第四話:麗しい彼女 上




 激しく窓を叩く雨の音で目が覚めた。スマホで確認すると時間はアラームの鳴る五分前。流石に二度寝は無理そうだ。

 欠伸を一つしてベッドから出るとすぐに異変に気が付いた。

 机の上の日記帳の色が昨日の夜と変わっている。世界線を移動したんだろう。


 漆茨さんと目を合わせられるようになってから一ヶ月弱経った。その間に四回世界を移動していて今回で五回目。

 移動する感覚も完全に思い出していて、違う世界で目覚めた朝もほとんど動揺しなくなった。元の世界に戻ったら漆茨さんがいるという安心のおかげかもしれない。


 日記を手に取って書かれている最後のページを開くと、やっぱり昨夜書いたものとは変わっていて文の最後に描いた顔マークもなくなっている。

 読んでみても誰かと約束しているとか、特に気になることは書かれていない。強いていえば風紀委員の荷物検査があることくらいだけど僕が準備するようなことはないはずだ。


 いつも通り学校に行って極力誰とも関わらないようにして静かに過ごすことになるだろう。

 一先ずその準備をするために洗面所に行った。

 歯を磨きながら鏡を通して合わせた顔は、見慣れた髪の長い自分の顔だった。




 天気は家を出てからもどんどん悪くなった。予報によると明日の朝までずっとこの調子らしい。厄介なのは雨の激しさ以上に風の強さだった。傘が機能しないくらいの強風に何度も煽られたおかげで学校に着く頃にはズボンも靴の中も着衣したまま半身浴をしたみたいになっていた。

 湿気と濡れた実害から気分が悪い。


 下駄箱では何人もの生徒達がタオルで服や鞄を拭いている。

 そこに混ざって水気を取っていると「おはよう、シュウ! 待ちに待った今日だな」と遠くから一際元気な声が聞こえてきた。こんな酷い雨の中でも元気でいられる人もいるんだな。日頃の悩みなんてなさそうだな。と勝手に羨ましくなっている間にもどんどん声は近づいてきた。


 そして「おーい、まさか無視?」なんとその声は目の前まできて肩を叩いてきた。

 驚きながら顔を上げて、さらに驚いた。


「も、もしかして鞠寺君?」

「もしかしなくてもそうだしなんだよその珍獣でも見る顔。というかなんで今更鞠寺君? 昨日までアッキーだったじゃん」

「あっ、えっと……寝ぼけてたみたい」


 世界移動後何かを指摘された時の常套句を口にすると「そんな濡れながらよく寝ぼけたまま来れたな」と笑われた。

 確かに、と笑い返して同じように身体を拭き始めた鞠寺君改めアッキーを見る。


 元の世界の彼と比べると喋り方からも見た目からも真面目さが抜けてより親しみやすくというのか、今時の高校生風になっている。コンタクトにしているのか眼鏡はなく、ところどころ髪に束感があるのはワックスを使っているからだろう。


 でも僕に話しかけてくれている辺り優しいところは変わりないみたいだ。


「まさかこんな日に大雨とかお天道様は分かってねぇよな」

「こんな日って、何かあったっけ?」

「まだ寝ぼけてんのか? 荷物検査だよ荷物検査。つってもシュウにとっちゃ別にどうでもいいのか。いつも大宮に見てもらってるからな」

「はぁ……」


 言われても全くピンとこなかった。

 荷物検査とは今日の風紀委員の検査のことだろうし、大宮とは多分クラスメートの大宮さんのことだと思う。そして見てもらう、ということはきっと大宮さんが風紀委員なのだろう。


