第23話:わたしはミーナ
ミーナは夢うつつの中で、誰かが自分の名を呼んでいるのを聞いていた。
「ミーナ、しっかりしろ、目を覚ませ、ミーナ!」
「何があった。どうしたら部屋がこんなにめちゃくちゃになるのだ、答えろ、ヘリガ!」
「も、申し訳ありません。ミーナお嬢さまはイメディング家から戻ってから、それはそれは熱心に機を織っておいででした。朝から晩までお部屋にこもって、食事も大広間で取らずに、鍵までかけて。わたくしも、もう何日もお部屋に入っていないのです。お邪魔をしてはいけないと思って。そうしたら、まさか、こんな……」
「泣いている場合か! ヘリガ、イメディング家では何があったのだ。ミーナはコンラートと、何を話したのだ」
「何を、とおっしゃいますと? それは、離婚のお許しに決まっておりますわ! イェルクさまがあまりにも冷たいものですから! ミーナお嬢さまは、どれだけ寂しい思いをされたか。どれだけ泣いていらっしゃったか。イェルクさまにはおわかりにならないでしょうね! そのうえ浮気なさるなんて! イェルクさまはミーナお嬢さまの気持ちを踏みにじったのですよ……」
「今そんな話は無用だ。他に、何か話をしなかったか!」
「そんな! ……いえ、コンラートさまが、ここだけの話をする、とおっしゃっていました。人払いなさったので、どんな話をしたのかはわかりません。ミーナお嬢さまもなにもおっしゃいませんでした」
「ここだけの話か。……そうか。誰か、医者を呼んできてくれ。傷口の消毒をさせる。ヘリガ、ミーナは私の部屋に運ぶから、寝間着に着替えさせてやってくれ。こんな部屋には置いておけない。おい、鷹と猟犬を別の部屋に連れて行け。目を覚ましたときに怖がるといけないからな」
「かしこまりました!」
「ああ、ミーナお嬢さま、こんなにおやつれになって……」
「ヘリガ、着替えが済んだら下がってくれ。ティベルダ、医者以外の誰も通さないでくれ」
「かしこまりました」
ミーナはイェルクの名を呼ぼうとしたが、また、意識が薄れていった。
ミーナは浅い眠りについていた。医者が顔の引っかき傷を消毒し、薬湯を口に注いだのを、ぼんやりと覚えていた。眠っているあいだ、ずっと、ミーナは誰かが自分の手を握りしめているのを感じていた。
浅い眠りは長く続き、午後の日差しのまぶしさに、ミーナは目を覚ました。ミーナは寝台の上で眠っていた。寝具は自分の部屋の物ではなかった。
「夢ではなかったのね……」
ミーナはつぶやいた。何もかも夢であってほしいと思っていた。自身のおぞましい過去など。しかし、ミーナは泣かなかった。自身の片手が、温かな優しさに包まれていたからだ。その手はイェルクがしっかりと握っていた。
「やっと、目覚めたか……」
イェルクはやつれた顔でミーナを見た。ミーナはぱっとイェルクから目をそらした。
「具合はどうだ?」
「ご心配には及びません。少し、疲れただけですわ。今までずっと、機織りに夢中になっていたものですから」
ミーナは顔を背けたまま、無愛想に答えた。
「お前が織った布を見た。……素晴らしい色だと思った。あの青はお前が染めたのか」
「そうですが?」
「あの、亜麻の花の色と同じだな。まるで空の色だ」
イェルクの声は優しかったが、ミーナはイェルクのほうを見ようとはしなかった。
「素晴らしいのは色だけですか?」
「そうだな」
イェルクが笑うので、ミーナはかちんときて、眉をつり上げてイェルクを見た。
「ひどいです」
イェルクは顔をそらさなかった。そらさなかったが、その目がわずかに曇ったのをミーナは感じ取った。
「ミーナ」
イェルクはミーナの手を強く握りしめた。
「コンラートから何を聞いた? あのお喋りな義兄上は、お前の、お前の出生の秘密を、べらべらと喋ったのか!」
イェルクの顔は、ミーナが今まで見たこともないほど険しいものだった。
「そうよ。あのおしゃべりなお兄さまは、わたしの秘密を教えてくれました。わたしとあなたの結婚の秘密を!」
そう言うと、ミーナはイェルクをにらみつけた。イェルクははっとして口を閉ざした。
「イェルク、あなたはなんて愚かなの! ああ、あなたのような人が、浮気なんて器用な芸当、できるはずがありませんわ!」
「ミーナ、違う」
イェルクはあわてた様子を見せた。
「もう、いいのです。自分が悪者になろうとしなくても。そんなことをしていただいても、嬉しくもなんともありません! わたしは知っているのです。わたしが……あの蛮族どもの、あの赤髭の、おぞましい行為の果てに生まれた娘だと!」
そのときのイェルクの顔を、ミーナは生涯忘れないだろうと思った。イェルクの顔は青ざめ、深い絶望の淵にあった。
「ミーナ、違うのだ、お前は……」
ミーナはかぶりを振った。
「知っているのです。あなたがいくら隠そうとむだです。わたしは、ある娘からそう言われたのです」
