第三話:目を合わせられる彼女
保健室に運ばれた日から三日経って、無事僕は世界を移動した。
毎朝起きてから読むようにしていた日記の内容が昨夜書いたものじゃなくなっていたのだ。
日記には、僕は昨日も無表情の漆茨さんといくらか話をして樹ちゃんジョークを食らった旨が書かれていた。戻ってきたと考えてもよさそうだ。
とはいえそれも絶対正しいとは言い切れない。
もし無表情かつ樹ちゃんジョークを繰り出す漆茨さんが他の世界にもいた場合、そこに移動したという可能性も捨てきれない。
ここが元の世界だと確定させるにはどうすればいいだろう。
少し考えて、今日の日記からこの世界にいる時だけ最後になにかしら絵を描くことにした。
特に意味をなさない、この世界にいるからこそ描ける絵を残しておいて、二回移動してから読んだ日記にそれと同じものが描かれていれば戻ってきたのだと確信できる。
どんな絵がいいだろうか。今の僕しか分からなくて手軽に描けるもの。
思いついたのは無表情の顔の上に怒りマークをつけたもの。無表情から不良っぽい漆茨さんのいる世界に移動した僕だから描けるものだ。他の世界の僕はまぁ描かないだろう。
とりあえず今日からの対策はそうするとして、まずは学校に行かなきゃいけない。
そしてここにいる漆茨さんが以前会った彼女なのかどうかを確認する必要がある。
久々に感じる全身を痺れさせるような重い緊張を抱えながら僕は家を出た。
家から駅まで十分程度なのにその時間がやけに長く感じた。駅についても電車が来るまでが引き延ばされたように時間の経過が遅い。
遅延しているのかと何度も電光掲示板を見上げてもそんなアナウンスはなく、時計を見ても十数秒しか経っていないなんてことを繰り返した。
もう何時間も経過したんじゃないかと錯覚し始めたところで時間通りに六輌の電車が到着した。
また学校に着くまで長いのだろうかと思いながら電車に乗ると、本当に偶然、あの気味が悪いほどの無表情が現れた。
そして目が合って告げられたのは「おはよう」一本調子の無機質な声。
「う、漆茨さん……」
その声と一緒に僕の胸に途方もない量の安堵が流れ込んできた。
涙が滲んで崩れ落ちそうになるのをなんとか堪える。
乗り込んでドアから外を眺めるように並んだ。
「おはよう。同じ電車だったんだね」
「昨日も一緒だったわよね。それよりどうしたの会うなり変な顔して。気持ちわ……怖いのだけど」
「なんでもないよ」
「嘘。顔どころか全身で語ってる」
「ご、ごめん。でも、なんというか……良かったから、漆茨さんで」
「……やっぱり気持ち悪い」
要領を得ない返答に漆茨さんは自分の身体を抱くようにして後ずさった。
距離を取られたのはちょっと傷つくけど僕が全面的に悪いから何も言えない。
それよりも、と重要なことを問いかける。
「始業式のあと、一緒に帰ったよね? その時漆茨さんの表情の話もしたよね?」
「その通りだけど、それがどうかした」
「ううん、確認したかっただけ」
「健忘症になってない」
「大丈夫だと思う」
「そう」
四日前の僕の記憶に齟齬がなかったということはここが前いた世界だと思ってよさそうだ。
なによりこの疑問形なのに上がらない語尾が一層強く戻ってきたのだという実感を運んできて、胸にジンと温かいものが広がっていく。
思わず冬の日に湯船に入った時のような息を漏らすと「本当に気持ち悪い」と淡々とした声で言われた。
これ以上変な目で見られ続けるのも嫌だから話を変えることにした。
「それにしても漆茨さんって結構はっきり言うよね」
「ごめんなさい。言い過ぎたかしら」
「いや、悪いのは僕だから受け入れるよ」
「そう」
頷いた漆茨さんは変わらない声色で続けた。
「私は感じたことや思ったことをはっきり言うようにしているの。許してほしい」
「分かった。そんなに厳しい言葉はかけてほしくないけど……。でも自分の意見とかちゃんと言えるのは凄いね」