 けどそれがなんなのだろう。鞠寺君はそんなに荷物検査が好きなのだろうか。

 本気で理解が追いつかない僕にあきれ果てたらしい、鞠寺君は溜め息を吐いた。


「まぁ東京でたくさん可愛い子を見てきたシュウはそうだよな。でも俺達は月に一度、合法的に麗し茨さんと喋れる日を楽しみにしてんだよ」

「麗し茨さん?」

「そうだよ、麗し茨さんだよ!」


 聞き間違いではなかったみたいだ。

 似た苗字は知っているけど……いや、似たというか、おそらくきっとこの世界の漆茨さんのことだろう。

 でも一体何がどうなってそんな呼び方になったんだろう。

 というか話すのに合法非合法があるの? と思ったけど、人の目を見るのにも許可をとった僕には言えないか。


 そんなことを思いながら教室へ向かおうとした時だった。


「おはようございます、鞠寺君と深青里君。今日も元気そうですね」

「うぇっ! う、うう、漆茨さんっ!」


 鞠寺君の声が裏返った。

 まさかと思って前を見ると、そこには女子生徒がいた。


 僕と同じくらいの身長、後頭部の高い位置で結ったお団子、綺麗な鼻筋、ピンク色の控えめな口、そしてパチッと開かれた赤茶色の目。

 ニコッと微笑んだこの世界の漆茨さんだった。

 その瞬間、空気が華やかに色付いた気がした。


「おお、おはようございましゅ……」

「……うん、おはよう」


 裏返ったまま小さくなっていく鞠寺君の声に続いて僕も挨拶を返した。

 漆茨さんは頷いて確認するような口調で、でもどこか悪戯っぽさも含んだ笑みを浮べた。


「余計なものは持ってきていませんよね?」

「は、はい、もちろんでしゅ……」

「大丈夫だと、思う」

「安心しました。それではまた荷物検査の時に」


 漆茨さんは職員室にでも向かっているのだろうか、控えめに手を振って歩いて行った。


「……やっぱり漆茨さん、いつ見ても麗しい」

「あぁ、なるほど」


 そんな隣で発せられた気の抜けた声を聞いて麗し茨さんなんて呼ばれている理由が分かった。見目麗しい漆茨さん、だから麗し茨さん。案外単純だった。

 でも確かにこの世界の漆茨さんは際立って綺麗に見えた。挨拶一つにさえ目が離せなくなるくらいに。


「俺、今世界で一番幸福な人間だわ……」

「……良かったね」


 でも流石にここまで執心するのは、僕には無理そうだ。




 荷物検査は朝のホームルームに行われた。

 検査は教壇に立った二人の風紀委員の前にクラスメートが並んで順番に鞄を見てもらう方式だ。そんな穴ばかりの検査にどこまで意味があるのかは分からないけど、木ヶ暮北高校ではずっとこの検査をやっているらしい。元の世界でももちろん行っていた。


 ただ、元の世界と明確に違うのは二人の前にできる列の長さに大きな差があることだ。

 ほとんどの男子が漆茨さんの前に並んでいて、女子の三分の一程も漆茨さんの方だった。人気の格差を見ているようでいたたまれなくなる。

 僕は手荷物検査のためだけにわざわざ並ぶのが面倒臭いし、なんだか漆茨さんにも大宮さんにも悪い気がして大宮さんに見てもらった。それは今の僕だけじゃなくてこの世界の僕はずっとそうしているみたいだった。


 荷物検査を終えた僕が席に戻る頃にもまだ漆茨さんの前に出来た列はあまり進んでいなかった。いちいち男子から声をかけられては律儀に一言二言コメントを返しているのが原因だろう。

 中にはあえて漫画を仕込ませておいて「あれれぇ、おかしいぞぉ。教科書と間違えたかも」なんて白々しく頭を掻く男子もいる。そんな男子に対しても漆茨さんは「どんな理由であれいけないものはいけません。私が責任を持って没収させてもらいますね」真面目に返していた。


 でも男子はあくまでふざけたように「ずっと保管してくれて構わないよ」なんてデレデレしている。それには漆茨さんも困ったように笑うだけだった。

 そんな仕草が彼らを調子付かせているのだと彼女は気付いているのだろうか。

 視線の先で浮べられ続けている漆茨さんの笑顔からは分からなかった。




   *  *  *




 今日一日、僕は麗し茨さん、もとい漆茨さんを見ていた。

 遠くから見ているだけでも絵に描いたような優等生で先生からも一目置かれているのはすぐに分かった。

 そして鞠寺君の言った通り一日の大半は誰かしら彼女と話をしていた。

 クラスメートと話す彼女は荷物検査の時と同様、ずっと柔らかい笑みを浮べていた。常に薄らとした笑みを口元にたたえていて、誰かに話しかけられて顔を上げた時には、それ自体が心底嬉しいみたいにより明るい笑顔を咲かせた。


