第9話:風薫るころ
さわやかな風が吹く六月になった。五月の間、イェルクは帰ってこなかった。ミーナはイェルクに会ったら、どんな話をしようかと、そればかり考えていた。
六月も半ばを過ぎると、亜麻は草丈六十センチメートルを超え、ぶどうは白い花をつけた。そんな折のことだった。領内をくまなく回っていたイェルクが帰ってきたのだ。知らせを聞いたミーナは城の前で待っていた。イェルクはあの日と同じように馬に乗って帰ってきたが、あの日のような堂々たる姿ではなく、少しくたびれているように見えた。
「ただいま戻った」
「お帰りなさいませ」
「留守中変わりないか」
「いいえ、何もございません」
ミーナは形式的に挨拶を済ませた。本当は、飛びついて甘えたかったが、理性とつまらぬ意地がそれを抑えた。
「母上の具合がよくないと聞いたが」
「医者の見立てでは、今までの疲れが出たのだろうとのことです。しばらく安静にしていればよくなるとも申しておりました」
「そうか、ならば安心した」
話が終わるとイェルクはすっと城に入っていった。入り口付近で待機していたビルング家の家令に一、二言話しかけ、もう少し奥にいる部屋付きのメイドに声をかけると、執務室で待つマルクスの元へ行ってしまった。
その、ほんの少しの時間、ミーナは取り残されたような気持ちでいた。イェルクを追いかけていいものか悩んだ。ミーナは帰宅した際、夫婦がどのような会話をするのかを知らなかった。先ほどの形式的な対応は、イメディング家の城門付近でレオポルトを出迎えたゲルトルートの真似をしたものだった。
ミーナは悩んだ末に自室に戻った。しばらくの間室内をうろうろしているうちに、足音が聞こえてきた。イェルクが部屋に戻ってきたのだ。ミーナは待ち構えたように扉を開けようとしたが、またつまらぬ意地が邪魔をし、扉を開けようとした手を引っ込めてしまった。ミーナは鏡台の引き出しから金の鞠を取り出した。金の鞠を抱きかかえながら椅子に座り込み、しばし時が流れるのを待った。
「ミーナお嬢さま、イェルクさまが戻られてからずいぶん時間が経ちましたよ。そろそろ落ち着かれた頃ではありませんか。ぜひ、お話をしてきてはどうでしょうか?」
ヘリガはミーナを励ますように声をかけた。
「そうね。ヘリガがそう言うなら、イェルクと話をしてこようかしら。わたしたち夫婦なんですもの」
ミーナは白々しい態度を取りながら、自室の扉を開けた。自室から出たミーナの目に、イェルクの部屋付きのメイドの姿が映った。メイドはイェルクの部屋の前で立ち塞がっていた。
「イェルクと話がしたいの、通してちょうだい」
ミーナはさも当然という風を装って、メイドに声をかけた。
「イェルクさまは今お疲れです。誰も通すなとのご命令です」
メイドの声は冷たかった。ミーナはむっとした。
「わたしはイェルクの妻なのよ。通しなさい」
しかし、メイドは譲る様子を見せなかった。
「たとえ若奥さまだとしても、お通しするわけにはまいりません。お引き取りください」
メイドの声には怒りさえ感じられた。その口調はイェルクを追い払ったヘリガの口調そっくりだった。ミーナは、やり返されたか! と思った。これが、イェルクの仕組んだことなのか、それともメイドの当てつけなのかはわからない。ミーナははらわたが煮えくり返るような思いを必死で抑えた。
「わかったわ。イェルクに、どうぞごゆっくりお休みくださいと伝えてちょうだい」
ミーナはきびすを返して自室に戻った。そして、ヘリガに泣きついた。ヘリガは自身のかたくなな態度を反省し、何度もミーナに謝った。その日、イェルクは正餐(昼食)の時間も晩餐の時間も大広間に下りてこなかった。ビルング家では一日に二度、領主家族と使用人たちが揃って大広間で食事をとるのだ。食事の時間、ミーナは好物のプディングを食べても明るい気持ちにはならなかった。
