第25話 咎人牢墓(前編)
睡眠という概念は存在しない。
それでも、突如呑み込まれることがある。
夢のような、現実――記憶の中に。
形状が保てず、常に変質し続ける泡光。
たくさんの泡は、小さな光を囲んでいる。
「わかっているな。お前には責任がある……」
誰かが……いや、皆が等しく責め立ててくる。
「これも全て、我らの未来のため。義務を果たせ。お前には使命があるのだから」
光は弱々しく明滅し、承諾した。
※※※
「咎人牢墓かぁ。仰々しい名前だね」
大量の墓が並ぶエリアの前で、フミカたちは立ち止まっていた。
もう少し先に進めば、地面から大量の死体――ゾンビや骸骨、ミイラなどが這い出てきて面倒なことになるらしい。
「咎人ってことは、悪人がたくさんいるってことだろ?」
「一概にそうとは言えませんわね。まず何の咎……罪があるのかを知らないと。場所が、国や時代によって法も異なりますから」
カリナに応えたヨアケは、じっと墓地を観察している。
「例えば奴隷制度は今の時代犯罪ですが、昔は商売として成り立っていたでしょう? 現代の倫理観だと、過去の法は嫌悪すべきものも混ざっていますから」
「私にしてみれば、力が物を言う時代の方が楽なんだが」
「冗談言うなって。……冗談だよな?」
ナギサは鉄面皮のまま答えない。シャレになってねえぞ、とカリナ。
何気ない会話を聞きながら、さてどうやって攻略したものか、と。
顎に手を当てて考えていたフミカは、もう一人の同行者の不在に気が付いた。
「あれ?」
いつもなら勝手について来ているミリルがいない。
当初こそ鬱陶しかったが、いないならいないで落ち着かない。
定期的に空気のように存在感を消しているが、彼女は常に傍にいたのだ。
「おい、どこいくんだ?」
「ちょっと探してくる!」
フミカは来た道を戻っていく。
ミリルは道中に転がっていた倒木の上に座っていた。
「どうしたの?」
声を掛ける。が、返事がない。
虚ろな表情で、地面をぼーっと見つめている。
「ミリル?」
再度呼びかけるが、応えない。
ダウナー系妖精は、気だるげな様子ながらもコミュニケーションは取れていた。
自分たちをこの世界に閉じ込めた元凶とはいえ、流石に心配になってくる。
思い返せば、フミカはミリルのことを何も知らないのだ。
その正体も。何が好きで嫌いで。
何のために、活動しているのかも。
「大丈夫? ねえ」
フミカはミリルの小さな肩を揺さぶる。
ハッとした妖精はぱたぱたと羽を動かした。
「な、なんでもないよ」
「そう? ならいいんだけど」
「ボクのことはいいから。君たちはゲームを楽しんで。じゃないと……」
「じゃないと?」
「だから、なんでもないって。ほら、急いで攻略しないと。おもらししちゃうよ」
その言葉で忘れようとしていた危機を思い出す。
まだ時間はたっぷりあるが……果たして自分の膀胱はクリアまで持つのか?
