不気味の谷に『?』が咲く

秋波司

第一話:無表情な彼女




 木ヶ暮市こがくれしに戻ってきたくなかった。

 それは転校生としての挨拶を控え廊下にいる今でさえまだ、往生際悪く思っていた。


 その名前を聞いて蘇ってくるのは黄ばんだシャツみたいに染み込んで取れなくなった嫌な記憶。そういう記憶の黄ばみは色んな新しい記憶を重ね着して見えなくするか、成長に合わせて服を新調するように自然と忘れていくしかない。

 けど僕はどちらもできないままたった一枚しかないシャツに染み込んだ汚れを隠すように生きてきた。そのせいで他人の目が怖くなって堂々と人付き合いができないまま、いい思い出も記憶も作れなかった。


 今となってはその汚れがついた原因はなくなった。だから気にする必要なんてない。それなのにシャツが汚された瞬間の背筋が凍る感覚を、僕は忘れられなかった。

 帰郷することが決まった時からずっと、その冷たさが僕の背中に張り付いている。

 だから、戻ってきたくなかった。


 四月になったのに廊下の空気はやけに冷たく張り詰めているように感じて居心地が悪い。細かく震える吐息は僕の心をそのまま映しているように頼りない。

 それを落ち着けるように自分に言い聞かせる。無駄だと分かっていても繰り返す。

 もう大丈夫なはずだ。もうアレは起こっていないじゃないか。幼い頃だけ幽霊が見える現象と同じような幼少期頃特有の不思議な出来事だったって結論が出ただろう。


 だから高校二年生になる今、もう気にすることじゃない。シャツの黄ばみなんて気にせず他人の目に怯える必要はない。

 これからは普通に過ごせばいい。高二デビューするつもりで誰かと仲良くなって友達を作っていこう。

 何度言い聞かせても、それらの言葉はどれも虚しく心を透過していくだけだった。

 その無駄な行為を繰り返していると教室のドアが音を立てて開き、中から担任の男性教諭が顔を覗かせてきた。


「お待たせしました、深青里みおさと君。入ってください。挨拶をお願いします」

「はっ、はい……」


 思わずビクッとしてしまいながら、あの時から伸ばしっぱなしにしている前髪越しに面長の顔を見返す。先生は穏やかに「さぁ」と促してきた。


 どれだけ憂鬱でも逃げられない。

 きっと嫌な記憶に縛り付けられながら今まで通りのつまらない学校生活を送ることになるんだろうな。

 そう諦めを抱えて教室に入った瞬間、僕は動けなくなった。

 引いていった血の気が膝から下に全部溜まってしまったみたいに脚が重くなった。次の一歩を踏み出せない。真っ白になった頭からはどう絞り出されているのか冷や汗が噴き出していく。


 じーっと見られていた。

 じーーっと真っ直ぐ、赤色にも見えるほど明るい茶色の双眸が向けられていた。

 それ自体は何もおかしくない。他の三十人近い生徒たちだってみんな僕の事を見ているし転校生が入ってくれば誰だって見るはずだ。興味や期待、緊張や無関心が込められた目を向けるのは当り前だ。

 ただその中で、廊下側の左端、前から二番目の席に座った女子生徒のじーーーっ! という眼差しは明らかに異様で、僕が頼りにしてきた前髪のカーテンを貫通して突き刺さってくる。


 模様のない透き通ったガラス玉を丁寧にはめ込んだような赤茶色の瞳。そこから伸びてくる視線は純水みたいに澄んでいた。

 綺麗だけど、それはあまりにも澄みすぎていて感情すら混ざっていそうにないのだ。

 嬉々とした色もなければつまらなさそうな陰りもない。いっそおぞましい程の『無』が僕の方を向いている。

 それは目だけじゃなくて表情も同じだった。マネキンだとかアンドロイドだとか、そういうものを連想させる生気のない完璧な無表情。まるでフェイスラインを隠す黒いショートボブの髪が感情まで覆い隠してしまっているみたいだ。見ていてそこはかとなく不安になる。


