第23話 悪鬼ト妖狐・序
「妾は……何も知らぬ、世間知らずじゃった……」
仔狐は重そうに口を開くと、訥々と語り始めた。
富士の火口で生れ落ち、それ以降は樹海の地中奥深く。生まれ育ったその場所から、今の今まで一度たりとも外の世界へと出たことがない、と云う。
「おう、引き篭もり狐か」
芙蓉は余程懲りたのか、茶々を入れたあやめに抵抗せずこくりと頷いた。
霊脈を辿りて幾度かは、人の姿を借りて外界を眺めてはいた。いたが実際に触れた事はない。仔狐の身に
「母上の云う通り外界とは……げに恐ろしき
ここ数日の出来事を思い返したか。芙蓉はぶるぶると震えだす。
朝は通勤通学する人波を恐れ、昼は激しく往来する車に怯え、夜は人目を避けつつ残飯を漁る。公園の茂みに身を伏せ、人の子供に見つからぬよう、鴉に啄まれぬよう祈る。
なるほど、芙蓉は何も知らぬ子供と同様であった。故に初めて見る世界を目前にして、羽目を外したのだと貴之は悟った。様々な悪戯の如き罠は外界を知らぬ幼さゆえ。迂闊に仕掛けるは、唯々
「調子に乗って術を操り、己が実力を見誤ったか」
「返す言葉もない……その通りじゃ……」
そこへあやめが図に乗って、芙蓉へ説教を仕掛けた。
「それにしても何じゃ。貴様はほんの一週間も耐えられんのか」
「め、面目ない限り……」
「ふん、だらしのないうつけた獣じゃ!」
遂に仔狐は、ぽろぽろと大粒の涙を流して泣き出した。
それを見てカンラカンラと笑うあやめに、貴之はぶすりと釘を刺す。
「あやめは二週間、足腰が立たなかったがな」
「よ、余計な事を云うなぁ、貴之……」
気持ちよく先輩風を吹かせていたあやめは、渋い顔をする。
「俺の背中でぷえぷえと水を吐き、済まぬ済まぬと繰り返し……」
「あーあー! もう! 止めい止めい、儂が悪かったぁ!」
あやめは耳を閉ざしてあーあーと声を上げると、遂に降参した。
そのやり取りの最中も、仔狐は頷いたままさめざめと泣く。
やがて、何でもするからせめて傍に置いてくれ、と懇願し始めた。
「妾は、人を憎んでいるわけではない……」
芙蓉曰く、酷い目に遭った母の記憶は継いでいる。
母とは、
だがそれらは千年近くも昔の話。その記憶は継いでいるものの、怒りや悲しみ、痛みなど、感情や感覚は芙蓉本人のものではないと云う。
「だから、何をすべきか分らんのじゃ……」
「では聞くが、芙蓉よ」
「は、はい」
「お前は何ができる。タダ飯喰らいを置く訳にいかんぞ」
「は、はぁ……」
貴之にそう問われると、芙蓉はそわそわと曖昧な様子となった。
「なんじゃ、お前は。タダで居座るつもりでいたか!」
あやめが睨め付けると、怯えた妖狐は尻尾を腹の下へと収めた。
だが仔狐の身では命も危うい。何としても喰らい付くより生きる道はない。
「わ、妾は、働きまする。一所懸命に働きまする!」
嘗ての妖狐は情けなさそうに、クシャクシャに顔を歪めて懇願する。
心からぽっきり折れた芙蓉は、
「しかしこの身では、人語を操るがやっと……」
仔狐の云う通り、喋れるだけで何の役に立ちそうにない。
「お願いじゃ、術者さま。せめて六尾……いんや三尾の狐に戻してくりゃれ」
「ならん」
貴之は即答した。何故ならば『三つの掟』により情を掛けられぬ。
必死に懇願する仔狐を見て、貴之は一計を案じなくてはならなくなった。
「そんなぁ……これでは
「うははぁー、惨めじゃなぁ!」
「くふっ。おっ、おのれー……」
ゲラゲラと大嗤いするあやめを、芙蓉は恨めしそうに睨んだ。
