第17話:空をまとって踊る

 カタリーナの懺悔を聞いてから一月経った。ミーナは染め物小屋に出向き、藍玉を使って糸を染める作業に取りかかった。最初に染め物職人の親方が言った。

「藍玉を使って、糸を染めるには、さらに発酵させてやらないといけねえんです。これを藍建てっていうんですが、心をこめて一週間、毎日世話しなきゃなんねえ。まるで子どもを育てるみてえに」

「子どもを育てるように……」

 ミーナは感慨深げにつぶやいた。結婚してからずいぶん経った。もう子どもができていても、ちっともおかしくないのだ。ミーナはカタリーナの懺悔を聞いて以来、早くイェルクに会いたいと思うようになった。そして、今度こそ愛を育み、子どもを持ちたいと思っていた。罪の意識を告白した人間が、安堵して程なく天に召されることはままあった。カタリーナはあの日から本当の天使のような表情を浮かべるようになり、ミーナは心配になっていた。ミーナはなんとしてでも、カタリーナが生きているうちに、かわいい孫を抱かせてやりたかったのだ。

「わかりました。心を込めてお世話いたします。では、その一週間のあいだはここに泊まりたいのですが」

 それには染め物職人の親方も驚いた。親方は、ここは男ばかりだからとんでもない、と固辞した。ヘリガは泣きながらミーナを止めた。ミーナはしばらくの間譲ろうとしなかった。最終的にはミーナとヘリガが近くにある農地の物置小屋に泊まることで落ち着いた。ミーナはヘリガまで小屋で寝泊まりしなくていいと言ったが、ヘリガは決して譲ろうとしなかった。いったん物置小屋に移り、なんとか寝泊まりできるよう整えるあいだ、ミーナはヘリガに声をかけた。

「あなたの忠誠心にはいつも驚かされるわ」

「忠誠心ではありません。友情です。わたしはいつもミーナお嬢さまとともにあります。ミーナお嬢さまの喜びはわたしの喜び、ミーナお嬢さまの悲しみはわたしの悲しみです。」

 ヘリガは熱っぽい口調で言った。

「ねえ、いつまでわたしのことをお嬢さまと呼ぶの? 最近は人前で奥さまと呼び直すことさえしないじゃないの」

 ヘリガはぶんぶんと首を振った。

「ミーナお嬢さまとお呼びするのが、わたしの友情の証でございます!」

「わかりました。誰かにひどく叱られない限り、ずっとそう呼び続ければいいわ」

 ミーナはヘリガの強情さに少しあきれるとともに、えもいわれぬ喜びを感じていた。


 ミーナとヘリガは染め物小屋に戻った。二人の作業場として、小さな部屋があてがわれた。使わなくなった桶が転がっていて、二人が寝る隙間もなかった。染め物職人の親方は、二人に厨房に行ってワインを取ってくるよう指示した。

「ワイン? どうして?」

 ミーナが首をかしげると、染め物職人の親方は、藍の発酵を手助けするために使うのだ、と説明した。時期が時期なら、ぶどうを使う、とも言った。

「ああ、だから、ぶどう栽培を手伝わされたのね」

 ミーナは納得がいった。

 ミーナたちはワインを運ぶと、次はかまどで湯をぐらぐらと沸かした。そして、藍玉と、木灰と、熱湯と、それからワインを一つの桶に入れて、棒でよくかき回した。

「こうすることで、藍が育っていくんでさあ。これから毎日夕方になったらかき回す。それ以外の時間は、この部屋が、熱くもなく、寒くもないように整えるんでさあ。この夏は、妙に暑いから、風通しをよくしてやってくだせえ。風のないときは、板か何か使ってあおいでやるとか。まあ、お任せしますぜ」

 そう言うと染め物職人の親方は自身の作業場に戻っていった。

 最初の二日間は、部屋の窓を開けたり閉めたり、桶の中身に向かって板であおいでやったりして、夕方になれば桶の中身を二十回ほどかき回すだけだった。ときどき親方がやってきて、桶の中身を指ですくってぺろりとなめていった。親方は、まあまあだな、と言った。夏はいつまでも日が出ているので、二人は物置小屋に戻って楽しい時間を過ごした。

 三日目になると、なんとも言えないにおいがしてきて、二人は気分が悪くなってきた。それでも二人は汗をかきながら藍の世話をし、日が沈んだら物置小屋でそのままぐったりと休んだ。

 四日目には、はじめは茶色っぽかった液面の色が、赤紫味をおびてきた。その日は暑かったので、ミーナは懸命になって桶をあおぎ続けた。夕方になって桶の中をかき混ぜると、小さな藍色の泡が中央に残った。様子を見に来た親方は、藍の華が建った、と言った。ミーナはこの泡を好ましく思い、大切に育てようと思った。

 藍の華は日に日に育ち、ついに七日が過ぎた。

「おお、まあまあの出来ですな。これなら染められますぜ」

 染め物職人の親方がそう言ったので、ミーナとヘリガはため込んだ糸玉の半分を染め物小屋に運んだ。そして、椅子を使って糸をかせにし、水で湿らせて染める準備をした。藍の華は桶から取り除いた。

 ミーナは棒を二本手渡された。二本の棒をかせに通し、かせをそっと桶にひたした。棒を通してかせを動かすと、糸がみるみる染まっていくのがわかった。ミーナもヘリガも、じっと黙ったまま作業を続けた。全体が染まると、棒の一本を持ち上げ、上下で引っ張るように糸を絞った。絞り終わると、ミーナとヘリガはそれぞれ棒を持ったまま小屋を出て、近くの小川に糸をさらしにいった。糸をさらす時間は十分もなかったが、二人にはとても長い時間に思えた。そして、いよいよ小川から糸を引き上げた。

