第28話 嫋やかに色付きし日々・急

 芙蓉が上月家に来てからと云うもの、朝の風景はがらりと様相を変えた。

 特に登校準備真っ只中の居間リビングは慌ただしいものだが、その中でもあやめはいと生真面目で貞淑な娘であったのだと、貴之はここで初めて気が付いた。


 朝も早よから姿勢をしゃんと伸ばし、濡羽色の長髪は艶やかに、つげ櫛を用いて丹精込めてき整う。また時折、真剣な眼差しで京風な豆立鏡を覗きながら、髪をちゃっちゃと撫でつけるは、実に手器用であった。あやめの横顔を眺め入るに、さも凛とした女剣士さながらである。


 常日頃より感じてはいたが、この鬼娘きむすめ、純和風な外見同様、意外や意外と礼儀作法は身に付いており、時としてお淑やかで慎み深い面がある。


「そこの鬼娘! ちょっとは手伝いなさいよぅ!」

「うっちゃいぞ! 今日は貴様の当番じゃろうが!」


 あやめがそう主張する通り、今日の朝餉は芙蓉の調理当番であった。

 ちなみに昨日の朝は、あやめがおにぎりをこさえていた。あおさの味噌汁と沢庵たくわんを添えて。自分のやるべき仕事はきちんとこなしているのである。よって芙蓉に小言を云われる筋合いはない。

 とは云え芙蓉とて、朝餉の支度になんだかんだと文句を並べつつ、テーブルに皿もきちんと並べていた。いまも台所へ立つ貴之と肩を並べて手伝っているのだ。


「……うん?」

「どしたの、術者さま?」

「電池切れか、ガス台の火が点かんな」

「どれどれ……ふぃふっ」


 芙蓉は五徳の下を覗き込むと、口より小さく火を吹きて瓦斯ガス台の火を灯す。


「へぇ、器用なもんだな」

「うん、まぁ……あのね、実はね、術者さま」

「なんだ」

「妾の火焔の術は、膨大な魔力を使うのだけど……」


 何故か芙蓉は、上目使いでもじもじとした。童女の如き仕草を見せし芙蓉は、その幼さと美しき容姿が実によく相まって、いと愛らし。


「集中して術を絞り込めば、げに小さき妖力でも十分な火力があるみたい」

「そうか」

「うん……妖力を失ってこそ、気付く事もあるのね」


 芙蓉はボウルの卵を溶きながら「毎日の研鑽って大事……」と呟いた。

 妖力を失いて今の姿と成りし日々の中で、何か思うところがあったようだ。先日には膨大な火焔を撒き散らし、災厄をもたらし掛けた名立たる妖獣の台詞とはとても思えぬ。


「ともあれ、助かったぞ」

「えっ?」


 そう云いて貴之が瓦斯ガス台を指差せば、芙蓉はにかっと笑顔を見せた。

 得意げな顔をして「ちょっとは役に立つでしょう?」と云って笑う。


「しっかし女子おなごの黒髪と云ふものは、げに難儀な物じゃなぁ……」


 ここで対面キッチンの向こう側から、ぶーたれしあやめの声が聞こえてきた。

 あれやこれやと長い黒髪に苦情を申し立てつつ、身嗜みをせっせと整える。女の姿と相成りし身体に文句を云う癖は治らんが、近頃はそれを愉しんでいる様に見えなくもない。


 昨夜も昨夜とて風呂上がりの脱衣場で、長き黒髪をツインテールに纏め上げ、どこで買ったか知らないが、パイル地のふわふわな部屋着ルームウェアに身を包み、鼻歌交じりに鏡の前でくるんくるんと身を翻しておった彼奴を、たまたま見掛けた貴之である。


