第21話 妖狐遠からじ・急

 地獄の業火と燃ゆる火焔は、妖気の生み出せしまやかしであったか。

 妖狐が仔狐に姿を変えた途端、何事もなかったように綺麗さっぱり消え失せた。ただ妖狐の術により崩されし擁壁や積石はそのままに、残骸の山となったのみである。


「きゅううぅぅ……っ」


 はてさて仔狐と相成りし妖狐・九尾の……否、八尾の狐。

 腹を向けてひっくり返り、泡を吹き舌を出し、如何にもだらしない。


「いやぁ、実に爽快! 儂の時は酷い術だと恨んだもんじゃがなぁ!」


 あやめはこれぞ重畳の至りとばかり、莞爾として愉快げに笑う。

 我が身と相成れば理不尽この上なし。だが他人事と相成ればこれ程痛快な術はない。


「しかし、真実まっこと不思議な術じゃのぅ」


 相も変わらず不明為るは『光の珠』の効力である。果たしてこれが本当に、彼の老人より与えられし『三つの力』なのかと問われれば、貴之は首を捻る他にない。

 てのひらを差し出せば使えるこの力――これぞ『三つの災厄のひとつ』と見極めし時に念じれば、思い通りに扱える――と云うところまではなんとなく分かった。だがどう作用して何が起こるかまでは、当の貴之でもてんで分らぬ。

 思い返せば貴之は、あの時こう考えていた――この妖狐の身の丈が如何許いかばかりか小さければ、これほどまで脅威であると思わぬだろうに――と。

 もしやこの術は、心の奥底で考えていた事を具現化するのではなかろうか。


「ホレ、目を覚まさんか。この化け狐が!」


 あやめが仔狐の尾を引っ掴み逆さまにすると、小さな身から出るとは到底思えぬ程の、大量の水をえれえれと吐いた。あやめの時と同じくして、小さくなったその身に蓄え切れぬ、夥しい量の水分が身体より生じて、その身より吐き出されているのであろう。