 良くいえば笑顔を絶やさない明るい人だけど、悪くいえば常に取り繕っているような人というのが端から見た僕の印象だった。四六時中笑顔が絶えないせいだろうか。それとも僕の性格が悪いせいだろうか。

 いずれにせよ違和感を抱くくらいには表情が一貫していた。そういう意味では無表情の漆茨さんと似ているのかもしれない。


 とはいっても、そんな風に評価したところで僕と関わることはないだろう。話しかけられないのに、そのチャンスが少ないなら一層口をきくことはないだろうし。

 あっ、でも今朝挨拶はしたから一応喋ったことにはなるのか。


 そんなことを考えながら宿題をしているとお腹が鳴った。

 手を止めて時計を見ると十九時三十分。なるほどお腹も空くわけだ。そろそろ夕食もできる頃だろう。

 時間と空腹を意識した途端に勉強する気は失せていった。

 すると丁度タイミングを見計らったかのように階下から「柊一郎、降りてきなさい」母親から夕食の呼び出しがあった。


 しかしそれは僕の勘違いだった。

 階段を降りて食卓へ着くと「ちょっとソース買ってきてくれない」キッチンから声を飛ばされた。


「買い忘れちゃったのよ。なくてもなんとかなるけど入れた方が美味しくなるのは間違いないでしょ」

「母さんは行けないの?」

「私の代わりに火の番してくれるならいいけど」

「……それはちょっと」


 僕の料理の腕はないに等しいし、そもそも今何を作っていてあと何をすればいいのかも分からない。

 でも雨は朝からずっと激しいままだから外に出たくない。スーパーまで歩いて十五分くらいかかることを考えると余計に家を出たくはない。


 なくてもなんとかなるなら今日はそれで我慢しない?

 そんな意見も加わって頭の中で後ろ向きな天秤が均衡を保っていた。

 しかし「今日はコンビニで買っていいから」という言葉に辛うじて行く方に傾いた。

 普段高いからコンビニを利用するなと言う母親が妥協するなら僕の方も折れるしかない。駅前のコンビニまでなら五分程度だからまだ楽だ。


 ということで財布をポケットに入れて外に出た。


「うわっ……まじか」


 今すぐ家に入りたくなった。

 傘を差す間もなく横なぶりの雨に全身を打たれた。

 真っ暗な世界の中、轟々と響く低い風の音に乗って針のように光る細かい水の粒が横に飛んでいく。梅雨でも台風でもないのにどうして今日に限ってこんなに荒れているのだろうか。


 ソースがなくてもいいなら今日はもういいじゃんという気持ちが溢れそうになったけど、グッと堪えてて歩き出した。

 風の強さや風向きがコロコロ変わり、その度に面白いくらいに全身水の針に刺されていく。直接顔に当たる雨はちょっと痛い。時折すれ違う人も傘を飛ばされそうになったり腰から下をビショビショにしたりと苦労しているようだった。

 どうにもならない自然の悪意に逆らって歩いていると、ふらふらと不自然に揺れているものが目に入った。


 進行方向の道の端、近くに街灯すらない道の途中、最初は何かを覆うビニールシートかネットが風に煽られて揺れているのかと思った。でも近づくにつれて人の形をしていることに気が付いた。