「ご機嫌だな」


 と、一言だけ声を掛けて、何食わぬ顔でその場を後にしたが。

 後に現れし鬼娘の、まるで林檎の如く真っ赤となりし表情かおは、これ如何に。


「あーもう! ほんにもう! げに難儀なモンじゃーなぁーっ!!」


 などと耳にしたのは、あやめ、心の慟哭か。

 おっと、話が逸れてしまった。時を戻そう。


「ああん、妾かて準備したいのにぃ!」

「ふん、だったら朝は早う起きるこった」


 悪態を突くあやめだが、こればかりは正論である。

 いちいち芙蓉に突っかかるあやめだが、余所に気を遣れど器用に髪を纏める手は休む事なく実に手際良い。あっという間にハーフアップに纏め上げ、菖蒲色のリボンを付けた。

 だがもう一つ――新たにその指先に掛かる髪留めは、菖蒲あやめ色を基調とした細い糸を編んで束ねてあり、翠に光るトンボ玉が結んである。初めて目にする髪留めであった。


「うん? あやめよ」

「おう、なんじゃ」

「そんな髪留め、どこで買ったんだ?」

「ふふん、儂が糸を撚り束ねて作ったもんよ」


 日本伝統ならではの組紐は勿論のこと、愛らしくよくぞ丁寧に編んであった。

 さらに級友と交えて硝子細工の教室まで通ったのだ、と得意満面のドヤ顔である。


 何時の間にか同級生クラスメイトなぎさらと、ショッピングモールで材料まで買い揃えて自作していたそうだ。どうやら彼女たちとすっかり打ち解けたあやめは、初めて貰ったリボンが大のお気に入りとなっていたが、さて。もしや女子力を身に着けたか。

 ともあれ――元々大男であったにしては、なかなか細かい仕事っぷりである。


「どぉれ、髪結作業は儂の特技の一つじゃて」

「確かに上手いもんだな」

「前の節くれた太い指では上手く編めなんだからな……ほれ、今ならお手のもんよ」


 珍しく貴之に褒められたあやめは、小さく細い指先をわにわにと見せびらかしつつ得意げに胸を張る。それを耳聡く聞きつけた芙蓉が、含み笑いを伴って首を突っ込んだ。


「ほほぅ、そうかぁ、そうかぇ」

「ムッ、なんじゃ仔狐が」

「流石は髪結の……や、娘じゃな。大したもんじゃ」

「この、クソ狐め!」

「くふっ、お前さんとの暮らしで段々と読めてきたぇ?」


 何やら芙蓉は、あやめを揶揄からかったようだ。

 貴之にはとんと分からぬが、芙蓉はお返しとばかりに何やら悪態をついたと見える。あやめが投げ付けたクッションを、件の狐はひょいと躱してニヤニヤとほくそ笑む。


「ふーん……あとで妾もやろっかなーっと」

「抜かせ、狐娘めが!」


 幼女の様に見えてこの芙蓉は千年妖狐。千年妖狐は智慧の化身。あやめは真名まなを含めて自らの事を軽々に明かさぬが、どうやら芙蓉は鬼娘の正体に心当たりが在るらしい。

 あやめは髪留めの端を咥えると、長い黒髪の端っこをさっさと整える。手早く括りつけると、何時もよりアレンジしたハーフアップをすぐさま纏め上げた。


「おい、髪結がどうした?」

「ええい、貴之は気にするな。仔狐の世迷い言よ!」


 貴之の問いを云い捨てたあやめだが、どこか切なげな横顔と相成った。

 あやめの長い髪が揺れる度、翡翠色の髪留めも共に揺れた。


◆ ◆ ◆ 


 さて今朝は食パンをメインとした朝餉と候成り。もちろん芙蓉謹製である。

 うら若き乙女の身体と相成ったせいか、近頃のあやめは洋食も厭わずに食べる。甘い苺ジャムを塗りたくった食パンを見るに、食の好みも大分変わったようである。一方の芙蓉も、ふわふわなオムレツを口一杯に頬張ってご満悦の様子だ。

 あやめは小さき口でパンを齧りつつ、リモコンを手に取りてテレビを点ける。ここのところのニュースと云えば、明らかな天候不順、頻発する地震。環境の変化等を盛んに訴えているようだ。