「えれれれ……く、苦しい……止めて、助けて……」


 憐れな仔狐の泣き言を聞き、あやめは嬉々として指を鳴らす。


「おうおう、先程までの威勢は如何した妖狐」

「らめぇ、赦ひてぇ……」

「ようし貴之よ、此奴コヤツはきつねうどんにして喰っちまおう」

「いやぁ、止めれぇ……」


 あやめがわざとらしく舌舐めずりをすると、怯えた仔狐は命乞いをする。

 だがきつねうどんは狐を調理して作る料理ではない。だがすっかり思考能力が低下している妖狐には、如何なる脅しでもこの上ない恐怖でしかなかろう。

 憐れ、仔狐の身と成りて捕らえられし妖狐は、悪鬼の歯牙にかかる寸前である。


「待て」


 貴之が止めるを分かっていたあやめは、益々図に乗った。


「止めるな貴之。此奴コヤツは殺そう」

「あやめよ、俺は無駄な殺生を好まん」


 面白がって脅すあやめを、貴之は軽く諫める。

 あやめは勘付くところが在ったのか。素直に従い仔狐を地に降ろした。

 そうして仔狐が、小さな胸をホッと撫で下ろしたのも束の間である。


「だが、人に仇成すあやかしは容赦なく殺す」


 声を張って厳かに申し渡す貴之に、仔狐は怯えて震え上がった。

 慈悲深き言葉の裏より発せられた非情なる通告程、恐ろしいものはない。仔狐は貴之の術により朦朧とする意識の中で、知らず知らずの内に身を逆立て尾を身の内へ隠した。

 その姿をしっかりと見届けて、貴之は改めて仔狐を問い質す。


「さて、お前の名は?」

「い、云えぬ……名を云えば呪に縛られる……」

「云うが云うまいが、人に仇為す妖は殺す」


 情を掛けてはならぬ。貴之は己にそう言い付けて冷厳に申し渡す。


「だが殺す前の戒名代わりに、せめて名を聞いてやる」

「わ、わ、わ、妾の名は、芙蓉ふよう……」


 仔狐は真に迫る迫力に、身も心も凍らせてつい答えてしもうた。


「では芙蓉よ、観念して何もかもを洗い浚いに吐くがよい」

「し、しかし……」

此度こたびの事件、全ての目星は付いている」


 戸惑う仔狐に貴之は、威厳に満ちた声で告げた。


「まず目的は……おいあやめ」

「ううん?」

「まずはお前の腹の中にある石を吐け」

「お、おうっ!」


 仔狐との様子をただ見守っていたあやめが、虚を突かれて慌てて応じる。自らの胸をどんと叩き、ぷえっと何やら吐き出すと、掌の上に蒼色の石が現れた。


「仔狐よ。目的はこの石に在り。相違ないな?」

「そ、そうじゃ……」

「そしてこの石は、元々お前の手元にあったのだろう」

「な、なんと……その通りじゃ」


 仔狐は目を丸くして、貴之の言に頷いた。


「お、おい、貴之よ。それが何故分かる」

「まぁ待て、最後まで聞くがいい」


 貴之は、落ち着きなくぼそぼそと問い掛けるあやめを制す。


「次にあやめよ。お前に悪夢を見せていた犯人はな……」

「おう」

「この蒼い石だ」

「ふ、へぇ? なんじゃと?」


 素っ頓狂な声を上げ、今度はあやめが驚いた。


「な、それは何故じゃ?」

「お前と狐を引き合わせ恩恵を得るは、その石しかないからだ」

「この石が、儂に悪夢を見せただと……!?」


 驚くあやめの掌に収まる蒼い石が、察した様にきらりと妖しく輝いた。

 そうと説かれると心当たりは数多い。あやめの体内に在りしこの蒼い石ならば、強力無比な鬼気を纏った鬼娘に悪夢を見せるは容易かろう。

 またあやめの腹の中で行動を共にしていたのだ。この蒼い石ならば、昼間にあやめがどこに居て、妖狐の居場所がどこに在るかを知り得ても、何ら不思議はない。

 芙蓉の手元へと早々に戻りたいと願うならば、居場所を教えるのも道理である。


「我らの相手は当初より、二人居たのだ」

「そうか、だからなのか……!」


 心と精神を甚振いたぶり弄ぶ悪夢の手管は、老成持重の智将が如し。

 一方、大袈裟で子供騙しの仕掛けは、軽慮浅謀の童子が如し。

 そのちぐはぐさに頭を悩ませた理由に、あやめはようやく得心がいった。


「た、貴之よ。この絡繰からくりに、何処どこでそうと気が付いた」

「きっかけは蒼い炎。そうと聞いて直ぐにその石の色を思い出した」


 蒼い石――故に蒼い炎。

 そう云われてよくよく見てみれば、これこそ正に同じ蒼。

 夢の妖狐、死闘の中で噴いていたのは、蒼白あおき炎。

 この妖狐、死闘の中で噴いていたのは、紅蓮あかき炎。


「な、なるほど……!」


 あやめは思わず感嘆の声を上げた。だがあやめの驚愕は、それに留まらず。

 続けざまに貴之は、あやめが思いも寄らぬ言ノ葉を口にした。


「そして妖狐よ――お前はこの石の娘だな」

「なっ、にゃんと!?」


 貴之の言葉に驚き過ぎて、声を上げたあやめはまたまた噛んだ。この上なきタイミングの悪さに恥じ入って、口をもごもごと押えて口籠る。

 いやはや、確かに確かに。あやめはすっかり忘れていたが、あの悪夢を思い返せば、消えゆく市女笠の美女は、夢の中で確かにこう云っていた。


『こりゃあの、我が娘の恩讐が前払いじゃて……』


 恩讐の意味はよく分からぬが、間違いなく娘の存在を言い残していた。

 よくぞ貴之は、あやめが伝えし言葉の数々を事細かに覚えていたか。

 あやめは驚きを隠せずに、ただただ感嘆するしかない。


「い、如何にも……」


 すっかり意気消沈し俯いた仔狐が、観念したか渋々と語り始めた。


「御存知の通り……この石はまさしく我が母、殺生石よ……」

「……殺生石!」


 殺生石とは、その名の示す通り「鳥獣がこれに近づけばその命を奪う、殺生の石」として古来から伝えられる史跡が一つ。その伝説は以下の通りである。


 鳥羽の院の時代――上皇が寵愛したという才色兼備の宮廷女官・玉藻前が居た。

 九尾の狐が化身であった彼女は、陰陽師・安倍泰成に正体を見破られ調伏されると、那須野の原へと逃げ去って、彼の地にて傍若無人の悪事を働いた。そこで派遣されし数万の軍勢にて射伏せられるや、石に化け、近づく者に毒気を出して命を奪った。

