第二話:怒れる彼女と世界を移動する僕



 白い世界にいた。


 前後上下左右三百六十度、一文字も書いていない文書作成ソフトの画面のように白く光った空間が広がっている。全てが白いため全体の広さがどれくらいなのかは分からない。

 この世界にあるものは三種類。


 一つ目は木でできた観音開きの扉だ。

 重力に縛られず無造作に設置されたようなものが無数に存在している。目線と同じ高さに設置されているものもあれば見上げる場所にあるものもある。空中に固定されているみたいに地面は繋がっていないからどうやって入るのかは分らない。

 そのどれもがあらゆる方向を向いていて、扉がついているはずの壁や枠、蝶番はない。あるのはただ扉だけだった。


 二つ目は崖の一部を切り取ってきたような巨大な石英。空間の白い光を反射してキラキラと輝いていて、見る角度によって赤や青、黄色、そして黒など様々な色に変化する。

 五階建てのビルくらい高く、半径五メートルくらいの幅があり、この世界の中では最も大きい。これがこの世界の中心みたいだ。


 そして三つ目は『ある』というよりは『ない』という方が正しいかもしれない。

 巨大な石英を正面にして立った時、すぐ後ろの一部だけ縦二メートル、横一メートルほど空間の白色が切り取られて緑色のモザイクがかかったようになっていた。表面は揺らめいていてその奥にぼんやりと見えるのはどうやら森のようだ。

 その緑色の四角を横から見ると厚みはなく、後ろに回って見ても世界と同じ真っ白だった。緑色に見えるのは石英のある側だけで、そこだけ空間が平面に切り抜かれているみたいだ。



 明らかに現実には存在しない場所。

 僕はこの場所を知っている。

 いや、知っているというのは少し違うかもしれない。


 ここについて詳しいことは分からないけど、何度か夢で来た事があるから覚えているのだ。

 見始めたのが小さい頃からだったからか、そこにいる僕は小学生になる前くらいの姿をしていた。

 そしてこの白い世界にはいつも僕以外の人が一人いた。

 髪が長い幼稚園児くらいの女の子だ。


 決まってその子は石英の前で膝を抱えて泣いていて、僕はその子の隣に座る。

 そこで僕は何かを彼女に言う。すると女の子は顔を上げて僕を見る。

 さらに僕が何かを言うと彼女は笑顔を作る。その笑顔に僕も笑い返している。

 その声は耳に水が詰まったみたいにぼやけてしまっていて、僕自身彼女に何を言っているのか分からない。


 でも、そんなやりとりをして笑顔を交わして、僕は安心している事は確かだ。

 その心地に身を委ねていると意識は飛んで、次にハッキリする時には目を覚ます。

 


 そんな夢を、久しぶりに見た。

 



   *  *  *




 朝起きると机の上の日記帳が目に入った。五色セットで売っているありふれたB5ノートのうちの、ピンク色の一冊。そんな一冊でも僕にとっては不安を取り除いてくれるものだ。