シュレディンガーの尿意は、蓋を開けてみなければわからない。
「い、いそが、急がないと!!」
慌ててフミカは皆の元に戻っていく。
「そうだね。急がないと……」
ミリルが、暗い表情で呟いた。
※※※
頭蓋骨が、ビリヤードのボールのように飛んでいく。
ナギサは斬り返しでゾンビの血を迸らせる。
左手のクロスボウで、ミイラの頭を射抜いた。
「やはり死なないか」
初めて訪れた時と同じく、地面から這い出た死者たちはライフをゼロにしても復活していた。
それ自体は対処できる。同じことの繰り返しだ。
永遠に殺し、永遠に蘇るだけに過ぎない。
「で、どうすんだ? ずっと戦うしかねえのかよ?」
「問題あるのか?」
「問題しかねえよ!」
「冗談だ。しかし解決策があるのか?」
その原理には慣れ親しんでいる。ナギサは不慣れだが、他の三人は。
それがゆえの問いかけに、期待通りに答えてくれた。
「楔の花、ですわ。ね? フミカさん」
「きっとどこかに、死者を繋いでいる花があるはずです。まずはそれを見つけましょう!」
「了承した」
回転斬りで敵を吹き飛ばす。
前回とは違い、ダメージはしっかりと通っている。
レベルは45。パワーもテクニックも足りている。
ステータスに不足がないのなら、彼らは敵ではなく、的だ。
墓場を蹂躙しながら進んでいく。
ヨアケが分身で敵を誘き寄せ、カリナが炎で燃焼させる。
そこへちょっかいを掛けようとしたミイラを、フミカがメイスで殴り倒した。
三人の見事な連携のおかげで、ナギサも自分の力を存分に発揮できる。
「む……あれか?」
雑兵を薙ぎ払っていると、奥の墓石の前に献花を発見した。
しかし死者への弔いのようには見えない。どす黒く呪われたおぞましい花だ。
花が妖しく輝くごとに、死者が復活を果たしている。
カチャ、とナギサはクロスボウを構えた。
片手用とはいえ、現実の拳銃とは違う。狙撃は困難だ。
元より、一家の中でナギサは銃の扱いが下手だ。
だから、口惜しくはあるが。
兄弟姉妹たちよりも時間を掛けて、狙いを定める。
秒で照準を合わせたクロスボウの弦が、引き金と同時に解放される。
放たれた矢が、花を抉る――はずが。
「妨害か」
攻撃に反応して這い出てきた巨大なゾンビに阻まれた。でっぷりと太った大男だ。
狙撃は失敗したので、近づく他ない。
背後から迫ってきた敵を蹴り飛ばし、疾走する。
踏み込むと、名前が表示された。
腐った墓守デンド。一応ボス扱いのようだ。
あと数歩のところまで迫って、バランスを立て直す。
障害物に足を取られたのだ。兆候もなく土から盛り出た死者の手に。
(問題はない……が)
デンドが目の前に迫ってくる。ガードはできる。
反撃も可能だろう。
しかし、それでも。
「手を貸してくれ」
あえて求めた助太刀に、仲間たちは二つ返事をしてくれた。
「早速コレの出番だな!」
束縛のツタがデンドを拘束。ナギサは足を掴む腕を斬り飛ばす。
その隙を狙って、ゾンビが背後から奇襲を仕掛けてくることはわかっていた。
わかった上で見逃す。
その打撃が、ナギサのライフを減らすことはない。
「大丈夫ですか?」
「ああ、助かった」
フミカが暗殺したからだ。彼女とカリナが後方をカバーしてくれている。
ヨアケが死者たちの間を縫うようにして、デンドの元へ辿り着く。その脇を素通りした瞬間に、ツタが消失した。
巨体が圧し潰そうとヨアケに迫る。
その狼藉を許すナギサではなかった。
背中をサーベルで刺し貫くと激高し、ヘイトがこちらに向けられる。
安全になったヨアケが、ナイフで楔の花を断ち切った。
墓場の死者たちが、一斉に怯む。カリナの炎が着弾した。
燃やされたゾンビが、復活することは二度とない。
「行けるぞ!」
「そちらは任せた」
ナギサは巨体に切っ先を向ける。
結果は、語るまでもないだろう。
※※※
墓地は地下に続いていた。
じめじめとした陰気な通路を、フミカたちは踏み鳴らす。
「その、平気か?」
