第4話 悪鬼ノ急

 悪鬼の腹から突如まろび出た黒髪の美少女は、くわんくわんと眼を回していた。

 前後不覚に陥って、ぽっかりと口を開け、ゆらゆらと左右に揺れている。その姿は、まるで卵を割りて孵化したばかりのひなが如し。

 阿呆あほうみたい顔つきとらば、折角の美貌が色々と台無しである。


 だがしかし――それでも、それでも、である。


 言葉として云い表せぬ程の絶対的な美少女ぶり。この事実は揺ぎえぬ。

 朽ちた身から生れ出たばかり故、当然の如くその身は一糸纏わぬ姿であった。

 髪はいと長く麗しく、毛先の一本一本に至るまで実に見事な美しさかな

 このしだれ髪が、彼女の身体の要所要所を絶妙に包み隠すが、実に惜しい。


 しかし、これが老人の言っていた『三つの力』の効果なのか。


 てのひらを差し出せば、力は使えるだろう。そう心ではなんとなく理解していたものの、力を揮わばどう作用するのか、何が起こるのかなど、貴之にはてんで分らぬ。

 ふと振り返れば、あの時――この悪鬼の姿が如何許いかばかりか可愛らしければ、これほどまで恐ろしいとは思わぬだろうに――などと、心の内で考えていたは確かだ。

 だがまさか斯様かような結果になろうとは。まるで予想だにせなんだことである。


 さてようやくこの美少女の、眩暈めまいが落ち着いた頃合いか。

 暫し眠そうな瞳できょとんとしておったが、遂にゆるりゆるりとその身を揺すって動かし始めた。そこで貴之は、悪鬼の腹から転げ出た美少女に声を掛けてみることにした。


「おい、お前は何者だ?」

「ううん、なんじゃ……儂ゃあ、鬼島嶄九……郎……う、うん?!」


 自らの澄みきった美しい声に驚いて素っ頓狂な声を上げた。やはりこの超絶美少女ぶりは、彼の悪鬼より転生を遂げし姿なのか。


 まずはおのが顔を確かめてその感触に驚き、続けざまにぱちんと頬へ手を当てた。次にきょろきょろと自らの身体を見渡して、縮んだ身体に驚いた。

 最後に最も目に付いたであろう、自らのたわわな乳房を鷲掴わしづかむ。


「な、な、なんじゃこの身体からだは……!!」


 そう自らの喉から吐き出されるは、鈴が転がるように可愛らしい少女の声。

 終にはハッとした様子で、恐る恐るそろぉりと股間のイチモツを確認した。


「のののの、うなっとる……」


 そこで長年苦楽を共にした相棒が、すっかり消え失せたことにようやっと気が付いた。慌てて我が身をあちこち隈なく確認するが、無いものは、無い。

 ふと後ろを振り返れば、かつて自分の身体であったものが朽ちている。

 慌てふためいて、その朽ち落ちた破片を掻き分けるように探ってみるも、そんな所にお探しのモノがあるはずも無し。


 終いには、嶄九郎の身体であった朽ちた塊を迂闊に肘で突いたせいで、とうとうガラガラと音を立て崩れ去ってしまった。後に残るは舞い上がる粉塵と、直前まで嶄九郎が着ていた巨大な浴衣の血塗れた着物。それに大量の朽ちた木片ばかりである。

 舞い上がっていた最後のひとっ欠片が、こつんと美少女の頭にぶつかった。

 彼女はわなわなと打ち震えて振り返り、貴之を睨め付けるも嘗ての凄みは微塵もあらず。ただただ可愛らしい顔立ちをした美少女が、ぷくりと頬を膨らませてむくれているばかり。その上、大きく見開かれた形の良い双眸からは、玉のように光る涙が浮かんでいた。