 その人は懐中電灯を片手にヨロヨロしながら右往左往したかと思うとしゃがみ込んでジーッとしている。かと思えばまた立ち上がって同じ事を繰り返していた。


 一瞬犬の散歩か、と思ったけどこんな天気の中で犬を連れ出すことはないだろうし、手にはリードではなく懐中電灯が握られていたから違う。

 何をしているのか気になりつつも話しかける度胸がない僕はそのまま横を通り過ぎていこうとした。

 でも僕の足は止まっていた。


 まず目に入ったのはその人が着ていた木ヶ暮北高の制服だ。それだけだったら驚きこそしてもわざわざ立ち止まらなかっただろう。

 ただ、丁度その人が立ち上がった拍子に傘が飛ばされそうになり、顔が露わになるとそのまま無視して行くことは出来なくなった。


「み、深青里君……?」

「漆茨さん……?」


 前髪越しに彼女と目が合った。

 校内で見ていた整った顔がそこにはあった。

 けど、今は青白く今にも泣き出しそうに歪んだ表情だった。


 漆茨さんは何が起こったのか分かっていないような目で、開いた口を震わせながら荒く息を二度三度吐き出した。昼の様子からは想像できないくらいうろたえた様子で「あ、えっと」と呻くと、一度俯いた。

 そして数秒後に上げられた顔を見て、僕はゾッとした。


「偶然ですね。深青里君の家もこの辺りなんですか?」


 顔色は変わっていなかった。

 でも浮べられていたのは昼間見たのと同じ柔らかな笑みだった。


「な、なん、で……?」


 絞り出した声は情けなく震えた。


「私の家もこの辺りなんです。今は……ちょっと恥ずかしいのですが落とし物をしてしまって捜していたんです」

「そうじゃなくて……」


 笑える状況じゃなさそうなのは一目瞭然なのに漆茨さんはまるで話をするのを嬉しがるみたいに笑っている。

 そんな風にスイッチを切り替えたように笑えてしまうのがたまらなく怖かった。さっき見たのは嘘だったんじゃないかと思えてくるくらい、自然な笑顔が目の前にある。


 これなら無表情の方が怖くない。本当は後ろ暗いものがあると分かりながら笑顔を見せられるよりはよっぽど。


「それではまた明日、学校で」

「あっ……」


 漆茨さんは笑顔で僕に背中を向けて、少し離れたところから落とし物の探索を再開した。

 僕は声をかけられず、かといってコンビニに行く事も出来ないまま、立ったりしゃがんだりする傘を眺めた。


 あの中では今、漆茨さんはどんな顔をしているのだろうか。

 さっきみたいな怯えた子供に歪んだ顔だろうか。それとも直後に出来上がった普段通りの笑顔なのだろうか。

 もしも同じ教室の中で過ごしているだけの存在だったなら、きっと僕は漆茨さんがあんな辛そうな顔をするだなんて考えもしなかった。こんな雨の中でさえも優等生然とした落ち着いた笑みで探し続けるのだと信じられた。


 でもそれ以外の顔をしているのだと知ってしまった今、あの傘の向こうで泣き出しそうな想いを押し殺しながら何かを探し続ける様子の方が強くイメージできてしまう。笑顔よりも強く頭の中に浮かんでしまう。


