第12話:英雄の物語
イェルクが城を立ったあと、ミーナは数日の間、午前中はぶどうの収穫の手伝い、午後は糸紡ぎに明け暮れていた。やがてそれに飽き飽きしたある日の午後、城に吟遊詩人と楽団がやってきた。貴族の姫や奥方にとっては、珍しい娯楽の一つだった。ミーナは胸を躍らせながら一行を出迎えた。吟遊詩人は白く塗られた楽器を持ち、青い衣装をまとい、楽団員は白と青の片身替わりの衣装を着ていた。彼らはビルング家の紋章の色に合わせ、青と白で統一した出で立ちをしているのだ。
「イェルク様はお城にいらっしゃらないのですか」
大広間で、吟遊詩人は少し残念そうな口調でマルクスに話しかけた。
「そうなのじゃ。最近はちっとも城におらんでな」
マルクスは吟遊詩人よりもっと残念そうな口調で答えた。
「さようですか。ぜひ、我々が語る『英雄イェルク』の物語を聞いていただきたかったのですが」
「遠路はるばるお越しいただいたのに、すみませんね。ですが、イェルクは、自分と同じ名前の英雄の話を聞いたら、きっと気恥ずかしい思いをするでしょう。せめてわたしたちだけでも、楽しい思いでお話をうかがいたいですわ」
カタリーナは優しい声で一同の旅の苦労をねぎらった。
「そうじゃそうじゃ。儂も楽しみにしておったのじゃ。なにせ、あやつの名前を、かの英雄イェルク様にあやかってつけたのは、何を隠そう、この儂なのじゃから」
「まあ、初耳ですわ」
ミーナは愛想よくマルクスに答えたが、心なしか落ち着かない気持ちを抱えていた。英雄イェルクの話。それを、母クラーラから聞いたような気がしたからだ。そのことを思い出そうとすると、胸が苦しくなってきた。
吟遊詩人は三人や、後ろに控える家臣や騎士たちや城の使用人たちに一礼すると、ぽろんぽろんと楽器をつま弾き、朗々とした声で語り出した。それに合わせて楽団も演奏を始めた。しかし、その素晴らしい歌声も音色も、すぐにミーナの耳に入らなくなった。ミーナの目の前には、幼い日に暮らした家の光景が広がっていた。
それはミーナが五歳の夏、イェルクに思いをぶつけた数日後の午後のことだった。クラーラはいつものようにミーナに物語を聞かせてくれた。
「むかしむかし、人々が魔法を使えたころ、一匹の恐ろしいドラゴンがおりました」
ミーナは冒険譚は余り好きではなかった。それより、美しいお姫さまや素敵な王子さまが出てくる話の方が好きだった。なぜなら、冒険譚がちょっぴり怖かったからだ。
「ドラゴンは村々を襲い、何人もの娘たちをさらっていきました。何人もの若者たちがドラゴンに戦いを挑みましたが、誰一人として帰ってはきませんでした」
ミーナはドラゴンの恐ろしさを想像して、ぶるっと身震いをした。
「この国の北に、小さな村がありました。そこでもドラゴンは娘をさらっていきました。娘をさらわれて嘆く老夫婦たちのために、地主の息子たちが立ち上がりました。力自慢の長男は棍棒を持ってドラゴンに戦いを挑みましたが、帰ってはきませんでした。優れた魔法使いの二男は杖を持ってドラゴンに戦いを挑みましたが、帰ってはきませんでした。特別な力のない三男は、勇気を胸にしてドラゴンに戦いを挑みましたが、帰ってはきませんでした」
「いやだ、怖い! お母さま、そのお話、もうおしまいにして!」
ミーナはクラーラにしがみついて頼んだが、クラーラはあらあら、とミーナを軽くいなして話を続けた。
「さて、その家にはもう一人男の子がおりました。男の子の名前はイェルク、すなわち耕す人という意味の名前を持っていました。イェルクは兄たちの敵を討つべく、日々剣と魔法の訓練に明け暮れました。イェルクはやがて大人になり、ドラゴン退治の旅に出ました。旅の途中、イェルクは一人の娘と出会いました。娘とイェルクは一目で恋におちましたが、イェルクは兄たちの敵を討つために、再び旅に出ようとしました。娘は、イェルクに剣と盾を贈って別れを告げました。その剣は、ドラゴンのうろこを引き裂くほど鋭く、その盾は鏡のように光り輝きました。娘はイェルクにこう言いました。『この盾に映ったご自身の姿を、決して覗いてはなりません』」
「なぜ、覗いてはいけないの?」
ミーナはクラーラに尋ねたが、クラーラは微笑むばかりだった。
「イェルクは娘と約束し、再び旅に出ました。長い旅の末、イェルクはドラゴンのすみかにたどり着きました。イェルクはドラゴンと三日三晩のあいだ戦い続けました。長く激しい戦いの末に、イェルクはドラゴンを討ち取りました。しかし、戦いに疲れたイェルクはその場で力尽きました。近くの村人は倒れたイェルクを見つけ、彼をドラゴン退治の英雄として奉ることにしました。その噂は風に乗って広まり、イェルクは国中に知られる英雄となったのです」
あれほど話を怖がっていたミーナは、最後は口をぽかんと開けながら話に聞き入っていた。
「お母さま、この話……イェルクお兄さまにそっくりね」
ミーナは感心したように言った。
「そうね。あの子にそっくりね。あの子はなんて哀れな子でしょう」
クラーラは急にうつむき、涙声になった。先ほどは同じ運命の子どもについて淡々と語っていたクラーラだったが、今は感情を抑えられないという様子だった。
「お母さま、どうなさったの? イェルクお兄さまは、自分の使命を誇りに思っているって言っていたわ」
ミーナは、誇りという言葉の意味をよくわかっていなかったが、悪い言葉ではないと思っていた。それは、そのときのイェルクの顔を見れば歴然としていた。しかし、クラーラは顔を覆って泣き出した。
「あの子の噂話を聞いたときから思っていた! 復讐のために生まれてきたなんて、あんまりだわ。あの子のお父さまも、お母さまも、そんなことのために、あの子を産ませたの? なんて、残酷なことを。あの子はあまりにも真っ直ぐだから、かわいそうだわ!」
ミーナはクラーラの言うことがよくわからなかった。ミーナにとってイェルクは、自分を助けてくれた、英雄にも等しい存在だった。たくましくて、頼りがいのある少年だった。しかし、クラーラはイェルクを、小さな男の子のように扱うのだ。イェルク自身は、クラーラを守りたいと思っているのに。
「ミーナ、またイェルクに会ってあげて。きっとイェルクは喜ぶわ。そして、戦うことだけがすべてではないって、あの子に教えてあげて。このままではあの子は、英雄イェルクと同じ運命をたどることになるわ」
ミーナは首を振った。やはり、イェルクに会うのが、気恥ずかしくてたまらないからだ。
「お母さまが、イェルクお兄さまに教えたらいい」
しかし、クラーラは首を縦に振らなかった。
「わたしではだめなの。だって、あの子は……」
クラーラは言いよどんだ。そして、気を取り直すように、ミーナの肩に手を置いて語りかけた。
「ミーナ、あの話はこんな続きもあるの」
「どんな話? そういえば、あの盾の話はどうなったの? ほら、決して覗いてはいけないって話は?」
ミーナはクラーラの顔を見上げながら尋ねた。クラーラは小さくうなずいて、話を続けた。
「ドラゴンの首をはねたイェルクは、ドラゴンの返り血を全身に浴びました。イェルクは返り血をぬぐいながら、思わず盾に映った自分の姿を見てしまいました。イェルクは息が止まりそうになりました。なんと、盾に映っていたのは、あのドラゴンの姿でした」
周囲が立てた拍手の音で、ミーナは我に返った。吟遊詩人は白塗りの楽器を右手に抱えたまま一礼し、楽団員もそれにならった。マルクスもカタリーナも満足そうにしていた。使用人の中には、感極まって泣く者までいた。ヘリガはミーナの後ろでしくしくと涙を流していた。
演奏のあとは小さな宴が催され、簡単な食事が振る舞われた。吟遊詩人は即興で、ビルング家のイェルクをたたえる歌を披露した。その歌さえ、ミーナの耳には入らなかった。先ほどヘリガを捕まえて、イェルクがドラゴンの姿に変わったのはなぜかと質問したところ、ヘリガはなんとも不思議そうな顔をしたからだ。
(お母さまが聞かせてくれたあの話……何だったのかしら。ひょっとして、あれは夢だったのかしら)
ミーナはずっと首をかしげていた。吟遊詩人は、即興で作った歌が若奥さまのお気に召さなかったと落胆した。カタリーナがその場を上手にとりなし、宴は和やかな雰囲気のまま終わりを告げた。
部屋に戻ったミーナはまだもやもやとした思いを抱えていた。大切なことを忘れている気がしたのだ。ミーナは紡ぎ駒を持って糸紡ぎを始めた。いつものように、糸紡ぎが過去に連れていってくれると思ったのだ。しかし、ミーナの心はどこへもいかなかった。何かが自身の心を閉ざしているように感じたのだ。その晩、ミーナはいつもよりも早く休むことにした。
英雄イェルクがドラゴンの姿に変わってしまった。クラーラが語った衝撃的な出来事に、ミーナは思わず悲鳴を上げた。クラーラは目を伏せて話し続けた。
「イェルクは、ドラゴンの血を浴びて、その髪も、髭も、あ……く……」
クラーラは急に話に詰まり、がたがたと震えだした。ミーナの肩から手を外し、自身の胸を抱え込むように抱きしめて、しゃがみ込んだ。クラーラの顔からは血の気が引き、歯をがちがちとうちならし、やがて耳を塞ぎ、首をぶんぶんと横に振り出した。そんなクラーラを見たミーナは、恐ろしくなって叫び声を上げた。
「誰か来て! お母さまが、お母さまが!」
午後の休憩を取るために引っ込んでいたメイドたちがやってきた。メイドたちはクラーラの様子を見るなり、お互いに、旦那さまを呼んで、薬湯を持ってきて、などと声を掛け合い、クラーラを寝室に連れて行った。その間ミーナは、ただただ呆然とするよりほかなかった。
だんだんと日が傾いてきた。ミーナはクラーラが眠る寝台の横に腰掛けていた。家の扉が開いた音がしたので、ミーナはあわてて駆け寄った。玄関にはレオポルトが立っていた。
「お父さま!」
普段なら、ミーナは愛する父親の胸に飛び込むところだが、その日はそんな気分にはなれず、ただ泣いていた。
「おお、私の天使ミーナよ。泣いているのかい?」
レオポルトはミーナの涙を優しく拭った。ミーナの気持ちは少し落ち着いた。
「お母さまが、なんだか様子がおかしくて……。急に震えて、座り込んでしまって。なんだかとても苦しそうだった」
「クラーラは今どうしているんだい?」
レオポルトはミーナに優しく尋ねた。
「あっちの部屋で、お休みに……」
そこまで言いかけたとき、ミーナの耳に床のきしむ音が聞こえてきた。振り返るとそこに、クラーラが立っていた。クラーラはまだ夢から覚めていないような顔をしていた。ミーナは心配になった。
「お母さま、寝ていなきゃだめよ」
ミーナが駆け寄っても、クラーラはまるでミーナが見えていないようだった。ふらふらと歩くクラーラは、レオポルトの目の前でよろけた。レオポルトはクラーラをそっと抱きとめ、その顔を心配そうにのぞき込んだ。
「私の天使クラーラ。いったい何があったのだい?」
人当たりがよくていつも優しいレオポルトは、いつも以上に優しい声をして、クラーラを抱きしめた。するとクラーラは、聞いたこともないような金切り声をあげ、レオポルトを突き飛ばした。女の細腕で、どうしてこんな力が出るのだろうと思うくらいの勢いで突き飛ばされたレオポルトの身体は、したたかに壁に打ちつけられた。
「お父さま!」
ミーナは思わず駆け寄った。レオポルトは頭から血を流していた。物音に気づいたメイドたちがやってきて、レオポルトを介抱しようとしたが、レオポルトはそれを制してクラーラのもとへ近寄ろうとした。クラーラは棒のように突っ立っていたが、レオポルトが近づくと、寝台の脇机に飾ってある花瓶を持ち上げ、レオポルトの頭めがけて力一杯投げつけた。花瓶は軌道を外れ、ミーナの足下近くに落ちて勢いよく割れた。ミーナの足には水がかかり、ミーナは先ほどより激しく泣き出した。
ミーナにとって、そのときのクラーラは、ドラゴンよりも恐ろしく感じられた。
