第5話:愛のもとで
さらに一年が過ぎた。ミーナは十四歳になっていた。十五になれば、正式な修道女になれる。その前に、院長に対して、神に身を捧げる誓いを立てるしきたりがあった。
口減らしで修道院に預けられた農民や町人の娘たちのほとんどは、自分の運命を疑うことなく、誓いを立てて修道女になった。なかには、妻を亡くし、子を抱えた男の再婚相手となるために修道院を出た娘もいた。修道院で育った娘ならよき母親となるだろう、と期待されているのだ。
花嫁修業のために預けられた貴族の娘たちは、既に修道院を出ていた。アラリケの取り巻きは一人もいなくなっていた。残されたのは、商人や騎士や貴族の、長女ではない娘たちだ。そんな娘たちは、いつか親が迎えに来る、素敵な男性が迎えに来ると信じては疑い、悩み苦しみ、やがて修道女となる運命を受け容れた。
ただ、貴族の末娘であるアラリケは悩み続けていた。毎日、修道院の門の前で親からの手紙を待ち続けているアラリケを見て、ミーナはもう諦めればいいのに、と思っていた。
しかし、そんなミーナも、修道女になる決心がつかなかった。イェルクのことを待っているからではなく、自身に修道女の適性がないように思えたからだ。
その頃、修道院で暮らす娘たちに、新たな役割が与えられた。それは、戦いの激しい北部から避難してきた人々の世話をすることだった。北部ではデゼルタ国や蛮族どもとの最終決戦が繰り広げられていた。戦火は近くの村にもおよび、領主は領民に、村に火を放ち、捨て置くよう命令した。民は、泣く泣く村や畑に火を放ち、涙を流しながらこの修道院まで逃げてきたのだ。この修道院に逃げてきたのはビルング領の民だった。ミーナは驚いた。そんなむごいことを、イェルクのお父さまが命じたのか、と。
ビルング領からの長く辛い旅路で、病気になったり、けがをしたりした人がたくさんいた。ミーナは院長の手伝いで薬草の知識を得たので、そうした人たちの看護をするよう、院長直々の命が下った。
ミーナは張り切って薬を調合しようとしたが、頼まれたのは病人の身体を拭いたり、けが人に包帯を巻いたり、食事の介助をしたりと、薬の知識がなくてもできるようなことだった。しかも、そういうことはミーナにとって不得手だった。病人の身体を拭くのに手間取り、けが人に包帯を巻けば緩すぎてほどけ、食事を病人に与えようとしてはこぼし、修道女たちから毎日のように叱られていた。ただでさえ自分に自信のないミーナはますます自信をなくし、自分は修道女にさえ向いてはいないんだわ、と、嘆き悲しんでいた。
そんな日々が長く続き、春になった頃、ミーナは一度倒れた。寝台で目覚めたミーナは、丈夫な自分がどうして倒れたのだろう、と不思議に思った。倒れたときに運悪く、頭を強く打ったようなので、ミーナはしばらくの間休むよう命じられた。
ミーナが再び仕事に戻った日、礼拝堂で過ごしていた避難民は歓喜に沸いていた。病人やけが人たちまで、まるですっかり元気になったように騒いでいた。
「まあ、皆さん。そんなにはしゃいでは身体に障りますよ。一体何があったのですか?」
けが人の一人がミーナの手を握りしめてこう言った。
「娘さん、勝ったんだよ。我々リタラント国の勝利だ!」
別のけが人がもう一人の頭を嬉しそうにぐしゃぐしゃにしながら話を続けた。
「あのいまいましい蛮族どもが逃げていったんだ! それで、デゼルタの連中は戦う気をなくして、和平を求めてきたって」
けが人たちの間に、健康な避難民も集まってきて、口々に話し出した。
「和平って、そんな簡単に許しちゃっていいのかい? だってもう何十年も戦ってきたんだろう?」
「そうだそうだ。あいつらのせいで、俺達は村に火を放って逃げてきたんだぞ!」
「あたしゃもう、争いはこりごりだよ。何人の子や孫を、兵隊に取られたと思っているんだい!」
「そうよ。もう、こりごりだわ。村を焼いて逃げるなんて、こんな辛い思いを、これから生まれてくる子どもにさせたくない……。」
「デゼルタの連中は、国境の銀山を、リタラントに明け渡すって約束したらしいぜ」
「何だって、銀山をくれるって? 銀山ってあいつらが見つけたんだろう?」
「あいつら、銀山で得た富で、蛮族の野郎どもを雇ったんだろ」
「そんな銀山をくれたってことは、この国に、ものすごいお金が手に入るってことだろう? すごいな!」
「仕事だって手に入るぞ! なにせ、銀山は我らがビルング領のすぐ側にあるんだからな」
「おらあ、銀山で働く。そしてお金をたっぷり稼ぐ! そしたら、ご先祖さまから引き継いだ畑に、また苗をたくさん植えるんだ……」
「そうだ。建物は建て直せばいい! 畑はまた耕せばいい! 俺達は生きているんだ! 生きている限り、やり直せるんだ!」
人々は手を叩いて抱き合い、笑い合い、また、涙を流していた。けれどミーナは、単純に喜んでいるわけではなかった。この長い、永遠に終わらないような戦いが終わったのね。戦いが終わったら、イェルクお兄さまはどうするのかしら?