「おのれ、儂の身に何をした!」


 つい先ほどまで嶄九郎だった美少女は、姿形に見合わぬ呪詛をいと愛らしい声で叫ぶと、這いつくばりながら貴之へと迫りて腕を伸ばす。

 しかし彼女がいくら殺意をみなぎらせようが、その身は今や少女である。何より激しい頭痛と眩暈と吐き気が伴っているようで、身体がなかなか云うことを聞かぬ。


「うっぷ……ぷえええっ!」


 やがて耐え切れなくなった美少女は、大量の水を吐き出した。

 巨漢の悪鬼より小柄な少女へとその身を変化させたのである。よって嘗ての巨躯に蓄えられていた余剰な水分が、小さな身の内に留まれず逆流したのであろう。


「ふぐぎぎっ、あと一歩、あと一歩というところで……!!」


 大粒の涙と大汗と鼻水で、くちゃくちゃになった泣きっ面を晒して悔しがった。その姿、餌を貰い損ねて悔しがる花粉症の子猫が如し、である。


 それでもまだこの愚かな美少女は、貴之への復讐を諦め切れぬのか。ままならぬ重い身体を引き摺る様にして、執念深く貴之へ向かって這い寄った。そうして必死に近付くと、すっかりか細くなってしまった腕を貴之の喉元へと伸ばす。

 しかし愛らしい美少女の姿と相成れば、如何に常人の貴之とて怖いものは何一つ無い。


「……おい」

「ふぎゃ!」


 喉元まで伸ばしかけた手を容赦なく叩き落とすと、座したまま眉一つ動かすことなく真正面と向って、如何にも厳かに告げた。


「俺を殺せば、元の姿に戻ることは叶わんぞ」


 当然、与太だ。貴之はそんなことなど知らぬ。口から出任せである。

 だが効果は覿面てきめん。美少女の動きは、ピタリと止まった。


「それどころか、我が術にたちまち身体を、魂を、貪り喰われること必定」

「……な、何が狙いじゃ、小僧!」


 元は嶄九郎であった美少女が、恐れ戦きつつ苦々しげに吐き捨てる。それを見た貴之はふうむと顎を撫でた。勿論のこと口から出任せなので、狙いなどは何も無い。


「フッフフ……さぁて、どうしてくれようか」

「ふ、ふぎっ……」


 嗤いながら睨み付けると、この娘は子猫の様に怯えて震え上がっていた。


 さて、悪鬼から転じたこの美少女――さながら鬼娘きむすめとでも呼ぶべきか。この鬼娘を如何にせん。貴之には彼の老人と契った『三つの掟』が在る手前、そう易々と情けを掛けるわけにはいかぬ。さりとて戦力としては、このまま放置するわけにもいかぬ。

