第18話:ミーナの旅
ミーナは美しい空色の麻布を、フバードに自慢げに見せた。フバードは熱心に、手触りを確認し、布目の細かさを観察し、何よりその色を長い時間眺めていた。
「改めて考え直すと、まるで空の色、素晴らしい色だ……。確かに、どこに行っても、見たことのない布ですね。ブラーヴァ国にもない。あの、東の果ての布までも集めているという、織物市でさえ……」
フバードはいたく感心しているようだった。ミーナはその手応えを実感し、飛び跳ねんばかりに喜んだ。
「フバード、あなただったらいくらで買ってくれる? 金貨二枚? それとも、三枚?」
フバードはきらきら輝いているミーナの目を、じっと見つめた。ミーナは少しどきっとした。フバードはかなりの美青年だからだ。
「金貨一枚で買いましょう」
「どういうこと!」
ミーナは応接間の机を叩いた。どこにも売っていない、何かを見つけろなんて期待させるようなことを言っておきながら、わたしをからかったのか、と問い詰めたくなった。フバードはミーナの気迫にたじろぐことはなく、一つため息をついた。
「若奥様、商売は信用で成り立っているのです」
「信用? どういうこと、それはビルング家が信用できないってことかしら!」
ミーナは語気を荒げた。
「今、商人達はお互いに顔を合わせずに商売をしています。それが出来るのは、商人達が何年も何十年もかけて築いてきた信用があるからです。あの商人が卸す布の品質は確かだ、あの人が買った物なら間違いない、お互いにそう信じているから、商売が成り立つのです。そこに、私のような一介の行商人が入り込む隙間はないのです! 若奥様、私と商品のやりとりをする限り、あなた方の布は一反あたり金貨一枚でしか売れません。なぜなら、私はその布を、金貨一枚と銀貨五枚で売ることしか出来ないからです。私の信用も、販売網も、その程度なのです。どんな素晴らしい物を売るかではなくて、誰が売るか。それが重要なのです」
いつも優雅で上品なフバードが、こんなに熱っぽく、どこか悔しそうに話すのを、ミーナは初めて聞いた。
「なら、どうして、わたしたちに、他にはない何かを見つけろなんておっしゃったの?」
ミーナはすがるように言った。
「あなた方が作る製品が、本当に価値ある物か、価値があるならどこに卸せばいいのかをお伝えしようと思ったからです」
その言葉を聞いて、ミーナはぱっと顔を輝かせた。
「フバード、教えて。どこに卸せばいいの?」
「もうお分かりでしょう? イメディング領にある、織物商人ギルド総裁、コンラート・イメディング様のもとです」
ミーナの顔色は一気に青白くなった。よりによって、ここで、お兄さまの名前が出てくるなんて。お兄さまは色々なことを手広くなさっていると噂に聞いていたけれど、なぜ、今さらお兄さまに頼らないといけないの……。
「素晴らしい布ですからね。たとえ少量しか生産できなくても、コンラート様なら買ってくださるでしょう。私よりもはるかに高い金額で。あの方の販売網があれば、東方へも売りに出してくださるかもしれませんよ……」
「いやよ!」
ミーナはフバードの言葉をさえぎるように応接机を叩いた。
「あのお兄さまに頭を下げるのは、死んでもいやだわ」
フバードは目を丸くしてミーナを見つめた。いくら見つめられても、ミーナはもうどぎまぎしなかった。
「兄妹仲があまりよろしくないというお噂でしたが、そこまでとは……。では、イェルク様からお願いしてもらえばどうです? お二人の友情の篤さは、私達商人の間でも有名な話ですよ。だから、コンラート様は、ビルング家をお救いになるために……」
そこまで言うと、フバードはミーナから目線を外した。ミーナの目に燃える怒りの炎に耐えられなくなったからだ。
「心当たりでしたら、もう一件ございます」
「本当!」
ミーナはフバードの手を思わず握りしめた。
「ブラーヴァ国に、珍しい布を直接買い取っては、東方に高く売るのを生業にしている商人がいたそうです。ただし、変わり者で、その商人は仲介人も、他の商人すら間に入れず、生産者から直接買っていたそうです」
「変わり者? だって、そのほうが、間で余計なやりとりをしないで済むから、いいじゃない。どうしてみんなそうしないのかしら? わたしはそうしたいわ。イメディング城でふんぞり返っているお兄さまに頭を下げて頼むより、布がほしい人に直接手渡したいわ」
フバードはミーナを見て、何度目かのため息をついた。
「今のお話といい、先程の、薄い藍色の布を、貧相ではなく空の色とおっしゃったり、若奥様はとても自由なお考えをなさる。羨ましいですね」