 珈琲の御代わりに席を立つ貴之に先駆けて、あやめと芙蓉で会話を交わす。


「やい、気づいておるか、狐娘こむすめよ」

「くふ、妾を誰と心得るか、鬼娘きむすめよ」

「ええい、やめい! 儂を鬼娘と呼ぶな!」


 赤面気味のあやめは、大声を立てず遠慮気味に芙蓉を叱り飛ばす。知らん顔の芙蓉は、いい切り返しにしてやったりの表情である。


「勘違いされるであろうが……こむずいわ!」


 ぶつくさ文句を云いつつも、こればかりは話しておかねばならぬ。

 それはいずれ起こるであろう、次なる災厄の相談である。


「げに怪しきは、此処ここところの天変地異よ」

「だがこれを災厄と仮定すれど、そう起こせるものではないぇ」


 確かに芙蓉の云う通り、天変地異を術とす為らば大層な実力の持ち主だ。

 平安時代の世の日の本にも天候を操りし術者などそうはいない。真偽の程は兎も角、古代中国の文献にチラホラと見かける程度のものだ。


「今の世で相応の妖術を揮うとなれば、かなりな量の妖力や霊力を必要としよう」

「では術を揮うと為れば、どの程度の妖力を必要とするか」

「そうさな、単一の身体で蓄えるは難しかろう。余程に術を穿ち詰めて極め……」


 あやめの問いに、芙蓉が極めて真面目な顔で算盤そろばんを弾く。


「日の本の霊脈、富士より流れ出づる霊気を得て術を揮うが最良じゃな」

「ふむ、伊達に長らく穴ぐらの中に引き籠っておった訳じゃないのぅ」


 芙蓉はあやめの憎まれ口に、不本意そうな顔を見せた。だがそれも束の間、何やら心当たりがあるかのように顔を顰めて、何やら考え込み始めた。

 その間にあやめは、珈琲の御代わりを持って戻ってきた貴之に声を掛ける。


「のう、貴之よ」

「なんだ」

「もしやこれぞ『第三の厄災』じゃなかろうか」

「……かも知れんな」


 などと貴之は生返事するばかりで、なかなか要領を得ぬ。

 反応の鈍い貴之に、あやめは呆れ顔で物申す。


「お主が動かぬと、儂は元の姿に戻れんぞ」

「わ、妾もじゃ! 九尾の狐に成れぬぞぇ!」


 ついぞ忘れかけていた芙蓉は、取り繕う様に慌ててあやめの後に続く。とは云えあやめの台詞は自分でも、あらゆる建前になっている気がせんでもない。


「まぁ待て。そう慌てることはないだろ」

「然りとて主張せずには、お主との約束が成り立たん」

「そんなにお前たちは、災厄とやり合いたいのか」

「おう、やらいでか。この腕を撫して災厄と相対せん」

「わっ、妾もじゃし!」


 珍しく芙蓉が同調し、あやめと口裏を合わせたようだ。

 仕方なしに貴之は、落胆しながら溜息を吐いた。


「なるほど……『殺め』に『殺気』か。物騒な名前をしている訳だ」

「ち、違うわ、馬鹿者っ!!」


 あやめとさつき――貴之は二人の名を茶化したのだ。


 先程までは悪鬼と妖狐が血気盛んに議論を交わし、面目躍如と逸る気持ちはなくもない。もちろん貴之とて、二人が口にする近頃の報道が気に掛らぬ訳ではないのだ。

 しかし彼の老人曰く、災厄の呪を掛ける為に「必ずやおヌシを手に掛け殺そうとするだろう」と云っていた。その言ノ葉を信ずれば、何をせずとも我が身には、災厄が降り掛かるを貴之は知っている。だからこそ火中の栗を拾うが如く災厄の真っ只中へ自らを飛び込むなんぞ真っ平御免だし、できれば毎日を平穏に過ごしたい。