僕にはそんなことできない。
世界移動が頻繁に起こっていた時、移動先の世界での人間関係が分からなかったからあまり自分の意見や気持ちは言わないようにしていた。その癖が今でも抜けきっていなくて当たり障りのない言葉を探してしまう。
だからはっきり思ったことを言えるのは羨ましいし凄い。何も言えないよりはよっぽどいいことだと思う。
でも漆茨さんはそう思っていないのか、ふるふると横に首を振った。
「何も凄くはないわ。私はそうしなきゃ伝えられないだけだから」
「どういうこと?」
「表情を変えられないから顔や仕草じゃ何も相手には伝わらない。だから考えていることを誤解なく伝えるには全てを口にするしかないの。それでも嬉しいとか悲しいとか、感情を伝えてもあまり信じてはもらえないのだけど」
美徳になるはずの素直さは表情が変えられないという制約への対処法という、後ろ向きに出来上がった資質だった。
それは僕にとっての自分から話しかけないという後手の対処と同じようなものだろう。
「他にも自分の考えや気持ちをちゃんと伝えるために色々試してはみた。全身を使って感情を表現してみたりメールやラインでは絵文字をたくさん使うようにしたり、あとは小説を書いてみたり。でも全部ダメだった」
「そうだったんだ」
「いきなりポーズを取っても驚かれるか怖がられるかだったし、絵文字をたくさん使ってもおじさん構文みたいだって言われたっきり何もなかったし。小説を書くのは楽しかったけど時間がかかりすぎて会話には適さなかった。ちなみに樹ちゃんジョークもその一環」
そりゃあそうだろうという感想しか出てこない。
小説に関してはやる前に気付きなよと言いたくなった。
「だから今みたいにはっきり言うようにしているの」
漆茨さんはドアのガラスに映った彼女顔に触れた。
「私からすれば表情を作れるのに本心を隠す方が理解できない。馬鹿だと思う。折角顔で表現できるのに勿体ないと思わないのかしら。もっと分からないのは顔に出ているのに隠そうとしする行為。そんなことしても無駄なのにどうしてわざわざ誤魔化そうとするの。見ていてイライラするわ」
出来るのにやっていない人を見るとモヤモヤするのと似ている様な気がする。それも自分には出来ない領域のことにおいて目の当たりにすると苛立つこともある。
その苛立ちはもしかしたら僕にも向けられていたのかもしれない。
顔に感情が出るという点だけにおいては僕も出来る、というか起こってしまうことだけど、それに対して素直に思っていることを言っているのかというとそうじゃない。
声に出さないことなんていくらでもあるし、そうしなきゃ自分を守れないこともあるから。
漆茨さんからすれば、それは苛立ってしまうことかもしれない。
その感情が間違っているとも思えない。互いの価値観と自衛方法が違うだけだ。
「別に今のは深青里君のことを言ったつもりはない。もっと多くの、ほとんどの人に対して思っていること。でももし自分のことを言われたと感じてしまったならごめんなさい」
「大丈夫だよ。漆茨さんの言ったことも一理あるなと思った」
「でも思ったことをそのまま言って傷つけてしまったでしょう」
「そうでもないかな。今のところは全然平気だよ」
「そう。ならいいけど」
漆茨さんはドアから手を離した。
じーっと真っ直ぐの視線が僕のこめかみあたりに移動してくるのを感じた。
「今日は全然目を合わせてくれないから傷つけたんじゃないかと思って」
「えっ……」
異常なほど収縮したような痛みが心臓に走った。
目を合わせない事に関しては図星だった。
「気持ち悪いと言ってしまったから」
「それは……」
でもそれは違う。
痛みを伴う鼓動が速くなる。収縮で取り込んだ大量の血液を一度で送り出さずに、少しずつ高速で何度も吐き出していくように。
