第20話 妖狐遠からじ・破
悪鬼と妖狐、力と技の勝負は、両者一歩も譲らず。
妖狐が猛火を轟と噴かば、あやめは妖刀の一振りで跳ね返す。
あやめが太刀を一閃すれば、妖狐は鋭き爪で弾き返す。
一進一退、五分と五分。序盤の腕試しは如何にしても互角。
この拮抗を崩すには、互いに手を打たねば埒が明かぬ。
そう企んだかは分からぬが、妖狐は舌戦を仕掛けようとす。
「くっふふぅ……飛んで火に入る夏の虫とは、まさにこの事よ」
「何を猪口才な!」
「よもや妾がそれ相応の準備をして居らぬとお思いかぇ?」
「むむっ……?!」
妖狐は口元から火の粉を散らすと、頬を歪めてにたりと嗤う。
用意周到に罠を張り巡らせたかの如き示唆をした。確かに古来より妖狐を始とした
「騙されるなよ、あやめ!」
戸惑うあやめに貴之が、間髪入れずにそう叫ぶ。
「それは演技だ! お前の読み通り、妖狐に準備はできていない」
「くふふぅ、そう読むに足る根拠なぞあるものかぇ……?」
疑心を招く妖狐の物言いに、貴之はきっぱりと物申す。
「用意があれば、わざわざ自分から種を明かすものか」
「ハッハハ! その指摘、
貴之の明快な云い様に、あやめは声を立てて大笑いした。
一方の妖狐と云えば読み抜かれたを悔しがったか。舌打ちを鳴らすとギリリと犬歯を噛み締める。妖気の回復に努めていた妖狐はやはり、準備不足が否めなかった。
あやめは思わず愉快気に頬を緩めた。貴之を背中に感じつつ太刀を振るうは、血湧き胸躍るが如し。妖狐に千古万古の智慧在らば、我に千思万考の貴之在り。これまで共にしてきた時の中で、道士の技量は十分信ずるに値する。
「そういえば、貴之よ」
「どうした、あやめ」
「お主は妖狐が『我らを狙う時こそ最大の好機』と云うとったな」
「ああ、言った」
「ならば当然、策はあるのじゃろう?」
当然の事なれど、あやめに以前そうと告げたは尤もらしい嘘である。
いつも通りの舌先三寸、口から出任せに違いない。
だが貴之には、策がないと云えばないが、あると云えばある。
ここは『三つの掟』に従って、一切の
だからその問いは、迷うことなくハッキリと誤魔化した。
「任せておけ。お前は気にせず前だけを見ていろ!」
「おおっ!
それでもあやめの士気は、貴之の
ぺろりと舌を出し、愛刀を改めて構え直すと、再び妖狐に立ち向かう。
「さて、
悪鬼と妖狐、黒と白。体力と精神、小手調べはほぼ互角。
この拮抗を崩すには、ここらで手を変え品を変えて挑むが潮時か。
機を狙いしあやめは、妖狐の隙を見極めて、背後に回って斬り込んだ。
「よし、
「ぎゃああぁぁッ!! お、おのれぇぇッ!!」
あやめは見事、妖狐の持つ八尾の内、一つを見事断ち斬った。
生まれ出でしより初の痛みに、妖狐は怒りと激痛にのたうち絶叫す。
打ち落とされし妖狐の尾。あやめの狙いはただ一つ。
龍脈の地中深く繋がる尾を全て断ち斬り、力の源を断つ。
無尽蔵と思しき妖力も、糧道を断てばいずれ空となろう。
「よし、もう一丁ッ!」
「そうはいくかぇッ!」
あやめの直上に火焔の玉が現れると、中空で炸裂して弾け飛んだ。
火焔降り注がば容易には近寄れぬ。一旦跳び下がって距離を取る。
「どうじゃ鬼娘! 最早妾には近付けまいて!」
「ハハハ、ザマぁ見よ! キツネが慌てておる!」
「……チィィッ、一尾くらいくれてやるわいや!」
憎まれ口のこの勝負、尻尾を断ち斬りしあやめがやや優勢か。
とは云えあやめは油断せぬ。敵は奸知術数を最も得意とする『最強の妖獣』と呼び声高し九尾の狐――否、幼獣が八尾の狐である。闘いの内に罠を仕掛けて来ぬとも限らぬ。油断と隙は死を招きかねんと、あやめは気を引き締め直す。
その激闘をじっと眺めていた貴之が、何かに気付いてあやめへ叫んだ。