 なんていうだっけ、こういう人工的なヒトの顔を見た時にゾッとしてしまうこと……そうだ、不気味の谷現象だ。人の顔に似せたものを作っている最中、似ている度合いがある一定のラインを越えた時に急におぞましく見えるという、あの現象。

 まさか人間相手に感じてしまうものだとは思わなかった。いや、僕が失礼すぎるだけか。

 でもそう感じてしまうくらい彼女の顔は作り物然としていた。

 僕はその異様な怖さをまとった瞳から目が離せなくなっていた。


「深青里君? どうかしましたか?」

「あっ、いえ……」


 担任の先生の声に意識が引き戻され、慌てて教壇に上がった。

 そして黒板に自分の名前を書いて教室を振り返る。

 目を直接見ないように髪の隙間から教室中を伺うとみんな漏れなく僕を見ていた。

 心臓と胃が絞られるような冷たく苦しい感覚が走った。

 この視線がたまらなく怖い。真正面から直接受け止められない。例えどれだけ優しい目だとしても僕にとっては全てメデューサの魔眼みたいに恐れる対象だ。


「み、深青里みおさと柊一郎しゅういちろうです。よろしくお願いします」


 言って頭を下げると、黒板の文字と同じ情報量しか持たない挨拶に盛大でもまばらでもない拍手が返ってきた。

 えっ、それだけ?

 拍手の中にはそんな感想がこもっているような気がした。

 そのせいなのか僕の挨拶を補足するように先生が紹介を重ねていく。


 僕が東京から来たこと、小学四年生までは木ヶ暮市に住んでいたけどその時は北側の田舎じゃなくて南の都会側にいたこと、田舎は初めてだろうから案内してあげてほしいということなど。

 それを他人事のように聞きながら僕は教卓の天板に広がる木目調を目でなぞっていた。 

 その間も、じーっと、あの無色透明な視線が向けられているのを感じた。

 他のみんなのものとは明らかに違った何も籠もっていないあの視線。

 もちろん見返すことなんて出来ないしそんな気にもならない。


 あれっ、でもどうしてさっきは普通に見つめ返せたんだろう。他の人と目が合った時はすぐ逸らしてしまうのに。

 普段なら感じる怖さが別の恐怖で上書きされたからだろうか。黄ばんでしまった部分に墨汁を垂らして汚せば元の汚れは見えなくなる、みたい強引なやり方で。

 気になりはするけどもう一度見る勇気は僕にはない。

 嫌な感覚を誤魔化すように教卓の模様を視線でなぞり続けた。




 帰る準備を始めた時だった。


「深青里君、このあと時間はあるかい?」


 顔を上げると前の席に座る黒縁眼鏡の男子、鞠寺まりでら章俊あきとし君が振り向いてきていた。


「良かったら一緒に昼食でもどうかと思ってね。選択肢は学食か駅前のマック、あとは道中のカフェくらいしかないから都会で暮らしていた深青里君にはもの寂しいかもしれないけど」


 今日は始業式とクラス委員を決めるホームルームのみの日程で、ついさっき十二時を越えたところで下校の時間になった。昼食を食べていくには丁度いい頃合いだ。

 だからわざわざ鞠寺君は誘ってくれたのだろう。

 彼が優しいことは、そして責任感を持っていることはこの数時間だけでも十分に伝わってきた。


 始業式の時も体育館に案内してくれたし、委員決めでは真っ先に立候補して委員長になってはその後のホームルームを仕切っていた。

 みんなの係を決めていく鞠寺君の様子は手慣れていて堂々としていたし、周りもそれが当り前みたいに受け入れているようでもあった。

 きっと鞠寺君は小さい頃からずっとクラスの中心で仕切る側として過ごしてきたんだろう。

 さらに面倒見もいいのか目を合わせず話すにも相槌を打つくらいしかしない僕相手でも今なお気にかけて優しく話しかけてくれている。

 もしかしたら席が前後というのもあって、僕をクラスに溶け込ませようという使命感がより強くなっているのかもしれない。


「えっと……」

「もちろん都合が悪かったら断ってくれて構わないよ」


 僕が返答に困っているとそう付け加えてきた。

 このあとの予定なんて何もない。ただ帰ってダラダラするだけ、せいぜいやるとするなら本を読むくらいだ。

 そういう意味では断る理由はない。むしろ良好な関係を築きたいのならこの好意を素直に受け取る方がいい。


 髪の向こうに見える彼の目に、厳密には眉間と鼻の中間辺りに目をやった。

 眼鏡の向こうからこちらを見据える目は柔らかく細められているみたいだ。一切攻撃性はなく、表情も同じように和やかに緩んでいる。雰囲気通りの優しさが伝わってくるような微笑みだった。


