後編:ミーナは機を織る
第20話:泉のほとりで
商売への誇りとやる気を失ってしまったミーナは部屋にこもり、しくしくと泣き暮らすようになってしまった。ビルング家の女の務めさえ忘れ、引きこもるミーナのために、ヘリガは再び緑色の服を仕立職人に依頼した。
そうしているうちに、季節は秋に変わった。ある日、ビルング城に知らせが届いた。この年の剣術試合で、イェルクはまたしても優勝だったというのだ。マルクスは誇らしげな態度を取り、カタリーナはイェルクが無事帰ってくることに安堵していた。ミーナは泣きはらして赤くなった目を少しでも治そうと躍起になったり、着る服を念入りに選んだりするようになった。
数日後、剣術試合で優勝したイェルクが帰ってきた。ミーナは城の前で待っていた。イェルクは堂々たる姿で城に帰ってきた。後ろに控える騎士たちも誇らしげだった。
「ただいま戻った」
「お帰りなさいませ」
「留守中変わりないか」
「いいえ、何もございません」
ミーナは去年のこの日と同じように微笑みを浮かべてイェルクを出迎えたが、イェルクの顔を間近に見て違和感を覚えた。
(去年と、少し違うような気がする……。やつれたのかしら)
そのあと、イェルクはずいぶん長い時間をかけて、マルクスにそれまでの視察について報告していた。その夜は宴会となったが、去年はいくらお酒を飲んでも少しも酔わなかったイェルクが、悪酔いしたと言って宴の席を離れてしまった。宴はその時点で解散となった。ミーナは心配になって後を追ったが、ティベルダに入室を断られ、しぶしぶ自室に戻っていった。ティベルダはもしかしたら、ミーナが商売を投げ出したことに憤っていたのかもしれないが、ミーナにそれを慮る余裕はなかった。
翌日の正餐の時間、カタリーナはイェルクとミーナに一つ提案をした。
「一週間ほど、別荘で静養せよとおっしゃるのですか」
イェルクは食事の手を止めてカタリーナの顔を見た。ビルング家は、領地の北部、イメディング領にほど近い地域に、小さな別荘を持っていた。もちろんミーナは行ったことがなかった。
「イェルク、なんだか少し顔色がさえないから、たまにはのんびりしてらっしゃい。ミーナと二人でね」
「まあ、お義母さま」
ミーナは喜びの声を上げた。先日、旅に出たときとは全く違うときめきを感じていた。先日のように、誰かが付き添うことになるだろうが、そんなことは気にしていなかった。
「母上、ご心配にはおよびません」
イェルクが口を挟んだが、カタリーナはにこにこ微笑むだけだった。そこへマルクスが、もう黙っておれんという感じで口を出した。
「いいから行ってこんか。書類仕事ならほかの者に片付けさせたほうが速いわい。お前は一年半近くも妻をほったらかしにして、何をしておるのじゃ」
「まあ、お義父さま」
ミーナは恥ずかしげに頬を押さえた。こういうところはマルクスのほうがよほど気が利いた。
「わかりました。では、明朝出発します」
イェルクは半ば押し切られたような態度で出発を決めた。ミーナは今度こそ、と意気込んで、好物のプディングを口にした。とろけるように甘かった。
翌朝、二人は馬車に乗って旅立った。馬車にはイェルクとミーナとヘリガ、そして従騎士の少年が乗った。ミーナはヘリガが用意してくれた、緑色の服を着て、円錐形のおしゃれな帽子をかぶっていた。イェルクは相変わらず、黒い服を着ていた。ヘリガと従騎士は気を利かせて、ほとんど口を開かなかった。一方、ミーナははしゃいで、馬車の窓から見える景色を楽しんだ。今回、馬車は先日の旅とは違い、ビルング領では少ない穀倉地帯を走っていた。
「イェルク、あの大きな建物はなにかしら?」
「あれは風車小屋だ」
「あのレンガ造りの建物は?」
「あれはサイロだ」
「イェルク、あの雲を見て! まるで羊の群れみたい……」
ミーナは幌のない馬車から帽子を落としそうなほど身を乗り出した。イェルクはミーナの身体を馬車内に引き戻した。
「まるで子どものようだな」
ミーナはふくれっ面をした。せっかく、いい気分になっていたのに。ミーナは抗議した。
「子ども扱いしないでください」
イェルクはぶっきらぼうな口調で、わかったと言うと、黙り込んでしまった。