「ところでさつきよ……その髪型はどうした」

「えっ、これ?」


 災厄の論点をはぐらかさせねばならぬ。たまたま正面にいた芙蓉の容姿しか思い当たる節がない。なので咄嗟に出任せで、口から勝手に転び出た。


「そうだ、ガーリー系のヘアスタイルが気になってな」

「お、おい……」

「そうそう、待ってましたわ! そうなの、その通りなの!」


 仔狐か童女になったお陰か分からんが、どうやら上手く口車に乗せられたようだ。

 つい最近になってより学園生活が同調し始め、女子高生気分が染まりきっているかも知れぬ。しかも芙蓉は元より天真爛漫、よってテンション駄々洩れである。

 あやめにとっては話題がまるで割り込めないが、今回に関しては最善の策とす。


「あのね、実はね、東山さんから教えて貰っちゃったの!」

「ほぅ、流石はクラス委員長。よく分かっていらっしゃるな」


 友人よりの貰い物をきちんと身に着けるとは。この狐娘、なかなかに義理堅し。

 その代わりに鬼娘は、口を半開きにしてぽかんとしておる。


「そうよ! あやめの髪型を参考に、改良を重ねに重ねて――」


 器用に結い上げたこの髪型、あやめのハーフアップのようで少し違う。この髪型を知っておるとは。さてはあやめから盗み取ったか。この髪の結び方の名称は、確か――


「なるほど、それで『ハーフアップツインテール』にしたんだな」

「やだ、術者さま! よくご存知ですわ!」

「ななな、なんでお主、知ってるのじゃ?!」


 最早これまでか――あやめ、愕然とす。

 あやめの髪型は、一つ結びのハーフアップテール。さつきは二つ結びのハーフアップツインテール。即ち、結び方の数が一つ多いのだ。

 って、だからなんだと問われそうだが、知らぬ存ぜぬの振りをしておこうか。


「ふふん、いーでしょー? 妾にピッタリ、お気に入りなの!」

「ふむ、よく似合うじゃないか、さつき」

「えへ、えへへ、えへへへへ~」


 誉め言葉を頂いちゃって、ほっぺを両手で当てて照れ照れしておられる。

 あやめは負けた気がして、蟀谷こめかみを押さえて「あちゃー」と天を仰いだ。


「さて朝食も終わったし、そろそろ学校の準備の時間だ」


 しめしめ、見事にしのげた。印象操作は十分だ。

 それではご免、これにてドロン。貴之は退散である。


「ああっ、どこへ行くのだ、貴之!」


 できれば平穏に過ごしたい――ただそれを知らぬ悪鬼と妖狐の二人と云えば、貴之が泰然自若か、若しくは悠長に身構えているだけの様に見える。

 その後も幾つかの問答をすれど、貴之はのらりくらりと躱し、結局「何もしなくていい」とだけ二人に告げると、さっさと食卓の席を立ってしもうた。


「ああもう、まったくもう、貴之はいっつもそうじゃ!」


 あやめは居間を出てゆく貴之の背へ悪態をつくと、自らも後を追おうと傍らの鞄を掴む。とは云えこの悪鬼、つべこべ抜かせど付き合いがいい、と芙蓉の目に映る。

 然れど千年も生きれば永永無窮の世など暇なだけで利あらず。この方が幾分マシかも知れぬ、とは芙蓉とてよく理解している。故に敢て問わず見過ごすが是、日常である。


「護らねば為らぬこちらの身にも為れと云うのだ、まったく……」

「なんじゃ、妙にご執心じゃな」

「と、当然じゃ! 儂らの命が掛かっているのじゃぞ!」


 実際には貴之の術により、そうと信じ込む彼女らである。

 一応、主人である貴之を護らねばならぬと血気盛んにならざるを得ん――とは、散々口にしてきたが、最早建前に過ぎぬ気がしないでもない。


「その割に鬼娘は、嬉々として災厄に絡もうとしておる」

「なっ、莫迦な。単に乗りかかった舟、毒食わば皿までじゃ」

「ふん。どうだか」


 芙蓉は、世話焼き女房が如きあやめの云い様が何となく気に食わぬ。頬をぷうっ膨らませつつ、あやめをじぃっと睨め付ける。

 仏頂面のあやめとて、こうも芙蓉が絡むか、と。何故なにゆえに解せぬところだ。


「この天候と大気に満る鬼気じゃ。気にならん方がどうかしている」

「くふふん、鈍感な鬼娘でも気付くなら相当な鬼気えぇ」


 口では散々嘲り合えど、あやめと芙蓉の確信は唯一つ。


「じゃがそれは、貴之とて……」

「術者さまとて、とうに気付いていようなぁ」


 貴之を高位の術者と信じ込む二人である。芙蓉は、制服の上着を身に纏い現れた彼の背中を眺めつつ、小さき顎をちょいと摘んで思案すると、ぼんやりと何とは無しに呟いた。


「それでも術者さまは、泰然自若としておる」

「ふふん、それが貴之じゃ!」


 素朴な疑問を口にした芙蓉に、何故かあやめは得意満面である。低い身長をちょっと背伸びまでしておる。そうしてわざわざ芙蓉を見下げてまでして、偉そうに告げた。