 数百年を経た後に、その地を訪れし高僧・玄翁和尚が、悪しき石魂を仏道に導かんと法事を執り行えば、殺生石は打ち砕かれて飛散して、全国各地へと飛び去ったという。


「やい、妖狐。ならばお前は、自らを玉藻前の娘と称すか」

「げ、下賎の鬼如きが、妾と対等の口を訊くでない……!」


 糾すあやめに仔狐は、小さくても妖狐の誇りがあるのか。

 一丁前の減らず口を叩く妖狐に、貴之は一喝した。


「立場を弁えて言ノ葉にせよ。然もなくばお前の命は徒花を散らすぞ」

「ああん、う、嘘じゃ……虚勢じゃ……」


 貴之に凄まれた仔狐は、情けない呻き声を上げて恐れ入る。


「その通り……母は玉藻前。殺生石の玉こそは、我が母の化身じゃ……」


 仔狐は最早これ迄と、己の身の上を訥々と語り出した。


 我が母・玉藻前は、時の政権との政争に敗れて命を狙われた。

 その時、既に妾を身篭っていた母上は、追っ手から逃れようと出奔す。

 徐々に政敵に追い詰められ、射伏せられて、命を落とさんとする間際。

 遂に母上は、その身を術により石へと変え、我が仔を護り通した。

 毒を吐き、仔を護る。その石こそが、世に云う『殺生石』である。

 然して二百余年の時を経て、愈々いよいよ刻限が迫り寄る。

 だが石の身の上では、仔を外界へと解き放つ事が出来ぬ。

 そんな母仔に情を感じた或る旅の高僧が、殺生石を砕いて四散させた。

 その高僧の名こそ、伝説に名を残せし玄翁和尚。

 砕かれし石のひとつは玉に身を変え、仔を包んで遠き空を飛びて旅した。

 仔を包んだ殺生石は、富士の火口へ飛び込むと、そこで無事に仔を育つ。

 育った仔は、千年近き時を経て、八尾の狐と相成った――


「それが妾じゃ……」


 そこまで話して仔狐は、小さな目から大きな涙をぽろりと落とした。


「それが何故、世に災厄を為そうとした」

「つい先日の事……九尾の身に迫る八尾と成った時の事じゃ……」


 漸く八尾の身と相成りて千年妖狐に迫る迄、あと一歩。

 最早、大願成就は適えたり――そう思い込んだ妾は、外の世界を見とうなった。

 それ故に龍脈の中を自由に行き来し、夜な夜な都会の街へと繰り出した。

 華やかなりし世界にうつつを抜かし、遊び惚けておった或る日の事。

 我が母が身を変えし殺生石が、何時の間にか無うなってしもうた。

 産れ育った富士の火口のどこを幾ら探しても、とんと見当たらぬ。

 もしや龍脈を流れ出てて、どこかへ行ったのではあるまいか。

 母を探しに外界へと出たが、初めての世で揮う術は、まるで熱病の如し。

 浮かれ、勝手気まま、自由自在。思う存分、やりたい放題。

 そうして、つい調子に乗ってしもうたのじゃ……


「事情は、相解った」


 貴之は、あやめから殺生石を受け取ると、芙蓉に投げて渡した。

 大地に転がった蒼い石を見て、悪鬼と妖狐は目を丸くする。


「これを持ち、どこへなりと、とっとと消えよ」

「何をする、貴之。此奴コヤツに情けを掛けるのか?」


 情を掛けてはならぬ――

 老人との『三つの掟』を思い出しながら、貴之は厳めしくも冷笑す。


「情けだと? あやめは俺を笑わせる気か」


 冷酷な笑みをわざと浮かべ、貴之はぎろっとあやめを睨んだ。

 つい悪寒を感じたあやめは、鬼娘の身を小さくふるるっと震わせる。

 効果覿面てきめん。その様子を見届けて、貴之は憐れな仔狐に告げた。


「力を失ったその身では、災厄を犯すどころか何もできまい。この世の厳しさを篤と味わい、欲深き者に狩られる恐怖に慄き怯えながら、その姿で一生を棲ごすがいい」


 しかし、憐れで矮小な仔狐よ。再びお前が悪事を企むその時は――お前の身の内に潜ませた我が術が、血肉どころか魂までをも微塵残さず喰い殺す――と貴之は、語気荒く更に強く脅し掛け、より一層の追い討ちを仕掛けた。