そのときミーナは、収穫期を迎えた麦畑で休んでいる若い夫婦を見かけた。二人は背中を丸め、肩を寄せ合っていた。ミーナは二人を覗き見た。ゆったりと走っている馬車のことが気になっていないようだった。二人の世界に浸っているのだろう。よく見ると、妻のお腹がふくらんでいた。妻の歳は、ミーナと変わらない様子だった。ミーナは慌てて目を背けた。馬車はすぐに、夫婦から離れていった。イェルクは前しか見ていない。夫婦のことなど、眼中にないのだろう。
ミーナは心底焦っていた。自分と同じ年頃の夫婦でも、当然のように子どもがいるのだ。もたもたしていられない。なんとか、イェルクにその気になってもらうしかない……。
(でも、わたしの顔に、そんな魅力はあるのかしら……)
ミーナは結婚式の晩に、イェルクが顔を背けたことを思い出し、うつむいてしまった。ヘリガや従騎士の少年はミーナの顔を心配そうにのぞき込んだが、イェルクはそれでも前しか見ていなかった
その晩は近くの裕福な農家に宿を借りた。その家には若者はいなかった。みな、戦に駆り出されて亡くなったという。ミーナとヘリガは老夫婦とともに泣き、イェルクは息子たちの勇気をたたえて、翌朝、彼らの墓前に花を手向けた。
正餐の時間前には別荘に着いた。館と言えるか言えないかくらいの大きさだった。別荘には管理人の夫婦がいた。一昨日城から遣いの者を出したが、豪華な食事を出すには間に合わなかった。イェルクは簡素な食事を用意すればよい、と命じ、あてがわれた部屋に入ろうとした。
「イェルク、待ってください。庭に小さな泉があるのです。泉のほとりで食事をとりましょう」
ミーナはイェルクから離れたくなかった。そもそも、イェルクが二人で話をしようと言ったのだ。七月のことだから、もう忘れたのかしら。ああ、この人は本当に情けない。十五の頃のほうが、よほど紳士的だったわ。ミーナはため息をつきたいのを我慢して、イェルクに提案した。
「わかった。準備ができたら、呼びにこい」
そう言ってイェルクは、従騎士の少年とともに部屋に入ってしまった。ミーナは頬を風船のようにふくらませた。
昼食の準備ができた。ミーナはヘリガにイェルクを呼びに行かせた。ミーナは管理人に用意させたテーブルに控え、めいめいに食事を配った。パンと薄切りのソーセージとピクルスの簡素な食事だが、ミーナは外での食事を楽しみ、お腹いっぱいになった。イェルクは黙々と食べていた。ヘリガは気を利かせてイェルクに剣術試合の話など尋ねたが、イェルクは口を重く閉ざしていた。食事が終わるとミーナは我に返った。無邪気に食事を楽しんでいる場合ではなかった。その顔を見たヘリガは従騎士の少年とともにその場を去ろうとした。
「ヘリガさん、私はイェルク様の側を離れるわけにはいきません。最近、北のほうでは以前にまして物騒なのです。なにかあったら、すぐに……」
従騎士の少年が抵抗したので、ヘリガは少し離れた木の影まで離れることで妥協した。
ミーナは席を立ち、泉のすぐ側まで駆けていった。ミーナは靴を脱ぎ、泉に足をひたした。その日は十月とは思えぬ暖かな日だったが、水はやはり冷たかった。ヘリガはさっとイェルクのもとに行き、さりげなく布を渡すと、素早く木陰に戻った。イェルクはしばらく布を見つめ、やがてすべきことがわかったのか、おもむろに席を立ち、ミーナのもとへ向かった。
ミーナは泉から足を出して、震えて小さくなっていた。
「風邪を引くぞ」
イェルクはぶっきらぼうに布を差し出した。
「ありがとうございます」
ミーナは布を受け取り、濡れた足を拭き、靴を履いた。身体の震えは治った。
「後先を考えずに行動するからだ」
「あら、後先を考えずに泉に飛び込んだ人に言われたくありませんわ」
ミーナは皮肉のつもりで言ったわけではないが、イェルクが顔を背けたので、悪いことを言ったと思った。
「あのときは寒かったでしょう……わたしたちのために、本当にありがとうございました」
ミーナはイェルクを労った。しかし、イェルクはぶっきらぼうな態度のままだった。
「あの……どうしたのですか? なにか怒ってらっしゃるの? お休みになりたいところを邪魔したからですか?」
イェルクは何も答えなかった。ミーナはイェルクの冷たい態度が悲しくなってきた。
「イェルク……だって約束したではありませんか。剣術試合が終わって、城に帰ったら、話をしようって。わたし、どれだけ、あなたと話がしたかったか……」
