第30話 最期ノ災厄・破

 鬼国の悪路王――

 そう名乗りし鬼神が立ち去るを見届けて、あやめは漸く口を開いた。


「よもや本物の鬼王とは……迂闊に気を抜けば、意識を持っていかれるところだったわい」


 じっとりと湿る額の汗を拭いて、あやめは重たい息を吐く。相当な重圧をその身に受けていたのであろうか。見掛けよりもずっと威勢を張っていたようだ。

 目頭を押さえる鬼娘が落ち着くを見計らい、貴之は二階の窓より声を掛けた。


「あやめよ。あの男は『悪路』と名乗っていたが、何者だ?」

「奴は嘗て陸奥國むつのくにに実在した本物の鬼の王よ……それよりもじゃ、貴之!」


 唐突に声を荒らげ、あやめは貴之に問うた。


「何故、儂に命じなかった!」

「はて、何の話だ?」

「その問いに何故応じたのだと、聞いておるのだ!」


 とぼける貴之にあやめが食って掛かる。あやめの云う「あんなこと」とは、あやめに命ずることなく「お前が決めろ」と云い退けたことであろう。

 静かに燃えるあやめの瞳をじっと確かめると、貴之はゆっくりと口を開いた。


「まずは家の中へ入れ。芙蓉の手当てをしよう」


 あやめの問いに答える事無く、貴之は芙蓉の治療を優先に促した。

 悔しさに唇を噛む芙蓉は、あやめの足元で声を殺して泣いていた。おまけに地へ組み伏せられし際に、幾つかの擦り傷を負っている。貴之の判断は至極真っ当であろう。

 膝を落とし泣き崩れる芙蓉を抱きかかるようにして、あやめは家へ入る。


「やい、芙蓉よ。しゃんとせんか、しゃんと」


 あやめが幾ら声を掛けようと、狐娘は顔を伏せたまま。さらさらと流れる長い髪を御簾みすのように掛け、一向に顔を上げようとせぬ。

 貴之は芙蓉に何も聞かず居間リビングへ連れていくと、額の傷を消毒すると絆創膏を貼り付ける。


「他にどこか痛むところはあるか」

「…………」


 そう問おうと芙蓉は黙したまま。ただもぞもぞと腕まくりをすると、擦りむいた肘を差し出してきた。貴之はそのままにして、黙って芙蓉の手当てに掛かる。


「……ふん」


 腑抜けた様子の芙蓉を尻目に、あやめは鼻を鳴らした。

 どこか不貞腐れた表情のまま西洋長椅子ソファーに歩み寄ると、音を立ててどっかと腰掛ける。胡坐をかき、後ろ頭をがりがりと掻き毟った。やがて背凭れに倒れ込むようにして天井へ目をやると、ようやっと息の塊をひとつ吐き出す。


「その昔、陸奥國……今で云う東北地方には、幾つもの『鬼国』と呼ばれる、鬼どもが集う国が存在しておってな……」


 そうして誰に聞かすでもなく、ぽつりぽつりと語り始めた。


「朝廷から彼の地では、何処どこ彼処かしこも道なき道ぞ。よって『悪路』と呼ばれておってな。そんな時代があったんじゃ。京の執政で作らぬ道は、全てそう呼びおって……全くもって、いけ好かん連中よ。ま、確かに彼の地と云えば、東北の夏は山深く、冬は雪深い――行軍せんと精も根も尽き果てる。奴らにとっちゃ『悪路』であろ」


