すぐに身動きが取れなくなる。そういうときに、ふと、他の女に目移りしたくなるものだ。私の妻は良い妻だ。お前と違って、賢くて、政治や経済にも関心があって、立ち居振る舞いも、顔立ちも美しい。その上決して出しゃばらない。さすが母上が見立てた女だ。だからこそ窮屈でたまらなくなるときがある。今なら、父上の気持ちもわかる。窮屈で窮屈でたまらないときに、あんな、何も知らない、何も出来ない、そのくせ顔だけは良い女が現れたら……心を奪われる気持ちもわかるものだ。ああいうのを、庇護欲を掻き立てると言うのか」

「お兄さま、なんてことをおっしゃるの。あんなに素晴らしい奥さまをお持ちなのに、あまりにも不誠実だわ」

 ミーナはぷんぷん怒った。対照的にコンラートは笑った。

「女だってそうだろう。どんなに素晴らしい男と結ばれようとも、退屈で、あるいは窮屈で仕方がなくなる。そして、他の男に目移りする。城の使用人、お付きの騎士、出入りの商人……妻だって、どこの誰とよろしくやっているか、本当のことは私にもわからない。だが、それがどうしたというのだ」

「お兄さまは、本気でそんなことをおっしゃるのですか? そんなお考えで、寂しくはないのですか?」

 ミーナはコンラートを哀れみの目で見つめた。コンラートは歯牙にもかけない様子だった。

「とにかく、離婚は許さん。お前は貴族の娘だ。家と家の利益のために結婚するのがお前の義務だ。お前とイェルクの結婚で、イメディング家とビルング家は繋がりを持ったのだ。では、今から、ここだけの話を聞かせてやろう。……その前に、ヘリガ、お前にはこの部屋を出て行ってもらう。ウィルヘルミーナが使っていた部屋の掃除でもして、待っていろ」

「……かしこまりました」

 ヘリガはミーナと離れがたい様子を見せたが、大人しく執務室を出て行った。ミーナは腹心の友と離れ、すこし不安になった。


「ここだけの話とは?」

 コンラートと二人きりになった緊張感を味わいながら、ミーナは恐る恐る口を開いた。

「そうだな。それは、ビルング領をイメディング領に併合する計画のことだ」

「なんですって!」

 ミーナはコンラートの側ににじり寄った。

「それを、イェルクは知っているの?」

「無論」

 ミーナは頭がくらっとした。たくましいお義父さまと優しいお義母さまが守ってきたビルング家を、コンラートお兄さまなんかに渡そうとするなんて、イェルクは何を考えているのかしら。

「そんなこと、イェルクが許しても、お義父さまが許さないわよ」

「マルクス殿もいずれ亡くなる。併合はそのあとで十分だ」

 ミーナはコンラートの執務机をばん、と叩いた。

「そんなことは、このわたしが許しません!」

 ミーナはなんとしてでも、ビルング家を守りたいと思った。今まで亜麻を育て、糸を紡ぎ、糸を染めてきたのも、そして、布を売ろうとしたのも、すべて、ビルング家のためだ。

「お前ごときに、何ができる。むしろ、お前自身が、この計画の鍵なのだぞ」

「どういうことですか」

 コンラートはせせら笑うように話し出した。

「お前とイェルクの結婚が、ビルング領併合計画の第一段階だ。先の戦で大損害を被ったビルング領に、多額の持参金を持ったお前が嫁ぐ。お前の持参金を、焼けた村々に寄付する。村人はその金で、種を買い、苗を買い、新たな畑を耕す。焼け野原は畑に変わり、そこで作物を収穫し、やがて村が栄えていく……。村人は感謝するだろう。イメディング家から嫁いできたお前が、身銭を切って村人を助けたと。その感謝は、やがてイメディング家にも向かうだろう。そして村人は、村に火をつけるよう命じたビルング家より、イメディング家に親しみを持つようになるだろう。そこで、お前がもう一度役に立つ」

「わたしが……何の……」

 青白い顔をしたミーナを見て、コンラートはにやりと笑った。

「ビルング城に着いたとき、お前に言ったろう? 丈夫な女の子を産めと。お前の娘と、私の息子のいずれかを結婚させる。そのときに、ビルング家をイメディング家に併合させて、イメディング家の分家にする、それが私の計画だ」

 ミーナの足がよろけた。それでもミーナは踏ん張り、コンラートに向き直った。

「その子たちは、いとこどうしではありませんか!」

 ミーナは抗議した。この国では四親等以内での結婚は禁じられているからだ。

「別に、かまわんだろう。血は一滴も繋がっていないのだから。あの女がどこの馬の骨とも知れぬ女でよかった。まあ、そうした声が上がることは想定済みだ。お前が女の子を産んだならば、その結婚相手に選ぶ息子は、どこかに養子にやる。見当も既につけてある」

