第五話:麗しい彼女 下



 朝起きてすぐに異常に気が付いた。

 やけに身体が熱くて重い。鼻は詰まっているし聞こえ方も耳に膜を張られたみたいにおかしい。喉と頭が痛くて意識もぼやけている。

 さらに息苦しくて、目を開いても視界がぐわんぐわんと揺れて見えた。


 十中八九風邪だ。

 原因は考えずとも昨日の夜だと分かる。全身濡らしたまま雨の中一時間近く歩き回っていたのだからこうなるか。

 でも漆茨さんは大丈夫だろうか。彼女の傘は壊れずにいたけど、どこまで彼女を守ってくれていたかは分からない。僕ほどじゃないにせよ結構濡れていたはずだし。

 でも今は人の心配をしている場合じゃないか。

 考えるのを止めると意識が途切れた。

 


 次に目が覚めた時にはすでに午後の五時を回っていた。

 言うまでもなく学校は欠席扱いになっているだろう。途中で学校を休むかどうか母さんに聞かれたような気がするから、それが夢じゃなければきっと連絡は入れてくれているはずだ。


 いつの間にか枕元に置いてくれていたスポーツドリンクを飲むと少しさっぱりした。

 体温を測ってみると三十七度六分。これでも下がったのだろう、もう目眩もしないし五感もちゃんとして意識もハッキリしている。


 このままよくなってくれるといいけど。

 そう思っていると部屋のドアがノックされた。

 母さんだろう。


「柊一郎、起きてる?」

「起きてるけどどうしたの?」

「友達がお見舞いに来てくれたわよ。話せそう?」

「全然大丈夫だけど……」


 友達?

 心当たりがあるのは鞠寺君くらいか。でも、僕の家の場所って教えてたっけ。

 いや、元からここにいた僕が教えていたのかもしれないか。シュウ、アッキーなんて呼び合う仲ならなおさらだ。

 あれ、でも昨日の電話で母さんは僕に友達がいることに驚いていたような。

 じゃあ誰だろう。

 答えが出る前にドアが開いた。


「あんた本当に友達いたのね。しかも凄く可愛らしい」


 そう呟く母さんが招き入れたのは「漆、茨さん……?」申し訳なさそうな顔をしたその人だった。


「お身体の具合はどうですか、深青里君」

「う、うん、大丈夫だけど……」


 慌てて身体を起こしながら母さんを見るとニヤニヤしながら出て行った。

 変な想像をされていそうだけど、これでゆっくり漆茨さんと話が出来る。

 机の椅子をベッドの横に持ってきて座ってもらうことにした。


「とりあえずこれ、座って」

「椅子、ありがとうございます。風邪で辛いはずなのに」

「大丈夫、もうすっかり良くなったから。それよりよく家が分かったね」


 浅く座った漆茨さんは罰が悪そうに顔を逸らした。


「実は先生が教えてくれたんです」

「……教えてくれるものなの、そういうの?」

「本当はダメだと思います。でも最寄り駅が一緒で家も近いのでプリントを持っていくと行ったら特別にって教えてくださいました。自分で言うのもなんですけど私、優等生として通っているので」

「なるほど……」


 学校としてそれはいいのか先生、と思いながら漆茨さんになら仕方ないかもしれないと納得してしまった自分もいる。

 そういえば昨日は気にする暇がなかったけどこの世界の漆茨さんとは寄り駅が同じだったな。世界によって性格とかだけじゃなくて住んでいる場所も変わる場合があるのか。他人の住居事情は聞いたことがなかったから知らなかった。


「でも元々自分で探すつもりでした。この道沿いにあるのは分かっていましたし深青里という苗字は珍しいのですぐに見つけられたでしょう。だから先生のことは責めないでください」

「……そっか、分かった」


 そこまでしてわざわざ来ようとしてくれていたとは、相当責任を感じてしまっているみたいだ。

 風邪をひいてしまったのが申し訳なくなる。

 少しでも自責の念がなくなってくれればいいなと思いながら努めて明るく言う。


「見ての通り僕は全然大丈夫だからさ、風邪がうつる前に帰った方がいいよ」

「いえ、本当なら一人で探して私がこうなるはずだったんです。なのに深青里君に風邪を押しつけてしまったみたいなものですから私はうつされたって構いません。それに見つけられたのは深青里君のおかげですから、むしろ私にうつして早く治してください」

