第8話:女の務め

 ミーナは何日も泣き続けた。ありとあらゆることがミーナを泣かせた。イェルクに拒絶された悲しみと怒り。レオポルトが亡くなった悲しみ。不甲斐ない自分への憤り。自分が誰の子かわからない恐怖と絶望。愛する人を忘れたクラーラへの哀れみと、そんなクラーラを喪った悲しみ。思えば、修道院の暮らしは、泣くことさえ困難にさせた。多くの娘たちが自分と同様に、親元を離れ不便な暮らしをしているのに、皆悲しみに耐えていたからだ。ここでは遠慮なく泣けた。優しいヘリガが、来る人すべてを追い払ってくれるからだ。

 ヘリガは、ミーナがよほど乱暴に扱われたと思っているようだった。何度かイェルクがミーナの部屋を訪れたが、強い口調で入室を拒んでいた。その口調には怒りさえ感じられた。

「あのお方は、女心というものを全く理解できないようですわ。優しく慰めることさえできない。これからミーナお嬢さまがいらぬ苦労をなさると思うと、お気の毒で……」

 どうやらヘリガは、幼い日にイェルクが慰めてくれなかったことをよく覚えているようだ。様子を見に来た他のメイドに愚痴をこぼすのを、ミーナはこっそり聞いていた。

 一度、扉の外からマルクスの声がしたことがあった。

「イェルクは娘一人の機嫌も取れんのか! こんなことが、イメディング家の耳に入ったらどうする!」

 もし、耳に入ったとしても、コンラートお兄さまが手を叩いて喜ぶだけよ、とミーナは思った。


 一月近くが経ったある日のことだった。ヘリガはもう、城じゅうの人を追い払うのに疲れたのだろう。美しい服を用意してミーナに誘いかけた。

「ミーナお嬢さま、ご覧ください。どうです、この美しい緑の服! ビルング家の仕立職人にお願いして作ってもらったのですよ。若葉の美しい緑にそっくり! じきに五月になります。この緑の服を着て、外に出てみてはいかがですか? きっとご気分も晴れやかになりますよ」

 ミーナは緑の服を手に取ったり、身体にあててみたりした。服はミーナの身体にぴったりと合った。ヘリガが細やかに製作を依頼したに違いなかった。確かにこの服を着れば、気分が少し楽になるだろう、とミーナは思った。

「ヘリガ。着替えさせて。それから、この服にあうように化粧してちょうだい」

 ミーナがそう言うと、ヘリガは花のつぼみがぱっと開いたような顔をした。ヘリガは他のメイドも呼び、嬉しそうにミーナを着替えさせた。布で隠してしまうほど鏡を嫌うミーナのために、極力鏡を使わずに化粧を施し始めた。半分程度化粧が終わったあと、部屋の戸を叩く音がした。

「ミーナ、私だ。話がある」

 部屋を訪れたのはイェルクだった。ヘリガは「いかがなさいますか?」とミーナに尋ねた。ミーナは一瞬ためらったが「帰ってもらって」と返事した。

 ヘリガは部屋を出た。しばらく経つと、扉の外からイェルクの声が聞こえてきた。

「ミーナ、聞いてくれ。まずは子ども扱いしたことを謝る。お前を傷つけるつもりはなかった」

 謝ったって、子どもだと思っているのは変わらないのでしょう、と、ミーナはふてくされた顔をした。

「これから私はしばらくの間城を留守にする。いつ帰るかはわからない。父上がお元気なうちに学ばねばならぬことが、私にはたくさんある。だから忙しいのだ。どうかわかってくれ」

 そんなことは知らないわ、とミーナは思った。

「お前も、母上がお元気なうちに学ばねばならぬことがあるだろう。私の留守中は、母上の言うことをよく聞いて過ごすのだ。では、もう行くぞ」

 ミーナはそっぽを向いて、イェルクに返事をすることも、別れの挨拶をすることも拒んだ。やがて足音がした。イェルクが去っていったのだ。ミーナは突然寂しくなってきた。ヘリガが室内に戻ってきた。