「むっ、あやめよ、気を付けろ!」
「どうした」
「斬った筈の尾の数が元に戻っている」
「な、なんと……」
ホラ見よ、キツネは早速仕掛けて来よるわ。
斬った筈の尾の数が、再び生えていると来た。
「くふふぅ、ええかぁ。偽の尾を斬らば罠が動くぞえぇ……?」
あやめの策を、妖狐はすぐさま逆手に取ったのだ。
敵も然る者、引っ掻く者。隙だらけのようで隙がない。
ここで隙を見せるは、敵の策。罠を仕掛けし尾やも知れぬ。
疑心暗鬼が身の内を巣食い、思うた攻撃ができぬよう相為った。
「ちぃっ、厄介な悪獣よ!」
こうなればあやめは後手に回り、流石に息を切らし始めた。
小さき身の内のあやめは、無尽蔵の妖力と無縁。
相対せし時より苦戦は必須。覚悟は在れど想像以上の大苦戦。
然りとて流石の妖狐と云えど、余裕は然う然うない筈だ。そう自らに云い聞かす。
その上で尚――百戦錬磨の悪鬼とて、只一つ、手に負えぬ厄介があった。
「くっ……この身体にして、この太刀よ……」
「どうした」
「どうにも我がこの身にこの太刀が、しっくりと来んのだ」
「まだ自分の身体に合わんのか」
「ううむ、まだ
あやめは巨漢の大男から小柄な女の身に転生し、まだ間もない。
二尺七寸を超える太刀を振り回すに尺が合わぬのか。それとも他に理由があるのか。そんなものあやめに分かる筈がない。何せ今まで斯様な目に遭った事がないのだ。
「もう少し修練すれば、或いは……!」
そう貴之に云い残すと、あやめは天高くに飛び退いた。
どうと音を立てあやめの居た場所を抉り飛ばしたは、幾多の
だが流石の妖狐とて、こうも巧みにあしらわれては、如何に堪忍為らざる。
「ええい、ちょこまかと鬱陶しい鬼娘よ!!」
怒りに震える妖狐が吠えた。名も知れぬ小娘にしてやられるを焦ったか。
妖狐は地の底から大地をグラグラと揺らさば、
「我が秘術ぞ、喰らうがいい……妖術・
あっという間に大地を裂くや、爆裂四散した炎の玉で辺りは業火に包まれた。
その威力、焼夷弾も斯くや。爆砕された大地の破片は、隕石の如くあやめたちへと降り注ぐ。その一部は遠く学校校庭まで飛来して、炎を纏った岩石に体育倉庫が爆砕された。
幾ら無人の校舎、人気無き公園とは云え、付近の住民もこれには騒ぎ出し始めかねぬ。このまま狂った狐を野放しにすれば、野に山に街に人に甚大な被害が及ぼうぞ。
流石のあやめもこの妖術には為す術なし。徐々に圧倒され始めた。
「クハハハ!! ここまでだ、蛆虫どもめ!!」
正体と見境を失い始めた妖狐は、狂ったように嘲り嗤う。
その姿を確かめて、あやめは貴之に向って叫ぶ。
「くそっ……口惜しいがここは引くぞ、貴之!」
「そうか」
「
「そうか」
「では退却ぞ!」
「いや、まだだ」
承服しかけたかに見えた貴之が、あやめの提案を拒絶した。
まま奇行の目立つ貴之だが、この言動にはあやめも怪訝な顔をする。
その間もあやめは絶え間なく、襲い来る炎の玉を斬り払う。
「え、な、なにぃぃ?」
「まだ、だ」
「気でも狂うたか!?」
ここへ来て、貴之は我が方の劣勢を見誤ったか。
将が軍勢を見るに引く機を見誤れば、兵は即座に死の影を纏う。
しかし当の頭目、貴之は腕組みをしたまま頑として動こうとはせぬ。
「なればこそ、だ」
「どういう意味ぞ、貴之よ!」
「お前を上回る災厄なれば、見逃せん」
「なっ……まさかお前は命より、災厄封じを優先するか!?」
眼前に迫りし極大の炎の渦を、全身全霊の一刀を以て斬り払う。
気を入れ直し、刀剣を握り締め、あやめは歯を喰いしばった。
忍び寄りしは、九割九分九厘九毛の、濃厚な敗北と死神の影。
「まだ……駄目だ」
「ぐぐっ、この愚か者め!!」
だが――あやめは貴之を見捨てて逃げる気に為らぬ。
