第27話 嫋やかに色付きし日々・破

 放課後、夜も更けて――三人は自宅にて夕食を済ませた。

 今宵の晩飯はあやめの注文リクエストにより肉じゃがと相成った。然してこれが殊更上手く仕上がりて、悪鬼と妖狐は思いの外に好く食し、翌日の分も平らげた。

 貴之としては、料理の作り手としてそれもまた良し。満足である。

 そうして貴之がひとり居間で寛いでいると、風呂上がりのあやめが帰って来た。特に用事はなかったが、なんとはなしに芙蓉の所在を伺ってみる。


「芙蓉はまた天井裏へ引き籠っているのか?」

「いんや、儂に代わって今は風呂に入っておるぞ」


 あやめが冷蔵庫の扉を開いて、牛乳パックを取り出しながら答えた。


「最近やけに牛乳を飲むな」

「うむ、背を伸ばさんといかんからな」


 そう胸を張って答えると、あやめは腰に手をやり一杯くいっと一気に呷った。

 するとあやめの大きな両の胸がたゆゆんと揺れておる。敢えて口には出さないが、そうやって蓄えた栄養分は、あやめの予想とまるで違うところへと全部供給されているのではあるまいか。

 そんなことはお構いなしに、あやめは二杯目の牛乳をちびちびとやりながら、自らの陣地と主張する居間の西洋長椅子ソファーへ、どっかと腰を下ろす。

 近頃はあやめの主張する陣地の境界線も随分と曖昧に成りて、貴之が傍に居ようと目くじらを立てることはない。今も大人しく貴之の隣に収まっている。

 テレビの前に二人横並びに並びて、点けっ放しだったニュース番組へと眺め入る。


「どうにも近頃は異常気象が多いのぅ……」


 ぼんやりとモニターを眺めながら、あやめがポツリとそう呟いた。

 確かに云われてみれば、最近は異常気象についての報道ばかりを流している。

 日本列島は異常気象が続いている――ここ数年はそう再三言われて久しい。冷夏だとか、暖冬だとか、猛暑だとか、厳寒だとか。そういった言葉をニュースで聞かない方が珍しい。

 今年の春先とて、西高東低冬型の気圧配置とやらが軽々に立ち退かず。桜は花曇り、開花の予想が遅れに遅れていたを思い出す。

 然りとてお天道様の都合まで、人の身で彼是口出しするは叶わず。それは悪鬼とて同じ様で「こればっかりは如何にせん」などと口にして、胡坐をかいて腕組みをする。


「嗚呼ーっ、いい湯でありんすなぁ。ご馳走様ですぇ」


 そうしている内に、三番風呂から上ったご機嫌のさつき――否、自宅では芙蓉と名乗った白金髪の美少女然が現れた。以前、土垢にまみれた毛玉のような仔狐を洗い、目を白黒させていた時と比べ見違える程、格段と風呂にも馴染んだようである。

 湯上り姿の、だらしなく開いた芙蓉の胸元には、きらりと光るペンダントがあった。


「どうしたそれは」

「くふふぅ、いいでしょう?」


 そのペンダントには蒼色の石――殺生石が嵌め込まれていた。

 聞けば級友とショッピングモールへ誘われし時に、ペンダントのチェーンと土台部分のみを購入し、自分で拵えたものであるらしい。


「これならば、母上から離れることもないしね」

「まさか毒気は吐かんだろうな」

「もっちろん。それに今は疲れて眠っているみたい」


 そう得意げに交わす言葉は、標準的な現在の日本語である。

 ここ暫く学校へ通う様になってから、瞬く間に言葉が上手くなっている。あやめと違って芙蓉は、社会適合性の高い引き篭もりであるようだ。


「それじゃ妾は、先に床へ着くぇ」


 然りとも穴蔵へとすぐさま引っ込む引き篭り体質は、あまり変化が無い様である。居間へ立ち寄ることもなく、何時もの様にさっさと屋根裏へ引っ込むつもりらしい。

 貴之らとて芙蓉を引き留める理由はない。寝る前の挨拶を交わして引き篭もり狐を見送ると、再びあやめと二人でテレビ鑑賞に励む事とした。

 ところが暫くすると隣のあやめは、珍しくこくりこくりと舟を漕ぎ始めた。どうやら睡魔に襲われているらしい。小さな頭がこてんと落ちて、貴之の肩に寄りかかった。


「どうした。あやめもそろそろ床に就くか?」

「んむにゃ……いや、もう少し……」


 あやめは眠そうな目を擦りながら、何やらもごもごと口籠る。

 眠気の所為せいか、やや紅潮した頬は滑らかな艶を帯び、いと愛らしい。


「なんだ?」

「んんっ、もう暫く斯うして居たい……のじゃ」

「そうか」


 貴之はそれ以上、何も訊ねる事なくあやめに肩を貸してやる。そうして暫し二人して、ぼんやりとした時間が流れた。淡々とニュースを読み上げるアナウンサーの声と共に、貴之のすぐ耳元からは、あやめの息遣いが聞こえてくる。その呼吸音は少し乱れ、貴之の頸筋に軽く触れる頬は、益々火照る様に紅潮し始めていた。