「全然大丈夫だよ。みんなもいるし」
ところどころに骸骨や墓石、死体が転がっているが、寂しさも恐怖も薄れている。
穏やかな悪夢との決定的な差異は、みんながいることだ。
これが単独であればビビってたかもしれないが、仲間の存在は心強い。
「それに私はホラゲもやってるし。このくらいでビビったり――」
「ワォン!」
「どぅわ、ひょ、うえっ、い、犬……!?」
曲がり角から出現した犬に飛び上がる。墓を守る番犬のようだ。
死者たちのように腐ったりはしていない。
「あー、久しぶりに出たね」
竜の通過路以来の犬型エネミーだ。
それとなくナギサへ振り返る。破顔しているかと思いきや……なぜか、汗を掻いていた。
あのナギサが、である。どんな敵が相手でも涼しい顔をする騎士が……。
「これは困りましたわね」
ヨアケは眉を顰めている。彼女もナギサの犬好きを知っているのだろう。
「ナギサ、くどいようですがこれはゲームです。ですから、例え犬が相手だとしても……」
「あ、大丈夫ですよ」
「フミカ君、待っ――」
犬笛を吹くと、番犬はぶんぶんと尻尾を振り出した。
勢いよくヨアケがナギサへと振り返る。
微笑みを湛えたまま。
「愛犬家は、要求ポイントが高い割りにリターンが少ない、不遇なスキルのはずです。それを、どうして経験者であるフミカさんが所持しているのですか。ナギサ?」
「う、い、いやそれは……」
たじたじとなるナギサ。どうしてだろうなぁ、とカリナが意地悪な笑みで呟く。
珍しく慌てたナギサは、通路の先を指で示した。
「このダンジョンは、狭く分岐が多いようだ。手分けした方がいいだろう。私はこちらの道に行く」
「待ちなさい、ナギサ!」
逃げるナギサをヨアケが追いかけていく。
「どうする? いっしょに行くか?」
「そこまで広いエリアじゃなさそうだし、別々で探した方がいいよ。何かあったら呼べばいいし」
「それもそっか。じゃ、また後で」
カリナが横道に逸れる。
フミカも同じように別道に行こうとして、振り返った。
「ミリル。いっしょに行こ?」
「……いいけど」
辛気臭い表情の妖精は、しぶしぶ頷いた。
フミカにとってミリルは、自分たちをゲームの中に閉じ込めた犯人という認識だ。
現代だとどんな罪になるのだろう。拉致監禁が一番近しいか?
「悩み事?」
「ボクのことは気にしないでって」
「無理でしょ」
「どうして?」
「だってずっと傍にいるんだよ? 近くにいる人を意識しないで生活するなんて無理でしょ」
「無視すればいいでしょ」
「無視ってさ。むしろ逆なんだよ」
「……え?」
二人並んで歩けるかぐらいの閉所を、余裕で進んでいく。カリナとなら通り辛い道でも、小さくて飛べるミリルとなら問題ない。
「無視、シカトって、その人のことを意識しまくらないとできないの。昔さ、カリナと喧嘩してさ、互いに口を聞かなかった時あったんだけど、それはもう大変で」
思い出されるのは、教室で隣の席に座り、互いにそっぽを向く自分たちの姿。
「幼馴染だから家は近いし、教室もいっしょだし。それでも頑張って目を合わせなかったり、話さないようにするんだけど、まぁ厳しいよね」
結局、すぐに仲直りした。意地を張っている方が大変だし、何より。
「カリナと遊んだり、話すの、楽しいからさ……」
まぁそれから数年後、すっかり疎遠になってしまうんだけれど。
「でもボクは君の友達じゃない」
「そうだね」
フミカは即答する。正面を警戒しているので、ミリルの表情はわからない。
「けれど、仲間でしょ」
フミカの友達のハードルは特殊だ。陽キャのように、距離の近い知り合い=友達なんて括りにはできない。
クラスメイトだから友達、という安易な表現も。
だけど、ミリルとの関係はそうとしか言い表せない。
「……仲間?」
「そう、仲間だよ。だって、いっしょに冒険してるでしょ?」
「っ」
ミリルが息を呑んだ。
間をおいて、質問が返ってくる。
「ボクは君たちを、閉じ込めたんだよ?」
