第10話:狩りと祭りと香草と

 夏の盛りのある日、正餐の時間の前、イェルクは再びビルング城に戻ってきた。ミーナは農作業を早めに終え、部屋で刺繍をしていたが、彼の帰宅を耳にすると驚いて指に針を刺してしまった。ミーナは、今度は城内で彼を出迎えることにした。

「ただいま戻った」

「お帰りなさいませ」

「留守中変わりないか」

「いいえ、何もございません」

 ミーナはつんけんした態度をとった。指笛を吹けば飛んでくる鷹のように扱われたくなかったのだ。自分にだって感情があるし、機嫌も損ねる。鷹ならば優しくなでてくれるのに、自分に触れたことは、結婚以来一度もない。そのことへの抗議の思いを表明したかったのだ。しかしイェルクがミーナの態度に注意を払う様子はなかった。

「父上が猪狩りを計画なさっていると聞いたが」

 イェルクは珍しく困惑している様子を見せた。

「詳しくは存じません。家令に聞いてはいかがですか」

 ミーナはつんけんした態度を崩さないように気をつけながら答えた。内心では、ミーナははらはらしていた。イェルクに泣きついて、どうかお義父さまを止めてくださいと言いたかった。

 数日前に、マルクスは突然、猪狩りを思いついた。猪を狩るのはうさぎや鹿を狩るのとはわけが違った。場合によっては、死人が出かねないのだ。よりによって、マルクスは、自分が猪を仕留めると言って聞かなかった。家令も医者もマルクスの高齢を理由に止めたが、かえってマルクスの心に火をつけてしまった。

「儂は戦いの中で生きてきた男じゃ、幾つになっても戦い続けられると証明せねばならん」

 意気込むマルクスを止められる者はいなかった。こういうときに、彼を上手にあしらうカタリーナは、イェルクが城を立ってまもなく、再び寝込むようになってしまったのだ。

「儂は戦うことで、女達を養ってきたのじゃ。カタリーナが倒れた今こそ、戦わねばならんのじゃ。猪の肉を食べさせれば、カタリーナも元気を取り戻すじゃろうて」

 そう言われると誰も言い返せなくなってしまったのだ。それでもミーナは懇願した。

「お義父さまに何かあれば、一番悲しむのはお義母さまです。どうかおやめください。それに、伏せっている人に、猪肉は、ちょっと……」

「お主のためでもあるのじゃ、ミーナ。精をつけて、早く子を作らねばならん」

 その言葉に、ミーナは凍りついた。至極当たり前の言葉であった。城内の者なら誰でも……もちろん、伏せっているカタリーナも、イメディング城でふんぞり返っているコンラートでさえも、それを望んでいるのだ。

「ありがとうございます、お義父さま。ミーナは楽しみにしております。ご武運をお祈りいたしますわ」

 そう言って笑うほかになかった。

 イェルクは正餐の時間に父上を直接問いただすと言って、部屋に戻った。ミーナは自室に戻り、やりかけの刺繍を再開して、また指に針を刺した。


「儂は戦いの中で生きてきた男じゃ、幾つになっても戦い続けられると証明せねばならん。

 儂は戦うことで、女達を養ってきたのじゃ。カタリーナが倒れた今こそ、戦わねばならんのじゃ。猪の肉を食べさせれば、カタリーナも元気を取り戻すじゃろうて」

 正餐の場では、繰り返し同じ話になり、イェルクとマルクス以外の人物はうんざりしていた。

「父上に何かあれば、一番悲しむのは母上です。考え直してください」

 ミーナは嫌な予感がして、それを打ち消すように蜂蜜入りワインを口にした。

「お前のためでもあるのじゃ、イェルク。精をつけて、早く子を作らねばならん。いつまでもたもたしておるか」

 飲み込んだ蜂蜜入りワインが、とんでもなく不味く感じられて、ミーナは咳き込んだ。メイドや下働きの男たちの噂話が、いよいよマルクスの耳にも入ったのだろう。しかしイェルクは凍りつくことなく、父親に反論した。

