第14話:希望を染める

 湯がしゅわしゅわと沸いた。ミーナは熱湯を、今朝摘んだばかりの早咲きのカモミールを入れた器に注いだ。りんごのような甘い香りがふわりと漂った。その香りは過ぎ去っていった冬を思わせた。

 ミーナがビルング家に嫁いでから一年が経ち、二度目の春がやってきた。憧れていた暮らしとはかけ離れた日々を送るうちに、ミーナの胸に諦めの気持ちがわいてきた。

「どちらにしても、私の暮らしに人の愛など存在しないのだわ」

 ミーナはため息をついた。毎日が退屈でたまらなかった。糸を紡ぐのは、冬のうちに終わってしまった。他の娘がやったならもっと早く終わるのだから仕方がないが。最近は畑を軽く耕し、カモミールなどの香草を摘み、朝昼晩薬湯を作り、午後からはヘリガと語らうだけの日々だ。これだったら、修道女になったほうが退屈しなかったかもしれない、とミーナは考えていた。修道女と言ってもただ祈るだけの日々ではない。やることはたくさんあるし、楽しいこともたくさんあった。今ではあのアラリケのことさえ懐かしいとまで感じるようになった。

 ミーナは先ほど淹れた薬湯が人肌に冷めるまで待っていた。この薬湯はカタリーナに飲ませるのだ。昨年の秋に元気を取り戻したカタリーナは、この冬の寒さでまた体調を悪くした。医者は、大奥様はもうお年を召しているから、これからよくなったり悪くなったりを繰り返すうちに、だんだん体調のよい時期が短くなっていくだろうと、マルクスやミーナに語った。マルクスはまた、猪狩りをすると息巻いたが、勢い余って腰を痛めてしまい、大人しくなった。彼もまた老いが進んでいるのだ。

 ミーナは老いた義両親を見て焦りを感じていた。ミーナはこの義両親を深く愛していた。なにしろ、夫のイェルクよりはるかに長い時間を、この城でともに過ごしているからだ。最近、ミーナはこの家に嫁いだのではなく、この家の養女になったのだと思うようになっていた。

「あちらでも、こちらでも、冷たいお兄さまを持ったものだわ」

 ミーナは皮肉にもそう考えるようになっていた。コンラートお兄さまはもちろん冷たいけど、あの優しかったイェルクお兄さまも、今ではすっかり冷たくなって、帰ってすらこなくなったわ。わたしはいったい何なのかしらと、ミーナは毎日自分に問いかけた。金の鞠も、女神像も、鏡台の引き出しにしまいこんだままだ。ミーナは厚手の布では飽き足らず、あのイメディング家の部屋の鏡台のように、鏡に扉をつけてしまった。

「あ、いけない。このままだと、薬湯まで冷め切ってしまうわ」

 ミーナは薬湯を持ってカタリーナの部屋に急いだ。


「お義母さま、薬湯をお持ちしました」

「ミーナ、来てくれたのね」

 カタリーナは身体を起こし、ミーナを出迎えた。無理して起き上がっているのがわかるので、ミーナは少し辛かった。

「どうぞ、ゆっくりお召し上がりください」

 ミーナはカタリーナに薬湯を差し出した。カタリーナはゆっくり薬湯を飲み込んだ。

「おいしいわ。あなたの薬湯は、お医者さまの薬よりずっとよく効く気がするわ」

 カタリーナは微笑んだ。しかし、それもミーナには辛かった。心優しいカタリーナは、そうやってみんなに、「一番効く」とか「よく効く」と言っているのだ。辛い時でも周囲に気を遣う優しいカタリーナが、だんだん弱っていくのを見るのは堪えるのだ。

「ありがとうございます、お義母さま。さあ、ゆっくりお休みください」

 ミーナはカタリーナの身体をそっと横たえた。カタリーナはすぐに目を閉じずに、ミーナのほうを向いた。

「そろそろ、ウォードを収穫する時期ね」

 ウォードはもちろん、麻糸を青く染めるために育てている植物のことだ。

「ええ、明日収穫します。これから藍玉(藍染めの原料)作りに取りかかるのですが、どうやらものすごいにおいがするらしいので、しばらくはお義母さまのところに来られないかもしれません。でも、ご安心ください。メイドたちに薬湯の作り方を教えますから」