「そこは前以て説明して欲しかったけどね」
無断で閉じ込めた点に関しては、まだ納得していないけれど。
もし仮に訴えたところで、信じてもらえはしないだろうし。
いざ、できるような状況になったとして、本当に訴えたいかはわからない。
その理由は至極単純で、明快だった。
「でも、楽しいし」
心の底からの感想だ。理不尽な殺され方をしても、思ったように活躍できなくても。
ずっとこの気持ちは変わっていない。
こんな経験ができたなら、チャラにしたっていい。
そんな風に考えている自分がいる。
それに。
「何か理由があるんでしょ?」
「それは……君たちに楽しんで欲しくて」
一貫してミリルはそう主張しているが。
違和感は拭えない。
「だってミリルって、結構な面倒くさがりでしょ。それなのに、ただ私たちを楽しませたいがためにこんなことするとは思えないよ。ま、言いたくないなら無理に聞き出そうとはしないけどさ」
普通は、何が何でも聞き出さなければならないのだろう。
命の危険もなくはないのだ。
それでも消極的になってしまうのは、悪意を感じないから。
確かに腹黒くはある。
でも、貶めてやろうという敵意がない。
楽観的かつ能天気かもしれないが、ミリルのことを嫌いになれない理由だ。
「まぁ、何か言いたくなったら言ってよ。関係ないことでも。解決はできないかもだけど、話ぐらいだったら聞けるし」
正体不明の妖精の苦悩を、フミカがどうにかできるとは思えない。
けれど、ミリルはこの世界でずっとひとりぼっち。同族……と言っていいかはわからないが、似たような存在はいないのだ。
それでは、きっと寂しいだろう。
フミカは、前から歩いてきたゾンビにメイスを食らわせる。
「ねぇ、期待されたことってある?」
「期待? ん~」
唐突な話題だが、詮索はせずに返答する。
「特にないかな。私はゲームばっかりだし。それに、妹がいるから」
妹はゲーム三昧なフミカとは違い、勉強もできる。
結婚とかそっち方面だって、器用にこなすに違いない。
なんて考えたところで、妹の会心の一撃を思い出した。
「言っとくけど、ニートになっても寄生しないでね、だって。どんだけ信用されてないんだ私……」
「期待とは無縁なんだね」
「無縁ってほどじゃないけどね。たぶん、ハードルが低いんだと思う。普通って言っていいのかな? ちゃんと生活できてれば文句はないんじゃないかな」
ゲームのやりすぎで出席日数が危ぶまれている人間としては、そのハードルですら結構険しく感じるのだが……。
「そっか。優しい家族だね」
「そうかもね」
さてこの後どう会話を広げたものか。
などと、不慣れな思考を回して、注意散漫になったせいか。
カチリという音が足元から聞こえた。
「へっ――」
足元を見る。スイッチが体重で沈んでいた。
過去作での経験から、フミカは後方に飛び退く。
統計的には上からの攻撃が最も多く、次点で前方から矢だ。
しかしそのどちらからも罠が発動する気配はない。
「うわっ!」
ミリルの悲鳴で後ろへ振り向く。
何かが射出され、飛来していた。
狙いはフミカではない。ゆえに。
反射的に庇った。
「君ッ!?」
「うぐッ!?」
フミカの首に直撃した何かはカシャンと音を立てた。
首輪を付けられた。
そう認識した時にはもう身体が発光を始めていた。
「なっ、これは――」
全身を光に包まれて。
気付いた時には、視界が低くなっていた。
(即死トラップではなかったっぽい?)
変な感じはするが死んではいない。
高いところに浮いているミリルを見上げて安堵する。
大丈夫だったね、と声を掛けて。
(……あれ?)
違和感を覚える。自分の声が聞こえない。
もう一度、声を発して。
「わん、うぉん、わふわん」
「……嘘」
降りてきたミリルが、口に手を当てて絶句している。
ステータスを確認しようと手を伸ばし、自らの異変を目の当たりにした。
愛らしい右手。手のひらを返せば、ぷにぷにの肉球が見える……。
(い、犬になっちゃった!?)