「ヘリガ、お願いよ。早く化粧をすませて」

 ミーナは懇願した。ヘリガはミーナの思いをくんで、できる限り早く化粧をした。そしてミーナの髪を簡単に結い、頭に円錐形の帽子をかぶせた。

 ミーナは部屋を飛び出し、一階に下り、城の外扉を開けた。

「イェルク!」

 しかし、イェルクはもういなかった。ミーナの目には今日は一度も流れなかった涙が浮かんでいた。


 ミーナはとぼとぼと部屋に戻った。部屋の近くで、ミーナはぎくりと立ち止まった。この一月近く、一度もここを訪れなかったカタリーナが部屋の前で立っていた。

 ああ、叱られる……ミーナは覚悟を決めた。こういうときは、先に謝ったほうが心証がよくなる。これは修道院生活で学んだことだ。

「お義母さま、長い間伏せっておりまして、申し訳ありませんでした。どのようなお叱りも受けます」

 しかし、カタリーナはにこにこ笑っていた。

「よかったわ。元気になって。その緑色の服、とても似合うわ。まるで五月の若葉のようね」

「いえ、そんな……」

 ミーナは謙遜しつつ、カタリーナの笑顔を警戒していた。にこにこ笑っている人ほど怖いというのも、修道院生活で学んだことだ。

「でもね、それだと若葉の上に雪が積もっているようで、かわいそうだわ」

 ミーナは言葉の意味をすぐには理解できずに戸惑った。カタリーナはミーナの化粧の濃さを批判しているのだとわかるまでに少し時間がかかった。確かに、ミーナの顔は雪のように白かった。カタリーナはほとんど化粧をしていないようだった。この国の説教師たちは化粧を軽薄だととがめていた。もちろん、修道院では誰も化粧などしていなかった。でも、一度化粧の魅力を知ったミーナは、それを手放したくはなかった。

「お義母さま……わたしは化粧なしでは、恥ずかしくて外を歩けません。どうかお許しください」

 ミーナは自分の気持ちを正直に口にした。カタリーナは驚いた表情をした。

「どうして? ありのままのあなたでいたほうが、きっと素敵だと思うわ」

「そんなことはありません。わたしはあの蛮族どもと同じ髪の色、肌の色をしています。お義父さまやお義母さまに不愉快な思いをさせたくないのです」

 それは言い訳だった。不愉快なのはミーナ自身だった。夫に拒絶された自分を、化粧ですべて塗りつぶしてしまいたかったからだ。

「気を遣う必要はないのよ、ミーナ。ここでは、赤毛の人など珍しくないのだから。ビルング領では、東の国からやってきた開拓者がたくさん暮らしているの。あなたの亡くなったお母さまは、記憶を無くされていたとうかがったけれど、きっと東の国のお生まれなのね。だから、あなたは赤毛をしているのだわ。それに、ね……」

 カタリーナはミーナの頬にそっと手を当てた。乾いた手のぬくもりと、どこか甘い香りがミーナに伝わってきた。

「赤毛の人は、とても肌が薄いのだとか。だから、肌が赤く見えるのよ。あまりお化粧を濃くして、柔らかい肌を傷めては、かわいそうだわ」

 カタリーナは優しく微笑んだ。ここ一月ほど、すべてを拒絶して泣き濡れていたミーナにとって、その木漏れ日のような優しさはむしろまばゆく感じられた。ミーナの心の中で、何かが溶けていった。これからイェルクとずっと一緒に暮らす以上、いつかは素顔を見られるのよ。そんなことがなぜわからなかったの? 十年前は何も気にせずに側にいられたわ。今も、勇気を出せば、きっと大丈夫よ。ミーナは自分に言い聞かせた。