貴之の死は、自らの死へ直結するからであろうか。
否。それは最早、あやめの脳裏に姿形も在りはせぬ。
ではせめて、貴之を抱え上げ、逃げ去るがよし。
大災厄を目の前にして、我関せずと捨て置くもよし。
「そうだ……」
嘗ての自分で在れば、迷いなくそうした筈だ。
だが、今宵のあやめに『逃げる』の言ノ
「もしやこれが……人の身で云う『覚悟』と呼ぶものか」
この日、この
貴之を信じるに足る、純情可憐な熱き
暗闇の山中で出逢いし、旅の
身の内に流るる最期の血の一滴まで、彼の男に付き従わん。
そんな情熱が、小さきあやめの身の奥底から沸き起こるを感じていた。
「為らば……これはどうじゃ!」
反撃の糸口を見出すべく、小柄な身体を利して敵の懐深くへ飛び込んだ。
稲妻の如き素早き速度、計算され尽くしたかのような角度。
我を失いし妖狐が刹那の隙を突き、あやめは渾身の一刀を突き入れる。
「おぎゃあああぁぁあぁぁッ!!」
見事、二つ目の妖狐の尾を断ち斬った。断ち斬られし妖狐は絶叫す。
「矢継ぎ早にどうじゃ、この女狐め!!」
逸る心を抑え切れず、返す刀で三つ目の尾を刃に掛ける。
刃を当てて一気に断ち斬ると、一撃の衝撃でそれは起こった。
「ゲゲッ! きゃっきゃっ!! ……その尾は罠じゃ、阿保ぅがぁぁッ!!」
尾に仕込こまれていた仕掛けが、問答無用で発動した。
擁壁深くに埋め込まれていた罠の尾が、妖刀を突き入れた衝撃で爆砕され、積まれた石積みが天高く舞い上がると隕石の如く降り注いだのだ。
雨霰と降り注ぎし巨石の山を躱すべく、あやめは宙を駆けるように即座に跳び上がる。幾つかの積石を蹴って避けたものの、とても避け切れる数ではない。
「かふっ……!」
遂にあやめは飛び散った巨石のひとつに打ち倒された。地に叩き付けられると積石が次々と身の上に降り注ぐ。頭を庇いて小さく屈めば、積石同士がぶつかりて運よく直撃は避けられたものの、巨石と巨石の間に脚を挟まれて自由を奪われると、どうにも身動きが取れぬようなった。
「くっ……くそぅ……!」
「くはははっ! 手古摺らせ居ったなぁ、ちびすけの鬼娘めが!」
積石の山より抜け出るには、如何に小柄なあやめとて時間が掛かる。
その間に妖気を持たぬ貴之は、即座に討ち取られてしまうだろう。
「無事か、あやめ」
積石に囲まれし我が身の、見えぬ外側より貴之の声が聞こえてきた。
この石壁の向こうに、貴之が来ているのだ。
「くっ……儂は無事じゃ! 逃げろ、貴之!!」
「ありがとう、あやめ」
予想だにせぬ言葉が、貴之の口より発せられた。
「なっ?! ……何を云っているのだ、貴之!」
「よくぞここまで、耐え忍び、導いてくれた」
「なっ、何をする気だ?!」
貴之は、ゆっくりと噛み締める様に思い出す。
一つ「恐怖に呑まれてはならぬ」――あの老人はそう云った。
貴之はあやめを庇う様に、正々堂々と妖狐の前に立ちはだかる。
「覚悟は決まった」
「待てっ! 我が鬼の同胞が人間どもに組してまで倒した妖だぞ?!」
貴之はいったい何をする気か。読めぬあやめは、絶叫する。
何故だか分からぬ。分からぬが、胸の内の芯の底から震えが止まらぬ。
「おい、貴之! やめいっ、やめんかっ!!」
絶叫するあやめに目もくれず、貴之は妖狐と相対す。
怒りに燃える妖狐は今にも火焔を吹き出さんばかりに、口の端から轟々と火の粉を振り撒くと、血走った眼玉をぎろりと剥いた。
恐怖の色を一切見せず目の前に立つ貴之と、興味深げに会話をす。
「人間風情が……いい度胸だ」
「それはどうも」
「くふふぅ、気付いておるぞぇ」
「何に気付いた」
「先程から貴様は、口先ばかりで何もせん」
「ほぅ」
「何の精気も、鬼気も、妖気も感じぬ」
「ほぅ」