「それはできないよ……」


 漆茨さんに風邪をひかれたら困るし、そもそも風邪は誰かに移せば早く治るようなものじゃない。


「どうしてですか?」


「漆茨さん、真面目だし変に頑固だから今日風邪ひいて熱が出ても明日普通に学校に行くでしょ? しかも何ともありませんって顔して過ごしそうだし。そうなりそうで心配だからだよ」

「た、確かに想像できちゃいます」


 苦笑した漆茨さんはもじもじしながら向き直って僕の方を見た。


「でも、どうしてもお話ししたいことがあるんです。だめ、ですか?」


 控えめに上目遣いで言われた。

 こういう言い方は卑怯だ。僕はドキドキしながら視線を逸らした。


「それなら、いいけど……」


「ありがとうございます」と笑った漆茨さんは向い合ったまま続きを口にするか、と思ったらそのまま黙り込んでしまった。

 見ると、何か言おうとするように口を開くも声は出さずに閉じるのを繰り返している。


「話しづらいことなら無理しなくていいよ」

「いえ、言わなきゃいけないことなんです、深青里君には」


 そう言うと、覚悟を決めたように顔を上げて静かに話し始めた。


「謝らなきゃいけないことがあるんです」

「風邪のこと?」

「それもそうですが、昨日、一緒に探すって言われた時、疑ってしまったんです。私の弱いところにつけ込んで迫ってくるんじゃないかって」

「……今の僕もそのつもりかもしれないよ?」

「もしそうならそんなこと言わないはずですよ」


 漆茨さんはクスクスと笑った。


「昨日と今話して違うと判断しました。深青里君は私にいいところを見せようとか下心はなさそうだと。なんていうと自意識過剰かもしれませんが」

「まぁ、荷物検査を見ていればそう考えるのも無理ないんじゃないかなって思うよ」


 ああいうことが日常的に起こっているなら、些細なことでも好意に裏打ちされた行動だと疑うようになっても仕方ないだろう。

 というかあの笑顔の裏ではそんなこと思っていたのか。やっぱりとも意外だとも思う


「それもありましたね」


 思い出したような呟きに「それ?」と首を捻ると漆茨さんは面白がるように言った。


「深青里君、荷物検査の時いつも私の方を避けていたようなので、どちらかというと私のことが嫌いなのではないかと思っていたんです」

「それは別に漆茨さんのことを避けていたわけじゃなくて長蛇の列を避けていたんだよ。漆茨さんのことが嫌いな人なんていないんじゃないかな、多分」

「ふふっ、ありがとうございます」


 漆茨さんは苦笑して続ける。


「もちろん好意自体は迷惑とは思いませんが、下心を元に迫られるのはあまり気分のいいことではないので……」

「それが嫌であんなに上手く取り繕うようになったの?」


 もしかしたら過去に恋愛関係で何かあったのかもしれない。

 徹底的に笑顔を浮べ続けて全員と均等に距離を保っていれば下手に踏み込んでくる人は出てこないだろう。実際そのおかげなのか、男子の中で抜け駆け禁止という謎の縛りが出来たわけだ。

 そう思ったのだけど、どうやら正解ではないようで「うーん」と漆茨さんは唸った。


「確かに今はその側面もできてしまいましたが、元は違います」


 漆茨さんは一つ息をついて、指先でもう片方の手の指を摘まんで続けた。


「うち、母親しかいないんです。私が中学生になってしばらくして父は亡くなったので」

「えっ……」

「実は昨日見つけてくれたあのパスケースは中学の入学祝いで父からプレゼントされたものなのです。女子中学生が使うには無骨すぎるデザインですよね。きっとセンスが無かったんですよ、父は。でもこれが父との最後の思い出だったからどうしても見つけなきゃいけなかった」

「そう、だったんだ……」


 思ったよりも辛い話だった。

 絶句した僕に「深青里君がそんな顔しないでください」クスッと漆茨さんは笑った。


「話が逸れてしまいましたね。とにかく、うちは母子家庭だったので母の負担になりたくなかったし、心配をかけたくも無かったんです。だから私なりに背伸びして、一人でも心配ない子だって思ってもらえる自分になりきったんです」