 ミーナが染め物職人に効いたところによると、ウォードで染料を作るには、葉を石臼で挽いてから桶に入れて発酵させるのだが、その過程でものすごいにおいがするというのだ。染め物の職人は、病人がかいでいいにおいとはとても言えない、と話していた。もしミーナの身体ににおいが移ったら、カタリーナに会うわけにはいかなかった。

「ありがとう、ミーナ。あなたきっと、いい領主夫人になるわ」

 ミーナは自分がそうなれる気がしないので、なんだか気後れした。

「そうなるには、お義母さまにもっとたくさん教えていただかないと。もうお休みになって、元気になったら、色々教えてくださいね」

 ミーナはそう言うと、カタリーナが目を閉じたのを確認してから部屋をあとにした。部屋の外で待っていたカタリーナのメイドが入れ替わりに部屋に入っていった。まずはこのメイドに薬湯作りを教えなくては、とミーナは考えていた。


 翌日、ミーナは染め物小屋へ向かった。染め物小屋は、ミーナの農地より少し川下のほうにあった。近づくとなんとも形容しがたいにおいがして、ミーナは吐きそうになった。ミーナはヘリガや他のメイド数人を伴い、刈り取ったウォードの葉を小屋の側へ運ぶと、むしろを敷いてその上に葉を並べた。乾燥させたら、石臼で挽くらしい。そのあとの工程は、一度聞いただけでは思い出せなかった。

 ミーナは染め物職人の親方に手伝いを申し出た。

「わたしにも何かお手伝いさせてください」

「若奥様、それはだめだ。ウォードの藍玉作りなんて、女のやる仕事じゃございませんぜ」

「自ら育てた植物で糸を染めることも、ビルング家の女の務めだと聞きましたが」

「大奥様も、出来上がった藍玉で糸を染めただけだって、先代から聞きましたぜ」

「わたしは最初から最後まで自分の力でやりたいのです」

 ミーナはむきになっていた。カタリーナもやらなかったことをやって、イェルクの鼻をあかしたかったのだ。

「若奥様の手に負える仕事じゃねえんだ。これは男の仕事だ」

「どうしてです!」

 ミーナは染め物職人の親方に詰め寄った。親方もむきになって叫んだ。

「ウォードを発酵させるためには尿を使うんだ! わかるか、おしっこだよ! ここに城じゅうの飲んべえどもが集まって、ビールを飲んで、ウォードの入った桶に向かって出すんだよ!」

 それを聞いた瞬間、ミーナは顔を真っ赤にし、後ろにいたヘリガはめまいを起こしてふらふらと座り込んだ。残りのメイドたちもわめいたり、うめいたりしだした。ミーナはなんとか、若奥さまとしての体裁を保とうと、一つ咳払いをしてから話を続けた。

「わたしがいてはあなたたちもやりづらいでしょうから、今回は遠慮いたします。では何か、今のわたしでも簡単に染められるようなものを教えてください」

 ミーナが頼むと、染め物職人の親方は少し考え込んだ。

「ああ、あれだ。若奥様が育ててる香草の中で、今、小せえ花が咲いているのがあるだろう?」

「カモミールのことかしら?」

「そう。それとミョウバンがあれば、厨房の片隅でも染め物はできますぜ。花だけじゃなくて、草全体をよく乾かしてから、水をいれた鍋で煮出して、そこに布でも糸でも入れて、しばらく煮て、それを取り出したら熱湯でよく溶かしたミョウバンを入れる。そこにさっきの布か糸をまた入れて、冷めるまでおいとけば、簡単に染まる」

「ミョウバン……? もし、ここにあれば少しわけてもらえるかしら?」

「おい、ミョウバンを少し持ってこい」

 染め物職人の親方は弟子に命じてミョウバンを持ってこさせ、ミーナに渡した。

「麻糸でも染まるかしら?」

「染まるっちゃ染まるが、色がわかりにくいかもしれませんな。絹ならくっきり染まりますぜ」

 絹と聞いてミーナの心は躍った。はるかかなたの国で作られるという、艶やかで高価な布。スカーフの一枚くらい持っていてもいいわよね。自分で織った布を染めるのではないけれど、これはビルング家のしきたりとは違って、わたしが好きでやることだもの。