 以前は寝る前に書いたものを翌朝起きたら読み直すようにしていた。

 今はもう、朝は読まなくなったけど、寝る前に関しては書かないと気持ち悪いから書いている。毎日の歯磨きみたいに完全に生活の一部になってしまったみたいだ。


 昨日は転校初日だけあって内容は分かりやすい。中でも特に漆茨さんのことをメインで書いた。その内容はあまり明るいものじゃなくてどちらかというとネガティブなことだ。

 正直漆茨さんの事をどう捉えていいのか分からないでいる。彼女が表情や声色が変えられないのは受け入れるとして、目を合わせられた事が不思議でならない。


 今日からも昨日と同じように視線を合わせても問題ないのだろうか。

 そんな期待をしてしまう。

 ただ、確証を得たわけでは無い以上は不用意に仲良くするだけの勇気が持てない。

 大丈夫だと高をくくって接した途端に漆茨さんの目に拒絶の色が浮かぶ幻覚が表れたら僕は相当ショックを受ける。そうならないように警戒しておく方がいいだろう。

 そんな後ろ向きな姿勢のまま、僕は登校の準備を始めた。




「何度も言っているじゃないか、髪を染め直して欲しいと。それに制服もちゃんと着なきゃダメだよ」

「はぁ? あたしこそ何度も言ってるでしょ、あんたには関係ないって。あんたが黒髪フェチなだけでしょ」


 ドアをくぐろうとしたところで、教室内の張り詰めた空気に脚が止まった。

 入る前から異様なものは感じていた。下駄箱で上履きに履き替えて教室に向かっている間、進行方向から大きな声が聞こえていたから。

 でもまさか朝から自分のクラスで言い争いが行われているとは思わないだろう。

 一体どんな顔して入ればいいんだろう。


「関係あるよ、俺はこのクラスの委員長だからね。しっかりクラスメートのことは見なきゃいけないんだ」

「前から思ってたんだけどあんたのそういう良い子気取り、本当に嫌い。何様のつもりなの? あたしの保護者にでもなったつもり?」

「気取っているつもりはないし、言ったはずだよ委員長だって」

「そんなのどうでもいいし。マジでウザい」


 中を見ると鞠寺君が女子生徒と言い争っていた。どうやら今日が初めてではないらしい。これまでも何度か頭髪や制服の着崩しを鞠寺君が指摘しているようだ。

 パーマのかかった長い髪を眩しいくらいの明るい茶色に染めた女子は机に座り、見るからに不機嫌そうに溜め息を繰り返している。その間に挟まる舌打ちが苛立ちをありありと表していた。僕の方には背中を向けているから顔は見えないけど鞠寺君を睨んでいるのだろうということは想像できる。


 対して鞠寺君は臆することなく諭すような口調で向き合っている。昨日の優しげな表情は影を潜めて真剣な眼差しで女子を見ていた。

 離れた場所から見ているだけの今でさえちょっとお腹が痛くなっている。

 ただ、一つ気になることがあった。


「というか昨日も言ったでしょ、別にあたし一人好きにしたところでクラスには何の影響もないって」

「今はまだないかもしれないけど今後どうなるかは分からないよ。一人を許せばもう一人、また一人と許さなきゃいけなくなるからね。それに後輩が入ってきたんだ、真似されたら困るじゃないか。僕も昨日そう言ったはずだよ」


 昨日二人がそんな言い争いをしていた覚えはない。僕が挨拶に来るより前にしていたのかもしれない。だとしても、少しくらいはこういう空気を感じてもおかしくなかったはずだ。なのに放課後少し話をした鞠寺君は全くそんなこと気にしている様子はなかった。


 もう一つ、僕は昨日、この教室で茶髪の女子を見た記憶もない。

 教壇に立って挨拶をした時クラス中を見た際、空いている席は僕の分しかなかったはずだから、今鞠寺君と言い争っている茶髪の子もいたことになる。

 けど、僕は覚えていない。

 ただ、その声には聞き覚えがあった。似た声、という方が正しいのかもしれないけど、確かに昨日聞いたはずだ。


「はっ、そんなものあたしの真似なんてするほうが悪いじゃない。というか今後どうなるか分からないって、去年まで誰も髪染めてない小心者の集まりなのに一体今更誰がするわけ?」


