無知の知をしてみる

机に置いといたコーヒーを見る。


「分からない」


私はコーヒーの育て方も淹れ方も知らない。すべてを誰かや機械に任せているから。しかし私はコーヒーを飲むことができてしまう。分からないことを謎のまま放置しても、おいしくコーヒーを味わえる。


「分からない」


私は机の作り方を知らない。木の切り方も、加工の技術も、使う道具も何もかも。でも、私はこの机を使うことができている。この家に住むことができている。この町に暮らすことができている。別に知らなくても良い。


卓上の小学生の算数ドリルを見る。


「分からない」


もちろん、そう宣言したところで、この算数ドリルを完璧に解ける事実は変わらない。このとき、私の頭は問題と、勉強する私と、解答の3点以外しか認識していない。例えば6+6=12には何の疑いもない。


「分からない」というカオス理論の呪文は狭量な認識を滅ぼす。12個で1ダース、10円玉1枚、9人で1バッテリー、8音で1オクターブなど。n≠mかつn=mが成り立つ寛大な認識は社会中に蔓延っている。


n≠mかつn=mがΦになる数学における絶対の約束を守らないと、私は小学生の算数すら解けない。今までどうして自分が算数の問題を解けるのかなんて考えたこともなかった。


「分からない」


今度は特に何かを見てはいない。きょろきょろ首を、ぐるぐる頭を回して「分からない」の呪文で生まれた謎を探す。何かを見つけては言葉に変換する。そうやって人は新しい認識を見つけていくのだ。

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