4.人生の道しるべ


 ふと意識がはっきりした時、レオーナは庭の木にもたれかかっていた。腕の中には目を閉じたままのサニアがいた。思わず息の有無を確認して、穏やかな呼吸があることがわかった瞬間ぶわっと汗がふき出した。


「痛むところはないか?」


 問われてはじめて自分とサニア以外の人間の気配に勢いよく顔を上げる。


 夕暮れで赤く染まった空を背に青年が立っていた。その顔を見た瞬間、脳内で霞んでいたそれまであった出来事の記憶が急激に鮮明になる。


 殺された母。殺された二人の悪魔。殺されたフィリッツ。


 全身のあちこちが悲鳴を上げたいほどに痛かった。けれども一番痛むのは――――


「心が、痛いよっ!!」


 善悪、損得、利害などを冷静に考えるまともな思考力も状況を正しく分析する力もレオーナにはなかった。混乱する頭の中で感情が入り乱れる。出来ることなら怒りや悲しみの感情に浸って、嘆き尽くしたい。考えることを止めたい。けれども、それが出来なかった。


 自分はどうしたらよかったのか、何が正しいのか、何を信じればよいのか。答えがわからないのに、それを思考せずにはいられない。考えれば考えるほど、胸が痛くなる。吐き気がこみ上げるほどに。


 青年に対しても感謝すればよいのか、フィリッツを殺したことをなじればよいのかがわからない。だから、いつの間にか溢れてきた涙をそのままに、八つ当たりでぐちゃぐちゃな感情をぶつけた。すると青年はレオーナの前で膝立ちになった。


「お前が見たものは戦争の縮図だ」


「……戦争の、縮図?」


「正しくあろうとし志高かった者が狂気に呑まれて暴走し、心優しく気高い者が死に急ぐ。正義と悪が立場によって容易に入れ替わり、上に立つ者が高い位置からぶら下げた耳に心地いいだけの大義に囚われた者達が、本人の意思とは関係なく命を賭けざるを得なくなる。戦場で生まれた恐怖と憎悪に呑まれた者は道徳心を失い、罪無き者の命を軽んじ、猜疑心が満ちれば、全てが殺戮の対象に見えてくる」


 静かな声は徐々に力んでいった。


「血と涙と汗と泥に塗れ、勝利といういつ訪れ、どんな形で得られるかもわからないものを盲目的に追い続けなければならないと生きてはいられない場所。それが戦場だ。与えられた大儀の前では命の価値など武器の価値と同等になり下がる。例えそれが自分の命あっても。そして最終的に生き残るのは善悪関係なく運を味方につけた力ある者ばかりになる」


 青年は怖いくらいにレオーナのことを真っ直ぐに見つめてきた。その目がただの知識としてではなく実体験から得た教訓を含めた戦争を語っているのが伝わってきた。


 戦争は気高い戦士による国を守るための崇高な行い。そう教えられ信じてきたレオーナの常識に大きな亀裂が入った。


「……本当に不幸って、魂が穢れている人にだけ訪れるの?」


 考える前に口から零れ落ちたのは、それまで否定することは愚か口にすることも許されなかった疑問だった。


 強い者が正しく清いという強者主義を信じるのならば、青年よりもフィリッツが、フィリッツよりもレオーナ達を襲った男が、その男よりもカッシアの魂が醜く穢れていたということになる。


 しかし、子どもから見ても今世のカッシアは誰よりも清く優しくしなやかで、強い心の持ち主だったのだ。最後の最後までレオーナとサニアのことを庇い、自分一人だけ犠牲になることを自ら選んだ、他の誰よりも大切で尊い母だった。


 例え前世がどんな行いをしていようと、カッシアは生まれてこの方何も悪いことなんてしていない。ずっと強者主義の教えを信じて誰に見られても胸を張っていれる生き方をしていた。


 また、敵国の兵はデューアに刃を向けた時点で心が誰よりも穢れた弱者であるとされ、その強さは悪魔に魂を売って一時的に得たものであるとレオーナは教えられてきた。いつかはかならず正当な強者であるデューアに打ち滅ぼされる存在なのだと。


 しかし、フィリッツが流した涙や語った言葉、何よりレオーナを救った行動は魂の穢れを感じさせなかった。


 そんな二人の死を、前世が悪だったから、という一言で済ますことがレオーナにはどうしても出来そうになかった。受け入れたくなかった。


 そんな思いで胸がはち切れそうになったとき。


「穢れてない」


「えっ?」


 思考している内に自然と俯いていた顔を勢いよく上げると、そこには綺麗な紫紺の瞳があった。


「強者主義は間違っている。戦を通して俺はそれを確信した」


 強者主義を否定することは国を否定することと同じ。


 幼い時から絶対にしてはならないことと教わってきたことを、目の前の青年がはっきりと口にした。


「お前も、お前の母も、そこの男も穢れてなどいるものか。俺は自分も含めて人の前世の行いを知ることなど全く出来ない。けれども、人の言動を通してその人物の人柄を少しくらいなら見極められる。お前の心は穢れてなどいなかった。それはご両親の心も同様だった証だ。……お前を救った男の心は戦に病んでいた。しかし、悪ではなかった」


 急激に視界がぼやけた。心のどこかで堰き止められていた感情が一気に溢れ、それが慟哭となった。戸惑いと混乱が抜け、母を失ったこと、命の恩人同士が目の前で殺し合いをしたことに対する涙が止まらなくなった。


 身も心もボロボロだった。声を出す度に腹が千切れるのではないかという程痛かった。それでもレオーナは叫んだ。

 