ミーナの心の中で、ここ一年ほどの間に起こったことがかけめぐった。カタリーナを献身的に支えたこと。香草染めや薬湯づくりを通してメイドたちと交流したこと。ビルング家の女としての務めを着実に果たしていること。失敗に終わったが、ビルング家の家計を助けるために、商売を始めようとしたこと。イェルクの剣術試合優勝とは比べ物にならないだろうが、ミーナも自分なりに試行錯誤し、努力を重ねていることを話したかったのだ。
「すまないが、考え事をしているのだ」
イェルクはミーナを見ずに言った。そして、木陰にいる従騎士の少年を手招きしようとした。しかし、ミーナはイェルクを逃す気はなかった。イェルクの腕にしがみつき、こっちを無理矢理向かせようとした。ミーナは眉をとがらせながら叫ぶように話し出した。
「考え事ってなんですか。わたしにも聞かせてください。彼には話せて、わたしには話せないことでもあるのですか! わたしはあなたの妻です。どんなに子どもだとしても! わたしはあなたにとって、猟犬以下で、鷹以下で、そのうえ従騎士以下だとお考えなの!」
ミーナはイェルクににじり寄った。そのたびにイェルクは後ずさりした。
「誰にも話す気はない。部屋に戻って休もうとしただけだ」
「ならばわたしも連れて行ってください!」
ミーナは肩をいからせながらイェルクに近寄った。観念したのか、イェルクは立ち止まった。イェルクは重い口を開けた。
「もし、兄上達が生きていたらと考えていたのだ」
「お義兄さまたちが……?」
ミーナはつり上げた眉毛をおろし、いからせた肩をゆるめた。
「そうだ。もし兄上達が生きておいでなら、私はここにはいない」
イェルクは遠い目をした。ミーナは訝しみ、表情を曇らせた。
「なにをおっしゃるの……」
「私がいなければ、私が殺した多くの者達は生きているだろう。そのほうがよかったのでは、と思うのだ」
イェルクの絶望的な口調に、ミーナは驚いた。ミーナはイェルクにすがりついた。
「なんてことをおっしゃるの。あなたは騎士の務めを果たしただけです。あなたはそれ以上に多くの者を救いました」
イェルクはすがりつくミーナを静かにはがした。
「ミーナ、私はそんなに立派な人間ではない。言ったろう? 私は恐ろしい男だと。何故なら私は、あの赤髭を追いつめるために、そのためだけに、村に火を放つよう命じたのだ」
それを聞いた瞬間、ミーナの目の前は真っ白になった。次に浮かんだのは、修道院の光景だった。
ビルング領からの避難民を受け入れてからしばらくたち、春になった頃、修道院に、ひどく傷ついた一団がやってきた。そのうちの一人がこう言った。
「北のほうで村を焼いて、蛮族の掃討作戦をしたらしいが、蛮族どもが俺たちの村に逃げてきやがった! 蛮族どもは次々に村人を殺して、女達を……女達を犯しやがった!」
一団の中には一人だけ、若い娘がいた。娘の身体はぼろぼろで、人が近寄ろうとすると甲高い叫び声をあげて暴れ出した。
「ミーナ、心を落ち着かせる薬湯を持ってきなさい!」
若い修道女がミーナに命じた。ミーナは急いで薬湯を準備し、暴れる娘に近づいた。ミーナは、この人を放っておけない、なんとしてでもなだめなければと強く思っていた。
ミーナは娘に近づいた。
「どうか、落ち着いてください……」
しかし娘は興奮の度合いを強め、ミーナが持ってきた薬湯をお盆ごと払い落とした。修道女見習いたちが悲鳴をあげた。しかし、ミーナはひるまなかった。騒ぎを聞きつけた修道院長が大声でミーナを呼ぶのが聞こえた。
「ミーナ、いけません。さがりなさい!」
しかし、ミーナはさがらなかった。ミーナは暴れる娘の背中をさすろうとした。ミーナは娘を我が子のように優しく抱きしめたいと思った。
そのとき、娘の手がミーナの顔に触れた。その衝撃で、ミーナの赤毛があらわになった。聞いたことのないような声が、あたりに響き渡った……。
「ミーナ、どうした、ミーナ!」
イェルクの声に、ミーナは我に返った。ミーナの目から、涙が滝のように流れていた。ミーナは後ずさりをして、しぼり出すように言った。
「アラリケの言うとおりだったなんて……。あなたはなんて恐ろしい人でしょう! あなたのために、いくつの村の人たちが追われることになったと思っているの! 関係のない村の人さえ、巻き添えになったのよ! あなたは、一度修道院に来てご覧になるべきだったわ。あなたのせいでぼろぼろになった人たちを!」
