第7話 学園ノ理・急
あれよと云う間に奇妙な学園生活の始まりと相成った。だがあやめにとっては、恨みと屈辱に満ちた日々の始まりである。
今日も今日とて気紛れな風に、スカートひらり翻しては慌てて尻を押さえたり、たわわな故に緩み気味の胸元を盛んに気にしてはキョドりおる。いとをかし。
はてさて貴之の身に降り懸かる災厄は、残りあとふたつ。次に迫りくるは、稀代の悪鬼か物の怪か。いや天変地異も捨て難い。翻ってあやめは、己が命を守るため、あらゆる災厄を打ち破り、貴之を護り抜かねばならぬ。
そうして護衛を申し出た、あやめは存外に真面目であった。
登下校の時は元より、いつもいつでも貴之の、傍らを決して離れようとせぬ。
朝は早よから迎えに出でて、帰りもピタリとついてくる。貴之が右に動けば右に動き、左に寄れば左に寄った。チビすけなので邪魔にはならぬが、時折鬱陶しくもある。
「……何をきょろきょろとしている」
「
そうして引きも切らさず、絶世の美少女を連れ歩く貴之である。
クラスメイトの男衆より、浴びるように突き刺さる視線は羨望の眼差しか。
何がどうしてこうなった。図らずも奇妙な縁と巡り合わせよ。事或る毎にそうと気付かされては、つい口元をへの字に曲げて「うーん」と唸らざるを得ない。
そんなあやめの授業風景は、古文と日本史に滅法強い。
授業態度は大層熱心で、時折ふむふむと小さな顔を頷かせながら聞き入っている。真面目に学ぶ仕草を見るに、普通の女生徒と遜色なく見えてくるから不思議なものである。
今や美少女と相成ったとは云え、元は悪鬼で心は男である。その男の部分が邪魔をして、未だ女の身体に馴染めぬのか。あれこれと貴之に文句を洩らす。
やれ、胸が大き過ぎて鬱陶しいだの。
やれ、ブラの付け方が面倒臭いだの。
やれ、厠で用を足すのにしゃがむのは屈辱だの。
やれ、体育の着替えで女子を見てもまるで勃たんだの。
怒っているのか、嘆いているのか。憤慨に狼狽とあれこれ忙しく、いちいち貴之へ報告してくる。ちょこちょこと走り寄って来ては、ただ小声で告げて去ってゆく。
何がしたいんだ、何が。
さっきもさっきとて、やれ強風が吹いた。スカートが捲れて危うく恥を掻きそうになった。この時代の
そんなこと、云われても知らん。
切りがないので、寄ってくる度に「そうか」と答えることにした。
それでも満足はするようで「うむ」と頷いて去ってゆく。
確かに――今のあやめの姿形と事情を知るは、世界に貴之ただひとり。苦情を申し立てる先と云えば、自分を於いて他にあるまい。ただ聞いて貰いたいだけやも知れぬ。
気持ちは察するが、貴之には「情けをかけてはならぬ」の掟がある。よって毎度のことながら冷たくあしらえど、それでも悪鬼――否、
はてさて、げに奇妙な光景ぞ。縁とは異なもの味なものである。
◆ ◆ ◆
或る昼休み過ぎのこと。
いつもの様に、あやめはどこぞで食事を摂って戻ってきた。
鬼の食事で思い出すは、惨劇のあの事件である。散々人を殺して喰ろうた悪鬼だが、今や少女の身の上と相成った。最早人並みの力と小柄な身体しか持ち合わせぬ。流石に昼休みを利用して、人を喰らうと云う事は無かろう。
そんなあやめが開口一番、昼休みに寛ぐ教室内へ戻るや否や、
「腹が痛い……」
と云い出した。
「何を食ったんだ、お前は」
「う……握り飯じゃ……」
「
「あの『こんびに』で……たらこの……」
昼はどこかでひとり寂しく、コンビニおにぎりを食べていると判明した。
それはさて置きこのあやめ、痩せても枯れても悪鬼の化身である。もしや美少女と相成りし今でも、人と鬼では食い合せがあらんや、なからんや。
「なんだ、体調は回復したんじゃないのか?」
「くそぅぅ……次から次へと、柔な身体じゃ」
痛む腹を押さえつつ、ふらりふらりとどこぞへ行かんとす。
「おい、どこへ行く?」
「煩い、黙れ、厠じゃ」
そう云い残して、再び教室を出て行った。
ちなみにこの出来事は、
これは一体どうしたものか、と貴之が思案し始めた頃のこと。
「……おい」
呼ばれて振り返れば、あやめが真っ青な顔をして立っていた。
元は悪鬼かと見紛う程に頼りなさ気な顔付きで、震える口をおろおろと開く。
「血が……出た。えらい、いっぱい、血が、出た……」
「どこか怪我でもしたのか?」
「いや……違う。とにかくだ。あまりに唐突で……」
そう口籠もると、萎れたかの様に俯いた。
青褪めた顔を足元へ背けて、一向にこちらを見ようとしない。
「理屈は、知っておる」
「何の話だ?」
「しかし、分からん……」
「そう言われても、俺も分からん」
「おそらくアレだ。分かっている。しかし何としていいか、分からん」
いつもは歯切れのいいあやめが、今日は如何せん要領を得ない。
