刺激ではないもの


用事を済ませて建物を出たら雨は止んでいた。さっき忘れかけた傘を右手に振りながら歩く。バス停について、待って、乗って、窓外を眺める。赤信号の時には歩道の人を一方的に観察した。


私からは観察されているのに、恐らく向こうは気付いていない。それが何となく後ろめたかったけれど、別に窓枠についた頬杖を片すほどではなかった。


じーっと観察する。大通り脇の小路から出てきた自転車の女性二人が横に並んで歩道の半分ほどを占めている。


私が彼女らを観察していることと、彼女らの道路交通法違反はどちらがより怒られるべき行為なのだろうか。


もしこの場面で私がバスの窓を開けて「こらー!歩道で並列走行するなー!」って彼女らを怒鳴ったら・・・やばいよね。


何もせず何も起きずにバスは動き出して私が彼女らを観察していた事実も置き去りにする。私が取りに戻らぬ限り、時間に分解されて消える。何故かほっとして、頭が要らぬ方向に回り出す。


私はなぜ彼女らを観察していたのだろうか。特に理由も前文脈もなく、ただそこに彼女らが居たから観察していただけ。「彼女らが居る」という刺激にたいして「観察」という行為で応答しただけのこと。


刺激と、応答の関係は動物だけでなく植物にも、物理的現象にすら見つけることができる。刺激があれば応答があるという法則は世界の根底を流れていると言っても遜色ない。


刺激は応答を誘い、応答が別の応答への刺激になる。そうやって人類が現代文明を築くまでの歴史はある程度の必然を繰り返してきた過程の先にある。


すべての応答には刺激がある。その刺激はまた別の刺激への応答である。刺激の前の刺激の前の刺激の・・・と遡っていくと「起源の刺激」の概念に辿り着くのは必然の応答。


そもそも、一切の刺激がない世界などあるのか?


インド神話は初めからすべてが存在していて、そこに人間の認識による区別が介入するという説。近代ドイツの哲学者ニーチェにも共通している。


ギリシア神話は初めに混沌があり、神が混沌を整理する様子が創世記に描かれている。


聖書の説は「光あれ」という無からの世界誕生。しかし「神」という刺激以前の世界の記述はない。


詰まった。ちょうどバスを降りる。それまで車体に防がれていた夜風が冷たい。


あ、今の私は分かりやすく刺激に応答した。冷気を含む風という刺激を私が認識して、「寒い」感覚を言語化する応答が引き起こされた。


応答は刺激を認識することで初めて発生する。「暑い」も、「快適」も、「寒くない」といった言葉も、すべて気温という刺激に対する応答の産物だ。


認識できる対象を一般に刺激と称するならば、「刺激でないもの」は認識することができない。


古くからの書物には、刺激のない世界の記述がない。「刺激でないもの」は認識できないし、認識できないものは言葉に出来るわけがないからだ。


古代の思想家や哲学者は悩んだと思う。世界の始まりに、どんな説明をつけてしまおうか。とても困って、困り果てた末に彼等は「刺激の起源」を仮置きし、「神」と名付けた。


神によって世界が作られた。そして神は最初から存在していた。神のいない世界など存在しなかった。とすることで、記述できないものをどう記述するのかという問題を回避・先延ばしした、というか、解決は無理と結論して考えるのを止めたのだ。


・・・無神論者の人に聞いてみたいものだ。あなたらは「刺激の起源」の存在を排除してどうやって世界の始まりを説明するのか。きっと困って窮するにちがいない。


現代日本に蔓延る無神論は1つの帰納に過ぎない。科学主義の威を借るキツネなのだなぁ。


ともかく、「刺激の起源」が登場する以前の世界は私たちには認識することも記述することもできない。その事実をどう受け止めるのかは、そしてその事実を基に世界をどう理解するのかは、もはや個人の好み次第なのではないかとすら思う。


で、なんの話だったっけ。ああ、そうそう。人類は「刺激でないもの」を言葉にすることを諦めた。文学で描けないものとは、刺激ではないものなので、如何なる言葉をもってしても描けないものなのだ。その輪郭以上にくっきり記述する術は、無い。

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