確かに仔狐が云う通り、このままでは何の役に立ちそうもない。
とは云え老人との約束で、易々と情けを掛けるわけにはいかぬ。
ならばと貴之は『三つの掟』が一つ、全てを偽り騙すことにした。
「芙蓉よ」
「はい」
「さては嘘をついているな」
「はぁ?」
「変化の術など、いとも容易いもの」
「えっ……」
「できる事をできぬとは、何事か!」
「じゅ、術者さま……?!」
貴之の唐突な厳しい口調に、仔狐は全身の毛を逆立てた。
「その
「ななな……な、なにを??」
獣の表情は分からぬが、恐らくはとんと判らぬという顔をしているであろう。
「騙そうとしても無駄だ。変化の力を残して置きながら俺に縋るとは!」
「そ、そそ、そんな殺生な……」
「野垂れ死にしたくなくば、必死に念じてみるがいい」
仔狐は今にも再び泣き出しそうに顔を歪め、あわあわと口元を震わせた。
すっかり妖力を失った狐が変化の術に至るなど、芙蓉は今まで聞いたことがない。だが術士の云う事を全うできねば、ここを叩き出されかねぬ。この様子では甘えは赦されそうにない。生き残る為にも何とかせねばと、芙蓉は必死の覚悟で決意した。
「一尾の
胸元の毛玉より何やら白い欠片を取り出すと、それを頭の上に乗せた。後に聞けばそれは人骨。人の頭骨に当たる一部分であるという。
必死に精神を研ぎ澄まし、口の中で術を念じると、変化の術を試みた。
「ふっ……」
芙蓉がとんぼ返りを切ると、忍者が起こす煙幕の様にどろんと煙が立ち上る。
狐狸が変身をする際に、特殊効果やアニメなどでよく見る光景であった。
「お、おお、成った……成ったぞ!」
芙蓉は自分の手足を確認すると、手放しで叫び喜んだ。
芙蓉は突き出た自分の耳と尻尾を手で確認すると、それらを慌てて引っ込めた。後に何の気ない顔をしたは、これは失敗ではない、というアピールであろうか。
とはいえ超常を超えし絶対的美少女であることには変わりない。北欧風の容姿に白金色の髪。よく伸びた若木のような手足をした芙蓉は、純和風美少女のあやめとは正反対の姿形であると云ってよい。
そんな美少女が嬉々として、一糸纏わぬ生まれたままの姿で貴之の前に立っていた。要所要所は白金色の長髪で隠れるも、げに残念な……否、これ幸いな事である。
飄々とした貴之は驚く事もなく、泰然自若を装って芙蓉に一連の評を下す。
「ふぅむ……まぁそんなもんだろう」
まずは云ってみるものだ、と貴之は心の中で感心する。
他人事ではあるが、こうも上手くいくとは。まるで思わなんだ。
「じゃが、
芙蓉はくるくると身を反し、自分の身体を隈なく確認する。
幼げな体型と同じくして、自慢の胸部も同様な形と相成っていた。
「嗚呼、こんなつるんつるんのぺったんこでは、男など騙くらかせぬ……」
悔しげに眉をハの字に歪め、またもや芙蓉は「よよよよ」と泣き崩れる。
その表情に貴之は「今度こそは間違いなく
それを見て内心大いに安堵し、無表情でそっけない態度を示せた。演技となれば俄然、興覚めとなる貴之である。幾ら平静を装おうとも、貴之の真の中身は普通の男子高校生なのだ。利して騙くらかされても堪らん、と。
だが一方のあやめはゲラゲラと笑い、何故か得意満面な顔になった。
「うわっははは! つるぺたのちびすけめ!」
「なんじゃと! お前かてちびすけではないか!」
「ふふん、じゃが儂には、貴様にないものがある」
自慢げに胸を反らせると、たわわに実った両乳を見せつけた。