 嘲るように笑った女子はクラスメートに問いかけるように教室を見回した。

 その視線が半周回って僕を捉えた瞬間、彼女は「あぁ」とつまらなさそうに目を細めた。拒絶ほど強い意志はないけれど、友好的とはほど遠い冷たい視線だった。


「転校生がいたわね。なんだっけ、深い青色の……」


 僕は目を逸らすのも忘れて思わず「はぁ?」と声を漏らしていた。

 理解が追いつかない。追いつかせたくないという方が正しいかもしれない。

 だってその顔は――。


「ねぇ、聞いているんだけど」

「あっ、えっ……?」


 あまりの衝撃に答えられずにいると「深青里君は関係ないだろう」と鞠寺君が間に入った。

 女子はどうでもよさそうに鼻で笑った。


「そうそう、深青里だった。変な読み方だから覚えられなかったわ。それよりあんた喋れないわけ?」

「……うっ」


 昨日聞いた声に似ている理由は簡単だった。その顔を見ればしたいかどうかにかかわらず納得せざるを得ない。

 彼女の赤茶色の目を呆然と眺めながら、僕は声を震わせた。


「漆茨、さん……?」


 ガラス玉みたいな赤茶色の瞳。控えめな鼻も口も記憶の中の漆茨さんと一致している。

 でも作り物じみていたはずの顔には、今は分かりやすいほどの不快感が張り付いている。昨日はパッチリとしていた目も不機嫌そうに鋭く尖っている。

 そのせいなのか不思議なくらい面影はなかった。別の漫画家が描いた同じキャラクターを見ているみたいだ。

 漆茨さんと瓜二つの顔をした女子は髪をかき上げながら冷笑した。


「なんだ、ちゃんと喋れるじゃん。ていうか、あたしあんたに名前教えたっけ?」


 暗に肯定する問いかけだった。目の前で不快そうな顔をしている女子は漆茨さんで間違いないらしい。

 だとしたら昨日の漆茨さんはなんだったんだ。たった一日でどうしてこんな風になったんだ。

 いや、以前からずっと、目の前の漆茨さんは茶髪だったみたいじゃないか。昨日話していた漆茨さんは黒髪のショートヘアだったのに。


 それに声の抑揚も表情も情緒溢れる機微を見せている。昨日駅で話した漆茨さんとは似て非なる振る舞いだ。

 もしかして双子?

 いや、そうだとしても同じクラスの漆茨さんの表情や容姿がまるっきり変わっている説明はつかない。

 でも、なら何が?


 考え出すのと同時に一つの可能性が頭をよぎって呼吸が止まった。急に僕の周りから空気がなくなったみたいに酸素が入ってこない。空気の入れ換えが出来なくなった口が震え始める。

 もしそうなら漆茨さんの人が変わったようになっている説明はつく。

 でも、だけど、まさか、そんな。


「ちっ。まただんまり決め込むのかよ」


 漆茨さんの目が鋭さを増して僕を睨め付けてきた。冷や汗が吹き出てきて、僕は答えられないまま視線を逸らした。

 それが気に入らなかったのか、彼女は机から降りて僕の方に歩いてくる。

 異常を知らせるビープ音が頭の中で鳴り響き、心臓の拍動が急上昇する。熱い血が勢いよく吐き出されて全身を駆け巡るのに身体はどんどん冷えていく。温度差で身体の内側に痛みが走る。


 まだアレが起こったのだと決まったわけじゃない。

 でもこの現象を説明する要素はあっても否定する材料がない。唯一あるとしても、数年間ずっと起こらなくなっていたからもうないだろう、なんて楽観的な希望だけ。


 頭の中で否定材料を探している内にも一歩一歩、漆茨さんと現実が迫ってくる。

 薄暗い路地を逃げながら、ゴミ箱とか鉄パイプとか、なんでもいいから倒して障害物にできるものを探している心地になる。


「まぁどうせ鞠寺から聞いたとかそんな感じだろうけどさ、自分で答えられないわけ?」


 まともな案が浮かぶ前に漆茨さんが目の前で立ち止まって胸倉を掴んできた。

 逃げ切れなかった僕は真正面から攻撃的な目に射貫かれる。

 至近距離からの鋭利な視線には髪のカーテンはあまり上手く機能しなかった。


「……も、もしかして、これ全部、い、樹ちゃんジョークか、なにか?」


 見返せないままなんとか絞り出せたのは、バカみたいに震えた空虚な問いかけだけだった。

 もし樹ちゃんジョークなら絶望的にセンスが悪い。

 でも漆茨さんならあり得るなんて思いたがっている。そうであってと切望している。

 そんなことないと分かっていたって、ミリ単位で残った最後の希望を信じたい。


「あんた、馬鹿にしてんの? キモいんだけど」


 あっさりだった。薄っぺらい願いは刃物みたいに鋭い言葉に切り捨てられた。

 逃げる僕に追いついた黒い現実は僕を飲み込んで押し潰そうとしてくる。

 やっぱりだ、もう、受け入れるしかない。諦めるしかない。

 冷たい現実だけが沈黙と共に横たわる。


 呼吸が荒くなる。いくら吸っても酸素を取り込めている気がしない。目眩もしてきた。

 何も言えなくなった僕を、漆茨さんは観察するように睨んでくるだけだった。

 頼むから漆茨さんと同じ目でそんな視線を向けないでくれ。瞼に、脳裏に焼き付いたらどうする。折角目を合わせられるかもしれなかった漆茨さんの目も見れなくなるじゃないか。