「漆茨さんのせいじゃないよ」
「それともやっぱり私が怖くなった」
声が重なった。
こういう時、思わず顔を見合わせてしまうものなんだろうけど、僕は目を伏せたまま床を睨むことしかできない。
「……もし怖いのなら言って欲しい。傷つけたなら教えて欲しい。私にはあまり話し相手がいないから、話をしてくれることが嬉しくて何も考えず言ってしまったの。でもそれで深青里君が傷付いたのなら謝らなきゃいけないし、私も悲しい」
どこまでも平坦な声でやっぱり感情の一端も籠もっていなかった。前髪越しに見たドアのガラスに映る漆茨さんの横顔にも何の気持ちも映っていない。
でも言葉にだけは焦りと後悔の色が滲んでいる。本当はそんな必要ないし漆茨さんは何一つ悪くないのに、僕のせいで責任を感じてしまっている。
それは嫌だ。誤解させ続けるのはこちらこそ申し訳ないし気分も良くない。なにより漆茨さんが悲しんでいる状況をよしとは出来ない。
でも目を見られない理由をどう話せばいいだろう。
世界線を移動しているだなんて馬鹿正直に話していいのだろうか。
そんな荒唐無稽な話をいきなりして信じてもらえるものなのだろうか。
漆茨さんなら僕と同じように非現実的なことを受け入れてくれるかもしれないけど彼女の無表情とは違って世界線の移動は一見して分かるような証拠がない。用意することも出来ない。
相手からすれば僕が勝手に言っているだけなのだ。
「深青里君はどう思っているの」
「僕は……」
促されて決めた。
難しく考える必要なんてない。ただ今の状況を、感じていることをそのまま素直に話してしまえばそれでいいじゃないか。漆茨さんを傷つけないためにはそれしかない。
そう思うと自然と口から言葉が溢れた。
「本当に漆茨さんのことが怖いわけじゃないよ。僕が怖いのは人の目なんだ。漆茨さんだけじゃない、この世界にいる人全ての目。絵とかは大丈夫だけど写真を含めて人間の目はどうしても直視できない。この前言った僕個人の事情って言うのはそういうことで、髪だって人の目を直接見ないようにするために伸ばしているんだよ。そうしなきゃいけないくらい視線が怖い。怖くてたまらない。漆茨さんの無表情が気にならないくらい、怖いんだ。昨日まで見られたのは漆茨さんの目にはあまり怖さを感じなかったからなんだけど、今日いきなりふと、視線が怖いってことを思い出しちゃったんだ。本当は漆茨さんの顔を、目を見たいんだけどどうしてもそれが出来なくて……。だから本当に僕は漆茨さんのことを怖いなんて思ってないし漆茨さんが責任を感じる必要もないよ。それは信じてほしい」
一息に情けない感情を吐き出した。
一度にこれだけ喋るのに慣れていなくて恥と不安に顔が熱くなった。最後の方は喉が渇いて声は掠れたし震えてもいた。視線は合わせられないままだった。
それでも伝わってくれただろうか。
髪越しに漆茨さんの様子を伺うと固まって僕を見ていた。いきなり長々と喋ったから引かれたのだろうか。それとも頭の中で審議を行っているのだろうか。
言えることがなくなって待っていると「そう」漆茨さんは頷いたようだった。
「それなら良かった。深青里君が私を怖がっていないなら、それでいい」
そして顔ごと身体をドアに向けて俯いた。
「でも隣にいて話ができているのに顔を合わせられないのは少し寂しい」
「うっ……」
そう言われると痛い。
僕としてもできるなら目を合わせて話したいし、漆茨さんが相手なら平気かどうか試したい気持ちもある。
もし漆茨さんでも無理なら、また僕は誰とも合わせられない状態に戻ることになる。そしてこの先もずっとそれを変えられないまま、髪のカーテンの内側から世界を眺めて生きていかなきゃいけなくなるだろう。薄暗い部屋に閉じこもって他人を羨んで過ごすみたいに。
それはやっぱり嫌なことだった。想像するだけでお腹が痛くなってくる。