「実は、策はない。術もない……貴様は凡庸な只の人間ぞ」
「そうか、俺は凡庸な只の人間と、お前はそう思うのか」
「百載無窮の妖術は元より、天地万象の智慧を持つ妾を騙せるとお思いかえぇ?」
チロチロと赤い舌を覗かせて、心の内を見抜くような目で妖狐は問うた。
だが貴之は、金の毛皮を身に纏いし巨大な悪獣を前にして、眉一つ動かさぬ。眉を動かさぬどころか、更なる挑発を妖狐へ発してみせた。
「ならば思う存分にやれ。凡庸な只の人間を殺すは、実に容易かろう」
「くひひぃ、何を云うたか分かっているかぇ……気でも狂れたか?」
当然、これ迄に妖狐へ投げ掛けた貴之の言葉は、全て嘘である。
存分になどやられては堪らぬし、実に容易く殺されるつもりもない。
一つ「
術はない。策もない。只の凡庸な人間――だが、切り札はある。
今も変わらず貴之の、胸中に潜む不思議な感覚。貴之の精神を温かく照らす『光の珠』の存在である。今日も今日とて貴之の心の内にふたつ在り、心一つでくるくると自在によく操る事ができた。
「これぞ、災厄のひとつと見極めた……」
貴之が『三つの災厄』である確信と、それに
今こそこれを『光の珠』を――『三つの力』の一つを再び揮う時。
「愚かな人間よ……死んで詫び、妾が一尾の微力となりゃれ」
そう振り上げし巨大な尾――尾と呼ぶには、あまりにも巨大。
神社仏閣や城郭の心柱が如く為りし狐の尾が、貴之の直上へ振り被られた。
「ま、待てッ! 貴之、たかゆきぃッ!!」
巨石の山より這い出でて、顔を出したあやめが更に絶叫す。
今にも挟まれた我が脚を斬り落とし、駆け付けんとせんばかりである。
しかし妖狐は抜け目なく、その隙すらも与えなかった。
「
「今が、その時だ」
貴之はそう呟くと、借り受けた『三つの力』のひとつを使う。
振り下ろされし尾よりも早く、
「なっ……なんぞ、なんぞ、この術はぁぁ……ッッ!!」
巨大な光球が貴之の掌底より弾け出ると、幾千もの眩いばかりの閃光が
「あれ、抜けてゆく……千年の刻を懸け、練り上げた妾の妖力が……!!」
それは数十秒、いや数秒間の――恐らく嶄九郎の時と同様の時間であろう。
煌々と漏れ出てた閃光が渦を描き、ゆっくりと収束を開始する。その頃に為れば、あやめは積石の束縛から
しかし不可思議な術を目の前にして、つい恐ろしゅう為りて貴之の腕に縋り付く。
「お、おい、なんじゃありゃ! 儂の時と同じ力か?」
「まぁ、ね」
「なっ、なんじゃ! 他人事みたいに!」
結果が分からぬ貴之は適当に言を濁す。事実、貴之にとっては他人事のような気分である。あやめはそんな貴之に呆れつつも、どことなく嬉しそうな表情を浮かべ居る。
そこで
「なんだ、心配してくれたのか?」
「だだっだだ、誰が貴之など……心配するものか!」
あやめは自分から貴之に縋った癖に、わざわざ掴んだ腕を突き放す。
貴之の言葉に憮然としながらも、今や別の事に興味津々と相為っていた。
「やれ、彼奴め。どのようになったかな?」
光が渦巻き白煙の燻る、貴之が放ちし光球が在りし中心部分。
貴之が術の収まりゆくを見届けて、あやめが恐る恐る近づくと――
「こ、こ、これは……!」
声を上げて驚きし、あやめの目前に在るは意外な姿。
そこには、只の小さな幼獣――仔狐が一匹。
だらしなく仰向けになり、舌を出して目を回していた。
「ぶっひゃっひゃっひゃっひゃっ!!」
それを見たあやめは突っ伏すと、大地を叩きて大笑いする。
「ち、縮んどる!! 随分と無様に縮んどるわい!!」
「あ、あな……酷し……」
目を回した仔狐は、そう呟くが精一杯であった。
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