「まあ……」

 そのとき、ミーナは、あの青を目にした。まるで青空が落ちてきたような色だった。

 ミーナは亜麻の花の色を永遠にとどめることに成功したのだ。

 染め物職人の親方は、もっと濃く染めた方がいいと言ったが、ミーナは頑として譲らなかった。


 ミーナは早速、ティベルダを呼んで、藍染めの方法を教えようとした。ところが、大きな問題が二つ起こった。一つは、ティベルダが藍染め小屋の悪臭に耐えられなかったことだ。

「若奥さま。あんまりですわ。確かに、わたくしはイェルクさまにあこがれておりました。でも、それは城じゅうの女たちが、多かれ少なかれ抱いていた気持ちでございます。わたくし一人だけを罰しようとお考えなのですか……」

 ティベルダはさめざめと泣いた。もちろん、ミーナはティベルダを罰するつもりはなかった。このにおいに耐えられないというティベルダの気持ちも理解できた。このにおいが染みついたら、イェルクの側仕えはできそうにない。メイドたちの仕事に差し支えるようなことはさせたくなかった。

 それに、藍を発酵させる際に尿を入れる現場に女たちが居合わせたら、とんでもないもめごとが起こりそうだと、ミーナは想像していた。ここで、女たちと男たちが棍棒でも持って争われたら城じゅうが大騒ぎになるだろう。ミーナは、染める仕事は藍染め職人たちに任せることにした。女だけがこの布づくりに携わるのではなく、男たちの力も借りて、ともに作り上げたほうが、よりよい布になると思ったのだ。

 しかし、二つ目の問題が起きた。男たちはミーナの意見をはなから否定したのだ。薄い青の布や糸は、貧乏人の色だというのだ。

「若奥様、俺達ゃ、いかに濃い藍色を染めるかに力を注いできたんですぜ。若奥様は毎日見てらっしゃるはずですぜ? 大旦那様や大奥様のお召し物の、深い、濃い色を」

 染め物職人の親方が言うとおり、マルクスやカタリーナの服は深くて濃い藍色だ。はじめて会った日に見た、美しい色をミーナはよく覚えていた。それが家令や家臣たち、ヘリガのような身分の高いメイドや一般騎士たち、一般の使用人たちと下るにつれて、色が薄くなっていくのだ。色が濃いというのは、完成までに何度も染めているということで、つまりは手間がかかって高級なのだ。イェルクは黒髪の騎士の名のとおりに黒い服を着ていて、ミーナは内心、修道士のようでつまらないと思っていた。ミーナは赤い服や、ヘリガがあつらえてくれたような緑色の服を好んで着ていた。まだ若いので好きな服を着るというわがままが許されるのだ。

「それは理解しています。ですが、わたしはどこにもない布を作ろうとしているのです。こんな空色の服は、イメディング家の衣装入れにもありませんでした。若い女たちは、今にこの色のとりこになるでしょう。だって、素敵ではありませんか? 空をまとって踊れるのですよ!」

 ミーナはくるりと一回転してみせた。お義理の拍手すら起こらなかった。

「とにかく、お願いします。一度の染めで売れる布ができれば、手間も、時間も、藍玉も少なくてすみます。少ない費用で高く売れれば、それだけビルング家のためになります。どうか力を貸してください」

 ミーナは微笑んだ。以前のように、若奥さまとしての誇りをかけて。しかし、親方は怒り出した。

「冗談じゃねぇ! 俺達には、誇りがあるんだ! 手間と時間と藍玉をたっぷり使って、いい色に染めることが、俺達職人の誇りなんだ! そんなけち臭いことはやってられねぇ! たとえそれがビルング家のためでも、だ!」

 ミーナは職人たちの頑固さを思い知った。しかし、負けてはいられなかった。ミーナは目を伏せて、しばらく考えこんだ。

「わかりました。ではあなたたちは、その誇りにかけて今までどおり濃い藍色を染めてください。わたしたちが作る糸や布は、わたし自身が染めましょう。これからはこの小屋がわたしの部屋です。大丈夫です。あなたたちがここで何をしようと、わたしは気にしませんから」

 ミーナは目を細めて、カタリーナのような慈愛の笑みを浮かべた。本心では、男たちがほとんど裸に近いような格好で、尿やらなにやら入れて藍玉を作る現場に居合わせるなど、卒倒しそうな思いがするのだ。

「ミーナお嬢さま、なんてことを……」

 ヘリガがわなわな震えだすのを、ミーナは手で制した。そして、口元を崩さないように注意しながら目を見開き、染め物職人の親方の目をじっと見つめた。親方は困った顔をして、目線をあちこちに移し、やがてため息をついた。

「若奥様は強情っぱりなお人ですな。ちょろちょろされたら、こっちが落ちつかねぇ。わかりやした。若奥様がおっしゃる通りの色を染めてみやしょう。よく考えてみたら、俺達の誇りをかけた一発勝負の色を出せるのも、面白いかもしれねぇ。それに……」

 ミーナは期待して親方の言葉を待ったが、親方は、ミーナが染めたおままごとの色が、ビルング家の色として出回るのは、職人の誇りにかけて許せないと言って、大声で笑い出したのだ。


 こうして出来上がった空色の麻布は、今まで貧相とされた薄い青とは違う色味を持つ、どこでも見たことのない布となった。

「素晴らしいわ。これが貧相だなんて、誰にも言わせはしないわ」

 ミーナはその布をかわいい我が子のように抱きしめ、頬ずりしてみせた。そして、多くの貴婦人たちが、空をまとって踊る姿を想像した。それはまるで、幼い頃に聞いた物語のように美しい光景だった。

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