第2話
彼女は、次の日平然と大学に来ていた。「生化学の講義は出席しないとテストの点数から差し引かれるから」と彼女は言った。
圭介は槍を彼女に差し込んで、血を流しているところをよそにそのまま帰宅したのだった。怖くなって、思わず目の前の惨状を無視してしまった。思えば、圭介の人生にはそういうのしかなかった。
彼女は体にいかなる傷もなく、そしていかなる動揺もなかった。圭介の方が動揺していた。変わらないものはあると、彼女はホートンを手に持って言って、普通にその日の化学の内容を読み始めた。
圭介と彼女はいつも隣の席に座っていたのだった。
「生化学は変わることの学問だね。常に不均衡でそれゆえに均衡を保つ。生命というのは不可思議だね」
「当たり前のことだよ」
まもなく講義が始まって、壇上の雪村先生が話し始めた。本日の内容は解糖系の詳述である。
「したがって、リンと周期表で同属にあるヒ素を人間が取り入れた場合は、グリセルアルデヒド3-リン酸デヒドロゲナーゼとヒ素化合物が体内で競合する。ATPが生じうる反応を迂回するようになるため、体内はエネルギー枯渇の状態になるわけだ」
雪村先生の醜い声が説明する。雪村先生は、口の周りが常に汚いので学生からは「カビゴン」と呼ばれている。部屋の先頭に座っている非常に意識の高い学生を除けば、雪村先生の言葉に誰よりも耳を傾けていたのは圭介だった。
講義終わりに、圭介は醜い雪村先生に声をかけた。他の意識の高い学生がするような、学問への欲求に動機付けられたものではない。講義で聞いたヒ素がどのような機序を持つか尋ねるためだ。
「それは人とは異なる……何か神話的な存在にも作用しますか?」
雪村先生は学生から聞かれた時によく使う「それくらい自分で調べなさい」という言葉を言おうとして、手で口を塞いだ。
「ふざけるんじゃない。何を言っているんだ?」
雪村先生は、オタクのような匂いを鼻息とともに放った。
「すいません、人間以外にヒ素がどのように効くか知りたくて」
「では講義の最中に話した作用機序を思い出しなさい。同様の代謝経路を持つ生物におおむね効くはずだ。例えば、魚類や哺乳類には効くだろう。環境問題になっているから、その辺りは来期に大橋先生の環境学入門を取って見るのもいい」
「しかし……そういう環境問題の話をする時、しばしヒ素が"蓄積する"といいます。それは生物ごとにヒ素への耐性が異なることを示しているかのように思われます。同一の作用機序と代謝を持つならば、このような差異はどのような生理学的性質に基づいているのでしょうか」
「単純に生物の大きさやヒ素をどのような形で取り込むかという側面も関わってくる。中にはトランスポーターを用いて、細胞内にヒ素を取り込むことで無害化を図る生物もいる。一種の線虫がそうだ」
圭介はあえて彼女と別行動で帰って、帰り道にクリエイトに寄った。そこでヒ素とコーヒー牛乳を購入した……。そして彼女の家を訪ねて、コーヒー牛乳を差し出す。
「今度は毛色がやや異なるみたいだね。そういうのは悪くないと思うよ」
彼女はヒ素の入ったコーヒー牛乳を飲み干した。飲み干した時、首がコーヒーに合わせて蠕動したのでエロかった。
彼女はそれが全く効いていなかった。これ見よがしに口の中を開ける。ちゃんと飲み干したよ、というある種の勝利宣言が圭介には虚しく響いた。
「もしかして、本当に確かなものなんてヒ素の中にもないんじゃないかって思ってる?」
「そういう感じ」
「種明かしすると、私は解糖系がそもそもあるタイプじゃないんだ。血液型が違う人間の血を輸血できない。そのように、そもそも違うタイプの生き物に毒は通じない」
「そのたとえは人間的すぎるんじゃない」
「そうかもね」
すると、手元に槍があった。この槍を彼女に撃ち込ないといけないと思った。圭介は彼女の腹の中に、槍を滑らかに差し込んだ。それでも、彼女は死んでなどいなかった。血さえ吐き出ることはなく、そこには粘土質の肉体があった。
押しても押してもなんの抵抗もなくするっと飲み込んでいく体。そこには人間らしいものの性質がなかった。
「実は、以前吐き出した血液も偽物なんだ。ごめんね、嘘をつきたくなかったんだけど、血が噴き出ることもなかったら逆に不安かなと思って」
気遣いで血を出していたことでいっそう腹が立った。「そんな変わりやすいもの」で、殺意を納得していた自分のことにもだ。圭介は馬鹿らしくなって、槍を上に持ち上げた。顔が半分に切れる。しかし、彼女は話し続けて、こう言った。
「今度はもっと直接的な方向性でアピールした方がいいかもしれない。就活生がそうするように」
「次はもっと良いことを考えるよ。こんなのただのごっこ遊びだ」
気がつけば彼女は元の姿に戻っていた。
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