「あなたはなんて人なの……まさか、村に火をつけるよう、イェルクに入れ知恵したのは……」

「そうだ。すべてはこの計画のためだ」

 ミーナは雷で打たれたような気分になった。

「お兄さま、あなたは、あなたは、たった一人の友であるイェルクのことさえ利用したのですか。イェルクはこのことを知っているのですか!」

「無論」

 コンラートは涼やかな顔をした。

「戦が終わって、すべてを打ち明けたとき、イェルクは苦笑いした。『お前らしい』と。イェルクはこうも言った。

『剣を振るうしか能のない私には、領地の運営は向いていない。できることと言えば、狩りや剣術試合で金を稼ぐことぐらいだ。貧しい農地を耕し、兵役で食いつないできた農民達も、戦が終われば食い扶持を失う。多くの騎士達も同じだ。ビルング領は、このままでは衰退していくだけだ。どうかお前がビルング領の民を救ってくれ。そのためならば、私が悪者になることなど、全く問題にならぬ』と。

 そして、お前との結婚については、こう言っていたぞ。

『多額の持参金を持たせた娘を嫁がせてくれて感謝する』と」

 ミーナは、目の前が真っ暗になった。完全に打ちのめされた気分になった。

「そんな……すべてはお金のためだったのですね。わたしとの結婚には、温かな情すらなかったと!」

 ミーナは崩れ落ちて泣き出した。コンラートは崩れ落ちるミーナの元へやってきて、ミーナを冷たい目で見下ろした。ミーナはその足にしがみつき、涙ながらに頼んだ。

「お兄さま、後生です! わたしたちの離婚をお許しください! わたしには、愛のない結婚生活など、耐えられません!」

「イェルクと離婚したら、お前はどうやって生きていくつもりだ。修道院にでも帰るのか?」

 ミーナは涙と鼻水を流しながら首を振った。惨めだった。それでも、今ここで戦わなければ、もっと惨めなことが待っていると思っていた。

「いいえ。わたしには、人の愛のない暮らしは耐えられません。ここに来るまでの間、ヘリガと話をしたのです。もし、離婚を許していただけたなら、二人で小さな畑を借りて、亜麻を育てて糸を紡いで暮らそうと。そうして、近くで暮らす男たちの誰かと、自然に結ばれようと。もう一度申し上げます。コンラートお兄さま、私たちの離婚をお許しください。たとえ国一番の騎士と結ばれようとも、虚しい結婚生活には耐えられません。わたしは、わたしを真に愛してくれる人と結ばれたいのです」

「滑稽だな」

 コンラートは場違いなほど大きな声で笑い出した。

「もう一度言う。滑稽だな。愛のない結婚生活など耐えられない、だと? 馬鹿馬鹿しい。結婚生活に愛など必要あるか」

「お兄さま。愛のない結婚生活など、惨め以外のなにものでもありません。お兄さまにはそれがわからないのですね」

 ミーナの言葉を聞いたコンラートは、氷のように冷たい目をした。悲しい目のようにも思えた。ミーナは、その目をどこかで見たことがあると思った。

「結婚生活に愛など必要はない。必要ないのだ! そんなものがなくとも、結婚生活は成立する。母上は愛のない暮らしの中でずっと努力しておられた! 夢見がちな父上を支え、イメディング家の良き領主夫人でおられるように。しかし、母上は決して惨めではなかった。むしろ誇りを持って生きておいでだった! 父上が、あの女を連れてくるまでは!」

「お兄さま……」

 ぎりぎりと歯を噛みしめるコンラートを見て、ミーナはおびえて震えだした。

「母上は、父上があの女を本気で愛しているのを一目で悟られたそうだ。そして、あの女が父上を愛してなどいないことも! なぜだ! なぜ父上は、今まで散々尽くしてこられた母上を愛さずに、肌を合わせることさえ許さないような女を愛したのだ! あの女のせいで、母上は心底惨めな思いをされた! 

 長い奉公暮らしを耐え、王都から帰ってきたら、知らない女とその娘が暮らしていて、父上からの愛情を一身に受けていた。それを目にした私の惨めさが、お前にわかるのか! 

 クラーラ。あの女はその名の通り、光だ。強すぎる光だ! 父上の目は眩み、私達は陰に追いやられた。そしてウィルヘルミーナ、お前はあの女に付き従う影に過ぎない。ちょろちょろとうっとうしい、思い切り踏んづけてやろうと、何度思ったか! だが母上は、誇り高き貴族の子息として、弱い娘に手を出してはならないとおっしゃったのだ!」

 そのときミーナは、あの冷たい目はゲルトルート奥さまの目だと思い出した。幼い自分を見下ろした、あの青い、冷たい瞳。その瞳に映っていたのは、深い悲しみの色だった。

(わたしはどうして、そんなことを考えもしなかったの……)

 ミーナは再び打ちのめされた。

「愛のない結婚生活が惨めだと? ならばせいぜい苦しむがいい。これが、お前達母娘と父上への、ささやかな復讐だ」

「お父さまへの……?」

 ミーナは震える声をあげた。

「そうだ。父上が死の床でお前に残した財産を、そっくりそのまま、お前の持参金としてビルング家に差し出したのだ。俺は父上のお前達母娘への愛情を、そっくりそのまま、俺の計画に利用したんだよ!」

 コンラートは「父上」という言葉を、まるで庶民が「親父」と呼ぶような口調で発し、庶民が話すような言葉を使って自身の思いを吐露した。

 ミーナはコンラートの惨めさを、身をもって味わった。それはまるで青白い炎が燃えているように、熱く、冷たく、そして悲しかった。


 翌朝、ミーナはヘリガを伴い、失意のままビルング城へ帰っていった。

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