 為すすべもなく床を見つめて耐えていると鞠寺君が庇うように間に入ってきてくれた。


「深青里君に当たるのはやめてくれないか」

「ちっ。ちょっと挨拶してただけでしょ。何が悪いのよ」

「今のは挨拶とはいわないだろう。それにまだ俺との話が終わっていない」

「あたしはあんたに用なんてないんだってば」

「俺があるんだよ。ずっと言っているようにね」

「本当にうざい」


 目を怒らせていた漆茨さんは舌を打ち長々とわざとらしいため息を吐いた。


「マジ冷めた。もういい、帰る」


 そして吐き捨てるように言うと、自分の席にかかった鞄を回収して反対側のドアから出て行った。

「ちょっと待ってくれ」と制止する鞠寺君の言葉は張り詰めた空気に弾かれ、彼女には届かないまま宙を舞って床に落ちた。


 鞠寺君の諦めたような溜め息が揺らぎを生んで教室の空気は徐々に弛緩していく。やっぱ漆茨さん怖いわ、とか鞠寺君流石だねとか、でもほっとけばいいのに、とかそんな声が聞こえてくる。

 クラスメート的にはどちらかというと触らぬ神に祟りなしの考えらしく、聞こえてくる声は鞠寺君がちょっかいかけなきゃいいのに、という方が大きいように思える。


 それが聞こえたのか、振り返った鞠寺君は気まずそうに肩をすくめた。


「……すまなかった深青里君。巻き込む気はなかったんだけど」

「う、ううん、鞠寺君は悪くない、から」

「そうか……。それより大丈夫かい? 俺のせいなんだろうけど顔色が凄く悪いよ。息も荒いみたいだ」

「……うん、大、丈夫」


 息も絶え絶えになりながらの答えに納得していないのか鞠寺君は「でも」と顔を覗き込んでくる。

 本当に目眩や息苦しさは漆茨さんのせいでも、ましてや鞠寺君のせいでもない。

 目の前に広がる理不尽な現実に押し潰されそうになっているだけだ。

 染み込んで消えない、記憶の底に刻まれた異常現象。



 アレ――世界線移動が起こったという現実に。



 血の気が引いて歪んでいた視界が暗転する。

 襲ってくる寒気が身体から力を奪って、僕は崩れ落ちた。

「深青里君っ!」

 近くで叫ぶ声は、水中で聞いているかのようにぼやけていた。




   *  *  *




 初めて平行世界に移動したのは小学生になる前だった。


 今でこそ違う世界線に移動したのだと分かったけど当初は何も分からなかった。

 朝起きたら寝る前とは少し違う部屋にいたのだ。掛け布団のシーツの色が変わっていたり家具の場所が違っていたり、本棚の並びが違っていたり。部屋の広さや場所は同じながら細かいところが変わっている。

 僕が寝ている間にお母さんかお父さんがやったのかと思ってご飯の時に聞いてみたら、そんな事していないと言われた。シーツを交換したらのならその時に気付くでしょと笑われたのを覚えている。そうかもしれないと納得した僕は、でもリビングと食卓の家具も変わっている事に気付いて怖くなった。


 変化はそれだけじゃなくて、幼稚園に行くと知らない子がいたり、知っている先生がいても髪型が変わっていたり昨日やった事を覚えていなかったりした。話す内に昨日の事を覚えているのが自分だけだと分かった時はきっと僕がおかしくなったんだと思った。

 夢かとも疑ったけど次の日も変化したままの状態が続いていた。


 しかしその二日後、朝起きると世界はまた変わっていた。戻っていたという方が正しい。

 何事もなかったみたいにいつものベッドの上にいて、シーツの色も家具の位置も本棚の本も元通りに戻っていた。

 もう一度夢だったのかと疑ってカレンダーを見て、両親にも聞いて日付を確認したけど、実感通りに時間は過ぎていた。

 よく分からない世界にいた経験は夢でも何でもない現実だと悟った。


 それからというもの、僕は何度も唐突に世界を移動するようになった。

 朝起きたら違う自分の部屋にいて、自分の名前は同じながら交友関係や周囲の環境がズレた世界で過ごした後に、また元の世界に戻ってくる。そんな生活を繰り返した。


 そうする内に分かったことは、世界線の移動は自分の意志では起こせない事、朝起きた時に移動して自分の部屋から始まる事、三日で終わる事、必ず元の世界に戻ってくる事、そして他の世界にいる間も元の世界は同じように時間が経過しているという事だ。