 貴之の冷厳な態度と台詞を聞き、隣のあやめですら「ゴクリ」と息を呑む。その術の恐ろしさを身を以て知るあやめは、背筋をぞっと凍らせた。

 今でこそ貴之の術は、互いの信頼の証と絆に相成った。だがもし貴之に出逢った当初、彼に逆らっていたならば、如何に悲惨な憂き目に遭っていた事か。

 あやめは眉根を寄せて恐れ為す、げに真剣な真顔を素直に見せた。今にも打ち震えんばかりのその表情かおを見た芙蓉は、貴之の台詞が単なる脅しではないと一瞬で悟った。

 身の内に巣喰う術は必定。術に喰い殺されるは、紛う事無き確信。

 背筋に氷柱を突っ込まれたような、氷点下を軽く超える鋭く冷たいものがその身の内に走らば、憐れで小さな獣の身は心の底から震え上がった。


 しかし――貴之としては当然の様に、完全なハッタリである。

 本当に相成るかどうかなど、嘘八百の口から出任せで知る由もない。


 真実まことを示してはならぬ――全てを偽り騙すべし。


 貴之は、それをただ実践したのみである。


「わ、妾は、げに愚かじゃった……」


 ほろり――と小さな狐の瞳から、再び大きな涙が零れ落ちた。


「未熟で……身の程を弁えなかったばっかりに……」


 次から次へと大粒の涙をボロボロと零し、芙蓉は悲嘆に暮れた。

 その姿は惨めで、憐憫の情すら感じさせたが、貴之には『掟』がある。決して情を掛けるわけにはいかぬのだ。

 仔狐は一頻りそうしていたが、やがて自らを憐れむ事すら諦めたのか。小さく「こーん」とひと哭きすると、殺生石を咥えてどこぞへと、とぼとぼと歩き去っていった。


「さて、帰るぞ」

「お、おう」


 遠く学校の校庭を見やれば、破壊されし体育倉庫に人が集まりつつあった。

 倉庫を破壊せし巨石は、一体どこから飛んできたのやら。この公園のこの場所を、突き止められるは時間の問題であろう。事件の真相解決は、兎も角として。

 今すべき事柄と云えば、ここより一刻も早く立ち去るが賢明であろう。

 去りゆく哀れな仔狐の小さな背中を見送って、あやめが貴之に問い掛けた。


「のぅ、貴之よ」

「なんだ」

「お主のその力、この儂ですらスッカリと忘れていたぞ」


 少し鼻白んだ様子で、あやめは貴之に問う。


「その力、何故すぐに使わなかった」

「あやめの力でカタが付くなら、それでいいと思った」

「フンッ! 済まんな、力不足で!」

「そういう意味じゃない」


 あやめの振う悪鬼の力。芙蓉の揮う妖狐の力。

 共に現代の人類にとって、まさに未知の、恐怖の力である。

 この力が現代の世に蘇り、解放され、跋扈せし時。

 世界は――人類の世界と運命は、大きく変わるやも知れぬ。

 いや、きっと変わってしまうだろう。

 老人の「日本の命運を握る」と云う意味が、今なら分かる気がする。


「あやめは、不撓不屈の闘いに臨んだ事があるか?」


 あやめとの勝負、芙蓉との死闘――

 いずれも万難を排してでも絶対に負けられぬ闘いだった。


「……ふん、そんなものはないな。気ままに生きて、気ままに殺し、殺される。生きとし生ける者の定めとは、生死とは、そういうものじゃろう?」

「ならばお前には、まだ分かるまい」


 貴之は、そう云い残して背を向けた。

 その背中に、あやめは聞こえぬ程の声で呟いた。


「では……何故あの時、儂は貴之に『逃げろ』と云うたか」


 あやめには、自分の答えが憎まれ口である事くらい疾うに分かっている。

 妖狐の様な災厄と闘う意味や、貴之の云う言葉の意味も。この身の上に相成りて、あやめは痛いくらい疾っくの疾うに知り得ているのだ。


 逃げろと叫んだ意味とて分かっている――貴之に、生きて欲しかった。


役小角えんのおずぬの式神と成りし前鬼・後鬼。藤原俊宗に付き従った鈴鹿御前――裏切り者の彼奴きゃつらこそ、穏忍おにの誇りを失ったものかと当時は憤ったもんじゃが……」


 人に付き、人に従った遠き世代の同族なかまたちを、あやめは想う。

 彼の者たちは、若しや斯様な心境であったのだろうか。

 歩き去る貴之の背中を、じっと見つめて暫し自問自答する。


「……貴之! ええい待て、貴之! 待てと云うに!」


 いずれ答えは自ずと見つけ出す。

 今はただ迷いを捨てて、あやめは貴之の後を追い駆けた。

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