 鞠寺君ならもしかしたら怖くないかもしれない。

 そんな何度してきたか分からない淡い期待を持ちながら視線を眉間辺りから少し横にずらして彼の瞳に焦点を当てた。

 その瞬間、同じ極を近づけた磁石のように反発して僕の目は机を見ていた。

 遅れて胸に冷たいものが流れ込んできた。

 やっぱり無理だ。僕には出来ない。


 凍えそうになりながら思い付くままに声を絞り出す。


「……ごめん。まだ荷物の整理が終わっていなくて、今日は続きをやりたいから」

「あぁ、そっか」


 鞠寺君はハッとして申し訳なさそうに眉を下げて笑った。


「ははっ、気が回っていなかったよ。そうだよね、引っ越してきて間もないのだから荷物の片付けがあるのは当然か。俺の都合ばかりで誘ってしまって悪かったよ」

「悪いのは僕の方だから……」

「ならまた今度、落ち着いてからお互い埋め合わせのつもりでどこかへ行こうか」

「うん、分かった」


 笑いかけてくれる鞠寺君に対して、僕も努めて笑い返す。その間も僕は彼の目ではなくて額を見ていた。

 やっぱり鞠寺君は優しい。一方的に悪い僕に対して自分も悪かったと気を使って謝ってくれている。その言葉が良い意味でも悪い意味でも心に染みてくる。


 本当はとっくに片付けは終わっている。やることなんて正真正銘ない。

 でも僕は嘘をついて彼を遠ざけた。

 彼の瞳に拒絶の色が灯る幻覚を見てしまったから。

 胸に入り込んだ罪悪感が身体を冷やす。どんどん居心地を悪くさせていく。一方的に気まずさを感じて逃げ出したくなる。


「そういえば以前木ヶ暮に住んでいた時は南側だったんだよね。ということはこの学校には知り合いはいないのかな?」

「そうだね。いないはず」


 木ヶ暮市は南北に長く、端から端までローカル線で繋がっているものの行き来するには四十分以上かかる。

 北側は市唯一の観光スポット、木ヶ暮山から連なる自然に囲まれているのに対して、南側はターミナル駅を中心に駅ビルやショッピングモールが建ち並ぶ所謂都会。

 中部から南部には学校が多く、逆に北部はここ、木ヶ暮北高校しか高校はない。

 自然ばかりの田舎と娯楽に溢れた都会、高校生がどちらを選ぶかは明白だ。

 だから逆はあっても、元々南に住んでいた僕と同じ小学校に通っていた人がここに来ている可能性は限りなくゼロに近い。

 仮に北高を選ぶ物好きがいたとしても僕と知り合いではないはずだ。

 今鞠寺君の好意を無碍にしたみたいに、小学生の時から他人とは距離をおいていたから。


「やっぱりそうか。街の方から北高に来ようとする人はそういないよね。来るとしても観光目的で木ヶ暮山に登りに来るくらいだろうさ」

「そうかも」


 実際、僕もここに住んでいた頃、北側に来たのは一度だけだった。

 小学生になる少し前に市が主催した遠足会があって、そのコースが木ヶ暮山だったのだ。小さかったこともあってほとんどその時の記憶はないけど、行ったことだけは覚えている。