 僕は、どうしよう。

 話すのが怖いし何も言われなかった以上、会った事を忘れてコンビニに行ったっていい。それが僕らしい自然な行動だ。


 でも、どうしてもその一歩は踏み出せない。ふらふらと揺れながら動くあの傘から目が離せない。不思議なくらい、あの中で浮かべている顔を確認しなきゃいけないと思った。

 ダメだ、らしくないと分かっていても、怖いと思っていたとしてもこのまま見て見ぬフリなんてできない。

 彼女を放置し続ける方が、よっぽど怖い事のように感じてならないから。


「う、漆茨さん」

「深青里君? どうかしましたか?」

「ぼ、僕も、一緒に探すよ」

「いいですよ。これは私のやる事なので」


 歩み寄って話しかけると、振り返った彼女はいつも笑顔だった。

 でもさっき切り替わる瞬間を見てしまった以上、今どれだけ上手く笑えていたところで無駄でしかない。


 以前、無表情の漆茨さんは表情が作れるのに本心を隠すのは意味が分からないし苛立つと言っていた。ここまで露骨にやられてその気持ちが少し分かった気がする。

 苛立ちまではいかないけど、むしゃくしゃして納得いかない。


「そ、そういうの、今は止めてよ。もうバレてるから。本当は笑えてないって、分かってるから」

「えっ……」


 漆茨さんの笑顔がピシリと音を立てて引きつったように見えた。


「それより何を探しているの?」


 問いかけると引きつって剥がれ始めた部分からこわばりが広がり、やがて笑顔は消えた。

 代わりに強張った顔で迷うように視線を彷徨わせながらボソッと言った。


「一人で探せますから」

「探せるかもしれないけど二人の方が早いでしょ」

「問題ありません。深青里君に頼らなくてもなんとかできます」


 その言い方に僕はちょっとイラッとした。

 特別頼られたいとは言わない。僕はみんなを助ける戦隊ヒーローにはなれないし正義感も好んで人と話す程の勇気もない。


 でも悪い顔色で息も乱して、明らかに大丈夫じゃない状況なのにクラスメートの手を借りようとしないのはなんでなんだって思う。それも、捜し物を手伝ってもらうだなんて簡単な事でさえ、だ。


 そんな選択を彼女がするのも、そうしなきゃいけないような状況に彼女がいるのも哀れで気分が悪い話だ。

 人付き合いが苦手だと自負している僕にさえ放っておくことはできないと思わせるくらボロボロなのだからなおさらだ。


「こんなに青白い顔になるまで探し続けてまだ見つかってないんでしょ? 助けてほしいならそう言ってよ」


 見回した道にあるのは塀と水たまり、そして電柱くらいだった。平坦な道が延びているだけで、物が落ちていたとしたらすぐに分かりそうだ。

 そんなところを入念に見てしまうくらい、漆茨さんは落とし物に執着している。どうしようもないほど見つけたいと望んでいる。


 その想いと僕を頼りたくないという気持ちが拮抗しているのか、漆茨さんはしばらく唇を噛んで俯いていた。

 あれ、もしかして僕は漆茨さんに嫌われているのかな。他のクラスメートなら頼れても僕にだけは何があっても頼りたくないくらい。

 今更その可能性に思い当たった。

 そうだったらどうしよう。


 そんな心配が渦巻き始めた時、漆茨さんは観念したように息を吐いて顔を上げた。


「なら、一緒に見つけてください、私のパスケースを」


 力のないボロボロの微笑だった。学校でしていたような整った笑顔ではないけれどこっちの方が安心できる。

 嫌われているかもという心配も勘違いだったようだ。


「うん、頑張るよ」


 頷いてからとにかく早く見つけちゃおうと、何もない道に目を這わせるようにして駅へと歩き始める。

 今いる場所はしばらく一本道が続いていて僕の家と駅を繋いでいた。漆茨さんの家も同じ道沿いにあって、僕の家からさらに五分ほどかかるらしい。


 車がギリギリすれ違える程度の道幅が何度か蛇行したり交差点に差し掛かったりする。周囲は民家ばかりで変わったものといえば小さな公園があるくらいで駅前に出ればようやくコンビニが現れる。まさに田舎の道だ。


 雨脚は依然強いままで気を抜くと傘を持っていかれそうになった。

 気を付けながら足元を照らして歩く。

 僕は懐中電灯を持っていなかったからスマホのアプリで代用しながら、雨の音に負けないように少し大きな声で後ろにいる漆茨さんに問いかけた。


「探しているのはどんなパスケースなの?」

「濃い緑色の革製の物です。特に装飾はなくて、見た目は少しおじさん臭いかもしれません」

「おじさん臭いんだ」


 漆茨さんの口からおじさん臭いなんて似合わない言葉が出てきて思わず笑ってしまった。

 そう言ってもなお使っているということは相当大切なものなんだろう。


「父にもらった大切な物なんです。それを落としてしまうなんて……」

「なら絶対見つけなきゃね」


 小さくしぼんでいく彼女の声があまりにも沈痛に響いて、ついそんなことを言ってしまった。

 見つかる保証はないし物探しに自信があるわけでもない。なのになんでこんな約束をしてしまったんだろう。というか肩入れしているんだろう。


 恩返しのつもりなのだろうか。世界が違うから正確な意味で本人に対するものじゃなくなるけど、元の世界では漆茨さんのおかげでまた目を見て話が出来るようになった。その恩をどんな形でも返したいと無意識でも思っているのかもしれない。


