第15話 狐火来たりなば・急

 ふらりふらり……


 鬼気を失ったあやめは、覚束ぬ足取りで戻る。彼女が今借りて住んでいるアパートは、貴之の家から近くも遠くもない位置にある。

 近過ぎれば癪に障る。だが遠過ぎれば護るに不便。通うも不便。

 そんな思いからあやめはここの地に居を構えたが、はて。この丁度良い距離の事、一昔前にどこかで聞いたことが或る……ううむ、果たして何ぞや。


「ええと、スープの冷めない距離……?」


 ボンヤリ頭を押さえつつ、あやめは鈴の転がる可愛らしい声でそう呟いた。

 だがそれは、親世帯と子世帯が適当な距離で別居すれど近住するという、近過ぎず遠過ぎずの関係を云う。二世帯住宅が持て囃された時代に、ちょっと流行った言葉である。


「だが待てよ……例えば、じゃ」


 あやめがアパートからスープを作って、貴之の家まで運んだとして、だ。

 この距離でスープは、温かなりし在るや無しや。また以て貴之が、我が意を汲むや否や。燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。

 やや、それこそ待て待て。この場合、どちらが燕雀で、鴻鵠なりや。それが重要ぞ。


 疲弊し切っていたあやめは、頭がとんと働かぬ。

 そんな莫迦げたことを、頭の中でぐるんぐるんと考えていた。


 そうでなければ、すぐに気付いた筈である。


「うん……なんぞ?」


 ドアノブを回した際の仕掛け音。微かな瓦斯ガスの臭い。

 またしても現れし小さな火影――火元の付近は、あやめのねぐらがある台所。何者かの仕掛けに反応し、狐火が灯ったのだ。

 それと同時に、パンッ――と乾いた破裂音と共に、ドア越しに巻き起こる瓦斯爆発。


「っくぁッ……!」


 鬼気を大幅に奪われていた今宵のあやめは避けられぬ。今のあやめは小さくて身が軽い。ドアごと軽々と吹き飛ばされると、アパート二階の鉄柵を越えて階下へと落ちた。

 普段のあやめであれば、すぐさま躱せた筈であった。だが今宵のあやめは精も根も尽き果てていた。斯様に稚拙な罠にさえ気付く事ができなかったのである。


「ぐっ……!!」


 大地へ背をしこたま打ちつけて、息が詰まって身動き取れず。

 何者かによって妖術で操られたか。指一つピクリとも動けぬようなった。


「よし、仕留めたぞ」

「捕まえろ!」


 待ってましたとばかりに現れた、数人の男たち。

 見やればその顔、見覚えがある。嶄九郎がやくざ家業を営んでいた時代に、仰々しくもへつらったツラで出入していたチンピラどもだ。


「や、やめろ、お前ら……」


 ようよう絞り出して声を出そうが、誰も彼も聞く耳を持たぬ。

 あやめの制止を聞くことはなくあっという間に群がると、抵抗虚しく白色のワゴン車の中へ放り込まれた。己の意思とは無縁なところで、ワゴン車は音を立て急発進する。


 あれよあれよの出来事に、あやめは易々と浚われてしもうた。

 その手口、鮮やかにして速やか。あまりに見事な誘拐に、あやめすら「ほう」と唸らざるを得ぬ。故にあやめは犇々ひしひしと、同族プロが手口を否が応にも感じ取る。

 先程の建築現場と同様、またも瓦斯と狐火か。こ奴らはもしや、妖の手先やも知れぬ。


 だが――だからこそ、だからこそだ。


 鮮やかな手口をみるに、昔とった杵柄さながら。

 これは最早逃げられぬ。絶体絶命を予感する。


 誘拐など容易き仕事。何時も幾度となく為してきた。

 だがこれが我が身と相成った今、こんなにも恐ろしいものだったとは。


 薄暗い車の中、数人の男に手足を掴まれ、身動き一つままならぬ。

 鬼気も素寒貧すかんぴんで疲弊して、非力と相成った我が身体を嘆く他なし。


「う、うう、止め、止めい……!」

「仕事でな、止める訳にゃいかねぇな」

「ええい、莫迦な……儂ぞ、儂が分からぬか!」

「もちろん類稀なる別嬪べっぴんさんさ、ヒヒヒ……ッ」


 チンピラは鬼娘きむすめの戯言に耳を傾ける筈もない。

 卑下た嗤いを浮かべながら、意気揚々と助手席へ問い掛けた。


「よお、この女、ヤッちまってもいいんだろ?」

「どうなっても構わねぇ、好きにしろ」


 その言葉を聞いたあやめは、足がすくみ、ただただ蒼褪めた。

 何しろ手足を掴まれて、足掻く事すら叶わぬのだ。