「ありがとう。話はよくわかりました。では、藍玉が出来上がるのを楽しみにしています」

「だいたい、四か月ほどかかるから、出来上がるのは八月ですぜ」

「わかりました。そのときは教えてください」

 ミーナは喜んで染め物小屋をあとにした。他のメイドたちも、このくさい場所から退散できるので喜んで帰っていった。


 城に戻ると、ミーナは家令のもとに行って、絹のスカーフがほしいとねだった。

「若奥様、そんな高価なもの……」

 家令は難色を示した。ミーナはこの家令のことをけちだと思っていたので、反対は想定の範囲だった。

「わたしの持参金があるはずですが。そこから支払ってかまいません」

 この国の貴族の娘は、嫁ぐ際に実家からお金を持っていくしきたりがあった。それは、夫亡き後の生活を支える資金だったが、貴族の教育を受けていないミーナは余りよくわかっていなかった。

「さようですか。しかし、若奥様の持参金は……」

 家令はなぜか言いよどみ、目を閉じて小さくため息をついたのちに、絹のスカーフ購入を許してくれた。

「ああ、よかった。まさか絹のスカーフ一枚も買えないほど、この家は困っているのかと心配になったわ」

 ミーナは冗談のつもりで言ったが、家令の顔色は冴えなかった。ミーナは今まで、金銭的なわがままを言ったことはなかったが、この家の財政についても一度も考えたことがなかった。しかし、そのとき、ミーナはビルング家の困窮の一端を耳にし、心配な気持ちになった。


 絹のスカーフが届くまでの間、ミーナはせっせとカモミールを摘んでは乾かした。そして、ミーナの農地すべてを香草園にしてしまった。カタリーナが好きにしていいと言ったのだ。また、今度は別のところで亜麻を育て始めた。自分で繊維にするかどうかは別として、ミーナは亜麻の青い花にすっかり惹かれてしまい、もう一度それを見たかったのだ。

 そうこうしているうちに、絹のスカーフが届けられた。出入りの若い商人から、スカーフを受け取ったミーナは、飛び跳ねて喜んだ。ミーナは早速、厨房の片隅で染め物を始めた。水をいれた鍋でカモミールの色素を煮出して、そこに絹のスカーフを入れてしばらく煮た。その間にミョウバンを熱湯でよく溶かした。絹のスカーフを取り出して、ミョウバンを入れた。そこにさっきのスカーフをまた入れて、冷めるのを待った。薬湯を冷ましている時間とは違い、ミーナの心は躍った。ミーナはどきどきして、スカーフを取り出した。

「まあ、素敵」

 ミーナはうっとりした声をあげた。白いスカーフは、すっかり黄色に染まっていた。

「黄色は子どもの色だって言われているけれど、なんて明るい、素敵な色でしょう。まるで光のようだわ。見ていると希望がわいてくる」

 ミーナは幼い頃、初めて教会のステンドグラスを見たときのことを思い出した。そして、レオポルトの訃報を知った際に修道院長からかけられた言葉を思い出した。

「あなたは光の子です。決して希望を捨ててはなりません、か……」

 ミーナはここのところ希望を失っていた。ここでの暮らしに対しても、イェルクとの暮らしに対しても。

「わかっています。院長先生、わたしは光の子です。今すぐには、無理ですが……きっと希望を捨てずに生きていきます」

 そうつぶやくとミーナは、さっそく絹のスカーフを干しに厨房から出て行った。


 それからミーナは、城じゅうの白い布を香草や花で染め始めた。ときには雑草さえ使おうとした。ヘリガ以外のメイドたちは、最初のうちこそ白い目でミーナを見ていたが、やがて染め物を面白がり、こぞって染め物をするようになった。そのついでに、ミーナは知りうる限りの香草の知識や薬湯の作り方をメイドたちに教えた。一番の変化は、カタリーナが起き上がってミーナに染め物の教えを請うようになったことだ。薬湯が効いたのか、城の雰囲気が明るくなったのがよかったのか、それとも寒い時期が終わっただけのことなのか、医者にもわからなかったが、カタリーナが元気になったことは城の皆の喜びだった。染め物職人の親方はこの噂を聞いて、弟子たちの前では「あんなものは女たちのおままごとに過ぎねえ」と口の悪いことを言ったが、例の飲んべえども相手には「若奥様に染め物を教えたのはこの俺だ」と自慢したのだった。

 ミーナは自分が紡いだ糸を、今すぐにでも染めてみたいと思っていた。早く、ビルング家の女の務めを果たしたかったのだ。しかし、藍玉が出来上がるまで三ヶ月近くかかるのだ。ミーナは、この間知ったビルング家の窮状について、もっと考えてみようと思った。そして、ある日、ふとひらめいたのだ。

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