ああ、嫌だわ。浅ましい。ミーナは首を振った。
「娘さん、どうしたの? こんな時に具合でも悪いのかい?」
「そういえば、最近見かけなかったね」
ミーナが世話していた病人たちは、心配そうにミーナの顔をのぞき込んだ。ミーナは無理して笑顔を作り、心配いりません、と言った。
「それじゃ娘さん、聞いてくれよ。我らが英雄、イェルク様の話を」
先ほどミーナの手を握りしめたけが人が、誇らしげにこう言った。
「イェルク様は、あの憎き赤髭を討ち取ったんだ。娘さんも聞いたことくらいあるだろう? 悪名高い赤髭の話を。ビルング家は赤髭のせいで三人の息子を失った。敵討ちのために生まれたイェルク様は、ご自身の使命を果たされたんだ!」
ミーナの胸に、様々な思いが去来した。イェルクが使命を果たしたことへの喜び、自分がイェルクと釣り合わないという悲しみ、イェルクはもう自分のことなど忘れているだろうという諦め、いくら忘れようとしても、イェルクのことを忘れられない自分への怒り……。
「まあ、素晴らしい話。皆さん、さぞかし嬉しいことでしょうね」
震える声でミーナが話すので、病人たちは修道女を呼んで、この子を休ませた方がいいと言った。
それからしばらくたち、季節は秋を迎えた。十月生まれのミーナは、まもなく十五歳になろうとしていた。
「まだ決心がつかないの、ウィルヘルミーナさん。もうあきらめたらいいでしょう? あなたにお迎えはきやしないわよ」
修道院の門の前で手紙を待っていたミーナを見て、アラリケはいつもの意地悪そうな口調で言った。
「アラリケ、あなたこそ、いつまでご両親からの手紙を待っているつもりなの? あなた、生まれた頃から修道女になれって言われて育ってきたんでしょう?」
ミーナも意地悪く言い返した。
「あら、あなたこそ修道女になるのにふさわしいわよ。院長先生から、ずいぶんいろいろなことを教わったのでしょう? 院長先生は、昔から、あなたに目を付けておいでだわ。それを裏切るおつもりなの?」
それを言われると、ミーナの心は痛んだ。薬草の知識、薬湯の作り方、一向にうまくいかなかったけど、包帯の巻き方などなど。院長先生に教わったことは枚挙にいとまがない。
「アラリケこそ、副院長先生に、ずいぶん手をかけていただいて。喜んで、修道女におなりなさいよ……」
ミーナはそう言い返すので精一杯だった。
そうこうしているうちに、飛脚が手紙の入った袋を持ってやってきた。運ばれてきた手紙を修道院長の元へ届けるのも、ミーナの仕事の一つだった。これは最近ミーナ自身が志願したのだ。ミーナは手紙の束を見て、息をのんだ。そしてそれが、アラリケにばれていないことを望んだ。なぜなら手紙の束の中に、コンラート・イメディングと書かれたものを見つけたからだ。
(コンラートお兄さまからだわ……。でも、なぜお兄さまから? お父さまはどうなさったの? この手紙、何が書かれているの?)