 あやめ曰く、嘗て古代東北地方に存在した悪路の国――鬼国。


「そこで朝廷は、鬼国の王をこう呼んだ――『悪路王』と」


 鬼国は日の本を武力制圧を目論む時の朝廷と相対す。彼等は徹底的に抗戦したものの、多勢による人の軍勢と陰陽師の技に調伏され、次第に姿を消していったと云う。

 如何なる感情があやめに去来しているのか。それは貴之にも分からぬ。怒りでもなく、哀愁でもなく、感情を押し殺すでもなく。ただただ喉の奥を鳴らして笑う。

 だがひとつ嘆息すると、切なげに瞳を宙へ向けて「詮無きことか」と呟いた。全ては夢幻の絵巻物語の如し――遥か遠き過去の出来事なのである。


「それで彼を蔑称として、悪路の鬼国の王……だから『悪路王』なのか」

「おう、そうじゃ。彼奴は自らを無名だと抜かしおったがな、まさかまさか。鬼国には、赤頭、高丸、大竹――と、悪路の王は数多く存在すれど、あれ程の男はそう居るまい」

「あやめが察する、その男の名は?」

真名まなは、阿弖流為アテルイ――奴こそは東北随一の、鬼の中の鬼の王よ」


 あやめが真の名を告げると程無くして、芙蓉の応急処置が事もなく済んだ。

 だが件の狐娘は、口をつぐんで、ずっと目を伏せたまま立ち上がる。


「おい芙蓉よ、どこへ行くつもりだ」

「……ありがと」


 手当てした礼もそこそこに、すぐさま上階へと走り去った。

 そうして天井裏へとっとと引き籠ってしまったようだ。


「ふん……引き籠り狐め」


 ちらりと横目に悪態をつくと、あやめは居間に残りて貴之へ再び問い質す。


「さぁ、貴之よ。何故儂に命じず、どうしてあんなことを云ったのだ」


 貴之は何故「お前が決めろ」とあやめに云い退けたのか。

 今迄あやめは、交わした『契約』が在るが故に、貴之の命に従っていた。よって彼女は行動を起こす前には、必ず貴之に「それは命令か?」と問う。

 鬼の同族殺しは禁忌。同族同士の絆は深い。貴之はあやめから、その意志と鉄の結束を感じ取っていた。だから行動原則をよく知っていた筈である。それなのに――


「何故じゃ、貴之よ」


 そう迫るあやめに、貴之は意外な言葉を口にした。


「俺はお前に『しゅ』を掛けた」

「おう」

「ひとつは、術者を殺さば、お前も喰い殺す『呪』だ」


 呪とは、自らが全てを仕組んだ――件の老人に云われた言ノ葉である。

 貴之は以前のように、脳裏に引きずったまま、当てずっぽうに口にした。

 今迄ずっと嘘八百を並べ立てていた貴之に、決して当てなどはない。当てなどは何もない筈なのだが――


「ふたつは『貴島あやめ』であり『女子高生』という『呪』だ」


 誰ともなく貴之やあやめも、それとなく直感的に気付き始めていた。あやめは、ただただ見目麗しい美少女へと姿を変えただけではない、という事を。

 以前、ショッピングモールで激しく云い争った時の事だ。貴之の「貴島あやめだと努々忘れるな」と呪を掛けた言ノ葉に、あやめは「相分かった」と素直に応じていた。

 言ノ葉は、口から出任せ、口任せ。然してその実態は、魂を縛る知は力なり。

 これは偶然が生んだ契約か、将又はたまた打算であったか。それは分からぬ。だが分からぬがよく分かる。我ら双方の間には、相通ずる『情』が確かに存在したのだから。


「だからお前が誰なのか、何を決めるのかは、一番よく分かっている筈だ」

「…………」


 物の怪は、姿形に囚われぬ。形は在って、在って無き物。

 だが器に宿ればこそ、その魂に色と力を与え得る。

 よって呪は、唯々姿形を変化させたばかりではない。

 器の形は、やがて魂を成型し、その在り様にも影響を及ぼす。

 醜悪な兇漢の姿には、奸邪な悪鬼の魂が宿る。

 では、美しく愛らしい清楚な少女の姿には――?

 知ってか知らずか。貴之は当然、この事象など与り知らぬ。

 さてはさては。運命が生んだ偶然か。偶然が生んだ必然であろうか。


「今のお前は、お前が口にした通りだ」

「儂は、貴島……あやめか……」


 貴之の答え合わせを断片的に紐解けば、あやめの身体が勝手に染み付いている。

 それはあやめが同級生クラスメイトに「あやめでよい。その方が馴染み深い」と告げていたのを。

 馴染み深いのは、唯一人。鬼島でも貴島でもなく、あやめ――自然とそう云って退けたは、時を経て身体と心がひとつに繋がったあかしではなかろうか、と。

 貴之の思わぬ見立てと推理に、あやめは怒りも呆れも通り越して、


「ふん……細かいことをよく覚えている」


 あやめはそう呟いて、強張らせていた相好をつい崩しそうになる。

 悪鬼の化身であるあやめの一挙一動、変化を見逃さず。貴之が聞き漏らさぬよう心掛けていたのは確かだ。だがその中でも最も気になったのが、この言ノ葉であった。


「実はな、あやめとは……我が母をもじった名なのだ」


 遂に耐え切れずに思わず笑みを零したあやめが、名付けの由来を明かしてみせた。


「そうか。それは済まなかったな」


 貴之は以前より『あやめ』と『殺め』を引っ掛けて揶揄ったことを謝罪した。

 命を懸けて共に戦った仲の、母の名を汚す気など、貴之には毛頭ない。


「いや、構わぬ。遠い昔の話じゃ。しかし、しかしじゃぞ……」


 あやめはぶつぶつと文句を云いながら、ぽすんと深く腰を落とすと、西洋長椅子ソファーへと寝転がりて、小さき身体をその柔らかさへずぶずぶと潜らせた。


「あやめ、か……思いの外、儂にこの名が馴染んでしもうたのだなぁ」


 そう口を尖らせると、ぷいとそっぽを向いてしまった。

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