第13話:二つの女神像
吟遊詩人がやってきた二日後、イェルクが帰ってきた。ミーナはあの日の真夜中から頭痛が治らず、部屋で休んでいた。イェルクの帰宅を知ると出迎えにあがろうとしたが、ヘリガに休んでいるように言われ、横になっていた。
正餐の時間の前に、イェルクが部屋を訪ねてきた。ミーナは手ぐしで髪をさっと整えると、寝台に寝転んだままイェルクを出迎えた。このときばかりは、ミーナは自分の赤い顔を好ましく思った。赤い顔で寝込む自分を見たら、心配してしばらく城にいてくれると思ったのだ。
「イェルク、おかえりなさい」
ミーナは身体を起こし、あえて弱々しい声を出した。
「無理して起き上がることはない。休んでいろ」
イェルクはぶっきらぼうに答えた。
「大丈夫です。ヘリガが大げさなのです。わたしは出迎えに行くと言ったのに」
そう言うとミーナは、わざとらしく咳をした。
「休んでいろと言っただろう」
イェルクはミーナに近寄り、ミーナの身体をそっと横たえた。心臓が破裂しそうなほど脈打った。こんなに二人が近づいたのはいつ以来だろう。
「胸の鼓動が速すぎる。医者を呼ぶから待っていろ」
「待って!」
ミーナはイェルクの服の裾をつかんで呼び止めた。
「待ってください。贈り物は? 贈り物をください。わたし、楽しみにしていたのです」
「そんなことより、医者を……」
部屋を出ようとするイェルクの背中にミーナは抱きついた。
「……熱でもあるのかと思ったが、元気そうだな」
ミーナはいたずらっぽく笑って、イェルクの背中をさらにきつく抱きしめた。
「熱はありません。咳は嘘です。でも頭痛がするのは本当です」
イェルクはため息をついた。
「贈り物は持ってきてやるから、その手を離せ」
ミーナは喜んで手を離した。そして、イェルクが部屋を出て再び戻ってくるまでの間、その手で自分自身を抱きしめていた。
ミーナの部屋に戻ったイェルクは、テーブルの上に二つの置き物を置いた。女神像のようだった。
「これは……?」
ミーナは二つの女神像を見比べた。女神像は寸分違わずとはいえないが、同じもののようだった。女神は楽器を抱えていた。
「先日訪ねた町で、東からの交易品を集めた市が開かれていた。そこでこれを見つけてな。お前に贈るなら、これだと思ったのだ。よく見てみろ」
ミーナは女神像を手に取り、その顔をよく見てみた。長い髪を垂らし、まるで我が子のように楽器を抱きしめている女神は、白い肌にさっと赤みがさし、春の空のように温かい目をもち、柔らかな笑みを浮かべた、とても美しい顔をしていた。
「お母さま……」
ミーナは思わず涙を流した。女神像の顔は、髪の色や目の色を除けば、クラーラに瓜二つだった。
「この女神は、遙か東の国の、音楽と物語を司る女神らしい。まさにクラーラ様そっくりだろう?」
ミーナはうなずいた。
「ええ。……そういえば、どうして二つあるのですか?」
イェルクは、ミーナが手に取っていないほうの女神像を自身に引き寄せた。
「これは私のものだ。お前と私で、一つずつ持っていよう」
「つまり、お揃いということですか?」
ミーナはあまりの嬉しさに女神像を抱きしめた。
「また明日、私は立たねばならぬ。今度は別の町の視察だ。お前には寂しい思いをさせるだろう。揃いのものを持てば、寂しい思いも紛らわせるだろうと思ってな」
「イェルク!」
ミーナは今度は真正面からイェルクに飛びついた。
「ありがとうございます。そんなにわたしのことを思ってくださって」