 逆にその遠足以外ではこちら側に来たことはなかった。それこそ鞠寺君の言った通り、南側の人が北側に来るなら山に登って自然を満喫する時くらいなのだろう。


「冗談でも否定して欲しかったところだな、今のところは」

「ご、ごめん」


 可笑しそうにクスクスと笑った鞠寺君は掌をこちらに向けてきた。


「でも、知り合いがいないならなおさら仲良くしてくれると嬉しいよ。田舎の生活に慣れるのは大変だろうからね」

「う、うん、ありがとう」


 何のことか分からず上げられた手を見ていると「深青里君も上げて」と促された。

 同じように手を上げると鞠寺君はパチンと手を打ち付けて、それじゃあまた明日、と教室を出て行った。

 最後に一瞬だけ見た鞠寺君の目は依然優しく緩み、これが何の前触れもなく拒絶するような攻撃性を孕むなんて思えなかった。僕がよっぽどのことをしない限りはそうなるはずもない。

 そんなこと頭では分かっている。それでも心は理解してくれない。いつまでも引きずり続けている過去が僕に幻覚を見せ、縛り付けてくる。


 仲良くした先で拒絶の念を向けられるよりもこちらから距離を置いておいた方が安心できるだろうとそれらしいことを言って、仲良くしようと踏み出す事を躊躇させる。

 大した力じゃなかったはずなのに、打ち合った掌がやけにジンジンと痺れて痛かった。




 逃げるように居心地の悪い教室を出て十五分ほど歩くと最寄り駅に着いた。

 春の陽気の中、無意識に早歩きになっていたせいなのか額には汗の膜が張り、息も軽く切れている。普段あまり運動をしない事も原因の一つだ。


 ただ、適度に疲れたおかげで罪悪感と掌の痛みはいくらか薄れてきていた。

 ハンカチで額を拭いながら息を整えて無人の改札を通り過ぎる。

 ホームの真ん中辺りまで歩いて行く途中で「あっ……」小さな声が聞こえた。

 その声に顔を上げた僕は「あっ……」同じような声が出た。


「深い青色の……転校生」


 あの無表情の女子生徒が立っていた。

 その声色は表情と同様にほとんど温度を感じない透明だった。

 高い位置で伸ばしたピアノの『ソ』の音みたいな、あるいは洞窟内で水たまりに落ちて響いた水滴のような透き通った綺麗な、でも一本調子で抑揚のない声。

 そんな声はおそらく僕の事を呼んだらしい。でも漢字しか覚えていないようでなんだか化け物か何かのアバターみたいな青色の肌をした転校生みたいになっている。

 その間抜けな響きのおかげか今朝ほどの怖さはなく……いや、怖いけど、言葉を返すことが出来た。


「み、深青里です」

「そう、深青里君だった」

「ごめん、読み方ちょっと変わっているよね」

「いえ、こちらこそ覚えていなくてごめんなさい。それよりよかったら、隣」

「う、うん……」


 彼女は相変わらず無表情で僕をじーっと見つめながら自分の隣をちょんちょんと指さした。

 言葉が長くなった分、より平坦な喋り方が気になった。ドラマやアニメで棒な演技という表現があるけど、それを極限まで突き詰めるとこうなりそうだ。もしかしたら券売機やスマホの自動音声よりも感情が籠もっていないかもしれない。


 そしてなによりその無表情もやっぱり不気味だ。喋ると口だけが動いて他はピクリともしない。そこに声も合わさるとさらに人間味が薄れ、本当にアンドロイドの類いなんじゃないかと疑ってしまう。