「誰だ、その女は」
イェルクは奥歯を深く噛みしめ、いまいましそうに言った。ミーナはイェルクの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「あなたが村に火をつけるように命じたため、追い込まれた蛮族たちが逃げ込んだ村に住んでいた娘です」
イェルクは完全に打ちのめされた表情をした。その顔は、コンラートの告白を聞いた後の自分の顔とそっくりだろうと、ミーナは考えた。
「わたしは、よほど赤髭に似ているのでしょうね。その娘はひどくおびえた顔でわたしを見ました。見られたわたしが、あまりの衝撃ですべてを忘れてしまうほどに。そして、イェルク、あなたも、おびえた顔でわたしを見た! どんなお気持ちだったのですか、憎っくき敵と同じ顔をした娘が、自分の結婚相手だと知ったときは!」
ミーナは目をつり上げて、イェルクに詰め寄った。
「なんとおぞましいことだと、そうお思いになったのですね! だから、わたしを拒んだのですね! そうですよね、憎っくき敵と同じ顔をした娘と暮らしたいと思う男など、どこにもいるわけがない! だから、ずっと城をお留守にしたのですね。この先ずっと、わたしと顔を合わさずに生きていこうと、そうお考えになったのですね!」
「ミーナ、違う。お前のせいではない。すべては私の……私の心の弱さのせいだ」
「心の……弱さ?」
イェルクはミーナの肩をつかんだ。ミーナは恐る恐る顔を上げた。イェルクはとても、とても悲しい顔をしていた。
「私はずっと、復讐のことだけを考えて生きてきた。その私に、復讐以外の生き方を提示したのが、お前だった。私はずっとお前の無邪気な笑顔を忘れたことはなかった。お前の笑顔が、私の心の支えだった。酷たらしい戦場の中で、私に人間らしさを保たせたのは、お前の笑顔だった。
だが、復讐心はぎりぎりのところで、私を悪魔に変えた。私は村に火を放つように命じ、一度逃げられはしたが、赤髭を追い詰めた。私は赤髭に一騎打ちを申し込み、そして奴を倒した。死に際に奴は、眉根を上げ、私をにらみつけてこう言った。
『村に火をつけるように命じたお前と、この俺……いったいどこに差があるんだ?』と。
正直に言うと、私はその言葉を、下らぬ戯れ言だと一笑に付した。私はリタラント国のため、正義のために戦ったのだ、金目当ての悪党どもと一緒にするな、と。
こうして私は、復讐の先の人生を得た。コンラートがお前を私に嫁がせたいと言った。しかも、貧しいビルング領を救うための融資までしてくれると。私はコンラートに深く感謝した。私は、お前はもう、私のことなど忘れていると考えていたのだ。どうやら今でも、私のことを覚えていてくれるらしいと知ったとき、私はお前を幸せにしてやりたいと、心から思った。
結婚式の日……美しく成長したお前と再会したとき、私はお前のおびえた顔を見て、思い知った。私は恐ろしい男なのだと。そうして、あの夜。怒りに満ちた目で私を見つめるお前を見て、私はお前が赤髭の娘だと悟った。実は、結婚の前に、コンラートから聞いていたのだ。ある冬の日、レオポルト様が、傷ついてぼろぼろだったクラーラ様と、そこから逃げ出す蛮族どもを見たと。恐らくお前は、蛮族どもの血を引いていると……」
覆しがたい事実を耳にし、ミーナの身体は激しく震えだした。そんなミーナを、イェルクは抱きしめた。
「私はあの時、確かに恐れおののいた。だが、それはお前のせいではない。私が恐れたのは、私が犯した罪の重さだ。お前の顔を見ると、死に際の赤髭の言葉を思い出すようになった。今まで戦のこと、復讐のことしか考えていなかった私自身の空疎さを思い知るようになった。しかし、お前の笑顔を見ると安心した。私は、その微笑みを享受するに値する人間なのだと思えたからだ。だが、私が至らないせいで、お前はよく泣き、よく怒った。正直に言うと、私はお前にどう接すれば良いのかわからなかった。そのうちに、お前が泣くのも、怒るのも、私がお前の父親を殺した恐ろしい男だからだと錯覚するようになった。真実を知れば、お前は私を憎むと、そう思った! だから、私は、こそこそと北部を回り、クラーラ様の出自を探った。お前は蛮族の子ではない、かつてクラーラ様が愛した人の子だという証拠を見つけたかった! しかし、見つかったのは、クラーラ様の乗った馬車が蛮族どもに襲われたという証拠だけだった……」
イェルクの声が震えた。どうやら泣いているようだ。
「私は、本当のことを知られてはならないと思った。だからお前に会うのを避けた。お前には、いつも笑っていて欲しかった。両親の愛のもとに生まれた、幸せな娘として笑っていて欲しかった。その笑顔で、私を支えて欲しかった! 私が地獄に落ちぬよう、優しく見守っていて欲しかった!」