「あ、そうでした。こんな話をしに来たわけではないの。あなたに城の外を案内したくて……。ついてきてちょうだい」

「わかりました。その前に、化粧を落としてまいります、お義母さま」

 ミーナは部屋に戻り、ヘリガに化粧を落とすように命じた。ヘリガは少しがっかりした顔をしたが、ミーナがもういいの、と言うと、素直に化粧を落とした。


 ミーナはカタリーナの後をついていった。城を出て、裏手に回ると、農地が広がっていた。下働きの者たちが忙しく農作業をしていた。すぐ側には小屋が一軒あり、脇には小川が流れていた。カタリーナはミーナに一つ一つ丁寧に説明してくれた。

「あちらにぶどう畑があるでしょう? ぶどう畑の側では、絨毯代わりに敷き詰める香草を育てているの。この近くの畑は、キャベツやチシャ、カブやコールラビ、ルバーブ、豆類を育てているの。種をまいて、だいぶ芽が出てきたころね」

「まあ、たくさん育てているのですね」

 ミーナは風にそよぐ帽子を押さえながら、感心したように言った。

「城内で使う野菜は、できるだけここで育てるようにしているの」

 カタリーナは、目を細めながら畑を見つめた。それは育っている野菜を慈しんでいるようであり、働いている者たちを慈しんでいるようでもあった。ミーナも畑を隅から隅まで見渡してみた。あたりに一区画だけ、何も植わっていない畑があった。広さは百坪ほどだろうか。ミーナの目線に気づいたカタリーナは、その区画を指さしてこう言った。

「ミーナ、あれはあなたの畑よ。あそこに植えてほしいものがあるの」

 ミーナはぽかんとした。わたしは貴族の家に嫁いだはずよね、どうして庶民のように農作業をしなければならないの? ミーナは疑問に思ったが、カタリーナは気にせずに、近くの小屋までミーナを招いた。

 小屋には農具と、種が入った袋がたくさん並んでいた。カタリーナはその中から二つの袋を選び、種を取り出した。一つは、ぷっくりした涙型の種、もう一つは、平べったい涙型の種だった。カタリーナはミーナの両の手のひらにそれぞれ種を置いた。

「右手が、亜麻の種。左手がウォード(ホソバタイセイ)の種。亜麻はわかるわね。ウォードは布や糸を青く染めるのに使う草よ」

「はい」

「あなたはこれからこの二つを畑で育ててちょうだい。亜麻は秋になれば収穫の時期になるし、ウォードは二年草でね、来年の春になれば収穫できるの。これで糸を紡いで、紡いだ糸の半分くらいを青く染めて、青い糸と白い糸の二つにする。それを使って、青と白の横縞模様の布を織る」

「はあ」

 ミーナは何が何だかわからなくなった。ミーナは女の手仕事がよくわからないのだ。そういったことは、母親から教わるものだが、ミーナの母クラーラは、自身の記憶とともに手仕事のことすら忘れていた。クラーラが覚えていたのは、自分の名前と、たくさんの物語だけだった。そんなクラーラやミーナを、レオポルトは天使のようだと言った。レオポルトや親切なメイドに囲まれていたときは幸せだった。しかし、そこを一歩出たら、ミーナはただの役立たずだった。クラーラは出ることさえできなかった。

「修道院では、娘たちは農作業をして、糸を紡いで暮らしていると聞いたわ。染め物はどうだかわからないけれど。だから簡単だと思うわ。これがね、ビルング家の女が最初にやることなの。布を一枚、自分の手で最初から最後まで織り上げる。そしてその布で、産まれた子を包んであげるの。もっとも、たいていは途中までで産まれてしまうのだけど……」

 ミーナはカタリーナが言ったことを簡単だとは思わなかった。

「お義母さま、それはミーナにとっては大変難しいことです。なぜならミーナは、亡くなった母からも、修道院からも、農作業や女の手仕事をきちんと教わったことがないのです」

