第29話 最期ノ災厄・序
その日の深夜の事である――丑三つ時を廻らんとした時刻。
あやめはそっと外へ忍び出ようとしていた。貴之には何も告げず、音も立てず。気詠みのできるあやめは、外気より突如生じた鬼気に呼ばれたのである。
これ程の濃ゆい鬼気は、戦後に成りし折よりとんと感じた事がない。これはまるであの頃の――そうだ、平安の世の羅生門を思い出さんばかりに強烈な鬼気である。
「ふふん、あやめめ。妾が気付かぬと思うてか」
忍び出るあやめの動向に、こっそりと気付く者ありけり――その名は、芙蓉。
小さき身体を利して屋根裏部屋の小窓を抜けると、あやめには気付かれぬよう屋根の上にじっと潜む。用心深く息を潜めて鬼娘の動向を見守れば、彼女は玄関を抜けて誰しもが寝静まる深夜の路上へと歩み出た。
何時の間に雨が降ったのか。アスファルトの路面は黒く濡れそぼつ。
住宅街は上月家前の前にある道路のど真ん中。愛刀を肩にしたあやめは手を腰にしたまま、じっと動かない。ただ一点を凝視するように、一本道の先、丑寅の方角ばかりを見つめていた。
「何を待っておるのじゃ……?」
芙蓉が不審に思う頃、だがそれは直ぐに訪れた。
ひたり、ひたり――濡れた路面に足音を鳴らし、あやめの前にゆっくりと姿を現すは、偉丈夫と呼べる一人の男。威風堂々とした姿で鬼娘の前に立ち塞がった。
湿気を含む大気の中で、黒衣の上下に身を纏い、引き締まった肉体に精悍な顔付き。
何よりも闇夜に関わらず異様に光る鋭い眼差し。弛まなく猛烈に発する鬼気をして、芙蓉にはそれが一目で『鬼』であると分かった。それも只の鬼ではない。これは『鬼神』の
芙蓉の背中には、知らず知らずの内にゾッと冷や汗が伝う。それ程までにこの男が発する鬼気は、苛烈にして膨大。自ずと足元より白き影となりし瘴気が生じる程であった。
だが堂々と立つ鬼娘の、異形の鬼神たるその男に臆する素振りは一切なし。そうして真っ先に声を発するは、上月家の一番槍を自称する悪鬼の化身・あやめである。
「儂の縄張りに何用じゃ、貴様」
「ほぅ……我が鬼気に誘われしは、鬼の小娘か」
不思議そうな顔をする偉丈夫の男に、あやめは恐れ知らずに睨め付ける。
「我が問いに答えよ、木偶の坊」
「我は鬼島嶄九郎へ挨拶に参ったが、さて……」
続けて「なれば鬼島
「
「何用かと問われれば、答えは一つ」
明白に邪悪な意志を身に纏い、烈火の如き鬼気を吐きてあやめの問いに答えた。
「
あやめらの眼前に現れし偉丈夫は、身の丈六尺を優に超える鬼神であった。
勁烈なる肉体に烈烈たる鬼気と霊気を身に纏い、それ等は白き蒸気と相成りて繽紛と舞い盛らんとす。濛々と逆巻くこの鬼気に当たらば、常人なら立ちどころに昏倒する事違いなし。
だがあやめは事もなげにその只中に突っ立って、生気に満ちた真ん丸の瞳を以てして、真っ向から巨躯の鬼神をキッと見据える。そうして何用か
義気凛然たる霊気妖気を身に纏う鬼神を目の前にせど、一歩どころか一寸も怯まぬ様相で、あやめは凛と声を響かせて男に問うた。
「
「我は鬼王。同胞が眷属の国造りをすなる者なり」
「フン、鬼王とは……随分と大きく出たもんじゃ」
鼻を鳴らして軽侮するあやめに対し、偉丈夫の鬼神は微動だにせず。
眼光鋭く、眉一つ動かさず。あやめをじいっと観取せんとす。
「これは異な……純然たる古の鬼気を纏う小娘とは」
「訳遭って、五尺に足らん我が身成れど、いざ侮るなかれ」