「イェルク……」
ミーナは、そのとき初めて、男の弱さを知った。女に囲まれて育ったミーナにとって、それは新鮮な驚きであった。
「以前も、驚いたのよ。わたしのような非力な娘が、あなたのように強い男の支えとなれるなんて。わたしはそんなことを考えたこともなかったわ。ただ、あなたに守ってほしい、あなたに頼りたい、あなたにすがりたいと、そう思っていただけだった。
だけど、あるとき思ったわ。ともに歩いていけたら、どんなに素敵だろうって。でも、そうなるには、女だてらに馬を駆り、戦場を駆け抜けるような、そんな女にならないとだめだって考えたわ。あるいは、何か大きなことを成し遂げるような、立派な女に。けれど、わたしは、普通の女がたやすくこなせることさえ、ろくにできない女だわ」
ミーナの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「あきらめようとおもった。あなたに愛されることを。それこそ何度も何度も。でも、私はすがりついた。ビルング家の役に立てたら、ビルング家の女としての務めを果たしたら、あなたが振り向いてくれるという希望に。イェルク……わたしはあきらめなかったのよ、あなたよりもずっと弱くて、ずっと不器用で、ずっと子どもなのに」
涙はミーナの赤い頬をつたい、床に敷き詰められた草を朝露のように濡らしていた。
「わたしはあなたを愛していた……。思い出の中の優しいお兄さまを。いつか、迎えに来てくれることを夢見て、お母さまを失ったあとの暮らしを耐えてきた! 修道院で蛮族の子とからかわれたって! たとえ、わたしが醜い娘であっても、あなたなら迎えに来てくれるのではないかって、心の奥底では信じていた!
だけど、あなたは変わってしまったわ。復讐の炎に身を焦がした恐ろしい悪魔に! 自分の弱さのせいで、さらに弱いわたしを傷つけた、卑怯な男に! そのせいで、わたしが、わたしが、どれほど戸惑ったか、わかっているの!」
ミーナはイェルクをにらみつけた。イェルクは目をそらさなかった。
「けれど……わたしもどれだけ、あなたを戸惑わせたのでしょう。あなたにおびえては近づき、泣いては離れ。きちんと話をすることもせず、ただ、あなたに愛されたい、あなたに抱かれたいという思いをぶつけるだけで。
不安だったのよ、わたしは。わたしはどこの誰の子かわからない。わたしにわかるのは、お母さまの子どもだという、半分の事実だけ。わたしはわたし自身をどこの誰だか定義したかった。そのために、ビルング家の役に立てることを探した。ビルング家の女としての務めを果たした。跡継ぎを産みたいと思った。あなたに愛されて、わたしはウィルヘルミーナ・ビルングだという確証を得たかった!
うふふ、おかしいでしょう? 今の今まで、わたしは自らの本当の願いをわかっていなかったのよ。わたしが不安になるのは、あなたが冷たいせいだと思い込んでいたわ」
ミーナはくすくすと笑った。イェルクは黙ってミーナを見つめていた。
「だけど、これからは、わたしがわたし自身を定義しようと思います。わたしはミーナ。クラーラお母さまの娘です。残酷なことに、あなたとおなじで、あの赤髭というおぞましい男がいなければ、私はここに存在していないのです。だけど、あの男とわたしの関係はそれだけです。わたしにとっての父は、レオポルトさまです。気弱で、夢見がちで、優しかった……あの人がわたしのお父さまです。そこに男女の愛があろうとなかろうと、わたしは、決して、不幸な生まれなんかじゃない!」
ミーナは叫び、一呼吸置いて話を続けた。
「わたしは、イェルク・ビルングに嫁ぎました。これからはあなたを愛そうと思います。思い出の中のあなたではなくて、私の目の前にいる、恐ろしい過去を持ち、弱くて、卑怯で、だけど真面目で、真っ直ぐで、不器用で、優しいあなたを」
そう言うとミーナは、イェルクにしがみつき、イェルクの顔を見上げた。ミーナが一番好きな緑色をした目が、ミーナを見つめていた。
「ミーナ……」
「だから、どうか、あなたもわたしを愛してください。思い出の中の微笑むわたしではなくて、すぐに怒って、すぐに泣いて、自分のことばかり考えている、頭の中がてんで子どものわたしを。わたしは、真っ直ぐに、不器用に、ただあなただけを愛している!
どうか、わたしを見て! もう、決して目をそらさないで! わたしは、この先もずっと、今ここにいるあなたと歩んでいきたいの!」
イェルクはミーナを抱きしめた。きつく、きつく抱きしめた。
「ああ、ともに生きよう……」
二人の唇が近づき、やがて固く結ばれた。
その日、ミーナは愛の喜びを知った。甘く、切なく、なによりも美しかった。
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