状態異常、犬化。
フミカは人間ではなくなっていた。
※※※
「くぅーん……」
悲しそうに鳴くベージュ色の犬……ならぬ
現代の知識を仕入れるにあたって、この惑星の愛玩動物についての知見もミリルは持ち合わせている。
ダックスフンド、という犬の中でも小型の犬種で人懐っこい性格の犬だ。
一応は狩猟犬であるようだが、獲物とするのは同じように小型であるウサギなどであり、ゾンビなどの相手には不向きだろう。
牢墓の中を徘徊する番犬すら、巨大に思えるほどの小ささだ。
そんな可愛くて哀れな生き物が、目の前で困惑している。
「話せないの?」
わんわんうぉんわんくぅーん。
それがフミカの返答だ。意思疎通が不可能な状況らしい。
バッドステータスの解除には特殊な工程が必要だと、フミカたちの旅で学んでいる。
つまり解除用のアイテムか何かがあれば問題なく戻れるはずだ。
いや……そんな回りくどい手段を使わなくても、一番楽な方法がある。
(死んで復活すれば治る)
このゲームは死にゲーだ。死は厄介だが、時として攻略の役に立つ。
自発的に楔の花に触れれば敵が復活してしまうが、やられて復活する場合は違う。
ゲームの進行状況はそのままで、自分だけが復活できるのだ。
これはフミカたちだけの特権。通常プレイではない恩恵。
ただクリアするだけではなく、ゲームを楽しむという名目で悪用は避けているが。
やろうと思えばゾンビアタックのような強引な手段だって取ることができる。
何も不安に思うことはない。
気に病むことは。
フミカだってすぐに状態異常をなかったことにできる――。
「くぅんくぅーん」
つぶらな瞳と目が合った。
「……仕方ないなぁ。今回は特別だからね」
フミカはミリルを庇って首輪を受けた。だから、しょうがない。
それに、スイッチを踏んだ後だって。
「最初の頃は、踏んでも対処できたくせにさ」
或いは、踏む前に予見できた。
なのに見事食らってしまった理由は。
それとなく、想像がついた。
つけるように、なってしまった。
※※※
「わふおふわんわんわん」
自分の声色の、しかし意味の通じない音を発語する。
ワンチャンあるかも、とは思った。ダジャレではない。
ミリルなら、犬語だって通じるのでは? と。
しかし彼女は理解できているようには思えない。
死ねばどうにかなるよ、と伝えたのだが。
「こっち」
「わぉん」
ミリルは通路を覗いて手招きをしてくる。
律儀なことだ。確かに少しずつ冒険の手助けをしてもらっている。
だが、ここまで直接的な協力は初めてだ。
これはもう、一緒にゲームをプレイしていると言っても過言ではないのでは。
そう思ってしまうぐらい精力的に、安全確認して、ルートを教えてくれている。
(……いいのかな)
ミリルはあくまでもフミカたち自身の力でエレブレ4をクリアすることを望んでいた。
その工程にもきっと、何らかの意味があるのだとフミカは思っている。
ルールは必要だからある。合理的かはともかくとして。
それを一時の感情で破ってしまうのは、本当に正しいことなのか。
――ルールは破るためにあんだよ。
カリナの言葉を思い出す。
(でも、私はヤンキーじゃないもん)
そしてたぶんミリルもそうだ。
なんとなくだが、そう思う。
ミリルのおかげでゾンビをやり過ごし、角を曲がろうとしたフミカは、
「きゃん!?」
突然お尻から濡れた感触がして飛び上がる。
「どうしたの……あ」
「やぁお嬢さん」
耳に届くのはわんという短い鳴き声なのに言葉が理解できる。
どうやら鼻が当たったらしい。番犬がいつの間にか後ろにいた。人間の時は中型犬くらいの大きさだったのに、犬の時はとんでもなく大きく見える。
しかし敵意は窺えない。犬笛で味方にした犬のようだ。
「驚かせないでよもう」
鳴き返しながらも安堵する。テリトリー内では味方になってくれるはず。
急に敵が出てきても安心だ。ようやくスキル愛犬家の本領が発揮される。
「まぁいいや。護衛としてついて来てよ。……ん?」
先へ進もうとして違和感に気付く。
番犬の息がとても荒い。お座りをして、じっとこちらを見てくる。
(えーっと、犬の息が荒い時は、暑かったり疲労だったり、餌を待ちだったり。或いは……はっ!?)
