焔の心

 時間の流れが異様に遅く感じる。たった数秒を、無限にも思えるほど引き伸ばして、感覚だけを研ぎ澄ます。全神経を集中させて視覚の情報、風の流れまで、この戦場のすべてから「次」を予測する。



「︎︎‪”‬呪層じゅそう怨天おんてん‪”‬」



 肌がぴりぴりと刺激される。何かが来る、という直感だけを頼りに旭は八重の妖術を巧みに躱す。



「ははっ! いいぞ小僧、もっと避けてみるか?!」



 その度に八重の気分が狂気へと変化していく。かつて捨てた本来の姿を取り戻したように、八重は楽しそうに旭を追い詰めていく。

 戦局は一進一退……などではなかった。八重に対して攻撃手段を持たない旭は逃げることしかできない。近づくことも許されず、牽制も意味をなさない。八重に向かって放たれた焔は虚しく空に飛んでやがて消えてなくなる。



「くそっ!」


「当たらぬと、何度も言っているだろう」


「ズルだろズル!」


「ズルくても構わぬさ。妾はこの子を取り戻せればそれでよい」



 辺り一帯は妖気で満ち溢れている。深い海の底に沈んでいくような感覚に包まれる。この世のものとは思えない不思議な感覚がする。気を抜いてしまえば、そのまま海の泡となって消えてしまいそうな気さえしてくる。



(何か……あいつに、一撃でも与えられれば……!)


「‪”‬呪層じゅそう炎天えんてん



 青い炎で空が華やかに彩られる。藍の空、紅い焔と青い炎。見惚れてしまうほど美しいその光景を目にすることができたのは、その場にいた4人だけだった。



はできた。あとはあいつに食らわせてやるだけだ)



 旭は戦場の一瞬の隙を見定める。禍々しい妖気と妖術、青い炎が飛び交う戦場で、旭は一筋の可能性に目を向けていた。チャンスは1度きり、失敗は許されない。成功する確証もない。正直に言ってしまえば、旭はもう諦めてしまいたいと思っていた。



「なぜじゃ小僧。お主が、そこまでして戦う理由はなかろう。早う諦めろ」


「あぁ……ほんと、なんでだろうな」



 答えは明白だったのに、旭はへらへらと笑って返事を濁した。この感情、行動。旭のすべてが、八重の話に出てきた男と重なる。そのことを、旭は自分でもおこがましく感じていた。



(そんなんじゃない。俺は、その人ほどできた人間じゃない……けど)


「白旗でも上げれば、ここで見逃してやるぞ」


「バカ言うな。ここで俺が諦めて、お前が狐と帰っちまったら……」



 だが、一つだけあの男と同じことがある。



あいつエストレイラが泣くだろ」



 八重は最初から分かっていた。分かっていた上で、旭と最後に戦おうとしたのだ。認めたくなかったからではなく、自分自身に認めさせるために。



(……ようやく、お主と同じ心を持つ者が現れたよ)



 旭は、戦うことができる。これは、八重がそれを認めるための戦いだ。



「次で終わらせる。覚悟はよいか」


「とっくにしたさ。もう十分だ」



 旭が紅い焔を身に纏う。赤く、紅く、更に紅く。焔は煌々と輝くように燃えている。八重は目の前の焔の熱さを感じれないことを悔しく思いながら、最後の一撃を放つ。



「‪”‬殺生せっしょう炎天えんてん‪”‬」



 今にも空へ溢れてしまいそうなほど充満していた妖気が一気に凝縮されて、八重の指先に集まる。グルグルと目まぐるしく渦を巻き、それはやがて炎の形を成す。

 八重が指先で踊るように揺蕩う炎に、ふっと息を吹きかけたその瞬間、旭の視界は地獄に変わった。辺りにが青い炎で囲まれる。もしかしたら、神精樹すら傷つけることができるかもしれないと感じるほどの妖術だった。



「決して触れるなよ。その炎は万物を殺すぞ」



 広範囲に散らばった青い炎が、音も立てずに燃えている。広がるわけではなかったが、旭の頭は1つ、嫌な予想をしていた。そして不幸にも、旭の嫌な予感は的中することになる。