 向こうの世界に帰ったら彼女に感謝しておこう。

 そう結論付けて気持ちを切り替える。


「駅に届けられたりしていればいいんだけどね」

「それはなさそうです。駅と交番、あと一応学校も確認しましたが届けられていないと言われたので。でも家にも無くて……。家に着いた時に無くなっていることに気付いたので、落としたとしたらこの辺りのはずなんです」

「なるほど」


 厄介なことに今日は強風だ。もしかしたらどこかに飛ばされている可能性もなくはない。

 遠くまでいっていないことを祈るしか無い。

 誰かが親切で置いてくれているかもしれないと思って、一応地面だけじゃなくて塀の上や電柱の取っ手も確認しながら歩いた。


 何も気にせず歩けば一分もかからない場所を、僕は右側、漆茨さんは左側と分担して道全体をなぞるように懐中電灯を当てながら進んだ。電柱の裏、塀の上、道の端、側溝の蓋。何も落ちていないか探していく。

 その間も風に流される雨に全身が打たれていく。うっかり水たまりに踏み入って靴の中は浸水してズボンも濡れていない面積の方が小さくなった。ただ歩くだけでも重くなってきた。


 もしかしたら運悪く側溝の穴から落ちてしまったんじゃないか。

 飛ばされそうになる傘は時々ミシミシ音を立てて不安を煽ってくる。

 嫌な予感が頭を掠めて首を横に振った。顔にかかった雨粒を払って進む。

 何本もの電柱を確認しては公園も通り過ぎていく。

 駅に近づくにつれてどんどんと焦りと諦めが心に堆積していった。

 その分さらに歩は遅くなって、とうとう僕らの手はパスケースに触れられないまま駅にたどり着いてしまった。


 時間を見ると三十分近くかかっている。

 漆茨さんの顔色がさらに悪くなっていたから一度駅で休憩することにした。僕も僕で濡れすぎたこともあって体力が大分削れていた。


 駅までの道中には無かったから今からどうするか考えなきゃいけない。

 とりあえずまだ自販機に売っていたホットココアを二本買って一本を漆茨さんに渡した。ありがとうございます、と呟くように言った漆茨さんと二人で並んでベンチに腰をかける。