あやめは威風凛然と何時もの口上を云い放ち、一切譲歩する様子無し。
屋根の上で息を潜めてその様子を看取りし芙蓉は、件の相手が海千山千にして冷静沈着な鬼神であると知る。この鬼神――あやめの器量を一目で看破した百戦錬磨は、如何にして磨かれたものか。芙蓉は我知らず冷や汗を流し、背筋を凍らせた。
「では、大鬼・嶄九郎を誘いて如何にせん」
「我が同族を率いて、再び鬼国を建国せん」
彼の鬼神曰く、千年の刻を掛け修行をし、富士の樹海は霊泉で仙力を高めた。その神通力たるや雷雲を操り大嵐を呼ぶ。千の術と万の眷属を率いる力を得たと云う。
「ハハハ、何を莫迦な……!」
「だが
異常気象、天候と大気に満る鬼気――
彼の鬼神の言い分を是とすれば、件と並べて辻褄が合う。
あやめの脳裏に、芙蓉の説明が頭を過る。
「もしや……日の本の霊脈、富士より流れ出る霊気を操りし術か」
「如何にも。だがそれ等は全て、只の予行演習に過ぎぬ」
「では貴様の真の狙いは何じゃ」
「朝廷へ連なる者、人類への復讐」
鋭き両眼は血走りて黄色く濁り、視殺せんばかりの鬼気を滾らす。
「我が眷属の本懐は、京への復讐に在り」
「何故、それ程までに都へ仇成すを誓うか」
「我が眷属を騙し討ち、皆殺しせしは大和の仕業よ」
あやめはちぃっと舌打ちをする。
鬼の身であれば誰しもが、心当たりのない話ではない。だがそれは現在の生に執着すればする程、忘却せねばならぬ過去の、歴史上の事柄である。
げに深き鬼神の怨念に、彼の者を翻意するは否とみて、あやめは質問を変えた。
「ではその手管は如何に」
「この日の本を、真っ二つに両断致す」
「……何だと?」
「汝は、
十九世紀、
地質学に於いては東北日本と西南日本の境目となる地帯を指し、本州の中央を南北方向へ火山列が走る。北は新潟焼山より、妙高、黒姫、飯綱、八ヶ岳から富士へ――日本を代表する火山がずらりと居並ぶ。
「貴様の目的は何だ!」
「東西・日本列島の分断」
「なん……だと……!」
「火山列を操りて、日本列島を再び真っ二つに致し候」
彼の鬼神はその計画を、悦に入るでもなく只管に朗々と語る。
本州をフォッサマグナより東西二つに分離させ、その混乱に乗じて鬼国を建国。東北地方を孤立した『島』として外界と隔絶し、鬼の眷属による独立独歩の自治を確立する。
もしもこの火山列全てを自在に操ることができたならば、列島の分断は元より未曽有の災害と混乱を日本に齎すことは間違いない。
これが貴之の云う第三の災厄……災害中の大災害の姿であった。
「龍脈より出ずる霊力が源、
「して何とする!」
「陸奥を統べ鬼国とし、我が眷属の王道楽土を建国す」
「莫迦な……!」
叫ぶあやめに目もくれず、鬼神は天を仰ぎて只一言。
「立つ刻は、来たり」
そう云って、鬼神は両の瞳を閉じた。彼の者の表情からは、千年の怨念を耐えに耐え、忍びがたきを忍んだ、鬼神の怨讐と執念が窺える。
そうして千年の時を擁したは、己の仙力を高めると共に別の理由が存在した。
滔々たる霊気流るる霊峰・富士の龍脈には、何人たりとも一切の手出しができぬよう、今まで『妖の要石』が存在したのだ。
「この要石により霊峰・富士は地鎮され、躍動する龍脈は断たれていたのだ」
「では万一に貴様の云う要石が除かれたとして、龍脈が蘇れば如何に成るや」
「まず富士の高嶺が地下は活性化し、三百余年の時を経て、宝永大噴火以来の火山活動を誘発しよう――そこへ我が秘術を用いれば日本列島の分断など、げに容易いことよ」