 ミーナは甘えた声を出した。苦手なことがあると、それを避けるためについ他人に甘えるのが癖だった。不思議と、そうすると苦手なことをしないで済むのだ。

「では、今から覚えるといいわ。大丈夫よ、手仕事については一から教えるから。農作業はメイドたちに手伝ってもらいなさい」

 ミーナの甘えはカタリーナには通用しなかった。こうあっさりとかわされると、ミーナに手の打ちようはなかった。もう逃げられない。ミーナは観念した。

「わかりました、お義母さま」


 部屋に戻ったミーナは、ヘリガに一部始終を報告した。

「まあ、なんてことでしょう。イメディング家のお嬢さまが農作業をなさるとは。これからミーナお嬢さまが覚えることは、なさることではなく、させることでございましょうに。ビルング家は、元は農奴というお噂ですから、その名残でしょうか……」

 ヘリガは頭を抱えた。騎士の家に生まれたヘリガも、農作業などやったことがないのだ。

「わたしについてこない方がよかったかもね、ヘリガ」

 ミーナは面白くなさそうにつぶやいた。ヘリガは滅相もない、と言った。

「これでは、修道院にいるのと何も変わらないわ。いえ、修道院にいた方が、わたしにふさわしい仕事が与えられて、かえってよかったのかもしれない……」

 ミーナも頭を抱えてしまった。不器用で体力もないわたしに、そんなことができるはずがないと落ち込んでいるのだ。

「失礼を承知で申し上げますと、イメディング家のお嬢さまにはもっとふさわしい家があると思います。お疲れのミーナお嬢さまに香油を塗って差し上げたいのに、それもできやしない。そんなお金の余裕はないと、この家の家令が申すのですよ! 側にある銀山の利益が入るから、お金の余裕はあるのではと、家令に尋ねましたところ、銀山の利益は国のもので、ビルング領には銅貨一枚分も入ってこないと申すのです。ああ、情けない!」

 ヘリガはついに泣き出してしまった。

「いいのよ、ヘリガ。わたしは好きな人の家に嫁いだのだから、その家のしきたりに従うわ」

 ミーナは希望を持ってそう答えたいと思ったが、口から出た言葉は力ない諦めで満ちていた。


 あの美しい緑の服を着る機会はなくなった。次の日からミーナは生成りの麻布を縫っただけの服をまとい、しゃれた帽子ではなくただの布を頭に巻き、重い農具を持って働くことになった。ヘリガは農家出身のメイドを連れてきて、指導を仰いだ。まずは亜麻を育てるために、十五センチメートルほど畑を耕すことにした。ミーナもヘリガも農具を使うことすらおぼつかないので、その作業には長い時間を要した。それから亜麻の種をまいた。一センチメートルの深さに、二センチメートル間隔で種をまくのだ。次に、ウォードの種をまいた。指で小さな穴を開け、三粒ずつ種をまいた。発芽するまでの間は二人ともどきどきして待っていた。発芽した日は、二人とも喜んだ。二人はぶどう畑の手伝いも頼まれた。糸を染める際に、ぶどうを使うというのだ。二人は意味のわからないまま、垣根仕立てされたぶどうの枝に生えた、余計な芽をかき取る作業に没頭した。

 ミーナは毎日くたくたになった。ヘリガは、高価な香油を使うことはできなくても、せめてこれだけは、と言って、ミーナの手に亜麻仁油を塗ってやった。ミーナにとっては、そのときが一番くつろげる時間だった。

「ああ、よかった。修道女になっていたら、こうしてくつろげる時間もなかったわ」

 それを聞いたヘリガは、なんとも嬉しそうな顔をした。

 手仕事については、カタリーナに教わるはずだったが、カタリーナは少し具合を悪くしたので、見送ることにした。カタリーナはもう七十に近いので、ミーナは心配になった。ミーナは時折カタリーナの見舞いに行った。農作業の進捗を話すと、カタリーナは嬉しそうに微笑んだ。

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