 それならばと貴之は、鬼娘と相成った嶄九郎へ交渉を持ちかけることにした。


「よく聞け、憐れな鬼娘よ。俺はとある術を極めた導師。これから日の本に起こる『三つの災厄』のもう二つ、片付けに参上仕さんじょうつかまつる所存」

「やはり貴様は仙術使いか……ぬかったぞ、あな口惜しや」


 何が「やはり」か貴之には分からぬが、出鱈目をすっかり信じ込んだようである。あの光の術を見た直後だけあって効果覿面。この鬼娘も案外チョロく騙されたものだ。


 ではこれから起こるであろう残り二つの災厄を、嘘を交えて簡単に説明する。


「と――されば、お前はそれら全てを解決するまで、俺の手助けとなれ」

「なんじゃと、小僧! この儂に手下働きをして見せよと云うか!」

「そうだ。我が命に従い手柄を上げよ。さすれば元の姿に戻してやる」

「断固断る! 儂は千年悪鬼ぞ! さ、最強、さいきょう、じゃぞ?!」


震える声を上擦うわずらせて虚勢を張る鬼娘に、貴之は冷たく云い放つ。


「そうか。ならば非力な少女の姿のまま、路頭に迷って死ぬがいい」


 その姿に似合わず「むむむ……っ」と喉の底から獣の様に唸る。


「おい小僧……それは契約か?」

「無論、言うに及ばず」


 憤怒の形相を以てして威嚇する。然してままならぬ、何せ愛らしい美少女顔である。

 だがしかし――確かに貴之の云う通り、この姿と相成った今では選択の余地がない。


「鬼の契約ならば、是非はなし……従わざるを得ん」


 憑き物が落ちたか。悔しげに、だが観念したように、鬼娘はこくりと頷いて見せた。

 こうして貴之は、期せずして稀代の悪鬼を自らの手下としたのである。


 その時であった。遠くに響くはパトカーの、紛うこと無きサイレンの音。嶄九郎邸内で巻き起こった異様な悲鳴と怪異な物音に、近隣の者が警察へ通報したのだろうか。


「小僧……或る一振りの日本刀が土蔵に……それを持ち出せっぷえっ」


 嘗て嶄九郎であった美少女が、そう苦しげに呻きつつまたも水を吐いた。

 彼女の云うソレは、土蔵で見たアレだと、何となく感付くものがある。


 それは土蔵の中に閉じ込められた時に見た、桐のはこ

 一目見て高級なものと当てが付く、無垢板で造られたあの匣だろう。


 当てずっぽうで屋敷内を走り回らば、果たして土蔵が見つかった。

 土蔵には無用心にも鍵が掛かっていない。すんなりと引き開けてくだんの桐の匣へと飛びつくと、無造作に開いて中を見る。すると本来ならば、和室の床の間に飾られているような立派な日本刀が一振り。狙いに違わずそこにあった。

 しかしそれは、日本刀のようであって、日本刀ではなかった。


 どこか歪で、どこか奇妙。


 太刀の身巾は刃先へ向かう程に広がっており、とても鞘走りできぬであろう太さにまで達している。鞘に刻まれし不可思議な紋様も去ることながら、角度により妖しく光彩を変える色覚もまた奇妙。それらは格子窓から差し込む月明かりを浴びて、妖刀の様な異形さをますます醸し出していた。

 この太刀を暫し眺むれど、それ以上は埒が明かぬ。土蔵の内に無造作に放置されていた自分の荷物もついでに回収して、血の惨劇に塗れた大広間へ急ぎ取って返す。


 大広間では美少女と相成った嶄九郎が、元々着ていた巨大な浴衣に包まって無様に寝込んでいた。体調が優れず丸まって横たわるその姿は、終電を逃した酔っ払いの様だ。

 心身ともに弱り切っている今ならば、どんな問いでも応えてくれるやも知れぬ。そこで貴之は、嶄九郎いやさ鬼娘に、思い切って訊ねてみることにした。


「この太刀はなんだ?」

「ううん……それは忘れ形見じゃ」


 何やら歯切れ悪そうに、もごもごと鬼娘は答えた。

 悪逆非道な悪鬼の癖に、人の情めいた言葉を宣うとは。どうやらこの古い日本刀のような一振りは、いちいち語らずとも嶄九郎にとって大切なものらしい。

 それはさておき、近くまで警察が近づいている以上、一刻の猶予も赦されぬ。


「おい、早く起きて着替えろ」

「ええい、儂に命令するな……殺すぞ、うう……」


 貴之は自分の鞄から体育用のジャージを取り出すと、ぐうたらと寝込んでいる全裸のままの嶄九郎――もとい鬼娘に着せようと、血塗れた浴衣ごと引き起こす。


「ひゃんっ!」

「ひゃん?」


 先程まで全裸を厭わぬ様子だった鬼娘が、慌てた素振りで身体を隠した。


「ええい、やめい……かような玉の肌、忌々しうて見せられぬ!」

「忌々しいってなんだ、男のクセに」

五月蝿うるさい黙れ! 身体は女じゃ! くそっ、恥ずかしうて仕方ないわ!!」


 貴之が揶揄からかうと、嶄九郎だった美少女は、たわわな乳房を必死になって隠しつつ、目に一杯の涙を溜めて真っ赤になって怒鳴り散らした。

 この忙しい時に何の自尊心プライドかと思ったが、やっぱり全裸は恥ずかしかったようだ。


 鬼娘は巨大浴衣の中に包まりつつ、藻掻もがきながら自らジャージを着込み始めた。その間に貴之も、血塗れたシャツから野球部で使っている黒いアンダーシャツに着替えた。

 着替えを取り出して中身の空いた鞄には、嶄九郎の指示に従って財産一式、通帳から印鑑、有価証券書類の類、一切合財ありったけを詰め込んだ。土蔵より持ち帰った日本刀は、同じく部活で使っているバットケースの中へ収める。


 しかし――こんなところで、この春に部活を変えたことが役に立つとは。彼の老人から「全てを偽れ」と言われちゃいたが、こうまで的確だと貴之は半信半疑だったことをただただ恐れ入るしかない。


 そうして、未だまともに歩けぬ嶄九郎を背中に背負うと、そこここに血痕と人肉の飛び散った屋敷を後にした。


 屋敷正面の立派な門扉は固く閉まっており、その向こうに警官たちの気配がする。

 総檜造りと思ぼしき大きく立派な門構えは、人の立ち入りをそう簡単には赦すまい。何しろ嶄鬼会系暴力団鬼島組は、日本屈指の指定暴力団である。市民の通報くらいでは、精々パトロール程度で中には立ち入れぬ。二人が忍び出る時間くらいは稼げそうだ。