「最後に一つ、その要石とは如何なる物か」
「その要石とは――」
これ迄霊脈を地鎮せし要石と成るは――殺生石。
玉藻の前の名を持つ古の妖狐・九尾の狐であると云う。
「富士の要石が……殺生石だと!?」
「そうだ――玄翁和尚と盟約を結びて、人々の為に富士の地脈を治めんとす。そんな悍ましき妖力を宿す妖狐の親娘が居たのだ……だが所詮は獣ぞ。我が策に容易く陥った」
鬼神は離間の策を用いて緩々と術を仕込むと、娘の狐がその場を離れるようなった。
そこで隙を見計らって殺生石を龍脈へと押し流すと、自らが要石となる役を忘れた未熟な妖狐の娘は、自分から巣穴よりホイホイと這い出していったのだ、と云う。
「そうして貴様は
「そうだ。龍脈を元の激流へと誘えば、いずれ目覚めから解き放たれよう。しかし愚かなるは妖狐の娘よ。母の苦労も知らず、愚で浅はかな幼獣だ……」
その言を立ち聞きせし芙蓉は、見る見る間に青褪めた。
「だが玉藻とて、殺生石に身を変える切っ掛けと為りし、自らを追い討った人間どもを護るとは……所詮、野獣とはげに哀しき生き物よな。母娘揃ってげに憐れなものだ」
その刹那、芙蓉は屋根の上より身を躍らせ鬼神に襲い掛った。
烈火の如き激情に身を任せ、完全に正気を失ったのだ。
「貴様ッ、よくも母を! 侮辱は赦せぬ!!」
「うん、何者だ……?」
二、三手ばかり拳を交わすも、彼の鬼神に容易くいなされた。
妖力を失いし芙蓉には、当初から勝ち目などない。
「おのれ、おのれぇ……ッ!!」
「さつきッ! 止めい、止めんか!!」
あやめが叫ぶが、怒り狂う芙蓉にその声は届かず。
加えて鬼王の覇気に縛られたか、太刀の柄をかけたが身体が動かぬ。
やむないこと、芙蓉はすぐさま地に叩き伏せられた。
「……がふっ」
呼吸ができぬ程に背をしこたま打ち付けて、肺腑の底より息の塊を吐き出す。
鬼神は追い討ちをかける様に、芙蓉の頭蓋をごりりと踏み躙った。
「……ふぎぎっ!」
「なんだ
貴之の術にて幼き身体と相成った故か、鬼神は芙蓉が件の妖狐と気付かない。
無様に打ち伏せられ、地を舐めて、それでも芙蓉の怒りは収まらぬ。人の姿である事を忘れたかの如く、威嚇する獣の声で唸る。
「フーッ! フゥゥーッ!!」
「どうした野干……怒りのあまり人語を忘れたか」
怒りに震える余り口角から泡を吹き、大粒の涙をボロボロと流す。そんな芙蓉を前にして、あやめは目を大きく見開くと八重歯をぎりりと噛み鳴らし耐える。
「さつき……!」
芙蓉の慟哭は、我が身が如く痛い程によく分かった。
だが相手は鬼。鬼は我が眷属。同族殺しは、絶対の禁忌。
鬼の眷属が間に流れる魂の繋がり。それはあやめとて同じ事。
決して破られぬ、真理にして絶対の理。
「どうした、騒がしい」
唐突に、貴之が二階の窓から顔を出した。
人の身である貴之も、芙蓉の叫び声によって流石に目を覚ましたのだ。
目の前には蹂躙され地に伏した芙蓉。額に脂汗を流したあやめ。
そして何よりも、見知らぬ偉丈夫の男がそこに居た。
「貴之……ッ!!」
あやめは、ギンとした真剣な眼差しで貴之を見返す。
ただ一つのことを
契約として自分に「この鬼を斬れ」――そう命じろと。
鬼の同族殺しは、血の盟約。絶対の禁忌。
禁忌とて如何にも赦せぬ――貴之よ、儂に命じろ。
然すれば同族とて、この鬼を斬る!!