「それは我々が決めることです。いかに父上といえども口出し無用です。皆の前でこのようなことをおっしゃって、我々に恥をかかせるおつもりですか」

 イェルクの気迫にマルクスは口をもごもごさせた。ミーナはイェルクのはっきりした態度を頼もしく感じたが、その一方でどこか満たされない思いがして、唇を震わせた。


 気まずい正餐の時間が終わった。各々が持ち場に戻った。ミーナは食事をろくにとることができず、ため息をついて座っていた。隣のイェルクはきれいに平らげていた。

「食事を部屋に運ばせるか?」

 ミーナは首を横に振った。

「父上がおっしゃったことは気にするな。母上が伏せっておられるから気が急いているだけだ」

 イェルクは優しい口調で言ったが、ミーナの気持ちは晴れなかった。

「お義父さまのおっしゃることはもっともですわ」

 ミーナはイェルクを見つめながら話し続けた。

「先ほど、あなたは『我々』とおっしゃったけど、その中にわたしはいるのかしら?」

 イェルクはぽかんとした顔をした。

「何を言っている?」

 ミーナは再び大きなため息をついた。

「わたしの気持ちは、どこにあるとお思いですか?」

 ミーナは怒りと悲しみの熱を帯びた目でイェルクを見つめた。イェルクはミーナから顔を背けた。ミーナは無言で席を立ち、静かに部屋に戻っていった。


 猪狩りは開催されることになった。猪を仕留める役をイェルクが買って出たのだ。マルクスは息子が代わりに猪と戦うという体裁に満足し、猪狩りに伴って開催される祭りの主催者を引き受けた。狩りは、城の者にとっても、周囲に住む民にとっても、富やごちそうをもたらす喜ばしい出来事だった。だから、皆総出で祝うのだ。

 ミーナは狩りを見物することも、祭りに参加することもしなかった。ミーナの静かな怒りと絶望は続いていた。ミーナはますます鏡を避けるようになり、着替えを手伝うヘリガを困らせた。

 その日、ミーナはカタリーナの部屋にいた。ミーナはビルング家の畑からいくつかの香草を株分けし、自分の畑に植えた。その香草を使って、薬湯を作ったのだ。修道院で見た処方箋を思い出しながら、香草を摘み、干してからからにして、お湯を注いでしばしの間待った。夏にふさわしい、清涼感ある香りのお茶ができた。ミーナはそれを人肌まで冷ましてから、カタリーナの元へ持っていった。

「お義母さま、どうぞお飲みください」

 カタリーナは自ら身体を起こし、ミーナが用意した薬湯を飲んだ。

「ああ、おいしい。なんて爽やかなんでしょう。まるで身体の中を風が抜けていったようだわ」

「そうですか。その風で、お義母さまの身体の中の悪いものを追い出してくれるといいのですが」

 ミーナはカタリーナの身体を支え、横たえようとしたが、カタリーナは首を振った。

「行かなくていいの、ミーナ」

 今度はミーナが首を振った。

「いいのです。わたしは狩りなど嫌いです。昔、鷹や猟犬に追い回されたものですから、どうしても追い回される獲物の気持ちになってしまいます」

 カタリーナはくすくすと笑った。

「イェルクは今ごろ猪を仕留めたでしょうね。あの子は狩りも得意なのよ。きっと、大きな猪をお土産に持ってくるわ」

 カタリーナは目を細めて窓の外を見た。ミーナは心なしか、窓の外が賑やかになったように感じた。

「お義母さま、無理して猪肉を食べる必要はないですわ。今はもっと消化のいいものを食べて、ゆっくり休むのが先決です」

「あら、まるでお医者さまみたいなことを言うのね」

 カタリーナは子どもが何か面白いものを見つけたときのような口調で言った。

「修道院で、医術のまねごとをしていました。薬湯の知識も、そのころ身につけたのです」

 ミーナは少し恥ずかしそうに答えた。カタリーナは、まあ、すごい、と言った。

「でもお義母さま、わたしは修道院で学ぶべきことをほとんど学んできませんでした。だからわたしは、この家で何のお役にも立てません」

「あら、どうして?」

 カタリーナは優しい口調で尋ねた。それを聞いたミーナの目からは涙がぽつりぽつりとこぼれてきた。ミーナは以前黙っていたことをカタリーナに打ち明けた。

「まあ、あの子、そんなことを言ったの」

 カタリーナは噛みしめるようにつぶやいた。ミーナは泣きながらうなずいた。カタリーナは震える手で、ミーナの涙で濡れた手を取った。

「ミーナ、どうかあの子を許してあげて。あの子はとっても不器用なの。ただそれだけなのよ」

「不器用……?」

 お義母さまは一体、何をおっしゃっているの? それがミーナの正直な感想だった。国一番の騎士と噂され、狩りの名手でもある男が、なぜ不器用だというのかしら。ミーナは納得がいかなかった。