「へっへへ、諦めて覚悟決めりゃ楽になるぜぇ」

「や、止めんか……わ、儂は男ぞ……」


 無論、心の中では男だが、現在いまと成っては身体は女ぞ。

 あちらを立てればこちらが立たず。心と身体の両天秤に揺れ動く。


「ヒヒヒ、こんな胸をした男がいるかよ!」


 そう云うとチンピラは、胸元を左右へ無残に引き破いた。

 すると身に着けた薄緑色ライムグリーンのいと愛らしい下着が露わと成る。


「ひっ!」


 身動きの取れぬ細き身体。胸元に見える豊満な谷間。

 白磁のように透明で滑らかな肌。手から零れ落ちそうなほどだ。


 暗い車内の中、ねぶるような眼で卑しく嗤う悪漢ども。

 我慢できずに舌なめずりしつつ、薄汚れた魔の手が迫まる。


「やめ……やめて……」


 あまりの恐怖に堪えかねて、我慢の限界に達してしまった。

 己の意思とは関係なく、目元にはじんわりと玉の涙が浮かんだ。


 薄汚いチンピラどもは、胸元を左右へ無残に引き破くだろう。

 それどころか、愛らしい肢体が露わと成るやも知れぬ。

 よって心慌意乱しんこういらんぞ斯くや、頭の中でぐるんぐるんと駆け巡る。


「さぁて、お楽しみはこれからだ……」


 遂にチンピラがあやめを馬乗りに跨った瞬間、切羽詰まって何かが弾けた。


「きっ……きゃああぁあぁぁぁぁーっ!!」


 瞬時にあやめの頭の中は、真っ白になった。

 理性が蒸発したかの如く、あまりの恐怖で我慢の限界に達したのだ。


「ヒャッハハーッ、いくら哭き叫ぼうが無駄だぜぇッ!」


 そして暴漢どもがあやめに手を掛けようとした、その時である。


「ああん……?」

「なんだありゃあ?」


 運転席の男らが何かを呟いた直後、耳をつんざく破砕音が響き渡ると、続けざまに凄まじい衝撃が車内を襲う。後部座席であやめを押さえたチンピラどもも、堪え切れずにひっくり返って転倒し、全身を強く打ち付けられて悶絶する。

 あっという間にワゴン車の中は、てんやわんやの大騒ぎと相成った。


 これは……どうやら事故を起こしたか?


 状況をまるで把握できぬあやめは、幸いにも無傷であった。

 クッションの役割を果たしたおかげか。車内をぐるりと見回すと、先程まで粋がっていたチンピラどもが、うずくまって動けず苦しげに呻いていた。

 外部から何者かによる音と衝撃は、確かに感じ取った筈だ。だが何故そうなったかは、とんと見当がつかぬ。


「おい、あやめ。無事か?」


 すると、よく聞き知った声が、車内へ向けて放たれた。

 その声を聞きてふと我に返らば、あやめの顔は涙と鼻水で濡れている。

 慌てて身を起こさば、兎にも角にもぐじぐじと手の甲で顔を拭く。


 そうして割れた窓から眺れば、街灯の下、立つ影ひとつ。

 堂々たる立ち姿、見紛う事無く、貴之、その人であった。

 片手には金属バットへ身を転じたる、我が愛刀が握られていた。

 何故かは分からぬ。分からぬが、その背中――


「格好良い……」


 もしや惚気たか鬼娘は、ぶんぶんとかぶりを振った。

 まさか、そんな筈はない。一瞬止まった呼吸を整える。

 そうして息をつかば、あやめは腰が抜けていた。

 貴之の顔を見て安心し過ぎたか。体幹へ力がまるで入らぬ。

 だが、ここで腰を抜かさば、末代までの恥晒し。

 そう思い直すと、尻と太腿をパンパンと叩いて気合を入れる。

 力を込めて立ち上がり、車外へと転がり出た。


「貴之、一体何をした!」

「おう、無事だったか」


 振り返ればワゴン車は、電信柱へ突き刺さっている。どうやら運転を誤りて、そこへ激突したらしい。辺りを見回せば、日が暮れれば人気の途切れる幹線道路。兇徒どもは、教科書マニュアル通りの経路ルートをとっていたのだ。よってこの大事故にして、幸い周囲に人影はない。


「何をどうして、こうなった」

「なに、御覧の通りの事をした迄よ」


 貴之は飄々と答えて真実を明かさぬ。だがその時の様子はこうである。

 緩いカーブの手前にふらりと現れた貴之は、金属バットへ転じた妖刀でワゴン車のフロントガラスを叩き割った。フルスイングで打たれたフロントガラスは、一瞬にして蜘蛛の巣状のひび割れが入り、あっという間に視界が曇る。速度オーバーしていたワゴン車は、フルブレーキも間に合わず、緩いカーブの先にて事故ったのだ。