そう言い終わると、ミーナはついでに、今まで聞きたかったことを聞いてみた。今日はなぜこんなに大胆になれるのだろうと、心の中で思いつつ。
「あの……わたしが幼いころ、いつか修道院にお迎えに来てほしいと頼んだことを、今でも覚えていらっしゃいますか?」
「ああ」
イェルクはなんとなく気まずそうに視線をそらしたが、浮かれたミーナはそれに気づかなかった。
「そのとき、イェルクはどう思ったのですか?」
イェルクはしばし考え込んだ様子を見せた。言おうか言うまいか迷っている様子だった。やがて口を開いた。
「白昼夢でも見ているのかと思った。夢魔が私に取り憑いて、おかしなものを見せているのだと思った。五歳の子どもが、こんなことを言うはずがないと思っていた。ましてや、お前が……」
あまりの言いように、ミーナは顔を引きつらせた。その顔に気づいたイェルクは、話を打ち切り、こほん、と咳払いをしたのちに、話を続けた。
「だが、新鮮でもあった」
「新鮮?」
ミーナは首をかしげた。
「あの頃は、敵を討ったあとの人生など、考えたこともなかった。誰も……父上も、母上でさえ、そんなことはおっしゃらなかった。だがお前は、私の未来を信じて疑わない様子だった。それが、新鮮だった」
イェルクは改めてミーナに向き合った。こんなに近くで見つめ合ったのは、結婚式以来だった。
「もし、そのような未来が訪れるのなら、お前と一緒に暮らすのも悪くないと思った。だから迎えに行くと約束した。それに……」
「それに?」
ミーナはその続きをわくわくと期待した。
「そうとでも言わなければ、この白昼夢から覚めないと思ったのだ」
「まあ、ひどい言い草」
ミーナはぷうっと頬を膨らませた。だけど嬉しかった。幼い、無力な自分が、イェルクの未来を照らしたなどとは夢にも思っていなかったからだ。
「逆に聞きたいが、なぜお前は私のことをそんなに気に入ったのだ?」
そんなことを聞かれるとは思っていなかったミーナは目をしばたたせた。
「拾ってくださったではないですか、あの鞠を。わざわざ池に飛び込んでまで」
「たったそれだけのことではないか」
「たった、ではありません! それだけのことをしてくださったのです!」
ミーナは熱っぽく話を続けた。
「それまで、お城のたいていの人は優しくしてくれました。でも、ゲルトルート奥さまの不興を買う恐れをおかしてまで、私たちのことを助けようとしてくれた人はいませんでした。お父さまでさえ、いつも奥さまの顔色をうかがってばかりでした。でもイェルクは、お母さまが忠告しても、全く恐れずに、池に飛び込んだ。わたしにはそれでじゅうぶんでした。あのときのあなたは、確かに英雄でした。わたしが助けを求めて伸ばした手を、あなたはしっかりとつかんでくださったのです」
ミーナは微笑み、それから熱っぽい目でイェルクを見つめた。イェルクはもう目をそらさなかった。ミーナは女神像をそっとテーブルに置いた。二人の顔が、少しずつ、でも確実に近づいていった、そのときだった。
「あなたの結婚相手のイェルクさまは、デゼルタ軍から、黒髪の復讐鬼とよばれていたとか」
またしても、アラリケの言葉がミーナの脳裏をかすめていった。ミーナは思わず首を振った。
「それに緑の瞳をしてらっしゃるとか! まるであの悪魔みたいに。きっと恐ろしい方に違いないわ! そんな人の元に嫁ぐなんて、ウィルヘルミーナさん、あなたなんてかわいそうなんでしょう!」
(違う……違うわ! わたしはイェルクのことを、恐れてなんかいない!)