「自由? ……それってもしかして、子どもっぽいと言いたいのかしら? ひどいわ! イェルクだけでなく、あなたまでわたしを子ども扱いするの?」
ミーナはぷんぷん怒り出した。そんなミーナを見て、フバードは上品な笑みを浮かべた。
「きっと、イェルク様はあなたが羨ましいのだと思います。あの方こそ、がんじがらめに縛られておいでですから」
自分の使命に誇りを持っているイェルクも、赤の他人から見れば不自由に見えるのだろうか。ミーナは少しの間考えた。
「イェルクは不器用な人よ。そういう生き方しかできないんだわ」
「だから、若奥様はこうして一生懸命、イェルク様を支える道を探ってらっしゃるのですか?」
それを聞いたミーナは、顔を耳まで真っ赤にしてうろたえた。
「違うわ。わたしはただ、わたしを何もできない子ども扱いするイェルクの鼻をあかしてやりたいだけよ」
「そうですか。イェルク様はお幸せですね。私の商品に目もくれずに立ち去っていくあの方をお見かけするたびに、なんて不幸な方だろうと思っていたのですが」
そのときミーナは、同じ世界を生きている者でも、見える世界は全く違うのだという、ごく当たり前のことに、生まれて初めて気づいたのだった。
リシュカ(きつね)と呼ばれるその商人に会うには、生産の責任者であるミーナ自身がブラーヴァ国に出向く必要があった。ミーナは領主の執務室で義両親に頭を下げて、外出の自由を与えてもらえるように頼んだ。
「我らがビルング家のこと、ひいてはビルング領の未来について、お前がそこまで考えているとは、知らなかった。のう、カタリーナ」
「ええ。はじめてここであなたに会ったときは、かわいい小鳥が我が家にやってきたと思ったわ。そんなあなたが、こんなにも早く、羽ばたこうとしているなんて」
ミーナは反対される覚悟を決めていたので、義両親の喜びようにびっくりし、それ以上に感謝の気持ちでいっぱいになった。
「じゃが、旅は危険じゃ。それに、夫を持つ身であるお前が、独身の男と旅立つのは感心せん。後ろに監視の兵をつける。お前は必ずヘリガを連れていくように。よいな」
「ごめんなさいね、ミーナ。マルクスはあなたのことがとても心配なのよ。もし、あなたに何かあったら、イェルクに顔向けできないわ」
ミーナは自分を本当に大切にしてくれる義両親の顔を交互に見つめた。
「お義父さま、お義母さま、ご心配をおかけしてすみません。わがままを聞いてくださて、ありがとうございます。正直に話します。わたしは、お義父さまとお義母さまがとてもうらやましいのです。いつもお二人で寄り添っていらっしゃる」
マルクスとカタリーナはお互いに顔を見合わせた。そこがうらやましかった。
「わたしもイェルクとそんな関係になりたいのです。ですが、イェルクはいつも城を留守にする。イェルクは自身の生きる道を探しているのだと思います。だけど、わたしは、イェルクは騎士として生きるほかないのだと感じております」
「そのように、儂が育ててしまったからのう……」
マルクスは辛そうな顔をした。ミーナはあわてて首を横に振った。
「お義父さま。騎士として生きるのがイェルクの誇りです。わたしはイェルクが誇りを持って生き続けるために、少しでもこの家を支えたいのです。だって、そうでもしないと……国一番の騎士であるイェルクには釣り合いません」
「ミーナ」
カタリーナが優しく微笑んだ。その笑みはまさしく、天使の微笑みだった。
「あなたは、あなたとしてここにいるだけで、素晴らしいのですよ。あなたの挑戦は応援します。だけど、あまり背伸びはしないで」
背伸びはするな。イェルクもミーナに同じことを言った。背伸びをして生き続けてきたはずのイェルクと、背伸びをさせ続けたカタリーナがそう言うのはなぜだろう。ミーナには少しもわからなかった。
「さあ、行ってらっしゃい。戻ったら、旅の話をいっぱい聞かせてちょうだい。楽しみにしているわ」
こうしてミーナは、旅立ちを許された。ミーナの心の内は、緊張感とときめきでいっぱいになっていた。
ビルング領の南側を進んで、イメディング領の中央部にある大きな街道をブラーヴァ国まで真っ直ぐ進んでいく行程をフバードが組んだ。この行程は、結婚式で通った道のりそのものだった。ビルング領には、この道とあともう一本くらいしか、広い道はないのだ。馬車は荒涼とした大地を走っていた。ミーナはビルング領の貧しさを思い知った。
「ですが、ビルング領の民はとても強い。逞しい。その力を生かして、今後発展できればいいのですが……」