ぴたりと太腿を合わせて内股で震える様は、如何にも儚げである。
「今はその……『といれっとぺーぱー』で抑えている」
そこで貴之は、やっと気が付いた。
云わずと知れた女の子の痛み。月のモノ――初潮を向かえたのだろう。
貴之は顎に指を当てて暫し思案して後、ゆっくりと口を開く。
「そうか……赤飯炊くか?」
「こんな時に冗談はやめい!」
「良かったな、これでいつでも子供が産めるぞ」
「良かない! 儂は男ぞ、人の
「何にせよ……うん、おめでとう」
「祝意を表しとる場合かぁっ!!」
あやめは「ふぐぐっ」と小さく呻いて、下唇を噛む。
そうして俯いたまま、意を決したようにぽつりと呟いた。
「貴様、ぱんつ買ってこい」
「なんだ、藪から棒に」
「ぱんつ買ってこい」
「パンツって、女物の生理用品のことか?」
「そうじゃ」
「買えるわけないだろ」
「儂だって買えんわ!!」
遂にキレた。
スカートの裾を握りしめて、今にも泣きそうな顔をしておる。
だが貴之とて、どうしてよいか分からない。
「儂かて、どうして良いかわからぬ!」
それはそうだ。あやめは声までも泣きそうになって喚いた。
黄金色に輝く円らな瞳から、大粒の涙がぽろりと零れ落ちた。
「おい、泣くなよ」
「違う……何じゃこの身体は。目から勝手に汁が……ぐすっ」
「いいからあやめ、とっととパンツ買ってこい」
「貴様は術者であろう、術でなんとかせい」
「なんともできん。パンツ買ってこいって」
「元はと言えば貴様のせいじゃ! 貴様がぱんつ買ってこい!!」
遂にあやめは悲鳴に近い声で叫び出した。しかし非常に体裁が悪い。
ざわ…… ざわ…… 遂に周囲も
「パンツ……パンツって、あのパンツ?」
「上月君のせいって……貴島さんのパンツに何やったの?」
「なんだと? 上月のヤツが貴島さんに手を出したって?」
教室中に嫌な空気が蔓延してゆく。いかん。これは実に
そこへあやめの悲嘆を聞きつけた数名のクラスメイトが、ひょこひょこと集まった。鬼娘の転校初日に挨拶を交わした件のクラス委員長、
「どうしたの? 何か困ったことでもあった?」
「ああ、実は……」
元は悪鬼の身で、今は美少女で、男から女に変わって初めての月経で――などとは口が裂けても云えぬ。貴之が嘘を交えつつ簡単に事情を説明した。
「なるほどね。ま、女の子のことは女の子に任せてよ」
この時の渚の一言が、どれほど頼り甲斐のあったことか。
地獄に仏とはこの事か、と思うほどである。
「ゆかり、アレは持ってる?」
「うん、あるよ」
「さ、じゃあ、行こう貴島さん」
おどおどと戸惑うばかりのあやめの手を取って導く。
その菩薩の如き優しさは、声はおろか身振りだけでも伝わってくる。
「大丈夫、女の子なら一度は通る道だからさ」
「えっ……えっ?」
「心配しなくてもいいんだよ」
「なんっ……えっ?」
「ささ、行こう行こう!」
「ちょ、えっ……貴之? たかゆき? たかゆきぃ?!」
嗚呼あやめよ、諦めろ。我が身世にふる眺めせしまに。
ここから先、あやめが何をされるのか。男である貴之にはとんと分からぬ。となれば元は男である嶄九……否、あやめもそれは同様であろう。
廊下へと姿が消える最期の最期まで、不安そうな眼差しをこちらへ向け、
な? お前も仲間であろ? 男同士であろ?
と云わんばかりの表情が、瞼の裏に色濃く残った。
そんな顔されても、最早我が身では如何ともし難い。
さて、そうして数分後――
ようやっと安堵の表情を浮かべたあやめと三人が戻ってきた。
「……すまぬ、本当に助かった」
「付け方はもう、覚えた?」
「うう、恩に着る。この礼は、いずれ必ず……」
ほとほと疲れ切った表情であやめが礼を述べた。それよりも林檎の如き真っ赤な顔は、一体何があったのやら。しかし掘り下げて聞かぬが武士の情けよ。
「しかし
「アハハ、同じ女の子なのに大袈裟だよ!」
うら若き乙女に「同じ女の子」呼ばわりされた、千年悪鬼の心中や如何に。
「それよかさ、貴島さんって話し方に特徴あるよね」
「んん? そうか?」
「ねぇ、貴島さんって広島から来たんでしょ?」
「ああ、まぁ、ううむ、そういう手筈だったな」
「広島弁ってそんな話し方なの?」
「そ、そう……いや、違う。これは儂独自というか、うむ……」
女子たちから親しげに矢継ぎ早の質問責めを受け、返答に窮して頸を捻る。
だが焦りつつも嫌がらずに対応する辺り、あやめは
その裏で、貴之のクラスメイト評には微妙な変化が生じたという。
元の「ちょっと変わり者」から「変わり者」に格上げになったそうな。
ううむ……さもありなん。
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