 そこで嶄九郎の案内で、こっそりと裏口から忍び出ることにした。

 忍び出たまでは良かったものの、そのまま道なりに暫く進むと、運悪く巡回中の警官に出くわしてしまった。ここで踵を返せばますます怪しまれよう。


「ああ、キミたち。ちょっといいか?」


 ご多分に漏れず呼び止められた。ぐったりとして身動きできぬ少女を背負っているのだから、この職務質問は当然であろう。ここは大人しく職質を受けるが最良か。


 さてそこで、貴之の説明はこうだ。


 自分は野球部員で、具合を悪くしたマネージャーを家まで送る所。今まさにここを通り掛かったばかり。よって異変など特に気付かぬ――と澄ました顔で淡々と説明した。

 見れば背中の少女は、さも具合が悪そうな青褪めた顔でぐったりとしている。貴之の云い澱むことのない戸板に水の説明に、何事もなく収まりかけた時だった。


「まさかその中に、木刀とか入っていないよね?」


 警官は笑いながら、バットケースを指差して開ける様に指示をした。だがその中身は木刀どころか、歪異形いびついぎょうの日本刀である。


「ええ、もちろんバットケースですから……」


 ところが貴之は、まるで動じることなく警官にバットケースを手渡した。


「当然、中身はバットです」


 警官が中を開くと、そこには果たして金属バットが鎮座するのみ。

 貴之は職質を受けるも、何事もなくその場を切り抜けたのである。


◆ ◆ ◆


「ううむ……貴様、やはり知っておったか」


 嶄九郎――今は黒髪の美少女が何やら悔しげに、そして力なく呟く。だが貴之には何のことやらとんと分からぬ。なので澄まし顔で黙っていた。


「あの妖刀は、持ち手の精神に呼応してその姿を変える」


 黙っていられなかったのか、聞いてもいないのに鬼娘が勝手に説明をし始めた。


「故に妖刀とは、幻影のようで幻影でなし。まさしく物体として顕現す。時には異形し異彩を放ち、時には業物、時には宝物ほうもつと化すなど変幻自在にして千変万化。また時には人をも操れるという、まさに刀剣の付喪神と相成った稀代の銘刀……否、妖刀ぞ」


 そう長々と講釈を垂れるも、貴之にとってはバットケースに日本刀が発見されようが、後でどうとでも言い訳を付ければよかった。何せ、地獄の如き惨劇の夜を乗り越えたのだ。今となっては、後は野となれ山となれ、と投げ遣りな気持ちでしかない。


「しかし小僧め……まさか『金属ばっと』成る物に変化するとは、儂ですら知らなんだ」

「その程度は周知済みよ。誰しもが、勝手知ったるなんとやら、だ」


 当然の事ながら、貴之は嘘をついた。そんなことは知らない。不思議なことがあるもんだと思っていたが、そういう事情があったとは。

 実のところ恐怖に呑まれぬよう、真実まことを示さぬよう、胆を据えて動じなかっただけのことである。まさしくの老人宜しく、嘘を味方に付けたのだ。


 一つ「真実まことを示してはならぬ――全てを偽り騙すべし」


 なるほど。老人の云う『嘘』という『掟』を守り抜ければやり切れられる。貴之はより一層の確信を得た。折角だ。ここはもうひとつ嘘をつき、知った素振りをしてやろう。


「ふふん、愚か者め。この俺が知らぬと思ったか」

「くく、くそっ、やはり貴様は高位の仙術使いであったかッぷふぇ……!」


 美少女の身と相成った嶄九郎は、憤り過ぎてまたも水を吐いた。


「うぐぐっ、おのれっぷ、ぷふえぇっ……」

阿呆あほうが、背負われた人の背で水を吐くな。だらしのないヤツめ」

「ふ、ふぐぅ、す、すまぬ……く、くく、口惜しや、あな情けなや……」


 美少女の姿となった嶄九郎は、悔しさと羞恥のあまり嗚咽を洩らす。

 そんな鬼娘を背負ったまま、貴之はゆっくりと時間をかけて自宅へ帰った。

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