第6話:再会

「本当に行くの! 考え直しなさいよ、ウィルヘルミーナさん!」

 修道院の礼拝堂のステンドグラスの前で、ミーナはアラリケに乱暴に腕を引っ張られ、痛い痛いと声を上げた。

「院長先生が、どれほどがっかりしておられるか、わからないの! 院長先生はあなたにもっと高等な薬の知識を身につけさせようって期待なさっていたのよ!」

 アラリケはさらにミーナの腕を強く引っ張った。まるで、人を地獄に引きずり込もうとしている魔女のようだ。

「もう、離してよ! 院長先生ご自身が、わたしに、これからは人の愛のもとで生きなさいっておっしゃったのよ」

「愛……」

 アラリケはミーナの腕から手を離し、だらりとうなだれた。ミーナはアラリケに優しく声をかけた。

「わたしの仕事は、あなたに引き継ぐって、院長先生がおっしゃっていたわ。大変なこともあるだろうけど、頑張って。いい修道女になってね。さようなら」

 アラリケはまだうなだれていた。わたしと別れるのがそんなに寂しいのかしら、アラリケにもしおらしいところがあるのねとミーナは思った。

「あなたの結婚相手のイェルクさまは、デゼルタ軍から、黒髪の復讐鬼とよばれていたとか」

 突然、アラリケは首を持ち上げ、左側のステンドグラスを指さして、叫ぶようにこう言った。

「それに緑の瞳をしてらっしゃるとか! まるであの悪魔みたいに。きっと恐ろしい方に違いないわ! そんな人の元に嫁ぐなんて、ウィルヘルミーナさん、あなたなんてかわいそうなんでしょう!」

 アラリケは涙を流して去って行った。そのときのミーナには、アラリケの言葉が負け惜しみだと受け止める余裕があった。その言葉が、ミーナとイェルクの結婚生活に大きな影響を与えるとは、少しも思っていなかった。


 ミーナは修道院の門を開き、手にしていた円錐形の帽子をかぶった。修道院と同じように、赤毛を隠すためだ。用意された馬車に乗り込み、長い時間をかけてイメディング城に戻った。悲しみと怒りでいっぱいだった幼い日と違って、戻ってきた日のミーナは幸せいっぱいの気持ちでいた。

 ミーナは生まれて初めてイメディング城内に入った。この国では珍しく、赤い絨毯が床に敷いてあった。調度品はみな美しく、それにきっちりとそろえて並べてあった。飾り棚にはちり一つ落ちていなかった。ゲルトルートが亡くなったあとも、メイドたちは言いつけを守って暮らしているのがうかがわれた。

 ミーナは大広間のさらに奥にある、領主の執務室に通された。そこには十年ぶりに会う義理の兄コンラートが、ふんぞり返って座っていた。

「ウィルヘルミーナ、よく戻ったな」

「コンラートお兄さま。お久しぶりです。まずはゲルトルート奥さまのこと、お悔やみ申し上げます」

 ミーナは一礼をしたあと、心を込めて発言した。嘘っぽく聞こえてはいけないからだ。

「ふん。修道院で、礼儀は覚えてきたようだな。あの野生児が見違えたぞ。だが、母上は、お前なんぞに哀悼の意を表されても、嬉しくもなんともないだろうな」

 コンラートの発言一つ一つから悪意が感じられた。ミーナは、お兄さまも大人になれば少しは優しくなるだろうと期待していたのに、がっかりだわ、と思ったが、顔に出さないように努力した。

「お父さまが亡くなったことをお伝えくださり、ありがとうございました。あとでお墓参りをしたいのですが、よろしいでしょうか」

「勝手にしろ」

 コンラートはぶっきらぼうに言い放った。

「あとお兄さま。立派なご領主になられたそうで。街中の民が噂しておりました。妹のわたしとしても、鼻が高いですわ」

「当然だ」

 コンラートは昔と変わらない、自身たっぷりの笑みを浮かべた。ミーナは、早く結婚が決まってよかった、と思った。この兄とずっと一緒に暮らすと思ったら、耐えられない。ご機嫌とりをしながら暮らすのはまっぴらごめんだと、心の底から感じていた。

「お父さまは、わたしを正式に、養女として迎えてくださったとか。くわしいことを教えていただけますか?」

 ミーナは言葉を一つ一つ、丁重に発音しながら義理の兄に尋ねた。コンラートは、そんなことをいちいち答えなければならないのか、と言いたげな態度を取った。

「もうわかっていると思うが、お前は父上の血を引いていない。父上は死の淵で、あの女とは何もなかったと告白された」

 コンラートは「父上」という言葉を、まるで下々の者が父親を「親父」と呼ぶような、ぞんざいな口調で用いた。ミーナはそんなことを気にするより、お母さまにはきっとお父さまに会う前から愛する人がいたんだわ、と考えて胸がいっぱいになった。

「だが父上はお前のことをずっと気にかけていた。修道院に手紙を送って、お前の様子をうかがっていたようだ。父上の死後、修道院からの手紙がいくつか見つかった。まあ、読め」