 重くなりかけた空気を払うように漆茨さんは「そのうちにこうなっちゃいました」とわざとらしい笑顔を作って両手の人差し指をその頬に当てた。


「でも昨日、深青里君に弱い自分を見られて動揺しているうちにそういうの止めろって言われてどうすればいいのか分からなくなって……今もまだ分かっていません」

「ごめん……」


 母親のために作り上げた思いやりの結晶とも言えるキャラクターを、僕はなにも知らないまま自分勝手に苛立って踏み込んで、取り繕うなと否定した。

 状況が状況だったとはいえ相手のことなんて考えていない横暴な行為だった。

 そんな最低なことをした僕に「とんでもないです。そのおかげでケースを見つけることが出来たんですから」あくまでも漆茨さんは笑いかけてくれた。


「それに本当は分かっているんです、上辺だけ取り繕うのは良くないって。そして素直に話せることがとても安心できることだと昨日今日で実感しました」


 噛み締めるように言って、だから、と漆茨さんは真っ直ぐ僕を見た。


「せめて深青里君とは普通にお話がしたい。思考停止して笑わないで、素直な気持ちで言葉を交わしたいと思うんです。頼ってばかりで申し訳ないのですが、私が本当は弱いと知っているのは深青里君しかいないから」

「漆茨さん……」


 赤茶色の目が不安そうに揺れながら僕に向けられている。

 この世界の漆茨さんにとって僕は、僕にとっての元の世界の漆茨さんと似ているのかもしれない。他の人にはうまく出来なくても漆茨さんは僕になら、僕は漆茨さんにならできる。


 その存在の大きさは身に染みて分かっているつもりだ。

 なら答えは決まっている。


「分かった。僕で良ければ話し相手になるよ。僕には話をする人がいないからいつでも大丈夫だし」

「深青里君……本当にありがとうございます」


 照れたせいで変なことを付け足してしまったけど気にならなかったらしい、漆茨さんはホッとしたように肩から力を抜いて微笑んだ。

 ほんのりと赤らんだ笑顔は温かくて、でも自分に向けられていると思うと気恥ずかしくもなってくる。

 つい視線を逸らしてベッドの上の自分の手を見つめて、ふと気が付いた。


 なんで今、普通に目を合わせていたんだろう。

 いや、思い返せば今だけじゃない。こっちに来てから漆茨さんとは何度も目が合っていた気がする。気付いて目を逸らしたことはあったけど、気恥ずかしくなってから顔を背けることも何回もあったはずだ。

 なんでだろう。なんで平気だったんだろう。


「あっ、すっかり忘れていました」


 考えていると漆茨さんが赤い頬のまま慌てたように鞄からプリンを取り出した。


「これ、良かったら食べてください。大したものじゃありませんけど」

「いいの?」

「えぇ、お見舞い兼昨日の御礼です。お嫌いでしたか?」

「ううん、好きだよ。そうだね、ココアよりはよっぽど」


 駅で飲んだココアのことを思い出しながら言うと「ならココアはどれくらい好きなんですか?」とおかしそうに笑いながら聞かれた。 


「そうだね、ドーナッツよりは好きかもしれない」

「ふふっ、どちらにせよ相対評価じゃ分かりませんね」

「ごめんごめん、そうだよね。お菓子の中ではとても好きな方だよ、プリンは」

「それならよかったです」


 顔をほころばせた漆茨さんからプリンを受け取ると、彼女は立ち上がった。


「で、ではそろそろ帰らせていただきます。これ以上いてもお休みの邪魔になってしまうので」


 早口なのは未だに照れが残っているからだろうか。

 漆茨さんはスカートの後ろを撫でて整えると椅子を片付けて振り返った。


「それでは、また明日会いましょう。そのためにしっかり休んで風邪、治してくださいね」

「うん、頑張るよ。プリンのおかげで早く治りそうだし」

「ふふっ、頼みますよ」


 くすぐったそうに笑って手を振った漆茨さんは静かに部屋を出て行った。

 ドアが閉まりきって見えなくなるまで、やっぱりちゃんと目を合わせられていた。




 その夜、体温は微熱まで下がっていた。この調子なら明日は学校に行けそうだ。

 そのことも含めて日記を書こうとして気が付いた。


 明日はまだ今の僕として漆茨さんと顔を合わせられるけど、明後日元の世界に戻ったあとはどうなるんだろう。

 同情してつい彼女とこれからも喋っていこうと約束してしまった。

 でも今日話した記憶がこっちに残った僕から無くなっていたら、今日勇気を出して話してくれたことが全部無かったことになってしまうかもしれない。


 世界を移動した時は、その世界にいた僕の意識を乗っ取るような感じで、それまでのその世界にいた僕の記憶は引き継がれてない。そして元の世界に戻ってもいなかった間のそちらの世界の記憶はない。