 例えば空の色が青じゃない世界とか使われている文字が全部化けてしまっているとか知らない言語を使っているとか、ネットでよく聞く平行世界のような場所には行ったことがない。

 他にも科学技術が大きくズレていたり人類が繁栄していなかったり、倫理観がかけ離れていたり掴まって実験に巻き込まれたりとか、そんな世界にも巡り会っていない。

 スマホはスマホだし学校は学校、僕は僕で住んでいる場所も変わらない。

 運が良いのか分からないけど僕が移動する世界は、ほとんど同じながら少しだけ何かが変わっている、その程度しか隔たりのない、いわゆる世界線が近い所ばかりだった。


 とはいえもちろんその世界線の移動がいいことかというとそんなことはない。

 よっぽど命の危機に直面する事はないけど、人間関係はぐちゃぐちゃになった。

 それはそうだ。世界線を跨いでしまえば周りにいるのは姿形と名前は同じの、昨日までとは全く異なる経験をしてきた人なのだ。話をしようにもズレが生じて自分だけが除け者になる。


 中でも僕にとっての親友という存在が壊れたのが一番ショックだった。

 あの時僕は移動した先の世界線でいつも通り親友に話しかけたつもりだった。

 でもその世界では僕と彼は親友でも何でもない、むしろ仲が良くない関係だったらしい。

「なにいきなりなれなれしく話しかけてきてんの?」と低い声で睨まれた。

 昨日まで優しく笑いかけてくれていたはずの彼が、同じ顔で同じ声で、同じく口調で真逆の凍り付くような目を僕に向けてきた。


 それだけのことだ。

 でも僕はその目を忘れられない。


 確かに不用意に話しかけたのは僕だから悪いのも僕だ。けど、僕だって好きでこっちの世界に来たわけじゃないんだよ。そう泣きたくなった。

 もちろん、他の世界全てで彼が僕に冷たかったわけじゃないし優しい彼にも何度も会った。

 仲の良い彼と会えてもどこかズレて温度差のある会話に快適さなんてなく、次第に言葉が続かなくなって息苦しさを感じるようになってしまう。


 当然彼だけじゃなく周囲の人全員との間にもどうにもならない隔たりは生まれて、僕は一人異物として存在するようになってしまった。 

 そんなことが続くうちに僕は誰と仲が良くて誰とは悪くて、相手がどんな人なのか分からなくなった。色んな世界線にいる同姓同名の人達が重なり合ってごちゃごちゃになり、話をする事が怖くなった。


 だから会話するにしても自分からは決して話しかけないことにした。相手から話しかけてくれば、その口調からなんとなくその相手と自分がどんな関係だったのか察することができるから。


 それよりも僕は目が怖くなった。昨日までは優しく話してくれていても今日はどんな目を向けられるのか予測が出来ない。どんなに優しい目を向けられても拒絶するような冷たい瞳を垣間見てしまう。どうせ明日にはこんな視線を向けられるんだろうという被害妄想が僕の心を縛り上げるようになった。

 だから僕は誰とも目を合わせないように俯いて、話しかけられた時だけ口を開く人になった。

 髪で目元を隠すようになると話しかけられる回数は減り、同じように友達も減っていくとやがて誰もいなくなった。



 なんの対策もしなかったわけじゃない。

 移動するようになってしばらく経ってから、僕は元の世界では毎日日記を書いて寝る前に机の上に置くようにした。起きた時に日記があるかどうかで世界を移動したのかどうか判断できるように。

 違う世界に移動してしまっても、戻ってきた時に日記があればすぐに戻ったことが分かる。

 そのおかげで朝の時点で身構えることができるようになったし、前日までに起こっていた事を読み返せば経験していなくても知ることなら出来た。


 ただ、それだけではどうにもならなかった。

 自分がいるのが元の世界だと分かっても目の前にいる人はすでに他の世界のその人と交ざり合っていたから喋り方が分からない。


 話して相手の事を思い出せたとしても翌日に違う世界にいたら知らない人になっているのだし、元の世界に戻った時には他世界のその人と混同してしまう。

 そうやって他者に対する明確な軸を失った僕は文字通りの人間不信に陥って一人になった。



 しかし、始まるのが唐突なら終わるのも唐突だった。


 孤立して日々世界というものに怯えながら過ごして四年経った頃、小学四年生になると同時に僕の家族は引っ越して東京で暮らし始めた。住む場所が変わったからといって人付き合いに対する恐怖は変わることはなく友達は出来なかった。