ビルング領を抜けた頃、フバードはビルング領についての長い話を語り終えた。フバードはなんとなくお茶を濁すような言い方をした。ミーナは緊張していて、フバードの話をあまり聞いていなかった。
「若奥様? 顔色が悪いようですが?」
「わたし、緊張しているの」
ミーナはそう言うと、一呼吸置いて話を続けた。
「リシュカ、という商人は、どんな人なのかしら? わたしに会ってくれるのかしら? 私たちの布を買ってくれるのかしら? 買うとしたら、いくらで? わたし、計算は苦手なのだけれども、ちゃんと利益を出すには、どれくらいで売ればいいのか、とか色々考えていたら、頭が痛くなってきて……」
ミーナは言葉通り頭を抱えた。ヘリガはその頭を優しくなでながらフバードをにらむように見ていた。
「ミーナお嬢さまはときどき頭痛に苦しまれるのです。おかわいそうに。あなた、ちゃんと、リシュカという商人に会うあてがあるんですよね?」
「ありません」
フバードは上品な笑みを浮かべながら言った。
「会うあてがないって、どういうことですか!」
そう言ってヘリガが怒り出すと、フバードはヘリガをなだめながら、話を続けた。
「リシュカに会ったことがあるのは、私ではなく、織物商だった父なのです。なんでもリシュカは、大商人の一人娘でわがまま放題に育ったそうで。ある日、父含め数人の織物商が布を売りにいったら、その布を見るなり『あなたたちが持ってきたものは、まったく美しくない。もっと美しいものを、わたしにふさわしい美しさのものを持ってきてちょうだい』と言ったとか」
「どこかで聞いたことがあるような気がするわ」
ミーナは首をかしげた。ヘリガはわからない、という顔をした。
「どんな布にも満足しなかったリシュカは、ついに、自分で布を買いに行くと言って旅立ったそうです。そうして、次に父達が商品を見せに行ったとき、リシュカはとても上等な布を持っていたとか。リシュカはとんでもない目利きだったのです。どうやらリシュカは、自ら生産者に掛け合って、一番上等な布を買い取ってきたようなのです。父親が稼いだお金を、湯水のごとく使って」
ミーナは、リシュカという女性は、気難しくてわがままで、まるで若い頃のゲルトルート奥さまそっくりなのだろうと考えて、はたと思い出した。
「そんな話を、お母さまから聞いたことがあるわ」
「クラーラさまから?」
ヘリガがミーナに尋ねた。ミーナが答える前に、フバードがぽん、と膝を叩いた。
「そうです。その女商人の名は、クラーラ。クラーラ・リシュカというのです。別名、女狐クラーラ。クラーラは、商人なら誰もが喉から手がほしいほど欲しがるような上等な布を買い、目玉が飛び出るようなお金で東方へ売っていたとか」
「すごい女性ね。そんな人が、わたしに会ってくれるのかしら……なんだか会うのが怖いわ」
「それがですね……クラーラが活躍していたのは、十七、八年前の、ほんの短い間だけ。そんな無茶な商売が、長続きするはずがない。大商人だったリシュカ家の話も聞かなくなったそうです。不渡りを出して、一家揃って夜逃げしたのではないか、とか、恨みを買って殺されたのではないか、とか、色々言われたそうですよ」
フバードは乾いた笑いを浮かべた。ヘリガは今にもフバードに飛びかからんばかりの顔をしていた。
「では、どうしてわたしにそんな話を? クラーラ・リシュカは、少なくとももう、商売の表舞台にはいないのでしょう?」
ミーナが尋ねると、フバードはうつむき加減でこう言った。
「あなたに、広い世界を見せて差し上げたかったのです。まるでかごの中の鳥のようで、お気の毒だったから」
「え、なあに?」
そのとき、ちょうど別の馬車が通りかかり、フバードの声を遮った。ミーナはフバードの言葉を聞き返した。フバードはまた上品な笑いを浮かべながら、こう言った。
「あなたに、生産者が直接商人とやりとりするような商売は、無理だとわかっていただくためです」
フバードの言葉は残酷だった。ミーナも、自身の思いつきが幼稚なことはなんとなくわかっていた。もし、自分の思いつきが正しいのなら、みな、そのように振る舞うはずだからだ。
「だけど、わたしは、リシュカに会ってみたいわ。いえ、もし会えなくても、その話くらいは聞いてみたい。お願い、フバード。このままブラーヴァ国に連れていって。きっと今でも、リシュカのことを知る人が暮らしているはずよ」
「そうおっしゃると思っていました」
フバードは嬉しそうに笑った。いつもの、何かをごまかすような上品ぶった笑いではなかった。ヘリガはその表情の変化を注意深く見張っていた。
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