 だから移動直後は誰かとやりとりする時に呼び方とかを間違えてしまうことがあるし、前日の話をされた時には笑って誤魔化すしかなくなっているのだ。


 もちろんそれを極力少なくするために日記を書いているけど、何があったかという事実は記せても、その時の感情や想いは完全には引き継げない。記憶が丸々引き継げないからあくまで書かれていることから推察するしかないのだ。


 それをこっちに残されることになる僕がちゃんとやってくれるのだろうか。

 そもそもどんな性格なのか分からないこっちの僕のことを信用していいのだろうか。

 この世界での荷物検査の時、これまでもずっと漆茨さんの方に並んでいなかったことを考えると、ある程度考え方は似ていそうだけど同一とは限らない。


 今まで世界移動に振り回されるのが嫌であまり誰とも仲を深めるようなことをしていなかったし、約束もしないようにしていたから考えたことがなかった。


「どちらかというと私のことが嫌いなのではないかと思っていたんです」という言葉が耳の奥で蘇った。

 もしこっちの世界の本来の僕が漆茨さんのことを本当に嫌いだったとするなら、きっと話し相手になんかならないだろう。そうなれば僕は彼女に酷い仕打ちをしてしまったことになる。これ以上ない程の裏切りだ。


 そんな想像をしてお腹が痛くなってくる。

 どうする。どうすればいい。明日話して今日のことはなかったことにするか。

 いやそんなことできない。僕はこっちからいなくなるから後のことはどうでもいいと割り切ることも出来るけど、さっき見た漆茨さんの笑顔が忘れられない。それを潰すことなんて出来ないししちゃいけない。

 どうしよう。


 焦りに焦って考えて、結局より詳細に今の自分の気持ちを含めて書き込むしかないという結論に至った。

 必死にお願いするように書き綴れば、本来のこっちの僕も分かってくれるだろう。

 今日だけじゃなくて明日も書けばよりちゃんと伝わるはずだ。

 そう信じるしかない。


 とにかく伝わるようにと僕は昨日今日であったことを書き連ねた。

 出来事だけじゃなくて感情も全部、絞り出すようにして書き残した。




   *  *  *




 翌日目が覚めて、ベッドから出た僕は絶句した。

 知らない部屋で目覚めたわけじゃない。性別が変わっているとか体つきが異様に変化したとかというわけでもない。


 昨日までと同じように前髪は視界を覆っているし身体はすっかり元気になっていたし、アラームの鳴る少し前に起きられたから問題なく学校にも行ける。漆茨さんと会って話すこともできる。

 けど。


「戻って、きてる?」


 机に置いてある日記の色が変わっていたのだ。麗し茨さんのいた世界に行く前の、ピンク色の表紙に戻っていた。


「そうだ、中身は?」


 もしかしたらと思って慌ててページをめくってみても昨日書いた内容は記されていなかった。麗し茨さんとの会話とその時の気持ちも絶対に彼女を裏切らないでという懇願も、なにもかもが無くなっていて、代わりに文の最後に怒りマークのついた真顔が描かれている。

 無表情の漆茨さんのいる世界の戻ってきたことになる。


「どうして……?」


 まだ二日しか経っていなかったはずだ。

 いままで毎回、きっかり三日で移動していたのに。

 それとも気付かなかっただけで、丸一日僕は寝込んでいたのだろうか。

 いや、それはない。そうだとするならお見舞いに来てくれた時、麗し茨さんとの会話にズレが出てていたはずだ。


 でもそんなことはなかったし、日記に書かれた日付も二日しか経っていない。

 なんでいきなり移動したんだ。元の世界に戻ってきているんだ。

 考えて分かるわけでもないのに僕はしばらく考えた。

 当り前のように結論は出ることはなく、ただただ麗し茨さんのことが心配になった。




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