 でもある時、世界線の移動がいつの間にか起こらなくなった事に気が付いた。

 それまでは一週間移動がなければ良い方だったのに、一月経っても二月経っても移動することがなくなった。


 そのあとすぐに人付き合いに対する恐怖心が無くなったわけじゃない。相変わらず目を見るのが怖いのは変わらなかったけど、徐々に人間不信は薄らいでいった。

 根暗なだけのごく普通な中学生らしく、やがて高校生らしく過ごせるようになれていた。


 終わってみると、きっとあれは幼少期に現れる不可思議な力だったんだなと思った。

 例えば大人には見えない物が見えたり聞こえない音が聞こえたり、前世の記憶を薄ら覚えていたり、少し先の未来が見えたり直感が冴え渡ったり。小さい子供は時々何らかの力に目覚める事があるらしい。

 僕に起こった世界戦移動もつまりは何らかの不可思議な力の一端で、成長するうちに消えてしまったんだと、納得して安心した。 

 記憶の奥底に染み込んで消えることはなくても、過去のこととして気にしすぎる必要はなくなっていた。



 なのに今更、木ヶ暮市に戻ってくることになって奥底にしまっていたはずの記憶が呼び起こされて、しかも起こらなくなっていたはずの世界移動が起こってしまった。

 しかも最悪なことに最初の移動で一番変わっていたのは、攻撃的に変わってしまったのは漆茨さんだった。

 僕にとって救いになるかもしれなかった彼女の冷たい目が僕の心に刻み込まれてしまった。




   *  *  *




 目を覚すと真っ白い天井に消毒薬だろうか、ツンとする薬品の臭いが漂っていた。

 保健室だろうか、冷や汗でじっとりと湿った背中にベッドの固い感触が伝わってくる。


「よかった、目を覚ました」


 天井を見つめて瞬きしていると倒れた僕を運んでくれたのだろう、鞠寺君が心配そうに覗き込んできている。


「貧血みたいだからそこまで心配しなくてもいいと思うよ」

「……ごめん。迷惑をかけちゃったみたいだね」

「悪いのは俺の方だよ。漆茨さんと話をするタイミングを間違えて深青里君を巻き込んでしまったんだから」


 そんなことないよ、と言いそうになったけど、そうしたところで鞠寺君の謝罪は延々繰り返されそうだったからやめた。

 鞠寺君は漆茨さんほど元いた世界の彼との違いは無いみたいだった。話しやすいけど、きっと何を言っても自責の念を転がし続けそうだ。


「……あ、あの、漆茨さんって前からこうなの?」


 誤魔化すようにふと思いついたことを聞いてみた。

 今でさえまだ「いや、今日からだよ。昨日まではずっと無表情だったんだけどいきなりイメージを変えてきたみたいで」そんな風に答えてもらうことを期待しているのかもしれない。

 どんな風に心配してもらうよりもたったそれだけの返答が僕を救ってくれる。

 けれど分かりきっていた通り救いなんてない。僕を飲み込んだ現実は淡々と心をすり潰してくる。


「中学二年生の頃からだよ。それまではもっと明るくて真面目だったんだけどね。なんというか、彼女もどちらかというと被害者側なんだよ」

「…………」


 迷ったように視線を彷徨わせてから鞠寺君は声を小さくして言った。

 そして沈黙を促しと捉えたのかさらにトーンを落として続ける。


「小学生になる少し前から漆茨さんには父親がいなかった。母親からは亡くなったと言われていたみたいなんだ。でも実際は母親の不倫で離婚していたみたいでね、彼女は中学二年生の時にそれを知ってしまった。それ以来今みたいに変わってしまったんだよ」

「……そうなんだ」


 こんなことを簡単に教えてもいいのかと思ったけど、周知の事実だからいずれ僕の耳にも入るだろうと見越してのことかもしれない。もしくは僕を巻き込んだという負い目と漆茨さんを一方的に悪者にしたくないという彼なりの優しさが話をさせたのかもしれない。