たゆんと揺れる乳を見た芙蓉は「ふぐぐっ」と喉を鳴らして悔しがる。
「これはな、とらんじすたぁ・ぐらまーと云うやつじゃ!」
「な、なんとハイカラな!」
ちなみに、あやめの云う「トランジスター・グラマー」とは、背が小さいが胸の大きな女性を指す、昭和三十四年の流行語であるという。当時最先端にして小さくて高機能なトランジスタの様に、小柄だが均整のとれた容姿の女性をそう呼んでいたそうだ。
よって芙蓉が驚いたような「ハイカラ」ではないし、その言葉自体も明治三十一年頃から使われ始めた、高襟ワイシャツ「ハイカラー」より生み出された流行語である。
さてもさても、見た目は美少女、頭脳はお年寄り。悪鬼と妖狐の二人組であった。
「ふふん、どうじゃ?」
「あやめよ、男としてそれでいいのか?」
「ふ、ふぐっ!」
貴之がそう耳元で囁くと、得意げだったあやめは途端に押し黙った。
段々と女の自分に慣れ始めている。それどころか女の容姿を自慢するとは。
蒼い顔をしたあやめはぶつくさと「そんな筈は……」などと呟いている。
「嗚呼、妾は地中にて千年経て、八尾にまで成り遂げた至高の眷属ぞ!」
そうこうしていると、芙蓉は突如として嘆き始めた。
富士の地中にて千年も潜るとは、地下室に籠るニートが如くなりにけり。
それはさて置いて誰に云うでもなく、そう宣するとわざとらしく天を仰ぐ。
「それがこんなつるんぺたんのぼっこな姿になるとは……嗚呼!」
そう声高らかに嘆いたと思えば、大仰に頬を伝って
「見ていろ、あやめ」
「うん?」
「あれは嘘泣きだ。チラリとこちらを見るぞ」
「そうなのか?」
その様子は、貴之の予言通りと相成った。
あやめがじっと待てば、芙蓉はチラチラとこちらを窺い始めた。
「ほらな」
「ほう、流石じゃ。よう分かったな」
「……ん、なっ?!」
何故バレたのじゃ、と云わんばかりの表情で芙蓉は驚いた。
だがそれには、単純明快な物事の道筋、理屈あり。
「さて、芙蓉よ」
「な、なによぅ」
「約束通り、一所懸命に働いて貰おうか」
「うっ……」
貴之は残る災厄を話し、芙蓉に手伝うよう持ち掛けた。
断わる立場にないことは百も承知。従うしか他にない。
そうして貴之は期せずして、稀代の妖狐を自らの手下としたのである。
しかし大層悔しかったのか、芙蓉はぶつくさと恨み節を口にした。
「妾は千年生きた妖狐ぞ。その妾にお主は式に成れと云うのじゃな」
「そうだ」
「隙あらば偽り騙し、何時の日かその
「下手な演技だな」
「うぐっ」
またも貴之にはすぐにバレた。明らかに下手な虚勢である。
ならばと貴之は、その証拠をすぐさま妖狐に突きつけてやる。
「では仔狐の身になって、もう千年ほど街を
「わわわ、嘘じゃ、虚勢じゃ。妖狐としての尊厳なのよぅ……」
芙蓉は情けない程に表情を歪め、貴之に懇願する。
それを見たあやめが、感嘆の溜息を「ほう」と洩らした。
「さっすが貴之よ、妖狐の虚言をよく見抜く」
「容易い。子供になって演技まで幼稚になったからだ」
「ぶはは! なるほど、子供の浅知恵じゃな!」
げに単純明快な理屈であった。
最早あやめは堪え切れぬようなって、ゲラゲラと嗤うた。
嘲嗤うあやめに、悔しがる芙蓉。
「フ、フーッ!! フギーッ! フギィーッ!!」
どうにも敵わぬ二人を前に、歯軋りをしながら大泣きし始めた。
芙蓉のそれは、もう嘘泣きではなくなっていた。
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