「こんな世の中なんて嫌だっ」


 心の底からの訴えを受け、青年が頷いた。


「そうだな」


「こんな世界、絶対におかしいよ!」


「ああ、その通りだ」


 青年が体の奥底に溜まった重たい塊を吐き出すように、ゆっくりと力強く同意した。


 同じ想いの共有。少女と青年のそれが広大な世界に極小さく弱いながらも、それまでとは違う向きの風を吹かせた。


「だから、誰かが変えなくてはならない」


「誰か?」


 レオーナが小さな頭を僅かに傾げる。それまでに出来た涙の跡とは違う箇所に目元に溜まっていた涙が流れる。青年はその一筋を武骨な指先でぬぐった後、その指先で自らの胸を指差し、次いでレオーナにもその指先を向けた。


「気が付き、立ち上がり、行動を起こし、諦めない。そういう人間が国を――――未来を変える」


 低く力強い、けれども少し震える声。それは青年自身が自らに言い聞かせているようでもあった。


 レオーナは大きく目を見開いた。これまで辺境のド田舎で暮らす自分は国の歯車の一部、もしくはそれ以下でしかないと思って生きてきた。にもかかわらず、青年の言葉と真剣な表情はそんな認識を一瞬でレオーナの中から消し去った。


「……私が頑張れば、変わるかな?」


 レオーナ目つきが一瞬で変わる。それまで淀んでいた瞳に光が生まれる。それは燃えはじめの炎のように徐々に強くなる。青年はその瞳から一切目を逸らさずにレオーナの左右の頬に手を伸ばした。


「お前だけじゃない。俺がいる。俺は俺のやり方でこの国を変えてみせる。だからお前も出来ることをするんだ。お前はお前の立場とこの身と心でこの世界の在り方を考え、するべきことを見つけ、出来る限り行動に移せ。――――俺達は同志だ。側にいなくとも目指す場所は同じ。立場も歳も性別も身分も強さも何もかも関係ない。同じ想いを抱き続け、それにお前が立ち向かっている限り、俺も立ち止まらずに頑張る。頑張れる」


 青年の指先は僅かに震えていた。けれども見つめた先の紫紺の瞳は強い決意に満ちていた。


 ほんの少し前に知り合ったばかりの名前も知らない青年が、嘘偽りのない心からの言葉を発している。強い想いを自らにぶつけている。それを感じ取ることが出来たレオーナは頭で考える前に、頬を包む大きな手に自らの小さな手を重ねてぎゅっと握った。


「――――わっ、私、頑張る! だからお兄ちゃんも頑張って!!」


 今度は青年が目を大きく見開く番になった。


 その目と表情を隠すように俯き、少しの時間黙った青年は次の瞬間勢いよく立ち上がった。


「ああ。頑張る」


 繰り返されたありきたりな鼓舞の単語。それらは凄まじい力で背中を押し、新しい道を切り開かせた。







 ただ、現実は厳しかった。


 レオーナが歩みはじめた道は度胸試しの崖のように進むのが厳しく困難な道だった。


 レオーナは間違った世界を変えようとした。戦争や強者主義は間違っていると人々に伝え、自分と同じように悲しみ苦しむ人々がこれ以上増えないようにと行動した。けれども、その声は家族に届くのにも時間を要し、村人の考えすら変えることが出来なかった。


 何度も打ちのめされたが、その度に青年の顔を思い出した。この世がおかしい、変えるべきだと考えているのは自分一人では無い、そう確信していることがレオーナの大きな心の支えとなった。


 そんな心の支えとなっていた青年が皇太子のアウル・デューアだと知ったのは別れた直後だった。他の村人が敗残兵の追跡隊のリーダーが皇太子だったと興奮して語り、 その特徴が青年と一致したのだ。


 驚きはしたが、次期皇帝が自分と同じ想いを胸に宿していると思えば、困難な道を歩む勇気が湧いた。


 身近な人が駄目なら村を出て自分の仲間を増やそうとレオーナは行動した。戦争から帰ってきた兄が薬草の行商で国中を回るのについて行き、自らの考え方を広めようと試みたのだ。


 平民には強者主義を否定する者も多く存在していた。しかし、その誰もが強者主義を恐れ、戦争で国が富み栄えた恩恵を受けていた。本音はどうあれ、レオーナに同調し、その価値観を広めようと協力してくれる人など皆無だったのだ。子どもの戯言だと取り合ってもらえないか危険思想だと避けられてばかり。僅かに存在する共感者も革命など不可能だと、使う前から匙を投げた。


 レオーナは長旅をして改めて、自らが歩んでいる道はどれほど足場が悪く、進み続けることが困難な道なのかを痛いほど思い知った。自分の行いは無意味で、誰も変わってはくれない。頭がおかしいのは自分の方で、間違った方向に歩み始めてしまったのかもしれないと自問する機会は何度もあった。


 しかし、そうやって落ち込んでいる時に不思議と耳に入ってくるのはアウルの情報。自らには不可能な規模で帝国を変えていく見えぬ姿に、心は救われ掬い上げられた。


 そんな心の浮き沈みを繰り返していると、レオーナに新たな願望が生まれる。


 無力な自分に出来ることなどたかが知れている。それならば、不可能を可能にする力を持っているアウルの負担を減らすために行動したほうがよっぽど革命に近づけるのではないか、と。


 常識に反した志を持ち、行動を起こし続ける孤独を痛いほど知っていたレオーナはアウルの心労を減らし、気力を保つための手伝いがしたいと望むようになった。


 レオーナはその後幼い頃にした約束を胸に、愚直なまでに真っ直ぐに生き続けてきた。


 心は常にアウル・デューアを追っていた。





 そして出会いの日から十年後。レオーナが辿り着いたのは帝都リッカーリア。


「中央門を開けて下さい!!」


 皇城の前では、今日も今日とて溌溂とした声が響く。


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