第19話 妖狐遠からじ・序
とっぷりと夜も更けて、街ゆく人影も消えし頃。
ショッピングモールのある駅前の中心街から少し外れた北西に、木々の生い茂る小高い丘の端に公園がある。その昔、高低差を利してアスレチックに使われていた古い公園だ。
すっかり古びたこの公園は、嘗て数多く設置されていた遊具も撤去され、今はただ木々に囲まれただけの閑散とした佇まいを遺す。
公園を訪れる人影は失せ、子供たちの賑やかな声に包まれる事はない。
「おう貴之よ、確かにここじゃ……!」
そんな閑散とした公園に、男女二人の妖しい影が在った。
言わずもがな、妖狐の影を追いかけて訪れた、貴之とあやめである。
掌を翳したあやめは、得意の気詠みに依って確かな気配を感じ取っていた。
「だがな貴之、何故この場所と察したか」
「あの夢見はな、あやめに伝たかったんだ」
「何をだ」
「この事件を紐解く手掛かりを……かな」
そう云われれば、あやめには心当たりが有る。
夢見の美女は、ずっと同じ言葉を繰り返していたからだ。
「夜更けぬ先に、帰らせおはしませ……」
夜が更ける前に、お帰りなさい――
あの言葉はあやめに何かを伝えようとしている。
夢の内容を伝え聞いた貴之はそう考えた。
「夢の中の妖狐が、何故手掛かりを与えようとする?」
「まぁ待て。それは追々説明するとして、だ」
貴之はあやめの疑問を遮ると、夢の内容を復習する。
「夜が更ける前に帰れ――そういうことだよな?」
「だが既に夜更けた先で、夜更けぬ先に帰れとは……」
「辻褄が合わん……そうだろう?」
「そ、そうだ」
貴之はそう分かっていて、何故わざわざ聞いたのか。
それが分からぬあやめは「意味が解らん」と小首を傾げる。
「ならば、夜更けぬ先とはなんだ」
「ううん、暮れ六つ前……まだ日のある夕暮れ時かのぅ?」
「いいか? お前はそこへ『帰れ』と云われたんだ」
すると一瞬きょとんとした顔をしたあやめは、小さな口を「あっ」の形に開けたまま、ぴたりと固まってしもうた。ようやっとその意味に気付いたのだ。
「夜更けぬ先に帰れとは、若しや『時間』の事であったか!」
「では平日のその時間帯に、お前はいったいどこにいた」
「な、なんと……『学校へ帰れ』と、そういう事であったか……!」
夜が更ける前、つまり『日のある時間』――授業中に居た、『場所』――学校へ帰れ。
そう云う意味である。だから夢幻の美女は、決まって平日の夜中に現れたのだ。
確かに、学校に敵の拠点がある――そう考えれば
あやめとて、敵の拠点が身近な馴染みの直ぐ傍にあるは、盲点であった。
そこで貴之は学校の位置を地図で確かめると、先日あやめが指し示した地図上の龍脈と二人が通いし学校は、実にぴたりと重なった。そしてこの学校校庭の地下には、嘗ての河川の痕、今は蓋をして埋め立てられた
「そこで暗渠の痕を辿り、かつて泉が湧いていた史跡を訪ねると……」
「この公園に当たると、そう云う事か!」
あやめはすっかり合点がいったのか、指を鳴らせて膝をぽんと叩いた。
「すると憎き狐めは、この暗渠の下より校庭地下に潜り居るな」
そこで再び掌を翳したあやめが、錆びた鉄格子蓋を指差した。
どうやら嘗ての河川を封印せし、内部確認用の立坑であるらしい。
その鉄格子蓋は、如何にも頑丈そうな錠前で閉じてある。
「ふふん、儂の気詠みに幻術は利かんぞ」
あやめは立てた二本の指を左右へ振りて、鉄格子蓋へ向け「ぷぅ」と息を吹きかける。すると頑丈そうな鉄格子蓋の錠前が、まるで煙のように消え失せた。
どうやら鉄格子蓋を封印していた錠前は、狐の化かした幻術であったようだ。
「では、ちょっくら行ってくるわい」
あやめは鉄格子蓋を開けて地下へぴょんと飛び込むと、構内はコンクリートで固められた横穴となっていた。中はちょろちょろと水の流れる水路となっているようだ。
「どうだ、行けるか?」
「任せておけ」
そう云い残して、姿を消したあやめを待つこと数分。
貴之はその立坑が見えるベンチに腰掛け見守っていると、そこから凄まじい爆炎が噴出した。遥か上空を見上げれば、爆炎と共に飛び出したるは、あやめの姿。
実に見事な体捌きで、くるくるくるりとその身を回転させて地へ降り立った。ここ数日間の夜歩きで、小さきその身の扱い方を、実に善く習得していたらしい。
「どうじゃ貴之、儂の華麗で鮮やかな軽業は!」
大きく育った胸をぶるるんと張って踏ん反り返ると、得意げに見栄を切った。
「そうだな、可愛らしいパンツがよーく見えたぞ」
「あなやぁ!? 見るな!