 貴之がやや頸を傾げるようしてあやめの様子を窺うと、トロリと蕩けたように潤んだ瞳をした鬼娘きむすめ表情かおが、その目の中に飛び込んだ。

 こういう情景シーンは映画やドラマで見たことがあるな、と貴之は感じた。

 ああ、そうだ――これはヒロインと接吻キスを交わす情景シーンのそれだ。貴之がそうと気付いた瞬間である。思わぬ叫び声が上月家内に響き渡った。


「きょーん!!」


 この素っ頓狂な声の主は、間違いなく芙蓉のそれである。貴之が何事かと立ち上がると、肩に寄り掛かっていたあやめが、ボテッと無様に西洋長椅子ソファーへ倒れ込む。

 暫くすると思った通り、芙蓉が猛ダッシュで居間へ推参した。ちなみにこの間、小刻みに震えるあやめが西洋長椅子ソファーから顔を上げることは、終ぞない。


「あっあ、ああ、あやめっ! 妾の大判の布をどこへやったかぇ?!」


 大判の布とは、バスタオルのことである。

 そう叫ぶ芙蓉の問いに、あやめの返事はまるでなかった。

 代わりに貴之が仕方なく、その問答に応じてやる。


「さて……そういや朝起きた時、居間へ持ってはいなかったか?」


 思い起こすに、今朝の芙蓉は大分寝惚けていた。

 確か――居間へと起きて来たりし時は、寝惚け眼でバスタオルを抱えていた筈だ。


「あー……うー、これかぁ?」


 漸う起き上がったあやめが、芙蓉に貸したバスタオルを発見する。

 怪訝そうに摘み上げたそれは、あやめの尻の下からであった。


「きょーん!!」


 芙蓉が再び奇妙な声を上げて飛び上がる。かと思えば、急に喉を鳴らして怒り出した。

 慌ててあやめからバスタオルを引っ剥すと、ふんすふんすと匂いを嗅ぐ。


「くふっ、鬼の匂いが付いてしまった……!」

「どうした、洗濯してやろうか?」

「ニェット!」


 うん? 何だ今のは、ロシア語か?

 よく分からないが、断られたようである。


「術者さま、これをお腹に入れて持ってて! それで寝る前に返して!!」

「なんだそれは……何のまじないだ?」

「鬼の匂いよりも、人の匂いの方がまだマシじゃからなの!」


 そこで漸く普段の調子を取り戻したか。

 訝しげな表情をしたあやめが口を挟む。


「やい、キツネ。前々から思っておったが、もしや……」

「な、何よっ?」

「もしや貴様、タオルがないと眠れんのか?」

「きょーん!?」


 三度みたびに芙蓉は、奇妙な鳴き声を上げた。


「そ、そんなことはない、ないが、ないよりも、ある方が、よい……」


 真っ赤になって俯く芙蓉。ニヤリと意地悪く嗤うあやめ。

 どうにもこのままでは、埒が明きそうにない。


「あやめもそこまでにしておけ……おい芙蓉、それを貸せ」


 この程度ならば、情けとは云わんだろう。

 貴之はバスタオルを受け取ると、Tシャツを捲って腹に入れた。


「そ、かっ、ね、寝る前に……ちゃんと返してよねっ!」


 芙蓉はそう云うと伏し目がちに拗ねたような表情を見せた。かと思えば貴之を真正面から覗き込む。そうしてただ去り際に、貴之の耳元まで背伸びをすれば、


「あ、ありがと……」


 と、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、そう呟いた。

 真白き肌に浮かぶ赤面をより深く濃くして、芙蓉は複雑な表情のまま走り去る。


「フン、騒がしいキツネじゃな!」


 それを見たあやめは、これ見よがしに呆れ顔で吐き捨てると、眠い眠いと連呼しながら、対面の西洋長椅子ソファーに畳んであった毛布を引っ張り上げる。

 そのまま頭まですっぽりと毛布へ潜り込むと、じっと動かなくなってしもうた。


「おい、あやめ」

「な、なんじゃ?」

「お前、さっき……」

「知らん知らん! 儂は眠い! もう寝るぞ!!」

「なら電気、消すぞ」

「すっ、好きにせい!」


 ひとり残されし貴之は、丸めたバスタオルを腹に収めたまま。一方のあやめはと云えば、まるで打ちひしがれたみたいに毛布に包まって丸まったまま。

 貴之はテレビと居間の電気を消すと、やれやれと呟いて自室へ戻る他なかった。

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