 コンラートから差し出された手紙の束には、修道院でのミーナの様子が事細かに記されていた。こんなにまめなやりとりをしていたなんて、ミーナは全く知らなかった。中でも嬉しかったのは、ミーナがまだ幼かった頃、礼拝堂のステンドグラスにまつわる物語をすらすらとそらんじたことを、レオポルトはなんと賢い娘だろう、と思ってくれたことだ。

「晩年は国王陛下の元にうかがって、どこの馬の骨とも知れぬお前をイメディング家の養女として迎える、正式な許可を与えてくださるよう直談判されていた。その甲斐あって、お前は今日ここにいるんだ。せいぜい感謝するといい」

「お父さま……」

 思いかけない養父の優しさに、ミーナは心を打たれた。生き別れた幼い頃から、今日に至るまで、レオポルトのことをどこか恨んでいた自分のことが恥ずかしくなった。

「さらに、父上は、お前のためにいい男を見つけるよう、わざわざこの私に頼んできた。そこで息を引き取った。私は、イェルクが幼いお前を可愛がっていたことを思い出した」

 イェルクの名前が出てきたのでミーナは舞い上がってしまった。コンラートの言葉の節々から感じられるとげとげしいものに、ミーナは全く気づいていなかった。

「赤髭を倒し、戦が終わらぬ限り、イェルクは結婚しないことくらい、わかりきっていたからな。亡くなられた父上には天上で待っていただくことになったが、戦が終わったのちにイェルクにお前との結婚を打診した。イェルクは二つ返事で承諾した」

 ミーナは天にも昇る気持ちになった。足下がふわふわして、今なら空を飛べそうだ。しかし、少し冷静になろうと思い立ち、ミーナはあえてコンラートに釘を刺すことにした。

「ですがお兄さま。そんなに期間があいていたならば、わたしの気持ちを確認してから、結婚の話を進めるべきでした。結婚には男女の愛が必要だと、神さまもおっしゃっています。ええ、わたしは、その、あの、もちろん……」

「お前の気持ちなどどうでもいい」

 もじもじしているミーナに対して、コンラートは冷たく言い放った。ミーナは自分の気持ちをばっさりと切り捨てられて腹が立ったが、義兄の機嫌を損ねて結婚話が台無しになっては困ると思い、笑ってごまかすことにした。

「お前はしばらくここで暮らして、結婚に向けた準備をしろ。式は春の予定だ」

 そう言うと、コンラートは、鈴を鳴らして誰かを呼び出した。

「失礼いたします」

 一人のメイドが丁重に扉を開けて入ってきた。年は二十歳前で、素朴な顔立ちをした、人の良さそうな女性だった。

「ヘリガ、は私の義理の妹、ウィルヘルミーナだ。今日からお前が世話をしろ。たっぷり香油を塗って綺麗にしてやれ。念入りにやるんだぞ、嫁ぎ先から突き返されたら困るのでな」

「かしこまりました」

 ヘリガと呼ばれたメイドはうやうやしく礼をした。

「お前はこれの嫁ぎ先についていくのだ。嫁ぎ先はビルング家だ。わかったな」

「かしこまりました」

 ヘリガは先ほどと寸分違わぬ口調で返事をした。一生を左右しかねない事態でも、口を挟む権利など、少なくともこの城のメイドにはなかったのだ。ヘリガはミーナの側に寄り、そっと背中に手を差し出した。

「さあ、ウィルヘルミーナさま、こちらへ……」

 ヘリガに促されて執務室を出ようとしたミーナの背中に、コンラートは辛辣な声を浴びせた。

「私の元へはもう来るなよ。お前の不細工な顔など、できれば二度と見たくないのだから。おい、ヘリガ。これの顔には、しっかりと化粧を施しておけ」

「かしこまりました」

 ヘリガはくるりときびすを返してコンラートに一礼し、またくるりとミーナの方に向き直り、何事もなかったように執務室を出て行った。


「ウィルヘルミーナさま、こちらがあなたのお部屋です」

 ヘリガに通された部屋は、ミーナが見たことのないような美しい調度品にあふれた部屋だった。天蓋つきの寝台。豪華な取っ手のついた衣装入れ。宝石で美しく飾られた鏡台。据え付けられた鏡にはきちんと扉がついていて、ミーナは安堵した。鏡台の上には、美しい箱が一つ置いてあった。

「何かしら?」

 ミーナは箱を手に取って、そっと開けてみた。そこには、ミーナが、イェルクと出会うきっかけになった、あの思い出の金の鞠が入っていた。ミーナは箱から鞠を恐る恐る取り出した。

 鞠の入っていた箱には、手紙が二枚入っていた。一枚目には『父上がお前に残した財産はこれで全てだ』と書いてあった。コンラートが書いた走り書きだ。もう一枚には『私の天使へ、思い出の品を捧ぐ』と、震えた字で書いてあった。レオポルトが病床で書いたのだろう。