全てが繋がったような気がした。
思い返されるのは、愛犬家をしぶしぶ解放して、ナギサと犬が触れ合っていた時。
味方とした犬が行っていた、公共の場で声に出すのを憚られるような動作。
(ま、まさか……)
人が犬の表情を理解するのは難しいという。
それでも、番犬は笑っているように見えた。
ただの笑みではない。薄い本で見るような、にへらとした笑顔だ。
「あ、あれだったらついて来なくてもいいよ……?」
遠回しに拒否をするが、番犬の鼻息は荒くなる一方だ。
「素敵だね……」
「わおぅうん!?」
甘く吠えながらにじり寄ってくる番犬。
有り得ないという楽観と有り得るかもという危機感がせめぎ合っている。
エレブレシリーズは18禁ではない。そんないかがわしいシーンはないというのが、脳内会議の否定派の意見だ。
しかし肯定派が異議を申し立ててくる。思い出すべきはゲームの中に入った直後のことだと。
無職男性という職業で始まったフミカは上半身裸の状態で放り出された。
そして、規制の問題についてもだ。
日本の家庭用ゲームは例え18禁であろうとも規制がされている。
いろいろ大人の事情があるのだろうが、少なくとも人同士の……アダルティックなシーンは規制されるかカットされるかのどちらかだ。
だが、これは人ではない。
犬同士なのだ。
動物の繁殖シーンが収録されているゲームがあると聞いたことがあった。
ちょっとしたモザイク処理で、大した規制はされていなかったと。
つまりエレブレ4にも問題なく収録されている可能性がある。
フミカの身体がぶるぶると震え出した。きっと客観視すれば可愛いのだろうが、今はそれどころではない。
(まずい、まずいよ……!? それはいくらなんでもっ!!)
オラクルにキスをされた時、ノーカンだとカリナに説明した。
これはゲームだから、と。
しかしこれは、ノーカンで済ませられるのか?
人状態でだって、なかなかヤバ気ではあるというのに。
ましてや、犬になった状態でそんなことなんてしてしまったら。
取り返しがつかなくなるのでは?
「どうしたの……?」
「わふおふおん」
「なんて美しいんだ。本当に、素敵だね……友よ」
番犬の見る目つきはどう見たって友を見る目ではない。
繁殖相手を見る眼差し。
ヤバい。とんでもなくヤバい。
震えるチワワの気持ちが今ならわかる。
人として戻れなくなってしまう……!
「ちょっと離れてくれるかな」
(ミリル!?)
恐怖で動けなくなっていたフミカを庇うようにして、ミリルが番犬の前に立ち塞がる。厳密には飛んでいるが、番犬は鬱陶しそうに吠えた。
「よくわからないけど、フミカが嫌がってるから。……一応、仲間だし。今回はボクの落ち度だし。邪魔するなら容赦しないよ」
銀髪の妖精が冷ややかな視線を投げかける。しかし番犬は怯まない。
元よりそんな風に設計されていない。そもそもこの世界においてミリルがどういう扱いなのかわからない。
完全無敵なゲームマスターのようにも見えるし、誰からも感知されない孤独な神様のようにも思える。
しかし今に限っては明確に、番犬と敵対していた。
ミリルは手のひらを番犬に向ける。
「これでも試してみようか」
気軽に呟いて。
閃光が番犬の身体を掠った。極太のビームのようなもの。
ダメージを受けた犬が退却していく。
「本来は不干渉なんだけど。仕方ない」
(光の魔法……極光の果て……)
最強の光魔法。会得するためには念入りに計画を立てて育成した上で、特殊な条件をクリアしなければならないに難度の高い魔法だ。
その努力に見合った威力のある、シリーズにおける最強魔法の一つ。
やはりミリルは自分たちとは外れたところにいる。
それでも、義理を感じて、助けてくれた。
「これで一安心でしょ。察しがいいヨアケならきっとなんとか」
「犬をいじめる不届き者は誰だ!!」
まるで新幹線のような勢いでナギサが走ってきた。