「‪‪”‬‬獄蝶‪”‬」



 鮮やかな朱色の羽を羽ばたかせて、獄蝶が青い炎に向かって飛んでいく。ぱちりと、青い炎と獄蝶が緩やかに接触した瞬間、獄蝶は塵となって消えてしまった。



「‪”‬焔‪”‬……!」


「まだやるか、小僧」


「障害物が増えただけだろ。どうせやることは変わらねぇよ」



 旭が賭けるのは一筋の希望。か細いが、確かに感じる事ができる、この状況を打破する唯一の逆転の一手。焔を盾にして、青い炎の地獄を旭は突き進む。ゆらゆらと獲物に狙いを定める青い炎をかいくぐ。

 旭は希望を手にした。



「あ、旭君……?」


「狐は!」


「わ、私に何か用ですか」


「一瞬でいい。手を貸せ。お前が巻き込んだんだ」



 ソラは何も答えなかった。しかし、コクリと大きく頷き、旭の腕を伝って慣れたように肩に乗る。その行動がすべてだった。

 ソラが旭の肩でじっと心を整える。ただ集中しているだけのように思えたが、そんなはずはないと、八重は手の内を探るため、旭に言葉を投げかけた。



「……何をするつもりじゃ」


「気になるなら撃ってこい。教えてやるよ」



 明らかな煽りに、あえて八重は乗った。憎たらしく笑みを浮かべている旭目掛けて、妖気を集め、凝縮し、八重の指先の一点に集中する。



「‪”‬殺生・炎天‪”‬」



 それは、正しく災害と呼ぶのに相応しい力だった。文字通り指先一つで地獄を作りだす。希望も、一切の温情もない。伝説の神獣の名に何一つ偽りはない、天災てんさいそのものだ。

 だが、旭はその天災に真っ向から立ち向かう。元より逃げる、などという選択肢はなく、前を向くしかない状況だった。



「いこうか、‪”‬焔‪”‬」



 旭の後ろには、モニカがいる。退くわけにはいかない。この戦いに、旭の求めるものはなかった。旭がずっと囚われていた「復讐」の2文字はどこにもない。ただ、の戦いだ。



「お前は、ずっとこうなることを望んでたんだろ」



 その言葉に呼応するように、一層焔が熱くなる。



「心配すんなよ、エストレイラ。俺が全部護ってやるから」



 ソラを、モニカを。2人の過ごす日常を。その笑顔を。全部、全部。


 青い炎が旭の目の前まで接近する。熱くはない。ただ、背筋を伝う直感が、旭の脳に「死」を伝えている。そのことを理解しながら、旭は避けようとしなかった。



「飲め、‪”‬焔‪”‬」



 青い炎を包み込み、紅い焔が鼓動する。眩しくて、目をつぶってしまいたくなるほど輝かしい焔が青い炎を喰らう。拮抗し合う炎と焔がぶつかり合い、消滅し、結合を繰り返す。やがて、青い炎と焔はお互いに消滅して跡形も残さなかった。



「……奥の手もその程度か」



 呆れたように溜息をつき、八重が緊張を解く。その一瞬を、旭は逃さなかった。



「‪”‬呪層・炎天‪”‬ッ!」



 禍々しく輝く青い炎が空を舞う。旭の放った青い炎が天に衝撃を刻む。八重がいた場所では黒煙が上がって様子を確認することができない。決したように思われた勝負だったが、旭は一切集中を切らさなかった。



「‪”‬殺生・怨天‪”‬」



 黒煙から顔をのぞかせて、八重の姿が見えた一瞬に、万物を殺す紫黒の刃が旭に向かってくる。だが、回避はもう間に合わない。真っ直ぐに八重の方を向いて、熱い焔を滾らせる。



「いくぞ、真っ正面から受け止めろ!」


「来るがいいまがい物! 半端なお主がどこまでやれるのか、この私に見せてみよ!」



 旭の心に灯り、復讐に燃えていた焔が白い煙を立てて消える。



「‪”‬焔・炎天‪”‬ッ!」


「‪”‬殺生・狂乱きょうらん‪”‬!」



 そして、焔の心は目覚める。紅く燃えていた焔は、煌炎こうえんとなって闇を照らす。辺りの妖気を大量に喰らって、ノーチェスの空を覆っていた天蓋てんがいをつき破る勢いで八重に放たれる。

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