「何せ貴之の凄みは、この儂が身を以て経験しておるからな!」

「それだけ辛酸を舐めておると云うことじゃろ、くふふぅ!」

「なんじゃと、この、口の減らん狐じゃ!」

「うん、でもまぁ……そうじゃなぁ」


 不本意な顔をしたあやめに、芙蓉は喉でころころと笑う。

 そうして優しげに目を細めて、貴之の背中を眺むれば、


「味方となればこれ程までに、頼もしい者も居るまいて」

「そうじゃろう。まぁ、そうじゃろうよ!」


 そう云って自慢げに胸を突き出すあやめに、芙蓉はじとっとした目線を投げて寄越した。それでも大仰な物言いで、愚痴だか自慢だか何だか分からぬ戯言をあやめは繰り返す。


「じゃが、ほんに困ったもんじゃ、貴之という男は……」

「ふぅむ、そうかぇ?」


 そんなニヤつくあやめに対し、芙蓉にしては珍しく反論で口を挟む。

 突然の裏切り行為に、あやめは口を尖らせる。


「なんじゃ、貴様には不満がないと云いよるか」

「いんや。術者さまのお心が計り知れんは確かにあろ……じゃがあやめは寧ろ今の生活に何の不満があるのかぇ?」

「む、むぐっ?」


 芙蓉の繰り出した意外な言葉に、あやめは思わず口籠る。


「それに妾はなぁ……この暮らし、ちと愉しゅうなっておる」

「む、むむむぅ……」

「実はな、学校の校庭にある地下に潜みし時の事じゃがな……なんだかんだと楽しそうに通学しよる童どもを、妾はあの奥底からずぅっと見上げておったのじゃ」


 そこは敷設によりコンクリートの分厚い蓋で覆われた、光届かぬ暗黒の世界――もう昭和初期から小川が埋め立てられて、誰もが忘れ去られたあの暗渠あんきょであった。

 千年妖狐――もとい、見習いの八尾の狐・芙蓉は、妖力の糧を得るため龍脈を嗅ぎ当て、棲家として居を構えていた。それは霊力を元にして、妖力へと変換するためである。

 だが天変地異の前触れか、龍脈の遷移によって霊力は枯渇しかけていた。従って龍脈に妖狐の尾を浸して、これでもかと霊力を貪るしかない。まるでコップの淵から零れ落ちる水滴を、一滴一滴ゆっくりと、舌先で震えながら舐め取るように。

 それ故に水底へ沈む引き籠り狐の如く、焦りつつ耐え忍ぶ他はなかったのである。


 また元は狐の本能として、夜行性と警戒心を持つため、日中になるとこの身をひた隠す。だが獣として聴覚の感度が非常に高い。耳を砥ぎ澄ませてみれば「何か」の賑やかな声が時折聞こえてくる。そこで興味本位か、透視の妖術を用いて更に外界へと垣間見た。

 するとどうだろう。学生の童どものあどけない笑い声が包まれているのを。

 きっと勉学に勤しみ、共に競争し、支えあう。時に悪友と遊び惚け、笑い合い、時にいがみ合い、喧嘩するだろう。そして時に大切な時間を分かち合い、友愛を享受し、青春を謳歌している――そんな風に、芙蓉は考えた。

 だが考えれば考えるほど、巍然たる大妖が些々たる塵芥な存在に見えてくるのだ。

 地下から地上へと首を擡げて、下から睨め付ければするほど、鬱屈と虚無感が去来する。妾は一体どこへ何を探すために、自らの岐路に立ち、空虚に模索し続けるのか――と。


「皆と日の光を浴びて走り合い、共に肩を寄せ、仲睦まじく語り合う。そんな彼奴きゃつらの笑顔を見るに付け、妬ましくもあり、羨ましくもあるのだ。その時はどうしてか、まるで何も掴めぬままに、葛藤と渇望を織り交ぜた、そんな衝動に駆られると、な」

「ぬ、ぬ、ぬぅぅ……」

「じゃが、延々と深淵を覗く大妖たる妾が、こーんなちっぽけな幼獣となり、まさか学校に通うことになろうとは。くふふぅ……まるで思わなんだえぇ」


 そう云ってほんのりと頬を赤らめた芙蓉は、満更ではない顔付きになった。返ってあやめの方はと云えば、困った顔をして口の中でごにょごにょと繰り返すばかりである。


「や……儂は、儂とて……うににに……」

「この暮らしが続くなら、暫しこの姿で在るもき哉……うん、好き哉……」


 あやめがおいそれと口にできぬ台詞を、この狐めはいとも容易く口にした。

 所詮は世に俗されし幼獣の浅知恵よ――そう云い捨てたかったあやめだが、声にするを憚る程に、どこか得心の往った自分に驚いて、つい閉口してしまった。

 だが来たるべき災厄が、その時が訪れた時。我等が眷属は如何にせん。

 そうしてあやめは、眉を顰めて苦悩する。乙女の大きな胸の内は、困惑と不安と云う不本意なまでに膨らんだ形容しがたい暗雲が、みるみる内に立ち込めるのである。

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