「クラーラ、やめるんだ!」
「クラーラさま、どうか、落ち着いてください!」
レオポルトとメイドたちはクラーラを落ち着かせようとしたが、クラーラは涙を流して抵抗した。とくに、レオポルトが触れようとするとクラーラは激しく暴れた。クラーラはあたりをめちゃくちゃにするまで激しく暴れ続け、やがて、糸が切れたようにばったりと倒れた。
レオポルトはクラーラを寝台に寝かせると、何も言わずに去って行った。ミーナは追いかけてすがりつきたかったが、去り際の絶望しきったようなレオポルトの顔を見ると何もできなくなった。まるで沈みゆく夕日のようだった。
(お母さまは、どうしてお父さまに、あんなひどいことを)
めちゃくちゃになった部屋をメイドたちが無言で片付ける間、ミーナは一人泣きながら考えていた。泣きながら、ミーナは恐ろしい考えにたどり着いていた。
(お母さまは、お父さまを愛していない。私は、お父さまの子どもでは、ないんだわ)
ミーナはよろよろと立ち上がると、寝ているクラーラの顔を見た。クラーラは何かにうなされているようだった。
「助けて……助けて……」
(お母さまは……誰かに助けてほしかったの? だから、傷ついた動物みたいに暴れたの?)
ミーナはクラーラがしてくれるように、クラーラの乱れた髪をそっとかき上げ、額に優しく手を置いた。やがてクラーラは目を開けた。
「ミーナ……」
クラーラは震える手をミーナの頭に差しだし、乱れた髪をそっとかき上げ、額に優しく触れた。
「お母さま!」
ミーナはクラーラの首に抱きついた。そして、その勢いのまま、今まで聞いてはいけないと思ったことを聞いた。
「お母さまは、お父さまのことを愛しているの?」
クラーラは何も答えなかった。
「わたしは、本当にお父さまの子どもなの?」
やはり、クラーラは何も答えなかった。今まさに沈もうとしている夕日が、部屋中を赤く染めた。ミーナは絞り出すように声を上げた。
「お母さま、わたしは誰の子なの……?」
すると、クラーラはミーナをきつく、きつく抱きしめた。そして、こう言った。
「あなたはわたしの子よ。誰がなんと言おうと、たとえ何があろうと。あなただけが、わたしのたった一人の家族。わたしが守るべき、ただ一つの命なのよ」
クラーラはきつく抱きしめた腕をはがし、ミーナの目を見つめると、優しく微笑んだ。そして、いつもの物語を語るような口調で、ミーナにこう言った。
「ミーナ。怖い話は、もうおしまい。忘れなさい、今日のことは、すべて。何もかも、全部、夢だったのよ……」
ミーナは毛布をはねのける勢いで、がばりと起き上がった。気がつけば、真夜中のようだった。真っ暗闇で、何も見えない。
「なんだ、わたし。気づいていたのね、あんな小さいころに、もう……」
ミーナは真っ暗闇の中でくすくすと笑った。悲しい笑い声だった。
「だけど、気づいたことさえ忘れてしまったわ。お母さまの言うとおりに。だって、あのときのわたしからしたら、自分がお父さまの子どもじゃないなんて、耐えられないもの」
亡くなったレオポルトには気の毒だが、ミーナは、今なら、クラーラがレオポルトを愛していなかったとしても、耐えられた。クラーラがレオポルトを拒絶したのは、きっと本当に愛した人がいるからだ、とミーナは思った。
「お母さまは記憶を無くしても、その人への愛に殉じたのね。わたしはその人の子どもに違いない。だから、わたしをあんなに必死に愛してくださったのだわ」
そのとき、ミーナの頭がずきっと痛んだ。
「痛い……」
暗闇の中でミーナは頭を抱えた。あまりの痛さにミーナは横になった。横になってもミーナの頭は殴られたようにずきずきしていた。
「イェルク、助けて……」
ミーナはすがるように手を伸ばしたが、手はただ虚空をつかむばかりだった。
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