ミーナはくるりときびすを返して、修道院の中に戻っていった。
「わたし宛の手紙があったら、院長先生に渡さないで、わたしの元へ届けなさいよ!」
アラリケの声はミーナの耳に届かなかった。仮に届いていたとしても、そんな言い分を通すわけにはいかないのだが。
「ミーナ、これから話すことをよくお聞きなさい」
院長は厳粛な顔をしてミーナに声をかけた。ミーナは姿勢を正して院長の言葉の続きを待った。
「本日、あなたのお兄さまからお手紙が届きました。先に目を通させてもらいました。内容を簡潔にお話しします」
基本的に、修道女も娘たちも、届いた手紙を受け取ることはなかった。世間から隔絶されたところで神の言葉だけに耳を傾けるというのが、修道院で暮らす者の決まりだったからだ。ただし、重要な手紙だけは、院長などから口頭で内容を伝えてもらえるのだ。
「まずは……あなたのお父さまが亡くなられました」
「お父さまが、亡くなった……。そんな、どうして?」
ミーナは思わず院長に声をかけてしまい、慌てて口をつぐんだ。
「この手紙に書かれたことから推測するに、どうやら長いこと伏せっておられたようです。亡くなられたのは、一昨年のことだそうです」
ミーナは足下がふらつく思いがした。修道院で暮らしていたら、そんな大事なことさえ知ることができない。ゲルトルート奥さまがわたしを修道院に入れたのは、お父さまから完全に切り離すためね。そう思うと、悔しくて、悲しかった。
「お父さまは遺言で、あなたを正式な養女として、イメディング家に呼び戻すよう、息子のコンラートさまに命じられたそうです」
「養女、ですか」
その一言で、ミーナの疑惑は現実のものとなった。ミーナはレオポルトの実の娘ではない。ミーナに流れる血の半分は、誰のものだかわからない。わかりようがないのだ。それはミーナを絶望の淵に落とすのに十分な事実だった。
「辛いでしょうが、気を落としてはなりません。お父さまも悲しむでしょう。あなたは光の子です。決して希望を捨ててはなりません」
その手紙にどこまでの事情が書かれているのか、院長がどこまで知っているのか、もちろんミーナは知らないが、光の子、という言葉はミーナにとって単なる慰めでもなく、お説教でもなく、確かに希望を与えた。
「わかっています。院長先生、わたしは光の子です。今すぐには、無理ですが……きっと希望を捨てずに生きていきます」
そうよ。わたしは光の子。クラーラの娘だわ、とミーナは思った。クラーラという名前には、光、という意味があったからだ。
「生と死はつながっています。生ある者は、光の下から生まれ、亡くなった者は、光の下へと帰るのです」
院長先生のお言葉は、ゲルトルート奥さまからすればとんでもない皮肉だわ。だって、お父さまは、クラーラお母さまのところへ帰ったってことでしょう。ミーナは不謹慎なことを考えた。そして、ふと思った。あの奥さまがいる屋敷に帰るのか、と。
幼い頃から、ミーナはゲルトルートを嫌っていたが、同時にうらやましいとも思っていた。イメディング城の立派なお屋敷で、美しく着飾り、時に舞踏会を開き、優雅に暮らしていた奥さま。わたしもそんな暮らしがしたい。美しい服を着て、ダンスを踊り、暖かい暖炉の側で優雅に微笑んで過ごしたい。そんな暮らしを、何度夢に見たかわからない。そして、その側にはいつも、あの人がいた……。そこまで考えると、ミーナはふと現実に戻った。
「それで、兄はわたしに戻ってこいと申しているのでしょうか。兄はわたしを嫌っておりました。奥さまも……」
院長は粛々と手紙の内容を語り続けた。
「コンラートさまはあなたに戻ってくるよう望んでいらっしゃいます。たとえ養女であっても、あなたはイメディング家の相続権のある子どもであり、たった一人の妹だとおっしゃっています。それと、イメディング夫人は数年前に亡くなられたそうです」
「そうですか。お気の毒です」
ミーナは目を伏せた。この言葉に嘘はないつもりだった。優しかったお母さまなら、ゲルトルート奥さまが亡くなったとき、きっと涙を流すだろうと思ったのだ。
「あと一つ、とても大切な話があります」
修道院長は、ミーナが今までに見たことのない柔和な微笑みを浮かべてこう言った。
「ミーナ。あなたの結婚相手が決まりました。お相手は、ビルング家の次期当主、イェルク・ビルングさまです」
その瞬間、ミーナは目を弓矢で射られたような思いがした。何年もの間すすけていたミーナの世界に、明るい愛の光が差した。
「おめでとう、ミーナ。あなたはこれから、人の愛のもとで生きるのです。あなたのお母さまは、愛という意味を込めて、あなたに名前をつけたのですから」
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