 漆茨さんはココアを膝の上で持ったまま俯いて動かない。

 なんて声をかけたらいいか分からず、僕はココアに口をつけて息を吐いた。

 するとぼそりと漆茨さんが言った。


「ごめんなさい、巻き込んでしまって」

「いや、今の息はそういうわけじゃなくて……」

「どうして私は落としてしまったんでしょう……」

「…………」


 湿った声のあとに鼻を啜る音が続いた。

 こういう時の励まし方も慰め方も知らない。中途半端に何か言ったところで逆効果になりそうで口を開く気にもなれない。


 色んな申し訳なさが僕の中で混ざり合って膨らんで、心の中を満たしていく。

 押し殺したような嗚咽が心臓の鼓動と重なって苦しくなってくる。

 沈黙に耐えられなくなって誤魔化すように手の中にあったココアを一息に飲み干した。

 今の僕に出来ることは慰めるとか、ましてや一緒に落ち込むことじゃない。


「と、とりあえず漆茨さんも飲んで。暖かいうちにさ。そしたらもう一度探しに行こうよ」

「……無かったのに、ですか?」

「まだ探していないところがあるから」

「えっ……?」


 いじけるような声に言うと、ゆっくりと漆茨さんは顔を上げた。


「来る途中に公園あったでしょ。さっきは見てないよね」

「でも私、登校する時公園に入ってなんかいませんよ」

「パスケースだけなら風に飛ばされて公園の中に入ったかもしれないし、拾った誰かが公園のベンチとかに置いてくれたかもしれないからさ」

「な、なるほど……」


 呟いた漆茨さんの目が大きく開いていく。

 赤茶色の瞳が希望を見出したような輝きを帯びた時、彼女はハッとして慌てて目を拭った。

 そして急いでココアの蓋を開けて一気に飲み干すと咽せたのか咳き込んだ。


「だ、大丈夫?」

「え、えぇ。平気です。それよりすみませんでした、恥ずかしいところを見せてしまって。手伝ってもらっている私が先に諦めちゃいけませんよね」


 苦笑した漆茨さんの顔色はココアのおかげなのか、それとも言葉通り恥ずかしいせいなのか幾分良くなっていた。

 多少なりとも元気は出たようだ。


「じゃあ行こう。きっと見つかるから」


 根拠なんてない僕の言葉に彼女は力強く頷いて一緒に駅を出た。

 早歩きで来た道を引き返していく。

 相変わらず激しい雨脚と風に身体を叩かれる。酷く寒気がするけど気にしている場合でもない。腹を括った途端に僕の傘が折れた。骨の一部がひしゃげてひっくり返ったまま戻らなくなる。