ミーナは涙を流してイェルクをにらみつけた。イェルクはうつむいて肩を震わせた。どこかおびえているようにも見えた。
「そうだ。お前の言うとおりだ。父上はもちろん、反対なさった。兄上達だったら、そんな恐ろしいことは考えもしないとおっしゃった。それでも私は、全ての責任は私が取る、この罪は、立派な領主になって償うと言って、皆に命じたのだ」
「それならば、兄上たちが生きていたらなどとお考えになるのは、無責任ではありませんか! お義母さまは、ご自身のなさったことを、二十五年以上も胸にしまい込んで、一人で苦しんでいらっしゃったのに!」
ミーナは、今度はじりじりとイェルクに近づいた。
「母上が? ……そうか、お前は母上のことを、真に深く理解しているのだな。感謝する……そこまで母上の支えとなってくれて」
ミーナはイェルクの胸ぐらをつかまんばかりに近寄った。そして、声の限り叫んだ。
「そんなことまで、どうしてわたしから目をそらしながらおっしゃるの! わたしの顔を、そんなに見たくないの! そんなにわたしは醜いの! どうして、わたしを見て、そんなにおびえるの!」
「ミーナ、違う。お前のせいではない」
イェルクはミーナをしっかり見ようとしたが、その視線はわずかに泳いだ。ミーナは悟ったように、イェルクから離れてうつむいた。
「そう……そういうことね。本当は、わたしと結婚などしたくなかったのね。どこかほかに、あなたの愛する人がいるのね。当たり前だわ。いつまでも、お母さまとの甘い思い出にふけっているわけでもあるまいし。それに、あなたと結ばれたい女は、星の数ほどいるでしょうし」
「何を言っている……」
イェルクはミーナの肩に手を触れようとした。ミーナはそれを払いのけた。
「そうでなければ、泣き虫な子どものわたしに愛想を尽かして、どこかにいい人をおつくりになったのでしょう? どうかその人を城内にお招きになったら? かまいませんのよ、わたし、妾の一人や二人くらい。きっと、仲良く暮らしますわ。だって、わたし自身が……」
ミーナは顔をあげて、イェルクに微笑もうとした。しかし、その顔は怒りに震えてぐちゃぐちゃになった。
「許さない!」
ミーナはイェルクの顔を平手打ちした。たやすく避けられるはずなのに、イェルクは避けようともしなかった。ミーナはイェルクの顔を見た。悲しそうな顔をして、やっとまともにミーナを見つめていた。
「それでお前の気が済むのなら、気が済むまで殴ればいい」
意外なほど優しい声だった。それがミーナの神経を逆なでした。
「許さない! 許さない! 許さない!」
ミーナは何度も何度も平手で打った。ミーナの手は真っ赤になった。今度はイェルクの胸ぐらをげんこつで叩いた。
「許さない! 許さない! 絶対に、許さないんだから……」
ミーナはひざから崩れ落ちて、わんわん泣き出した。
「イェルク様! イェルク様!」
泣きすぎてぼんやりしているミーナの耳に、誰かがイェルクを呼ぶ声が聞こえてきた。
「どうした」
イェルクに声をかけたのは別荘の管理人だったが、ミーナは声のした方を見ようともしなかった。
「大変です! 近くの村に蛮族どもが現れて……村に火を放ったそうです」
「何だと」
ミーナは、イェルクの声に緊張が走ったのを感じ取った。
「すぐに支度する。馬を準備しろ。おい!」
ミーナは、イェルクが従騎士の少年の名を呼ぶのを聞いた。
「ミーナ。もう気が済んだか。聞いただろう? 私はここをすぐに立つ。お前はヘリガとともに、城に帰るんだ」
ミーナは、従騎士の少年とヘリガの足音を聞いた。
「わかりました。帰ります。……イメディング城へ」
「何だと……」
ミーナの耳に、イェルクの震え声が聞こえてきた。ミーナは目を見開いて立ち上がった。
「もう、どこへでも行ったらいい! あなたとわたしはこれでおしまい。あなたなんか、あなたなんか、蛮族どもと……あの赤髭と、たいした差などないのだから!」
ミーナは叫んだ。叫び終わると、目の前がまた真っ白になった。
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