「お義母さま、不器用というのは、わたしのように何もできない人間を指す言葉です。イェルクのような……」

「あなたは何もできない人間ではないわ。でも、不器用ね。イェルクは一つの道に優れているわ。でも、不器用なのよ」

 カタリーナはミーナの手を強く握りしめた。カタリーナに飲ませた薬湯の香りがふわりと広がった。

「あわてずに、ゆっくり、歩んでいきなさい。二人でね。ミーナ、あなた、ビルング家の女が、一枚の布を最初から最後まですべて自分で作るのはなぜだか、わかる?」

「わかりません……」

 ミーナは正直に答えた。

「それはね、一つのことを成し遂げるのは時間がかかる、と理解するためよ。確かに、器用な娘なら、糸を紡いで機を織るのはあっという間だわ。だけど、亜麻やウォードを育てるのは時間がかかる。ウォードの収穫までは一年はかかるし、そこから染料を作るまでにさらに時間がかかるわ。二人の関係も、そういうものじゃないかしら。あなたたち二人が、縦横の糸になって、一枚の布に織り上がるには、まだまだ時間がかかるのだと思うわ」

 カタリーナは優しい瞳でミーナを見つめた。ミーナはその優しい目からつい目をそらしてしまった。あまりにも真っ直ぐで、見ていられなかったのだ。

「お義母さま、わたしには、よくわかりません……」

 そう答えるので、やっとだった。

「そうね、まだわからなくて当然よ。いいのよ、それで。さあ、あなたが淹れてくれたお茶を飲んだら、なんだか元気がわいてきたわ。これから、亜麻の花が咲くわ。とてもきれいなのよ。花が枯れたら、亜麻を刈り取って、水につけて、一月くらい乾燥させる。そうしたら、糸を紡ぐ準備ができるわ。そのころまでには、すっかり元気になるから。あなたに、糸の紡ぎ方を教えてあげる。やり方を聞いたら、驚くわよ、ミーナ」

 カタリーナはまた、子どもが何か面白いものを見つけたときのような口調で言った。ミーナは楽しみにしています、と答え、今度こそカタリーナを休ませた。


 猪狩りを終えたイェルクは、今度は国内を巡ると言って城を出て行った。彼が出て行った後、亜麻は小さくて青い花をつけた。その日の昼には散ってしまう、可憐ではかない花だった。ミーナは、その美しい花を気に入って、来年はイェルクと一緒に見たいとつぶやいた。

 季節はあっという間に過ぎ去り、ミーナは亜麻の糸を紡ぐ準備を終えた。その頃には、カタリーナはすっかり元気になっていた。九月のある日、カタリーナはミーナを部屋に招き、ミーナの手に駒のような何かを握らせた。軸がやたらと下に伸びている、変わった駒だった。

「お義母さま、この駒は一体何ですか?」

 カタリーナはにこにこ笑いながら答えた。

「これはね、紡ぎ駒。これで、糸を紡ぐのよ」

「え、こんなもので? 糸車を使うのではなくて?」

 ミーナは手渡された駒を見つめて、目をぱちくりさせた。そんなミーナを見て、カタリーナはまた、子どもが何か面白いものを見つけたときのような口調で言った。

「そうね。わたしは魔法が使えるのよ。ほら、ご覧なさい」

 カタリーナは亜麻の繊維を左手に持ち、繊維の端を駒につながれた紐に通した。紐の先端は、輪っかになっていて、その輪に繊維を通すのだ。カタリーナは椅子に腰掛け、右手で駒をくるくると回した。ぼそぼそした繊維は、見る間に糸に変わっていった。

「まあ、すごい。魔法みたい」

 ミーナは手を叩いて喜んだ。


 その日から、ミーナは糸を紡ぎ始めた。

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