「だ、大丈夫ですか?」

「うん、こればかりは仕方ないよ。とにかく行こう」

「でも深青里君の傘は……?」

「どうせもう身体中濡れちゃってるし今更だよ」


 コンビニに戻って買うことも考えたけど戻るのが面倒臭いし新しく買ったってまたすぐ折れてしまうかもしれない。

 だったら早くパスケースを見つけて帰った方が良い。見つからなかった時のことは考えない。


「でも……」と戸惑う様に口籠もる漆茨さんに、さぁと呼びかけて公園の方に向き直った。

 漆茨さんも迷っている暇はないと思い直してくれたのか足早に進む僕の横に並んで歩いた。

 たどり着いた公園は四角く剪定された植込みに囲まれた小さな場所だった。街灯は一本だけで遊具も滑り台とブランコ、あとはベンチしかない。


 これなら探すのにはそこまで時間はかからないだろう。出てくると信じて二手に分かれて公園内を見回っていく。僕は右回りに、漆茨さんは左回りに園内を探した。


 そうして全身雨に打たれた僕たちは。


「……無い、ですね」

「…………」


 それでもパスケースを見つけることはできなかった。滑り台やブランコ、ベンチの周りにも下にもなかった。

 重く冷たい沈黙を雨がより一層冷やしていく。


 今度こそ僕はかけられる言葉を全て失った。探していない場所に心当たりはない。

 強いていえば僕と合流するまで漆茨さんが一人で探していた場所はどうか、というくらいだけど、全てを丁寧に見ていた彼女が見落としているとは考えにくい。


 やるせなさと無力感で心が締め付けられる。


「……ありがとうございました。もう、大丈夫です」


 何も言えない僕にかけられたのはやけにあっさりとした声だった。

 漆茨さんを見ると、諦観の滲んだ笑みが僕を見ていた。


「こんなびしょ濡れになるまで深青里君が一生懸命探してくれたんです。私は満足しました、それで見つからないなら仕方ないと。そもそもなくした私が悪いのですから」

「漆茨さん……」


 清々しそうに言っていても、満足なんてしているはずがない。

 涙を流してまで取り戻したいと探していた物が見つからなくて納得なんて出来るはずがない。


 でも。

 本当にもう無いのだろうか。


「さぁ、帰りましょう。このままじゃ深青里君が風邪をひいてしまいますから」


 そう言って漆茨さんは僕を傘に入れてくれた。途端、バツバツバツと傘を叩く雨音に包まれた。直接脳を叩かれているみたいに響いて頭が痛くなってくる。

 ゆっくりと歩き出した漆茨さんに促されて僕も歩き出す。

 漆茨さんの横顔を見ないように頭を抑えるフリをしながら公園を出ようとした時、ふと視界の端に何かが光った。


 公園の入り口、外と中を隔てる植込みの下に街灯の光を反射した物があった。

 もしかしたら空き缶とかゴミかもしれない。

 でもそうじゃないなら。

 思わず傘から飛び出して駆け寄る。


「深青里君?」


 不思議そうに呼びかけてくる声を背中に、僕はしゃがみ込んで手を伸ばした。たが思ったよりも奥にあって届かない。でも近くで見て確信した。間違いない。

 仕方ないから寝そべると「な、何しているんですか? 汚れちゃいますよ」漆茨さんが叫びながら駆け寄ってきた。


 地面にたまっていた冷たい水と泥が服に染み込んできた。

 それでも起き上がるわけにはいかない。


「もうすぐ、届きそうだから」

「えっ……?」


 もしかしたら誰かが植込みのすぐ下に置いておいてくれたものが風で奥まで入り込んでしまったのかもしれない。そうじゃなきゃこんなところから出てくることはないだろう。

 笑いそうになりながら僕は掴んだ緑色のパスケースを引っ張り出した。


 よく見るとストラップをつけていたであろう部分がちぎれている。落としてしまったのはきっとそのせいだ。


「これで合ってる?」


 差し出すと漆茨さんは呆然とした様子で「あぁ……」と漏らした。

 傘を放して代わりに僕の手から使い込まれたパスケースを優しく取り上げると「あぁっ!」膝から崩れ落ちながら大切そうに胸元に抱き寄せた。

 そして声を出さず首を縦に振った。


 漆茨さんは嗚咽と共に浅い呼吸を繰り返しながら、その隙間に差し込むように「ありがとう、ございます」と何度も漏らした。

 噛み締めるように何度も言われると、僕もなんだか身体がジーンと熱くなって鼻水が上がってきてしまう。


 照れを誤魔化したくて漆茨さんの傘を拾って彼女を中に入れた。

 その時、タイミングを見計らったかのようにポケットに入れていたスマホが震えた。一度で終わらず続いているということは電話だろうか。


 取り出して画面を見ると「げっ……」表示は『母さん』だった。

 時間を見るともう家を出てから一時間経過しそうになっていた。もちろん今までソースのことなんて忘れていた。


 母さんから切ってくれればいいなと思ったけど一向にその気配はない。

 仕方なく出ると開幕早々怒鳴り声が耳と頭に響いてきた。


『柊一郎、あんた一体どこのコンビニまでソース買いに行ってんのよ!』

「あ、あの、その、ごめん。なんというか忘れてたんだ、ソースのこと」

『はぁ? じゃあ今までなにしてたの?』

「友達と偶然会って話してたというか……」

『えっ、あんた友達いたの?』


 友達の存在という衝撃で怒りが沈んだのかトーンダウンした。

 なんだかあっさり酷いことを言われた気がするけど、今までの僕の過ごし方を考えると言い返せない。


「とにかくごめん、今すぐソース買って帰るから」

『もういいわよ。ソース無しで作っちゃったから。それに行くとしてもどうせコンビニでしょ? なおさら止めなさいよ、高いんだから』

「は、はい、ごめんなさい……」


 謝るとすぐに電話が切れた。

 溜め息が漏れる。パスケースが見つかった余韻に浸りたかったのに邪魔された気分だ。

 しゃがみ込んでいた漆茨さんにも会話はバッチリ全部聞こえていたらしく、立ち上がって心配そうに顔を見てきた。


「その、ごめんなさい。私のせいで」

「漆茨さんは悪くないし、今は見つかったことを喜ぼうよ」

「……はい、本当にありがとうございます」


 綻んだ顔に思わず見蕩れてしまう。

 恥ずかしくなって顔を背けた。

 きっとこれがこの漆茨さん本来の素直な笑顔なんだろうと感じた。


「と、とりあえず僕はもう行くから。今すぐ帰らないと母さんが面倒臭そうだから」

「ま、待ってください」


 傘を出て行こうとしたら手を掴まれた。


「どうかした?」

「わ、私はなんて御礼をしたらいいでしょうか?」

「御礼?」


 全然そんなことは考えていなかった。あの状況では損得勘定なんて頭に無かったし、僕から見返りを求めるのはセコい気がしてならない。


「いいよ、御礼なんて」

「でも……」

「今日は漆茨さんのことを知られたからそれでいいよ」

「あ、ぅ……」


 身体を小さくしながら呻いた漆茨さんは「そう、ですか」目を伏せて呟いた。


「じゃあ今度こそ、じゃあね。また明日」

「はい、また明日」


 もう手を掴まれることなく送り出されて僕は家まで走った。

 数分しかかからないはずなのに、雨で濡れた身体は重くて一時間近く走ったような気がした。



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