翌日の正餐の時間には、イェルクは大広間に下りてきた。ミーナはイェルクと話をしようと思ったが、久々に両親と話すイェルクの邪魔はできなかった。とくに、カタリーナは久々に大広間に下りて食事を取ったのだから。ミーナはぎくしゃくした若夫婦のことを、メイドや使用人たちがこそこそ笑っているような気がして、食事中全く落ち着かなかった。
正餐の後、ミーナは意を決してイェルクの部屋の戸を叩いた。昨日のメイドはいなかった。ミーナにとってのヘリガと違い、いつもイェルクの側にいるわけではないのだ。いつも側に控えているのは、従騎士の少年だ。
「どなたですか?」
「わたしです。開けてちょうだい」
従騎士が扉を開けると、ミーナは堂々と、努めて堂々と部屋に入った。次の瞬間、ミーナは腰を抜かしそうになった。部屋の中央に立つイェルクの肩には一羽の鷹が止まっていて、足下には一匹の猟犬が寝そべっていた。鷹と猟犬はミーナに気づくと、ピィと高い声で鳴いたり、ワンと軽く吠えたりした。
「いやあ、来ないで!」
ミーナはおびえて後ずさった。イェルクはその様子を見て軽く笑っていた。
「驚いたか? 私がきちんと躾けているから、心配いらない。プラチット(雌の猟犬)もターセル(雌の鷹)も、子犬や雛の頃から私が育てた、優秀な相棒達だ。特にターセルは、親鳥に死なれてひとりで鳴いていたところを保護したのだ」
それでもミーナの引きつった表情は変わらなかった。
「お前は動物も怖いのか?」
イェルクは少しあきれているようだった。ミーナは顔を引きつらせたまま、叫ぶように言った。
「覚えていらっしゃらないの? わたし、コンラートお兄さまの猟犬と鷹に、ずいぶん追い回されたのよ! 本当に、恐ろしい思いをしたの。イェルクお兄さまも見ていらしたでしょう?」
ミーナは幼い頃のように「イェルクお兄さま」と呼んでいることに気づかないくらい動揺していた。イェルクはまた軽く笑い出した。
「ああ、そんなこともあったな。お前が狩りについていくと言って聞かないから、狩りはこういうものだと教えてやる、と言って、コンラートが……」
「笑い事ではありません! 本当に、本当に、怖かったのよ! ああ、あのとき、イェルクお兄さまはコンラートお兄さまのことをずいぶん叱ってくださったのに、今では私のことをお笑いになるなんて!」
ミーナはイェルクの言葉を遮り、わめきちらした。
「お願いですから、猟犬や鷹をお部屋で飼うのはおやめください。世話は他の者に任せればいいではないですか。あの夜はいなかったのに!」
「あの夜はさすがに部屋から出せと、皆が申したからな。だが、普段はいいだろう? とても大人しいのだから」
イェルクは鷹の背を滑らかな手つきでなでた。貴族の男性にとっては、猟犬や鷹は狩猟の道具ではなく、相棒であり、友人でもあった。だから部屋で飼う者も少なくなかった。イェルクにとっても、猟犬と鷹は友人であった。仕事や剣術の稽古で疲れたときなど、背をなでてやると心が落ち着くのだ。しかし、ミーナは、イェルクに愛撫されるのは自分だけでいいと思っていた。つまり犬や鳥にまでやきもちを焼いているのだ。
「わかりました。では、わたしがお側に参るときだけは、他の部屋にやってください」
「わかった、わかった」
イェルクはすっかりあきれてしまったようだ。扉の近くで二人をさりげなく見ていた従騎士の少年は笑いをかみ殺すのに必死なようだった。
「今日はもう部屋に戻ります。また明日お話ししましょう」
ミーナはふくれっ面をしたまま部屋を出た。呼び止めてくれることを期待したが、イェルクは素っ気なかった。自室に戻ると、またヘリガに泣きついた。ヘリガもヘリガで、あの方は女心をわかっていないと、繰り返し同じことを言うのだった。
次の日、ミーナは農作業をヘリガや他のメイドに任せて、領主の執務室をのぞきに行った。そこではイェルクが大量の書類を前に難儀していた。
「何をなさっているの?」
ミーナが問いかけると、イェルクは土地の記録を調べている、と答えた。
