聞こえてきた声

 目を開けた時、身体は勝手に動いていた。服を引っ張って、引き留めようとするアステシアの静止も無視して、旭は走り出す。人気もなくなった古書館に息苦しく呼吸する音と、床を叩く靴の音。そして、耳を塞いでしまいたくなるほど痛々しい悲鳴が響く。

 きっと、その声で旭以外のクラスメイトも気がついただろう。でも、その声が響くよりも前に、旭は駆け出していた。



(なんだ……なんだよ、これ)



 どこからとなく耳をさす助けを求める声も、なぜこの身体は動くのかも、この張り裂けそうな胸の痛みの正体も、旭は分からない。旭が初めて感じた痛みだった。傷なんてないのに、ズキズキと痛む。



(分かんねぇんだよ、全部……お前は、俺のなんだ?)



 旭にとって、モニカ・エストレイラという存在は、一体何なのか。何度も自問自答するが答えはない。たまたまノーチェスに来て、たまたまバウディアムスで出会った、なんでもない存在のはずだ。すべて偶然だったはずだ。

 だというのに、何かがおかしい。旭にとってモニカは、ただの知る人にすぎない。ただのクラスメイト。



(ただの……)



 そう考える度に胸が痛む。心が、傷ついていく。



(なんなんだよ、もう!)



 聞こえてきた声はどんどん胸の中で大きくなっていく。膨張し、広がって、抱えきれないほど大きくなる。

 それは、旭が初めて抱く感情だった。たった一つの大切なものを、大切な人を助けたい。救いたいという、実にくだらない感情だ。でもきっとそれは、今までの旭なら、抱くことのなかったものだ。

 ノーチェスへ来て数ヶ月。モニカと出会って1ヶ月と少し。たったそれだけの間に、旭は変わった。変えられてしまった。



(俺は……俺は――!)



 正しい道理なんてない。人は不合理、非倫理、利己的だ。人の為す善は、すべて偽りにすぎない。でも、それでも。

 旭の目に映るモニカは正直で、誠実だった。いつだってモニカは、時分の中の「最良」を選択していた。だから、モニカは躊躇無く自分を犠牲にできる。それが「最良」だと思っているから、相手が例え伝説の神獣、「九尾の狐」だったとしても、躊躇いなく犠牲になるだろう。

 だからきっと、モニカはこれからたくさん傷つくだろう。モニカ自身の正直さと誠実さによって、傷つけられてしまう。



(俺は、お前の手を取りたい!)


「助けて……旭……」



 なら、そんなモニカを誰が助けてあげられるのか。誰が手を差し伸べられるのか。自ら傷つき、偽善でも救おうとするモニカを、誰が支えるのだろうか。


 声が聞こえてくる。その声のする方へ、身体は勝手に動いた。その理由はもう分かる。



「あぁ、もう大丈夫だ」



 でも、その感情を言葉にするのは、またいつか。



「……あったかい」


「俺がいる。安心しろ」


「…………旭」



 旭の声を聞いて安心したのか、モニカは旭の胸に顔を埋めて、ゆっくりと力を抜いていく。胸の辺りでモニカがもごもごと口を動かしている感触がした。でも、言葉にもならないほどの小さな声で、聞こえはしない。



「……ありがとう」

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