 その作り物みたいな顔を見ている内に目が合いそうになった。慌てて逸らして彼女の隣に立った。

 彼女は女子の中でもやや小柄みたいだ。平均より小さい僕の鼻先くらいの高さに頭頂部がある。

 そういえばまだ名前を聞いていなかったっけ。そんな僕の考えを読んだみたいに透明な声がした。


「私は漆茨うるしいばらいつき。よろしく」

「うん、よろしくね、漆茨さん」


 よろしく出来る気はあまりしないけど社交辞令的に言わなきゃいけない。真っ直ぐ見上げてくる彼女の額を見ながら返した。

 漆茨さんは小さく頷いて、そのままパッチリとした目を向けてくる。


「深青里君、名前も三文字よね。長いからテストで書く時大変そう」

「うん、そうだね。ちょっと大変かもしれない」

「あと髪も長い」

「この長さが落ち着くから」


 前は目にかかっていて後ろは肩まで届いている。周りからの視線を遮るカーテンにするために伸ばしていた。こうしておけばどこから見られても耐えられるようになる。

 今も上手く横からの視線を遮るのに役立っている。


「前見づらだし鬱陶しそう。それに暗い人に見える」

「あ、あはは……。前は見づらいかな」

「切らないの」

「うん?」


 語尾が全く上がらなかったから問われているようには聞こえなかった。

 会話の流れ的には質問されたはずだけど、イントネーション的には彼女が突然話を変えて何か自分のものを切らないようにしていると主張するような言い方だった。

 一切変わらない表情からは読み取れず、悩んだ末噛合わなさを感じながらも僕は「何を?」と聞き返した。

 すると彼女は「髪」と棒な調子で言ってから「あっ」ポツリと漏らして続けた。


「ごめんなさい、今のは深青里君に髪を切らないのかって聞いたつもりだった」

「そうだったんだ」


 会話の流れを優先して解釈するべきだったみたいだ。よくよく考えれば最初から抑揚が希薄なんだから聞くときの語尾も上がらないと考えるべきだったのかもしれない。


「ごめん、気付けなくて。僕はあんまり喋るのが得意じゃないから」

「いえ、今のは私のせい。声に抑揚がつけられないの」

「えっ……?」


 漆茨さんの方を見ると、赤茶色の瞳から伸びてくる視線と僕の視線がぶつかった。

 少なくともその目は嘘を言っているようには見えない。じゃあ本当のことを言っているように見えるのかというと組み込まれたデータを読み上げただけのような無機質感のせいでそれも分からない。


 抑揚がつけられないとはどういうことなのだろうか。

 誰だって語尾を上げたり下げたりすることなんて自由に、いや自然にやれることだ。

 俳優や声優をやっているならキャラクターになりきるために練習をして些細な癖などを修正する必要はあるのかもしれないけど、普段日常会話をするだけならそんな必要はない。意識的に変えるとしてもせいぜいわざとらしくおどける時や冗談を言う時くらいだろう。


 そこまで考えて目が合っていることに気がついた。


「よ、抑揚がつけられないと困るよね」


 慌てて視線をそらして紡いだ言葉は当たり障りのない、表面をひっかくようなものになってしまった。


「えぇ。今みたいに問いかけたつもりでもそれが相手に伝わらないことがあるし、本心を口にしても信じてもらえないこともある。いえ、その方が多いわ」

「そうなんだ」


 言葉の内容には空っぽな僕の同情と比べてずいぶん深刻な感情が滲んでいてもおかしくないのに、それは全く伝わってこなかった。余計に反応に困った。


「あと気になっているみたいだから言うけれど、私は表情も顔色も変えられない」

「えっ?」


 数秒前と同じように彼女の顔を見ていた。


 さっきと何も変わらない、覗き見るような瞳が僕を映している。髪のカーテンを貫通してしっかりと僕の目を捉えている。

 彼女の言うとおり気になっていたこととはいえあまりに突然のカミングアウトに、僕は息を呑んで自己紹介の時みたいに動けなくなった。


 声の抑揚をつけられないのに加えて表情も変えられないというのはある意味自然なことなのかもしれない。むしろしっくりきてしまう。

 でも人としてそれが自然なことかと言われたらもちろんそんなことはない。あり得ないと言ってもいいくらい現実的ではない。


「その、表情や声色を変えられないっていうのは、例えば事故にあってその後遺症とかで?」


 見つめながら聞くと漆茨さんは首を横に振った。


「小学生になる少し前、迷子になった事があるのだけどその時からいきなりこうなったの」


 小学生になる前から、いきなり?