勇を鼓してそう願えど、貴之は何も命じなかった。
ただ一言、こう告げた。
「お前が決めろ」
「な、なんだとッ?!」
貴之の言葉に、あやめは激しく動揺する。
相対する鬼神は、黙してじっと動かない。
二人のやり取りを只、興味深げに見つめている。
すると貴之が、あやめへ再び口を開いた。
「お前は、何者だ?」
その質問は、己の存在の根幹を揺るがしかねぬ。
今のあやめは、嶄九郎であって嶄九郎ではない。
だが嶄九郎は、あやめであってあやめではない。
自分は、歴史上でどこにも存在せぬ、あやふやな存在。
それを自ら決めよ、と貴之は云う。
脳が、痺れ、魂が、震える。
湧き上がる感情が、心の器より零れ落ちそうな程に。
燃え滾る情念が、胸の内の何かを爆砕するかの如く。
これ以上、先へと進めばもう後はない。
「然らば我が名を、目にし耳にせよ……」
しかし――だがしかし――
己の感情は最早、誰にも止める事のできぬ純情。
「篤と御覧じろ! 武勇こそ儂の名じゃ!!」
義を前にして、答えず黙さば、如何にせむ。
この怒り、この一刀と変えて、打ち放たん。
「霊刀一閃!」
最速最短、全てに最も一閃した刃は、避けた男の胸先を掠めた。
男の上着がはらりと斬られたが、その身には傷一つ付けられぬ。
だが鬼神は、意表を突いたあやめの行動に、ギロリと目を見開いた。
「むぅ、小娘……!」
「おっと、
前髪で隠れて、あやめの目元は垣間見えぬ。
あやめはただ、真っ赤な舌をぺろりと出した。
「我が同胞の、筆舌に尽くし難い憤怒と屈辱に――ついつい手が出てしもうたわ」
あやめの行動は、覚悟の上と云う迄もない。
お陰で芙蓉は、足下に踏み敷かれた束縛から解放された。
直ちに身を起こすと、四つん這いの低い姿勢で身構える。
「面白い――同族殺しか。鬼島の血に連なる鬼よ」
「黙れ! 貴様こそ何者だ、名を名乗れ!!」
男に名を問うあやめ。
あやめの問いに応える男。
「我は無名。だが世の人間はこう呼んだ――悪路王、と」
鬼の身であれば、その名を知らぬ者はない。
その名は嘗て、日の本は東北の地に名を馳せた稀代の英雄である。
「貴様は坂上田村麻呂に討たれ、死んだ筈ではなかったか」
「我は彼の英雄に見逃され、無様に生きさらばえた」
これにてあやめは、全てが腑に落ちた。
武勇と仙術の両輪こそ、鬼神と呼ばれる
彼の男ならば、その両輪を兼ね備えて不思議はない。
鬼王と名乗るは、伊達ではなかったのだ。
悪路の王を名乗りし鬼神が譲らず、あやめに問う。
「我も問おう――
「儂は……儂の名は、貴島あやめだッ!!」
「その名前、しかと聞き届けた」
古代で云う陸奥國に名を馳せた英雄は、口角を上げニィッと哂う。
あやめの表情はひた隠して装ったが、内側では背筋がぞっとしていた。
何故ならば――哂ったのだ。彼の鬼神は眉一つ動かさず、冷静沈着にて臆することそぶりは一切なし、聞きしに勝る稀代の英雄・悪路王が初めて哂ったのだ。
「人に組みせし、不幸にして不憫な鬼の娘よ――また逢おう」
そう云い遺して、悪路王は夜路へと消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます