第19話:得たものと失ったもの

 ブラーヴァ国にある、かつてリシュカが暮らしていた街に着いた。フバードは、宿の手配と、リシュカを探す役目を担ってくれた。ミーナはフバードに礼を言った。その間ミーナは街を回り、持ち合わせのお金で、美しい緑色の布を一反購入した。お金はそれでほとんど無くなってしまった。

 数日後、フバードが宿にやってきた。

「若奥様、見つかりました! クラーラ・リシュカの祖父に当たる老人が、今でもこの街外れに暮らしています!」

「本当!」

 ミーナは飛び跳ねて喜び、フバードの手を取った。フバードもミーナの手を握り返した。ヘリガがこほんと咳払いをしたので、二人は手を離した。

「では、さっそくそのご老人に会いに行きましょう」

 ミーナは張り切って宿を出た。もしものときに備えて、ビルング家から運んできた空色の麻布を一反、ヘリガに持たせた。フバードはヘリガを気遣って布を持ち運ぼうとしたが、ヘリガは頑として譲らなかった。


「ごめんください……」

 ミーナはその家の、鍵のかかっていない扉をそっと開けて、薄暗い部屋の中を覗いた。質素な家の中は、ずいぶんほこりっぽかった。老人の一人暮らしなので無理もないことだ。フバードは家の中へと急ぐミーナをいったん制して、玄関口で老人に声をかけた。

「リシュカさん。先日お話ししたとおり、クラーラさんの話が聞きたいという方をお連れしましたよ」

「そうかそうか、クラーラの話じゃな。ひょっとして、クラーラのお友達かの?」

 テーブルに向かい合うように椅子に腰掛けていた老人は立ち上がり、よたよたと玄関近くまで歩いてきた。かなり長生きしている老人のようだ。ミーナは老人に向かって上品に微笑んだ。老人はミーナを見るなり、腰が抜けそうなほど驚いた。

「クラーラ! 帰ってきてくれたんじゃな! 随分人相が変わってしまったが、儂にはわかる……。ああ、クラーラや。よく、生きて戻ってきてくれた……。あの日から、儂の世界は真っ暗闇に閉ざされたが、お前が帰ってきてくれて、やっと、光が戻ってきたようじゃ……」

 ミーナも、その老人を見た瞬間に、稲妻で打たれたような感覚に陥った。ミーナは唇を震わせながら、やっとの思いで口を開いた。

「あなたは、わたしの、おじいさま、いえ、ひいおじいさまですね。わたしはミーナ。クラーラの、娘です」

 老人の目が大きく見開かれた。ミーナは老人に駆け寄って、その身体を抱きしめた。

「ひいおじいさま! 会いたかった!」

 ミーナは涙に濡れた目で老人を見上げた。

「クラーラお母さまは、十年以上前に亡くなりました。お母さまは、記憶を失い、自分がどこの誰なのか、わからなくなっていたのです。ですが、まさか、こんな形で……」

「そうか、そうじゃったのか。お前さんは、儂の、ひ孫に当たるのか……。神よ! よくぞこの子に会わせてくださった!」

 ミーナと老人は、しばらくの間涙を流して抱き合っていた。フバードは気を利かせて、ヘリガとともに家を出た。


 ミーナは老人と向かい合わせに座り、老人が淹れてくれた、古ぼけた味のお茶を飲みながら、ここに来たいきさつと、これまでについての話をしていた。

「わたしのおじいさまと、おばあさまは、殺されてしまったのですね……」

 ミーナの涙が、お茶の中にぽとりとこぼれ落ちた。

「そうじゃ。あこぎな商売をしておったから、誰かに恨みを買ったのじゃろう。誰が殺したのか、全く見当がつかないほど、多くの者に恨みを買っていたのじゃ。のう、ミーナや。お前さんは商売がしたくて、わざわざリタラント国から来たそうじゃが、悪いことは言わん。やめなされ」

「どうして?」

 ミーナは老人を真っ直ぐに見つめた。

「あんたのような目をした人間が、濁った目で世の中を見るようになると思うと、儂は耐えられん」

 老人はそう言うと、お茶を飲み干し、また話を続けた。

「かつて、商人は、自ら旅をし、危険を冒して商品を仕入れ、お客のもとに届けていた。商売の旅は危険じゃった。その危険を冒してまで旅をする商人は勇敢じゃ。商人の国、ブラーヴァ国の名は、勇敢という言葉から生じたのじゃ。でも、いつからか商人は自分で旅をしなくなった。盗賊や、蛮族どもや、あるいは獣に襲われるかもしれんような危険な運搬を、安値で他人に任せるようになった。儂はそんな運搬人の一人じゃった。

 しかし、息子は商人に憧れた。商家に弟子入りし、めきめきと商才を発揮し、やがて暖簾分けされた。しかし、それまでの間に、息子は多くの者を蹴落としてきた。息子は優しい子じゃった。ばあさんが聞かせる物語が大好きな子じゃった。なのに、一人前の商人になった息子の目は濁っておった。

 息子は金持ちの娘と結婚し、一人の女の子を授かった。その子がクラーラじゃ。しかし、息子は、クラーラを儂ら夫婦に預け、商売に没頭した。嫁さんは社交界に顔を出すのが好きな女で、産んだ娘のことを構いやしなかった。じゃから、クラーラは、この貧しい家で育った。ばあさんが聞かせる物語が大好きで、その物語をすぐに覚えてしまう、賢い、優しい娘に育った。じゃがな……」

 老人は悲しそうにため息をついてから、ぽつりぽつりと語り出した。

「息子はクラーラを引き取りに来た。跡取りが生まれないものだから、クラーラを誰か優秀な男にやってしまおうと思ったのじゃろう。お姫様の物語が好きじゃったクラーラは、華やかな暮らしに憧れてこの家を出た。儂が次にクラーラに会ったときには、クラーラはまるで物語のお姫様のようになっていた。じゃが、その目には、物語を聞いていたときの、きらきらした輝きはなくなり、飢えた獣のような、ぎらぎらした目つきに変わっていたよ。クラーラは美しい物に取り憑かれたようになり、より美しい物を求めて旅に出た。今まで商売にとんと興味の無かった、母親も同行したという。そんな旅を幾度か繰り返したあとで、息子夫婦がリタラント国で殺されたと聞いた。リタラント国には、別荘があった。その別荘の近くで、息子達は身ぐるみ剥がされて殺されていたらしい。しかし、そこにクラーラの遺体はなかったと聞いた」

 ミーナは残酷な事実と、ミーナが知っているクラーラとのあまりの違いに驚いて、言葉が出なかった。

 老人は頭を抱え込み、視線を低く落として、話を続けた。

「儂はずっと、後悔していた。クラーラが商売の旅に出る際に、たとえ古くさいと笑われようとも、口うるさいと嫌われようとも、止めればよかったと。……しかし、それも過ぎたことじゃ。今、ここに、お前さんがいるということは、クラーラは誰かと結婚して、幸せな生涯を送ったのじゃろう?」

 老人は笑った。すがるような笑みだった。ミーナはしばらくの間、何も言えなかった。しかし、勇気を振り絞って口を開いた。

「お母さまは、貴族の妾として暮らしていました。わたしは妾の子として育ちました。ですが、その貴族とお母さまの間には、何もなかったと、あとになって知らされました。教えてください。誰か、心当たりはいませんか。わたしのお父さまは、いったい誰なのですか?」

 老人は目を閉じ、じっと考え込んでいた。長い、長い間沈黙が流れていった。ミーナは沈黙に耐えられず、残ったお茶を飲み干した。

「すまんのう、ミーナ。心当たりがありすぎて、答えようがないのじゃ」

 老人の意外な言葉に、ミーナは思わずむせてしまった。

「こ、心当たりがありすぎるとは、どういうことでしょうか?」

「この家を出たクラーラは恋多き娘になった。なにせ、あの顔じゃろう? あの、笑顔じゃろう? それで『クラーラは』なんて言って男に甘えるんじゃ。誰も彼もがクラーラを好きになった。クラーラは男から男へ、まるで蜜を求める蝶のように飛び回って、遊んでおったよ。男遊びはいい加減にしろと叱ったこともあるが、言うことを聞かなかった。

 じゃが、先ほどのお前さんの話を聞いて思ったのじゃ。クラーラは、儂の知らないところで、真に愛する男を見つけたのじゃろう。お前さんから察するに、赤毛の男かのう? じゃから、記憶を失い、貴族の男に拾われても、操を通したのじゃろうな。のう、聞かせておくれ、お前さんの知っているクラーラは、どんな母親だったのじゃ?」

 ミーナは微笑みながらこう答えた。

「お母さまは、とても優しくて、物語が大好きで、まるで女神のようなかたでした。わたしのことを、心から愛してくださいました」

 それを聞いた老人は、つっと涙を流した。

「おお、お前さんが、お前さんが、クラーラを元の優しいクラーラに戻してくれたのじゃ。ありがとう、ミーナ。お前さんが来てくれてよかった。お前さんの笑顔は、微笑みは、幼い頃の優しいクラーラにそっくりじゃった。もう日が暮れるから、帰りなさい。そしてまたいつの日にか、今度はお前さんの夫を連れて、ここに来ておくれ」


 こうして、ブラーヴァ国への旅は終わった。商売上では、何も得るもののない旅だった。しかし、ミーナにとって、人生で大切な宝物を得た旅だった。


 ビルング城が目の前に迫り、ミーナは馬車を降りた。フバードも馬車を降りた。

「若奥様、申し訳ありませんでした。結局、私は、あなたの商売の役には立てませんでした」

「何を言っているの、フバード。また、ブラーヴァ国に連れていってちょうだい。あなたが知っている街や店を、もっと見てみたいの」

 ミーナは少し甘えるような口調で言った。しかし、フバードは首を横に振った。

「若奥様。私はもう、行商人をやめ、故郷へ帰ろうと思っております。織物商の父の手伝いをしようと思うのです」

「そんな、どうして? ビルング城の皆が、あなたが持ってきてくれる商品を楽しみにしているのよ?」

 少し怒ったように話すミーナに対して、フバードは寂しそうに微笑みながら、話を続けた。

「若奥様、私も若奥様と同じように、商売人が直接生産者から物を仕入れ、販売するのがよいと考えていたのです。だから、親元を離れ、行商人になったのです。ですが、もう、疲れました。この、紙切れ一枚入る隙間もないような、商売人の世界の中で、たった一人で戦うのは。若奥様、あなたは本当に、人に頼るのが上手な方だ。あなたが笑うと、誰もがあなたの味方をしたくなる」

 今度はミーナが首を横に振った。

「私は、自分の力で何かを成したいのよ。何もできない子どもだと思われたくないの」

 それに、いくら私が微笑んだって、本当に頼りたい人は、振り向いてさえくれないのよ、という言葉を、ミーナはなんとか飲み込んだ。

「だったら、私だって何も出来ない子どもだ。若奥様は私のことをそう言って笑うのですか?」

「笑わないわ」

 ミーナは真っ直ぐにフバードを見つめた。フバードはいつぞや見せたような、作り物ではない笑顔を見せた。

「若奥様。世の中には色々な人がいて、それぞれが自分の立場を守って、頑張っているのです。物を売るにしても、何にしても、様々な立場の者が関わっているから、より大きなことを成せるのですよ。それをお伝えしたかったのです」

「……わかったわ。商売のことは、もう一度考えてみる。今までどうもありがとう。おかげでいい旅ができたわ」

 ミーナはフバードに手を差し出した。フバードはミーナの手をそっと握りしめた。ヘリガは見ないふりをしていた。

「さようなら、若奥様。どうぞお元気で」

 フバードは馬車に乗って、去っていった。ミーナは馬車が見えなくなるまで、その姿を見送った。


 フバードがいなくなったあと、入れ替わるように、ビルング城に新しい行商人がやってきた。ミーナは早速、その行商人に空色の布を売ろうとした。しかし、その行商人は、ミーナたちの布を一目見ただけで、こんな安っぽい色の布には、金貨一枚の価値もない、と決めつけた。ミーナはそれに激怒し、行商人を追い出してしまった。

 あの商人は、私たちの布を安っぽいと言って馬鹿にしたわ。もし、フバードの言うとおりに、コンラートお兄さまに布を売ったとしたら、きっと同じ反応が返ってくるわ。私はそんな人たちに、この布を、絶対に渡さないわ!

「でも、誰に売ればいいの? どこにそんなあてがあるというの?」

 ミーナは自室で一人頭を抱えた。

「なんだか、もう、疲れたわ……」

 ミーナは寝台に倒れ込んだ。ミーナがあの布に託した誇りは、道ばたの草のように踏みにじられ、ミーナは商売へのやる気を失ってしまったのだ。

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