第3話 悪鬼ノ破
あたかもそれは、嶄九郎の台詞を待っていたか。
暫しの時間差を以て、紅き血の雨が辺り一面に降り注ぐ。
大広間に所狭しとばら撒かれしは、人の血肉か、臓物か。
人体の
嶄九郎が如何なる手管を講じて、
その速度、まるで神速。人の目にて追うは敵わじ。
居並ぶ子分どもですら、仲間の死を理解できた者は皆無。
恐るべき膂力と、巨躯に似合わぬ速力。
朽ちたと思しきその身の内に、如何な力が蓄えられていたか。
傍に控える者どもを、
「まだだ、まだ足らんぞ、下郎……」
彼の云うところ、これでも力を取り戻せていないと云う。
なれば徒手空拳の人の身で、為す術などは、ない。
生物として如何ともし難い、圧倒的な格の差であった。
「もっとだ……もっと寄越せ。喰い足らんぞ!」
鬼の力を前にして、人は恐れ入り降伏し、生を諦めるより他にない。
嶄九郎による一方的な大虐殺は、もう
怒号とも悲鳴ともつかぬ、怨嗟の「音」のみが、この場に虚しく響き渡る。
云い表すにまさしく「音」――それらは人の「声」ではなかった。
あれよあれよと百畳敷きの大広間は、そこかしこが緋に染まりゆく。
鳴り響く悲鳴と絶叫は、止むことを知らぬ
それらを見て聞きて、貴之は自らの行為を後悔していた。
わざわざ嶄九郎を挑発したものの、まさかこれ程の仕業とは。
だが惨状を目の当たりにして、図らずも『三つの掟』を思い出した。
一つ「情けをかけてはならぬ――温情は仇と成るを知るべし」
そう、決して情けを掛けてはならぬ。今まさに嶄九郎の手に懸かり、命の
いずれも情けをかける余地などあらぬ。奴らにゃ死すら生温るかろう。
とは云えこの悪党どもを、人の世の法で裁けぬが唯一の心残りか。まるで恐怖が麻痺してしまったかのように、貴之はそんなことを考えた。
さりとて今は、
今はただ、彼の老人と結んだ約束を決して忘れじ。まるで経でも唱えるよう
一つ「恐怖に呑まれてはならぬ」
一つ「情けをかけてはならぬ」
一つ「
表情一つ変えることなく、じっと座し、眼を開き、口唇を固く結ぶ。如何に血飛沫を浴びようと、
心を硬く冷たく――
一つ「恐怖に呑まれてはならぬ」
一つ「情けをかけてはならぬ」
一つ「
そんな危急存亡の
「フハハハ、愉快愉快、愉悦愉悦……!」
悪鬼は、悦びを抑えきれぬ様子で
久し振りに味わう狂贄の宴に。無秩序な殺戮に。まるで人の血肉を極上の酒として、酔い痴れているかのようであった。
「どうだ小僧、これで九百九十九人……!」
ゆるぅりと、人の形をした人ではない異形のモノが、こちらを向いた。
嶄九郎の声に改めて周囲を見渡すと、文字通り屋敷内は血の海である。
そこに人と呼べるモノはもう、何一つない。
貴之以外に、生けとし生けるモノは、全て消え失せていた。
静寂に包まれたそこに或るのは、人の血肉がこびり付く、黒い絶望。その殺戮の中心には、更なる異形と相成った鬼島嶄九郎が居た。
人肉と
「千人喰いまで
悪鬼は顔に掛かる血肉を一切拭うことなく、黄色く濁った目をギロリと剥いた。
貴之は「千人目の餌食になる」との言葉通り、座して鬼島を待っていた。その表情は今だ以て澄まし顔。波風一つ立たぬ湖面そのものようである。
「ふぅむ、肝の据わった小僧だ。殺すにゃ惜しい。だが……」
人の皮膚がこびり付く大口を開け、肺腑の奥より人脂臭い息を吐く。貴之を褒め称えつつ、殺戮の血に溺れた嶄九郎に止める気など毛頭ない。
ぎゅるぅりと、禍々しく捻じくれた頸を向け、貴之へ狙いを定める。
じわり。じわり。
迫る嶄九郎の巨躯を前に、貴之は微塵も慌てない。