 その時期に引っかかりながら「原因は?」聞いてみるも漆茨さんは「分からない」首を横に振った。


「何人ものお医者さんに見てもらったけど原因はよく分からないみたい。毎回心因性だろうって診断されるけど、きっと違う」

「そっか、辛いんだ」


 小学生になる少し前から理解不能な現象に襲われている。

 そこだけ切り取ると僕らは似ているかもしれない。

 過去形なのか現在進行形なのかという違いはあるけど、僕もその辛さは少しくらいなら分かるつもりだ。胸の底の方から同情心が湧き出るのを感じた。それは冷めたコーヒーみたいにぬるい、でもお冷やより少しは温かい共感だった。


「えぇ。おかげでいつも怖がられる。初対面の人にもそうだし、ずっと同じクラスにいるはずのみんなからも少し距離を置かれているわ。深青里君もそうでしょう」

「な、何が?」


 心臓を掴まれた気がした。


 僕も漆茨さんと同じように異常現象に襲われていたことを知っているのか?

 バレること自体は別に問題は無い。何か困ることが出てくるわけでもない。

 でもどうして漆茨さんがそのことを知ったのかが分からない。

 僕に関しては視認できるようなものじゃないはずだ。

 疑問が声にならないまま漆茨さんと見つめ合う。それとも本当にその目によって僕の心は覗き見られてしまったのだろうか。


 そう思っていたけれど、


「私のこと怖いからあまり目を合わせないし、合ってもすぐ逸らすのよね」

「ん?」


 違ったらしい。

 というかまたずっと見てしまっているじゃないか。

 言われて気づいて……でも今回は視線を外さなかった。恐る恐る試すように目を見続ける。

 不思議とやっぱり、漆茨さんの目には攻撃性のある拒絶の色を帯びる幻覚が見えてこない。

 優しげな目をしていた鞠寺君の瞳には灯って見えてしまったのに、漆茨さんには灯らない。生まれた同情がそうさせているのだろうか。


 でも、だから目を逸らさずに言葉を返せた。


「違うよ、目を合わせないのは……なんというか僕個人の理由で漆茨さんのせいじゃないんだ」

「本当」


 パッチリと開いた目で、平坦な声で言われた。

 今のは話の流れ的に聞かれたのだろう。そしてもしかしたら疑われているのかもしれない。

 だからもう一度顔を合わせたまま言った。


「確かに最初は怖いなって思ったけど、話を聞いたら仕方ないんだなって、あんまり怖くなくなったから」


 まだ慣れていないから明日顔を合わせたらギョッとするかもしれない。そんな心配は胸にしまっておいた。

 漆茨さんは無表情のまま変わらない顔をフクロウみたいに倒した。


「信じるの」

「何を?」

「私の話。突拍子もない、馬鹿げた話なのに」

「うん。少なくとも漆茨さんが僕に嘘をつく理由がないし、嘘だっていう根拠もないから」


 そして僕も現実的じゃない理不尽なことがこの世にあることを知っているから。

 彼女はパチリと一度ゆっくり瞬きをして口を開いた。


「そう。深青里君は珍しい」

「何が?」

「こんな突拍子もないことを本心風に信じてくれる人、あまりいないから」

「本心風じゃなくて本心なんだけど」


 なんだか引っかかる表現に目を見て返すと「そう、ありがとう」漆茨さんは淡々と言って逆に目を反らした。


「あまり信じてもらえるものではないから、こんなこと。大抵は変な人とかヤバい人とか、そういう風に思われる。おかげでついたあだ名はアンドロイド、サイボーグ、ポーカーフェイスレベル100とか、精密機械とか」


 確かに小学校に入りたての頃に話をしてもふざけているとしか思われなさそうだ。そして一度ふざけた冗談だと受け取られてしまうと、大きくなっても変な人だと思われるだけで本気だと捉えられなくなる。