ミーナはアラリケの言葉を必死の思いで振り払い、もう一度イェルクを見つめた。イェルクは目を細め、ミーナの頭を子どものようになでた。
「今日は体調が優れないのだったな。すまない。もう、休むといい」
「イェルク、違うわ!」
「やはり仮病だったのか」
「頭痛がしたのは、本当です。でももう平気です。それよりも、わたしは……」
ミーナは再びイェルクにしがみついた。今日こそは離れたくなかった。しかし、イェルクはミーナの身体を引きはがした。そして、もう一度、ミーナの頭を子どものようになでた。
「そう背伸びすることもあるまい。お前は何も知らないのだから」
何度も子ども扱いされて、ミーナはついに腹を立てた。
「わたしは何も知らない子どもではありません! すべて……すべて知っているのですから!」
「誰がお前にそんな話をした」
イェルクは心底不快そうに言った。
「修道院で聞いたのです!」
「修道院では、庶民の娘とも一緒に暮らしていたそうだな。それで聞いたのか」
「違います。ここよりもっといい家柄の娘から聞きました!」
ミーナはむきになって言い返した。
「誰から聞いたのかは、この際どうでもよい。重要なのは、お前が怖がりの子どもと変わらないことだ」
「子どもではないと、何度言えばわかってくださるのですか!」
「お前はまだ子どもだ」
イェルクはぴしゃりと言い放った。その勢いに、ミーナはたじろぎ、うつむいた。男の人の大声は、なぜこんなに怖いのだろう、ミーナはそう思っていた。
「雷を怖がる、猟犬や鷹を怖がる。そして、本当は、私のことも恐れているのだろう? 再会したときに、私を見上げた顔を覚えている。お前は私を心底恐れているようだった。だが無理もない。十年前の私と、戦場を駆け抜けてきた今の私とでは、それこそ人が変わったように異なるのだから」
「違います……」
ミーナはうつむいた顔を上げて、叫ぶように答えた。
「修道院には魔女がいたのです。わたしに、愛する人と心を通わせなくなる呪いをかけた魔女が。魔女はわたしに言ったのです。イェルクはデゼルタ国では黒髪の復讐鬼と呼ばれる恐ろしい男だ、そんな男に嫁ぐわたしはかわいそうだと! もちろん、わたし自身はそんなことを思ってはいません! あなたがデゼルタでなんと呼ばれようと、わたしの知ったことではありません! わたしが知っているあなたは、優しかったイェルクお兄さまです……」
イェルクは長いため息をついたあと、やはり子どもに言い聞かせるような口調で語り出した。
「その、魔女とやらの言うとおりだ。私は恐ろしい男だ。子どもの頃とは違うのだよ。それをお前が受け止められるようになるまでは、私はお前に手を出す気はない」
ミーナは頭がくらくらしてきた。どうして自分のせいにされるのか、ミーナは悔しくてたまらなかった。
「わたしがあなたを恐れていたとしても、それを優しくほだすのが、殿方のつとめではありませんか!」
ミーナの発言に、今度はイェルクが顔を引きつらせた。
「なんということを。修道院ではよほど悪いご友人がいたようだな」
「友人ではありません。魔女です」
イェルクは気を取り直すように、椅子に腰掛けた。
「それに、今はお前にとって学びの時期だ。今は糸を紡いでいるのだろう? この部屋で糸を紡いでいるようだが、どうして家事室でやらないのだ。家事室でメイド達の様子を見るのも、お前にとってはいい勉強になる。いずれは、メイド達を指揮するようになるのだから」
「それは……メイドたちの噂話が気になって、落ち着かないのですわ。集中しないといい糸は紡げません」
ミーナも寝台に腰掛けて、ぶつぶつ文句を言った。
「噂など、気にするなと言いたいところだが、気持ちはわかる。私も噂話は大嫌いだ。聞くのも、話している者を見るのもな。なぜなら私は、メイド達の噂話で、自分が母上の産んだ子どもではないと知ったのだから」
「そうだったのですか……」