 どちらにせよ鞠寺君の話は、漆茨さんが昨日よりもっと以前から不機嫌に目を尖らせる人であり昨日僕が話をしていた漆茨さんとは別人であることを裏付けるには十分なものだった。

 それは間違いなく僕が世界を移動した事を意味している。

 思わず吐いた溜め息が気になったのか鞠寺君は目を伏せた。


「転校早々にあんな風に詰められたら気分悪くなるよね。本当に俺の配慮が足りなかった」

「い、いや、確かに驚いたけど本当に鞠寺君や漆茨さんのせいじゃないから。なんというか……昔あった嫌なことを思い出しただけで、僕が勝手に貧血を起こしただけだから」


 勝手に貧血は起こせるものなのかは分からないけど僕なりにフォローを入れてみたけど、あまり効果がないのか鞠寺君は苦笑するだけだった。

 まずい、逆に気を遣わせてしまっている。

 どうすれば自責の念を解消してくれるだろうか。

 というか、どうすればこの気まずさがどこかにいってくれるだろう。

 そんなことを考えていると予鈴が鳴った。


「僕はどれくらい寝ていたの?」

「そんなに長くはないよ。ちょうど今ので一時間目が始まったところだ」


 となると二十分程度だろう。付き添いのせいで鞠寺君が授業を休んでいるわけではなさそうだ。

 でももう遅刻は免れない。それ以上の迷惑をかけるのは避けたい。


「僕はもう大丈夫だから鞠寺君は教室に戻って授業受けた方がいいよ」

「さっきも大丈夫と言っておいて倒れたけど、本当に大丈夫かい?」

「うっ、それは……」


 確かにそうだ。正論過ぎて反論できない。


「で、でも………ほら、まだこうやって普通に話せる人、鞠寺君しかいないから、授業のノート見せてもらえる人鞠寺君以外にいないんだ」


 口の動くままにそれっぽいことを言うと、上手く鞠寺君の責任感に刺さってくれたのか鞠寺君は腕を組んでそうか、と唸った。

 ほどなくして立ち上がると「じゃあ、俺は行くけど深青里君はしっかり休んでから戻ってくるんだよ。授業は代わりにしっかり受けておくから」そう言って保健室を出て行った。

 几帳面な性格らしく、音を立てないようにゆっくりとドアを閉めていた。

 完全に閉まりきるのを確認して、さらに五秒ほど待ってから僕は詰まっていた息を大きく吐き出した。


 一先ず状況を整理する。

 僕は今日、世界を移動してきた。となると三日間はここで過ごす必要がある。

 あの不良っぽくなった漆茨さんと同じ教室で過ごさなきゃいけないことを考えると、とにかくすぐにでも元の世界に戻りたいけど諦めるしかない。

 でも戻ったところで昨日みたいに僕は漆茨さんと向き合うことができるだろうか。うっかりいきなり今日浴びた彼女らしくない睨む視線が視界に浮かび上がってこないだろうか。


 ……というか待てよ。

 そもそも今いる世界が移動先といって本当にいいのだろうか。

 少なくとも学校に来るまで僕は世界が移動したことに気付けなかった。学校に来て漆茨さんを見ないと気付けないほど近い世界線ということになる。となると、春休みの間に世界を移動していて、今日帰ってきたばかりだという可能性も否定できない。


 もしそうだったら。


 考えるだけで心臓が震え上がった。胸倉を掴まれた時の感覚が蘇る。

 ただ、この世界移動は必ず一度元の世界に戻る。移動先の世界からまた別の世界に移動することはない。

 三日後に昨日いた世界線、つまり昨日話した無表情の漆茨さんがいた世界に戻っていればそっちが僕がいるべき元の世界だということになる。

 次の移動でまた別の世界にいればここが元の世界だということになる。

 それは避けたい。絶対に避けてほしい。ただでさえ世界の移動なんて非現実的で理不尽な目に遭っているのに教室が荒れやすそうとなると、もう僕は引きこもるしかなくなる。


 背中の湿ったが気持ち悪い。

 僕は長く長く息を吐いて目を閉じた。

 気疲れのせいなのか、すぐに眠気に包まれて意識を手放した。


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