 田舎という場所で小さい頃から周囲にいる人が変わらず、新しい出会いも少ないため訂正をするタイミングもなく今まできてしまったのかもしれない。


 僕だってそんな小さな頃に言われたら信じなかったかもしれない。理不尽に巻き込まれたからこそ、漆茨さんの話も起こり得るよねと受け止められるようになった。


「あとは表情筋の永久凍土、顔にタイガが広がってるんかい、スーパードライ、感情オールフリー、最早シミュラクラ現象、常時コピペ、立ち絵差分、顔面マナーモード」

「……それ本当にあだ名?」

「私のイチ押しは顔面マナーモード」

「イチ押しって何?」


 そういう言い方をしている辺り結構面白がっているのかもしれない。それどころか自分で考えた可能性すらある。

 真面目な話をしていたはずなのにどうしてこんなに着地点が大きくズレているんだろう。


「それより学校にはもう慣れた」


 僕の疑問をおいてさらに話題が跳んだ。

 一瞬漆茨さんが学校生活に慣れたのだと報告してきたかと思ったけど、さっきの事を考えるとおそらく僕への質問なのだろう。

 だとしても質問の意図が分からない。


「……まだ初日だから慣れてない、かな」


 としか言いようがない。

 何週間か数ヶ月経った時に聞くなら分かるけど、まだ初日だ。

 しかも始業式とホームルームをやっただけで授業は一分も受けていない。そんな状況で慣れるとでも思っているのだろうか。

「慣れそう?」ならまだ分かるけど「慣れた?」は気が早すぎる。


 本気で聞いているのならその正気を疑ってしまうが、機微一つない無表情からは漆茨さんの真意は読み取れなかった。

 分からなさすぎて困惑の波にさらされていると突然漆茨さんがゆらりと動いた。

 ゆっくりと顔の横まで右手を持ち上げると中指と人差し指、親指をビシッと伸ばし、最後に少し腰を捻って真顔で一言。


「樹ちゃんジョーク」


 なんか繰り出してきた。無表情での決めポーズはシュールすぎて言葉が出ない。

 混迷の海中に引きずり込まれて呼吸さえ止まった。瞬間的に真っ白になった頭の中はおびただしい数のクエスチョンマークで埋め尽くされていく。

 樹ちゃんジョークって?

 あぁそうか、樹ちゃんのジョークか。

 じゃあ樹ちゃんって?

 ……あぁ、漆茨さんのことか。

 つまり、漆茨さんがするジョークだから樹ちゃんジョークというわけで。


「え……」


 気付いた直後に途方もないほど脱力感が襲ってきた。


「えぇ……」


 下らない、というか分かりにくすぎる。

 面白い冗談でもないのに伝わりづらいとかもう救いようがない。

 というかなんでこのタイミングでジョーク?

 僕の心労を全く理解していないらしい漆茨さんは「どう」言ってきた。


「もしかして聞いてる?」

「もちろん」

「一応聞くけど何を?」

「今の樹ちゃんジョークがどうだったか」


 頭を抱えそうになった。もしかしてこれをやるために会話を切り替えたのだろうか。

 でも、どうと聞かれても困る。

 こういう時なんていうのが正解なんだろうか。


「……まぁ良かったんじゃない?」


 考えた末なんとか笑顔を作って返したつもりだったけど、引きつってしまっていたのだろうか「本当のことを言って欲しい」漆茨さんは言葉を被せてきた。


「……本当だから安心して」


 今度は頑張ってちゃんとした笑顔を作った。本当のこと言ったらなんか悪いし。

 でも漆茨さんには通用していないらしく「そんな気遣いされても傷付くのは変わらないわ」そう目を半分閉じて見せつけるように覗き込んできた。


「えっと、その顔は?」

「傷ついた顔」

「ごめん……」


 そう言われてしまうとなんか申し訳なくなってくる。

 もう少し分かりやすかったらリアクションをとれたかもしれないのに漆茨さんのセンスが絶望的なのだから仕方ない。

 言いたい気持ちを抑えていると漆茨さんはサッと右手を目元まで持ち上げて、


「これも樹ちゃんジョーク」


 またもビシッと決めてきた。


「分かりづらいって」


 溜め息と共に言葉を吐き出した。

 一体どこからジョークだったんだろう。

 ただでさえよく分らない漆茨さんがさらに理解しがたい人になってしまった。

 何もかもが分らなくなっているモヤモヤを押し流すように電車が滑り込んできた。

 目の前で開いたドアから漆茨さんに続いて乗り込む。

 よく分らない変な子ではあるけれど、ただ一つ分ることは漆茨さんも理不尽に巻き込まれているということだけだ。




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