番犬の悲鳴を受けて駆け付けたらしい。あれほど強大な魔法を行使したミリルも、さーっと顔を青ざめる。
「ま、待ってこれには訳が――」
「問題、無用――!」
猪突猛進のナギサが抱き着いた。
ミリルにではなく、
「わふ!?」
「可愛い――っ!!」
「……え?」
理解が及ばない様子のミリル。フミカも同じ気持ちだ。
光の速さでフミカを抱き上げたナギサは、そのまま頭を撫でてくる。
どういう状況なのかはわからないが、このままではまずい気がする
「わふおふわん」
「いいぞ、とっても可愛いな。一種類しかいないものとばかり思っていたが、こんなに愛らしいダックスちゃんがいるとは」
正座したまま、ご機嫌な様子で頭や背中を撫でまわしてくる。
ゾンビの呻き声が背後から聞こえたが、すぐに鎮まった。
ナギサが何かしたらしいが、早業過ぎて何をしたのかがわからない。
「ほれほれ。いい子だ、いい子」
なんにせよ脱出しなければヤバい。フミカは小柄な身体をじたばたと動かして抵抗するが、
「わふ……っ」
「ああ、極上の撫で心地だ。フミちゃんを思い出すな」
フミちゃんイズ誰?
いつもなら突っ込んだり、呆れたり、戸惑ったりとできるが。
「わふーん……」
「ふふっ。いいか、気持ちいいか? 犬を撫でる時はな。気持ちよくなるのではなく、気持ちよくさせるのがもっともいい撫で方なんだ」
ナギサは以前言っていた。週三ペースでドッグカフェに通っていると。
犬こそ飼ってはいないが、扱いには慣れている。それに、ドッグカフェとはいえ、店員の中には飼育のプロもいるだろう。
犬の撫で方についてもレクチャーされているはずだ。
そして、ナギサはフィジカルエリート。
撫で技術についても、当然最適化されていて。
「くふーん、わふーん」
「ああ、いいな。気持ち、いいな。そうだろう……?」
人間的に言えば、一流のマッサージ師にも等しい。
コリも疲れも、解きほぐされていく。
「犬は歩くだけで、息を吸うだけで、そこにいるだけで素晴らしいんだ。えらいな、いつも頑張って」
「わふおーん……わほーん」
全身をとろかされる。
これはいけない。そう思いながらも抗えない。
このままではきっと、戻れなくなる。
戻れなく、なっちゃう……!!
ぼふん、という煙が立つような音がした。
「あ……」
気付けば、フミカは下着姿でナギサに抱かれていた。
「これは、一体……?」
ナギサは当惑している。
すぐさま離れて説明するべきなのだろう。
でも、あれが。
先程のなでなでが、あまりにも心地良すぎて離れたくない。
「わ、わふぅ」
「……フミカ?」
「っっっうわふあっとだぁ!?」
その呼び声に反応して。
ナギサの身体から飛ぶように離れ、仰向けに倒れる。
見下ろしているカリナと目が合った。酷く、凍えた瞳だ。
「そうか、お前はそうだったな。ふしだらな、奴だったな」
「ち、ちがっ!!」
「待て、状況がよく――」
「ナギサ?」
「っ!?」
正座から一転、どうやったのか直立不動で背をぴんと張るナギサ。
微笑むヨアケが彼女の後ろにいた。
「まさかいたいけな後輩に手を出すなんて。わたくし、あなたのことを見誤っていたのかもしれません」
「誤解だ!」
ナギサの言い分に聞く耳を持たないヨアケ。微笑みが怖いと思ったのは生まれて初めてだ。
なんて他人事のように思っていると、カリナが踵を返した。
「ま、待ってよカリナ!」
「待ってくれ、ヨアケ! これは――」
ナギサがヨアケの背中を追いかけていく。
フミカもカリナを追いかけようとして、半裸であることに気付いた。
急いで装備をして走って行く。
「浮気現場を見られた男みたい」
残されたミリルが呆れたように呟いて。
「でも、今回はボクのせいか。……怒られる、かな……」
また顔色を暗くした
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