スカートの上から尻を押さえて、真っ赤な顔をしたあやめが絶叫した。
ちょっぴり可愛いパンツを穿いていたを、よもや貴之にバレるとは。
「きょ、今日は偶々じゃもん!」
「そうだな、今日はたまたま可愛い純白のフリルだな」
「ふぎぎっ! こ、こんなの末代までの恥じゃ……!」
あやめは真っ赤な顔を両手で隠して
「そう思うなら、少しは乙女の慎みを持てばいい」
「わ、分かった……って、儂は
「そんなに可愛いの穿いといて、今更何を言うか」
「う、うににに……」
あやめは小さな下唇を噛み締めて、つい涙目で悔しがる。
どんな気持ちで可愛いパンツを穿いたかは、げに気に掛かる。だが今はそんな問答をしている場合ではない。貴之は気を引き締め直すと、改めてあやめに問うた。
「で、中では何があった」
「う、うむ、そうだな……狐がな、龍脈に尾を浸して地脈の気を貪って居ったでの。その尻を思い切り蹴っ飛ばして、目を覚まさせてやったわい」
その時、轟と音を立て燃え盛る炎の中より、ゆらりと人影が蠢いた。
溜まらず飛び出したは、怒り狂った妖怪狐――ではない。
煙る黒煙の内より現れし、そこには果たして絶世の美女。
北欧美女の顔立ちに、暗がりでも艶やかに輝く赤いドレス。同色の柔らかそうな口唇。炎に逆巻く暴風に煽られ瀟洒に棚引くは、いと美しき
真っ赤に爆ぜる炎に照らされて、周囲は深く黒い影を落とす。美女の影は野獣の形に浮かび上がり、その両目は時折、獣のそれが如くギラリと光る。
冷静沈着、鉄面皮。落ち着き払った
「ハッハハ、貴之よ見ろ! 狐が穴から這い出てきたぞ!」
だがその姿を見たあやめは、ニヤリと笑みを浮かべて挑発を仕掛けた。
気持ちよく寝ていた所、尻を足蹴にされたのだ。怒らぬ道理はない。
「やはり狐は、穴蔵がよう似合う」
「その例え……些か気に入らんぞ、
「なっ……! わ、儂を娘などと呼ぶな! この、女狐が!」
挑発し返されたあやめは、いとも容易く憤慨した。
こう云う仕掛けは、まるで不向きな鬼娘である。
「すっかり縮み上がった下衆な種が、妾を追うとは笑わせる」
「フン、穴からのこのこ姿を現しておいて、よく吠えるわい」
「くふふうっ! この坑道で術を揮うは、些か狭すぎるでのぅ」
そう告げると、美女は見る間に姿を転じ始めた。
その身の丈は八尺を優に越え、益々巨大に膨らまんばかり。
金色に輝く毛並みの良い尾を持つ、巨大狐の身と相成った。
幾重にも分かれた尾の数は、まるで孔雀の尾羽が如しである。
「なんと、九尾の狐だと!?
その姿を見たあやめは、珍しく驚愕の声を上げた。
九尾の狐と云えば、貴之とて何度も耳にしたことがある。中国伝奇にも登場す、最強にして最悪と評される類稀なる名高き
日本の伝奇でも「玉藻前」として、能や浄瑠璃と為る程に有名である。
「くふふぅ、妾を只の妖狐と侮ったようじゃのぉ」
「むむむむ……!」
「溶岩が如き灼熱の炎で身を焦がし、頭から丸齧りにしてくれようぞ」
貴之とあやめを遥か大上段より見下して、にたりにたりと妖狐は嗤う。
余裕と自信に満ち溢れ、ひと呑みにせんとばかりに赤い舌を見せた。
だがそこへ飄々とした貴之の声が、皆の耳朶を叩く。
「いや待て、あやめよ」
「なんじゃ?」
「あれは、八尾だよ」
「はぁっ、なんじゃと?」
「ホラ、よく数えてみろ……八尾だ」
「ううむ? ……ホ、ホントじゃ!」
恐怖に飲まれれば、魂を貪り喰われる――彼の老人の云う『三つの掟』が、貴之にはよく利いた。まさにこういう時こそ心穏やかにして冷静になれ、との教えであろう。
「なんとまぁ……相変わらずお主は、豪胆にして冷静じゃのぅ」
伝説の禍々しき九尾の狐を前にして、恐れ入ったあやめは感嘆した。
そのお蔭で噂に名高き妖を前にして、
一方で対峙する妖狐と云えば、並々ならぬ怒りにその身体を打ち振わせていた。
「おおおお、おのれぇ!! よくも妾に恥を掻かせ居ったな……!!」
巨大な獣と相成りし妖狐の口元より、蛇の赤い舌の如き炎がちろちろと爆ぜる。怒りに戦慄き、最早制御が利かぬと見える。どうやら「八尾」は禁句の逆鱗であったようだ。
だがそれを見たあやめは、益々愉快気に成りてぺろりと舌を出し、貴之に訊いた。
「貴之よ、儂に討伐を命ぜよ」
「よし任せたぞ、あやめよ」
「
最早、問答無用で轟と音を立て、真っ赤に逆巻く爆炎を噴く妖狐。
云うが早いが、即座に抜刀し炎を跳ね返さば、襲い掛かるあやめ。
「訳遭って、五尺に足らん我が身成れど、いざ侮るなかれ!」
遂に対峙した悪鬼と妖狐、両雄の戦いの火蓋は、切って落とされた。
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