「これがあれば、十分だわ。ありがとうございます、お父さま」

 ミーナは心からそう思っていた。修道院で長いこと暮らしたミーナには、金銭欲も物欲も育ちようがなかった。ただ、美しいものへの憧れがあるだけだった。

「ウィルヘルミーナさま。改めてご挨拶します。わたくしはヘリガと申します」

 素朴な顔立ちのヘリガは改めてミーナに一礼した。

「よろしく、ヘリガ。わたしのことはミーナと呼んでちょうだい」

 ミーナがそう言うと、ヘリガはくすくすと笑い出した。

「お変わりありませんね。ミーナお嬢さま。覚えていらっしゃいませんか? わたくしはあの、泣き虫のヘリガです。いつも、ミーナお嬢さまに慰めていただいた……」

 そのとき、ミーナの脳裏に、幼い頃の光景がよぎった。

 イェルクと出会って少し経ったある冬の日、ミーナが人工の泉の側に行くと、そこにはイェルクと見知らぬ少女がいた。少女はミーナよりいくつか年上に見えたが、子どものようにぐずぐずと泣いていた。

「ここに来たら、ヘリガが泣いているので、困っている。……ああ、ヘリガは、私と同じく奥様の元で働いている奉公人だ。今日は奥様からひどく叱られてな。ミーナ、お前に頼むのもおかしいが、慰めてやってくれないか」

 ミーナは泣いているヘリガをかわいそうに思ったので、クラーラがミーナにそうするように、ヘリガを抱きしめて、背中をぽんぽんと叩いた。

「だいじょうぶよ。ヘリガ。だいじょうぶ。わたしがついているわ」

「あなたは、ウィルヘルミーナ、お嬢さま……」

「そうよ。よろしく、ヘリガ。わたしのことはミーナと呼んでちょうだい」

 ミーナが笑うと、ヘリガもつられて笑い出したのだ。

「あなたは、あのヘリガね。あれからずっとここで暮らしているの? すっかり立派なメイドになって。あの意地の悪いお兄さまに重用されるなんて、すごいわね」

 ミーナはヘリガの手を取って、懐かしそうに言った。

「わたくしはイメディング家に従う騎士の家の末娘で、家に帰るあてもございませんから、このお城でずっと働いております。立派なメイドなんて、ミーナお嬢さま、とんでもございません。今でも侍従長からしょっちゅう叱られております。ですが、ミーナお嬢さまのお世話をまかされるなんて、身に余る光栄です。コンラートさまには、感謝してもしきれません」

 ヘリガは心底嬉しそうに言った。春には慣れたイメディング家を出て、全く知らないビルング家に行かなければならないのに、不安はないのだろうか、とミーナは思った。もしかしたら、いい仲の者がいるかもしれないのに……。

 そこまで考えると、修道院でアラリケから聞いた破廉恥な話を思い出してしまい、ミーナは慌てて首を振った。

「ミーナお嬢さま、いかがなさいましたか?」 

 ヘリガが心配そうに顔をのぞき込むので、ミーナは何でもないわ、疲れただけ、と言った。

「まあ、お疲れが残ってはいけませんわ。疲れは美しさの敵と申しますもの。ミーナお嬢さま、本日はゆっくりお休みください。あとで甘い薬湯を持って参ります」

 修道院では風邪でも引かない限り飲めない薬湯が、疲れただけで出してもらえるなんて、貴族の生活はすごいわね、と、ミーナは思った。ヘリガが部屋を出たあと、ミーナは金の鞠に語りかけた。

「お父さま。ありがとうございます。こんな素晴らしい部屋で暮らせるなんて、ミーナは幸せです。ですが、この幸せをお母さまにも与えてほしかった……」

 ミーナはたまらなく悲しくなってきて、手にした鞠をぎゅっと抱きかかえた。


 ミーナは庭を散策することを許された。レオポルトの墓参りの次に見に行ったのは、幼い頃暮らしていた家だった。残念ながら、その家はなくなっていた。その次に見に行ったのは、あの人工の泉だった。泉の側には、昔と変わらず大きな木が一本立っていた。ミーナはこの木の側でイェルクに思いを伝えた日のことを思い出した。イェルクもきっとそのことを覚えていてくれたに違いない、とミーナは思った。

 食事はヘリガと二人で食べた。毎日毎日、見たことのないようなごちそうが出て、ミーナはびっくりした。修道院の食事も決して粗末ではなかったが、修道院では数えるほどしか食べられないような、ガチョウのマルメロ詰めやアヒルのドライフルーツ詰めが毎日のように出るのだ。

 毎朝ヘリガはミーナに化粧を施した。初めて化粧した自分を鏡で見たとき、ミーナは意外と悪くない、と思った。肌はわずかに赤味のさした白になり、目はぱっちりと大きくなり、微笑むとクラーラの面影が現れた。幼い頃に思い浮かべていた、大人になった自分の姿がそこにあった。

「これなら、イェルクさまに会っても堂々としていられるわ」

 ミーナは安堵して、もう一度鏡に向かって微笑んだ。

 夜にはヘリガがミーナの身体を香油で清めてくれた。二月ほど経つと、修道院暮らしで荒れた手肌はなめらかになり、ぼさぼさの赤毛はつややかになった。

 こうしてミーナは生涯で一番贅沢な暮らしを楽しんだ。ただ、そのときのミーナは、ビルング家でもっとよい暮らしができると思っていたのだが。

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