「お、おう。そうか」

「そうだ」


 貴之のことだ。何らの術を使役つかってもおかしくはない。

 あやめはそう考えて、得心が行った振りをした。


「貴之よ、『髭切』を寄越せ」

「……おう」

「本当は、あまり遣りたかぁないが……致し方無し」


 貴之があやめへバットを投げて寄越すと、それは妖しく光り出した。

 妖刀より妖力を借り受けて、自らの鬼気を回復しているのだ。漸くそれを終えると、バットの姿をした妖刀は見る間に変化を遂げ、巨大な鬼の金棒へと姿を変えた。


「よくもやってくれたな、小童ども!」


 この周囲では今や、誰も彼も人っ子一人、猫の子一匹すらいない。

 鬼気を回復したあやめは、怒りに震えつつ鬼の金棒を振り上げた。


「全身全霊、迅雷風烈!!」


 そう叫ぶと借り受けた鬼気を以て、ワゴン車ごとフルボッコに殴りつけた。


「殺すなよ、あやめ」

「わかっとるわい!」


 殴りに殴りまくったワゴン車は見る見るうちに、スクラップ置き場で見るような四角い匣の鉄塊と化す。もうドアらしきものが開かなくなるよう施されたチンピラどもは、その中のまま、虫の息ながら何とか生き永らえているらしい。


「留置場のように、ここで拘束されるがいい。ふんだ!」


 こうしてとっちめ終わったあやめは、スッキリとした笑顔で一息つく。一息つくと唐突に、貴之へくるりと向かい、柔和な笑みでぺこりとこうべを垂れた。


「貴之さま……主人が、平素より御迷惑を御掛け申します」

「ふむ?」

「こっ、こらっ! 余計な事をゆーな、貴様!」


 慌てて鬼の金棒を手放すとそれは、見る間に元の太刀へと姿を戻した。貴之はそれを拾い上げ、鞘へ納めると刀剣袋の中へとしまう。


「は、ふっ……」


 何かから解放されたように、あやめはへなへなと腰から崩れ落ち、へたり込む。


「鬼気を借らば、彼奴あやつに意識を持っていかれるのだ……」


 彼奴とは、恐らくあやめの持つ妖刀の事であろう。

 はたや妖刀の持つ人格に、精神を乗っ取られてしまうのだろうか。

 あやめは今度こそ精も根も尽き果てて、立ち上がれそうもなかった。

 素知らぬ顔の貴之は、その鬼娘の両の肩へ制服のジャケットをそっと掛けた。

 思わず忘れていたのだが、あやめの胸元が乱れて肌蹴はだけたままだったから。

 赤面この上ないあやめは、胸元をしれっと整えつつ、誤魔化しがてら口を開く。


「そ、それにしても、よくぞ儂の居場所が知れたものよな」

「ああ、それは……」


 そう尋ねたあやめが次に耳にしたは、意外な返答であった。


「お前の絹を裂くような悲鳴が聞こえたからな」

「ふ、ふえ? ふぁっ?! ふえぇ……っ!?」


 だがそれは、嘘でも真実まことでもない。


 あの時――住宅街にてより遠く、乾いた爆破音が聞こえた時の事だ。

 あやめより預かった太刀が、小刻みに震えだした。これは一体どうしたことかと首を捻った貴之は、何とは無しに太刀へと問いかけてみた。


「おい、お前の主人に何があった。どこに居る」


 すると手に持った太刀が、光を仄かに発して或る方向を指し示すではないか。もしやこの先にあやめが居るのかも知れぬ。そう考えた貴之は、太刀の指し示す方角へ導かれるが如く辿ってみると、手前より猛スピードで迫り来るワゴン車より、あやめの悲鳴が聞こえたではないか――そういうことである。


「儂が悲鳴? この儂が……ハ、ハハハ、莫迦な!」

「いや、確かにあやめの声だった」

「し、知らん! 儂は知らんぞ!」


 そう貴之に断言されては、恥ずかしさに顔を真っ赤に染めるばかり。

 胸元を引き破られたあやめは、頭の中を真っ白にして何をどうしてどう叫んだかなど、まるで覚えては居らぬ。襲われた時の衝撃があまりに強過ぎたのだ。

 最早、あやめの悪鬼としての自負心プライドは、ズタズタのボロボロに崩れ去っていた。


「のう、貴之……」

「なんだ」

「この千年の歳月で、嫌がる女子おなごどもを散々掻っ攫っては、本能のままに襲ってきたこの儂じゃが……此度こたびの件で、か弱い女子の気持ちが、ほんによう分かった……」


 心の底より打ちのめされたあやめは、がっくりと項垂れて顔を伏せた。

 貴之は見て見ぬ振りをして背を向けると、あやめの目前でしゃがみ込む。鬼気をすっかり失ったあやめは、もう立ち上がることすらできなかったのだ。


「儂は金輪際、女子は浚わぬし襲わぬし殺めぬし、喰わぬと誓うわい」


 懺悔の念に気圧されたあやめは、その温情に感謝しつつ、と或る誓いを自らに立てた。

 然すれば男子はこれ如何に……それでも大きな前進かも知れぬ。良しとすべきか。


「さて、では帰ろうか」

「うむ……」


 貴之は身軽なあやめをその背に背負うと、夜道をのんびりと歩き始めた。取り敢えずあやめを自分の家へ連れ帰る他、どうしようもあるまいて。

 あやめは貴之の肩に手を掛けて、小さな顔を彼の背中にうずめると、


「またもお前さんの背を借りるとは、つくづく情けない……」


 そう云って、大きな溜息をついた。

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