「北部の村で、隣人同士が土地の境界線について揉めていてな。そこで荘園裁判を開こうとしたが、先の戦争で土地の記録が焼失したことがわかったのだ。お互い決して譲ろうとせぬから、このままでは裁判の前に、村を二分する争いになりかねん。だから、城内に記録が残っていないか、探しに戻ったのだ」
それを聞いたミーナは、戦争とはいえ村を焼くなんて、お義父さまはなんて愚かなことをなさったのだろうと思ったが、口には出さなかった。
「そうですか、それは大変ですね。何かお手伝いいたしましょうか?」
「いや、結構だ」
イェルクは素っ気なく答えるとまた書類に目を落とした。
「わたくし、修道院では薬草の処方箋を調べたり、それを書物にまとめたりしていたのです。きっとお役に立ちますわ」
ミーナが得意げに言ってみせると、イェルクはミーナの目を見て、厳粛に言った。
「お前にはお前のすべきことがあるはずだ」
イェルクの言わんとしていることがわかったミーナは、執務机に手を置いて力説した。
「領主が領地の適切な管理をする助けとなるのが、領主夫人の責務だと思います! 農作業や、手仕事をするよりも、調べ物のほうが、よりあなたのお役に立てますわ!」
「すべきことをせぬ者が、他者の役に立てると思っているのか」
イェルクは冷たく言い放った。その瞳は冷徹というより、冷酷に見えて、ミーナは小さく震えた。
(やっぱり、怖い……)
「だって、わたし、苦手なんですもの。力もないし、不器用だし、クラーラお母さまは何も教えてくださらなかったし……」
ミーナはもじもじして言い訳した。クラーラ、という言葉を聞いた瞬間、イェルクは表情を和らげた。
「でも、お母さまが教えてくださったこともたくさんありますわ」
「何をだ?」
「お母さまはわたしに、たくさんの物語を教えてくださったの! 昼も夜も、毎日のように違うお話を聞かせてくださったわ! わたし、修道院で何度も何度も思い返したから、今でもいくつも覚えています。子どもが産まれたら、毎日毎日聞かせてやります。きっとわたし、いい母親になりますわ!」
ミーナは期待していた。これを聞いたイェルクが自分を見直してくれる、そして二人がいい雰囲気になるだろう、と。しかしイェルクはミーナの言葉を無視するように書類に没頭し出した。
ミーナは腹が立ってきた。せっかく、わたしは歩み寄ろうとしているのに。怖い猟犬や鷹の室内飼いも許したのに。イェルクを怖いと思っても、それでも愛しているのに……。
「そこまでおっしゃるのなら仕事に戻ります。あなたもどうぞお仕事頑張って!」
ミーナはぷんぷん怒りながら執務室を出ようとした。
「ミーナ」
イェルクがミーナを呼び止めた。ミーナは一瞬ためらったが、イェルクに向き直った。
「記録が見つかったら、私はまた城を出る。私が留守の間は、皆に色々と教わるがよい。女の手仕事のことなら、ヘリガだってよく知っているだろう」
ミーナの怒りは頂点に達した。
「わかりました。どうぞ行ってらっしゃいませ!」
ミーナは乱暴な足取りで執務室を出て行った。
それでもミーナはカタリーナの元におもむき、糸の紡ぎ方や機織りについて教えを乞うた。
「そうねぇ……でも、この家伝統の糸紡ぎや機織りは、特別な道具を使うから。私の調子がもう少しよくなって、亜麻から繊維が取れるようになったら、そのときに教えてあげるわ」
ミーナはため息をついた。カタリーナは何も聞かずに、ミーナの頭をそっとなでた。ミーナは昨日今日の出来事を話したくなったが、伏せっているカタリーナの負担になりたくないし、そんなことを言うのもおかしいと思ったので、黙っていることにした。
「ありがとうございます。楽しみにしています。お義母さま、もうお休みください。お邪魔してすみませんでした」
カタリーナは優しく微笑んで床についた。ミーナはそっと部屋を出た。
それからミーナは、農作業の落ち着いた午後からヘリガに刺繍を教わることにした。ヘリガは辛抱強く教えたが、ミーナの刺繍の腕はなかなか上達しなかった。
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