なら少しくらい頑張ってみてもいいんじゃないか。僕個人のためだけじゃなくて漆茨さんのためでもある。
それに気持ちを吐き出した今なら勢いでやってしまえるかもしれない。
「あ、あのさ頼みたいことがあるんだけど」
「なに」
「見てもいいかな、漆茨さんの目」
「…………」
「じゃなくて見せて欲しい」
ドアに映った漆茨さんが見上げてきた。
「……いちいち聞かなくてもいいわ。改められるとなんだか怖いし恥ずかしくなるから」
「ご、ごめん。でも僕も見たいんだ、漆茨さんの目と顔を。ちゃんと見られるようになりたい」
目を見ないで言ったところで説得力なんてないかもしれない。
でもしっかり伝わってくれたらしい、漆茨さんはじーっと見つめてきた。
「そういうことならいいわ、見ても」
「本当?」
「そもそも許可が必要なことではないでしょ」
「確かに」
あまりに当り前のことを言われておかしくて笑ってしまった。現代日本では人の顔を見るのに許可はいらない。
「すぐに逸らしちゃうかもしれないけど、それは漆茨さんのことが怖いわけじゃないから」
「分かった。いつでもいいわ」
頷く漆茨さんの声を聞いて深呼吸する。昨日まで見ていた漆茨さんの鋭い目つきの記憶を押し出すように長く息を吐く。
心臓に戻ってきた血液に不安と期待が混ざり合い、凄い速さで全身へと送り出されていく。
大丈夫だと自分に言い聞かせながら握った拳が震えているのを感じる。緊張のせいなのか力が入りすぎているだけなのか、それとも両方か。
もう一度ほぅっと息を吐き出して吸い込だ。
そして水に顔をつけるつもりで一息に漆茨さんの顔を見た。
無表情が、パチッと開いた目が僕を見上げていた。
僕の記憶的には四日ぶりに見た赤茶色の瞳は透き通っていて何も映し出していない。ガラス玉みたい綺麗で、喜怒哀楽の感情は一切混じっていない。
その瞳を僕も見つめ返す。
時折瞬きするその目には昨日まで見ていた鋭さの面影はおろか拒絶を示す幻影も灯らない。なんの混じり気のない真っ直ぐな視線が僕の目を射貫いてくるだけだった。たったそれだけのことに途方もないほど感動した。
心臓の高鳴りは安堵に塗り替えられて甘い痛みにかわっていく。
不思議なくらいずっと見ていられる。なんで見ることを渋っていたんだろうと馬鹿馬鹿しくなるほどだった。
もしかしたら漆茨さんから感情が読み取れないからかもしれない。
感情を表出できないから、その視線に何らかの感情が重なって見えることはない。
ゼロに何をかけてもゼロになるように、無感情に喜怒哀楽、何を重ね掛けしても無感情にしかならないみたいな事かもしれない。
あるいは面影は感情が表に出ているからこそ重なるものだからかもしれない。
例えば何個も並んだペッパーくんだとか利香ちゃん人形を見ても同じ商品だと認識こそすれ個々に面影を感じることはないだろう。顔に映し出される感情の機微が面影を形成しているならなる程と納得出来る。
いずれにせよ今僕を見上げている漆茨さんの目には僕の顔以外何も映らず、一切恐怖を感じない。それだけでよかった。
「……そろそろ恥ずかしいのだけど」
「ご、ごめん」
ゆっくり目を開閉した漆茨さんに感情の伝わらない声で言われて慌てて視線を逸らした。
いつの間にかずっと見つめてしまっていた。
意識すると途端に僕も恥ずかしくなってくる。
よくよく考えれば今は電車の中だし、行為だけ見ればなんともないことでも前後の会話を考えると余計に恥ずかしいことをしたんじゃないかと思えてくる。
「でも、ちゃんと見られたわね」
「ありがとう。おかげで漆茨さんとは目を合わせて話せそうだよ」
「……そう、良かった」
見上げてきた目を見つめ返して言うと今度は漆茨さんの方から目を逸らした。
なんだかそれが新鮮で嬉しかった。
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