実のところ、貴之は恐怖を失ったわけではない。怖い。
心底怖い。一目散に、逃げ出したいくらい、怖い。
怖い、怖いが、怖いはずだが――
心中は奥底――深き拠り所は、妙に落ち着いていた。
凪の海原の如く穏やかに。野菊咲く草原の如く麗らかに。
かような状況であるにも関わらず、である。
何故だろう……貴之は、ぼんやりとまたも考える。
あまりに奇怪な惨劇の中に身を置き過ぎたせいだろうか。
心が麻痺している。恐怖をどこか遠くへ置いてきている。
いや、違う。そのどれも当てはまらぬ。自らの胸にそっと手を置いた。
これは絶対的な確信――老人との約束を違えるに
「そうか。これぞ『三つの災厄』のひとつ」
あの時
その数は三つ。肩より胸の内へと移動して、不思議にも燦々と輝くようだ。これらは貴之の心一つでくるくるとよく動き、自在に操ることができた。
老人が貴之に与えると云った『三つの力』とは、まさにこれを指すのだろう。
さて、ではどうすれば扱えるか。
貴之には「教わらずとも知っている」不思議な感覚があった。
これぞ『三つの災厄』であると今、確信とそれに
今こそこの『光の珠』を――『三つの力』の一つを使う時。これを放てば、きっと何かが起こるに違いない。
嶄九郎は今まさに、貴之へ向け猛々しい牙を剥いていた。念願である千人目。貴之を最期の餌食にしようと大口を開ける。
まさに
貴之は、
すると胸の内で輝いていた『光の珠』の一つが、ぱぁっと弾けた。
螺旋を描きつつ掌へ再び集積したそれは、瞬時に膨張した光球となる。
「おお、なんぞ、なんぞ、その術は……!!」
眩き光が満ち溢れ、あっという間に嶄九郎の両目を焼き潰した。
掌底より眩いばかりの閃光が幾千も
貴之すら目を開けていられぬ程、激しい光と成って嶄九郎を包み込んだ。
それは数分、いや数秒の間であっただろうか。
掌底より溢れ出てた閃光が渦を描きつつ、やがて収束を開始する。
そうして貴之が
目の前には嶄九郎の身体――嘗て身体であったモノがそこにあった。
顔面を押さえ苦悶する姿のまま、
それは嶄九郎の姿を模した木像と呼ぶべきか。否、木像と呼ぶには、あまりにも"滑稽で"粗雑な塊である。
すっかり乾いた朽木の如く成り果てた身体は、ただそこに或る置物のようだった。例えるならば荒れ果てた古寺の山門に鎮座する、老朽化した仁王の如しである。
未だ嶄九郎の形を遺してはいるものの、最早身動き一つ適うまい。
ばらり、ばらり。
時折その身が剥げ落ちて、崩れ去る寸前と云わんばかりであった。音を立てて木片を撒き散らす身体は、いずれ崩壊すると云ってよい。
では閃光を浴びた嶄九郎は、死んだのであろうか。
貴之は半ば茫然と、驚きと共にその様を
ぱきり、ぱきり、ぱりぱりぱり……
やがて真ん中から見事「ぱっかん」と弾けて割れると――
見たことのない、何かが「すってんころりん」と
それを見た貴之は、自分の目を疑った。
何しろそれは
艶やかな長い黒髪に、玉のように輝く白い肌。
小柄な身体に不釣り合いな程、豊満に実ったふたつの乳房。
両の目は大きく猫の様で、瞳の光彩は黄金色に輝いていた。
顔立ちはこの上なく整い、そんじょそこらの美少女は裸足で逃げる。
その姿、まさに純真可憐。
想像し得る限り、完全無欠の大和撫子。
語彙力のない貴之は、これ以上の表現を持ち得なかった。
だが取り敢えず、もう一度、自らに告ぐ。
嶄九郎の身体より転び出たは、全裸の超絶美少女。
なんとなんと、全裸の超絶美少女が転び出たのである。
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