ミーナはイェルクの辛い過去に同情した。ミーナも噂話には傷ついてきたからだ。
「だが、人の口に戸板は立てられぬ。おおらかな母上はそれをよくご存じだからメイド達をとがめなかった。あの厳しいゲルトルート様でさえ、それを止めることはできなかった。あの方も随分苦労なさったろう。子どもの頃はそれに気づかず、好き放題言ったものだが。その点では私もお前も、噂好きのメイド達もそうは変わらぬ。恥ずべきことだがな」
恥ずべきこととまで言われたミーナはぶすっとした。
「あの方の肩を持つのですか。わたしはあの方は大嫌いです。お母さまとわたしを隅に追いやって。何より、あの方はお母さまのことを魔女と呼んだのですよ!」
「なんだって……」
イェルクは目を見開いた。その目を見た瞬間、ミーナはあることを悟った。それはミーナにとって辛いことだった。ミーナはテーブルの上の女神像を改めて見つめた。恐ろしいくらい、お母さまにそっくりね。イェルクはどうして、ほんのわずかしか会ったことのないお母さまの顔を、克明に覚えているのかしら。その答えは明白だわ。
「ねえ、許せないと思いませんか? 思うでしょう? 愛する女性を、魔女だと侮辱した人のことなんて!」
その瞬間、イェルクの顔はこわばった。あの夜とどちらがよりこわばった表情を見せたか、ミーナに判別する余裕はなかったが。
「何を言うのだ」
ミーナの心のどこかが、もうやめなさい、と言っていた。そんなことをしても、イェルクも、ミーナ自身も傷つくだけだと。しかしミーナはもう止められなくなっていた。
「あなたがあの日助けたかったのは、わたしじゃなくてお母さまだわ。あなたはお母さまのために池に飛び込んだのよ。あなたはお母さまのことを姉のように思っていたと言っていたけど、それは嘘。あなたはお母さまを一人の女性としてみていたのよ。あなたはお母さまのことだけを守りたかったのよ。わたしなんてただのおまけなんだわ。お父さまと同じで、わたしのことなんかどうでもいいんだわ」
「ミーナ、もうやめてくれ」
イェルクは首を振った。それでもミーナは意地悪く話し続けた。
「きっとあなたはお母さま相手に騎士ごっこをしたかったのでしょうけど、おあいにくさま、お母さまはあなたのことを子どもだとしか思っていなかったわ。悔しいでしょう? 子ども扱いされるのは」
「もうやめろ」
「やめません!」
ミーナの目からは熱い涙があふれてきた。ミーナはそれを拭いもせずに叫んだ。
「あなたはお母さまを愛していたのよ! 一目会ったときから、ずっと。だから、十年経っても、お母さまそっくりな女神像を買ってこられたんだわ。わたしだってお母さまのことを愛しているわ! でも、わたしはお母さまの代わりじゃない!」
ミーナは激情に駆られて、テーブルの上の女神像を一つ持ち上げた。
「こんなもの、いらないわ!」
ミーナはそのまま、女神像を床に叩きつけようとした、そのときだった。
ぱちん、と大きな音がして、ミーナは自分の頬を抑えた。手元が狂ったせいで、女神像はただ床を転がっただけですんだ。
「いい加減にしろ……母親の形をしたものを、私の目の前で壊そうとするな」
イェルクはミーナの頬を平手で打ったのだ。それが、今でもクラーラを愛している証拠なのか、それとも、母親という存在そのものへの強い思慕によるものなのか、そのときのミーナに考える余裕はなかった。
「出て行ってください」
ミーナは頬を抑えたまま、怒りの形相でイェルクを見つめた。
「わかった」
イェルクは、床に転がった女神像をテーブルに戻し、もう一つの女神像を持って、部屋を出て行った。
その日は部屋に運ばせた正餐も、晩餐も、ミーナは一切食べなかった。
次の日、イェルクは城を立った。ミーナは見送りを拒否した。
それから数ヶ月間、二人は顔を合わせることすらなかった。イェルクは帰ってこなかったのだ。
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