3.少女を助けた二人の男

 助かった。


 まずはそれだけしか考えられなかった。自分の心臓の音が耳の奥で響いて、血の気が引いた全身に血が巡っていく感覚が妙にはっきりと感じられた。


 じんわりと指先に血が通う。すると、何も考えることができなかった頭が少しずつ眼前の光景の分析に取り掛かる。


 増悪と恐怖の対象だった男が二人とも床に血まみれで倒れていた。二人ともピクリとも動かない。


 死んで当然だ。


 痛快さと同時にどす黒い感情が胸の中を満たしかけた時。


「大丈夫か!?」


 切羽詰まった低い声が聞こえると同時に背中に何者かの手が回った。上体を丁寧に支えられる。倒れそうになった体を支えられたようだった。


 助けが来たという安心感から体の力が抜け、指一本ですら動かす気力がなくなる。脱力し、声のする方に視線だけを向ける。


「抵抗する術も持たない相手になんて愚かなことをっ」


 強く憤っている声は自然と父や兄のような志願兵か国軍の兵士の姿を脳裏に思い描かせた。しかし、声の主の姿を目にした瞬間レオーナは大きく目を見開く。


「っ本当にすまなかった」


 震える声で謝罪を口にしたのは床に倒れ伏した男達と同じ軍服の男だった。


 その姿にゾッとして瞬間的にレオーナの体は強張った。しかし、男が顔をしわくちゃに歪めて涙を流しながら何度も謝罪を繰り返す内にレオーナの力みは消える。


 あれやこれやと思考する余裕はなかった。だから自然と生まれた感情に身をゆだねる。


「……っ、助けてくれて、あり、が、と」


 絞り出したレオーナの声に男は目を見張り、より一層顔をしわくちゃにした。


「礼などっ。部下の過ちは私の監督不行き届きのせいだ。死んでもなお償いきれないこんな愚かな過ちを部下に侵させてしまったっ。全ては私の落ち度だ」


 心の底から湧き出て来る後悔の念を語っているのだということが、見上げた表情と震える声と体から伝わってきた。さっきまで二人の男を、隣国を、心底憎んでいたはずなのに、自分を抱える男の存在がレオーナ体内を埋め尽くしていたどす黒い感情を静かに霧散させた。


 息をゆっくり吸い込み、呼吸を落ち着かせる。腹は相変わらず痛むが、なんとか体勢を整える。それから視線を上げて未だに涙が止まらない様子の男の目を真っ直ぐ見上げた。


「そこの二人を許すことなんて、できない。…………けど、助けてくれたおじさんのことは恨まないよ。私のために、ありがと」


 何となく、止めどなく流れる涙は自分の不幸や母や姉の事を嘆いているだけだはないとレオーナは思った。今はじめて出会った赤の他人よりも、自分が手にかけた部下に対する思い入れの方が強いはずだ。生まれて初めて見る男の涙にはレオーナには想像が出来ないほど複雑な感情が籠っている、そう感じた。


 繰り返した感謝の言葉は見えない男の複雑な内心に向けたものだった。そんなレオーナの心情が伝わったのか男は目を見開いた後、ぐっを唇を一文字に結び、何かを自分の中で消化するのに時間をついやした後に、微笑んだ。


「私の名はフィリッツ・ヒハギ。君と同じ年ごとの娘がいるんだ。……鬼ばかりの魔境だと思っていたこの地に、君のような心の清い天使がいることを最後に知れてよかった」


 最後?


 男の発言に引っ掛かりを覚えた時、床を擦る音がどこからか聞こえてきた。


「最後、か。どうやらこの場で命乞いをするつもりはないらしい」


 鋭い声が放つ剣呑な雰囲気にレオーナが視線をずらす。すると涙を流すフィリッツの後頭部に向かって剣の切っ先を向ける青年が立っていた。


デューアの国色である群青の軍服の青年。その姿を見て、自分が救われた瞬間に見た人影が二つだったことを思い出す。状況から判断するにこの青年がもう一人の命の恩人であることは間違いなさそうだった。


 フィリッツと同時に青年が駆け付けてこなかったらレオーナの命はなかった。ぐるりと視線を巡らせれば閉まっていたはずの玄関ドアと台所脇の勝手口のドアが開きっぱなしになっている。どうやら双方が窓から室内の様子を見て駆け付けてくれたようだった。


 しかし、レオーナは青年に礼を言うことが出来なかった。


「やめて。……どうして剣をこの人に向けるの?」


レオーナの声に非難の声が混ざる。


 敵国の兵を庇う自分が不思議だった。けれども、仲間を殺してでも助けてくれた相手を、涙を流しながら自分を抱く男の命が簡単に奪われてよいとは思えなかった。そして、同じ目的でこの家に駆けつけてくれた者同士が争う理由が思い浮かばなかった。


 そんなレオーナの声を受けても青年は剣を引きはしなかった。


「その少女と娘の側から離れろ」


 端的な命令を青年が発する。対してフィリッツは身動き一つしなかった。


「……わかった。しかし、血まみれの床にこの子を置くのは忍びない。場所を移させてくれないか?」


 フィリッツの要求を青年は呑んだ。剣の切っ先を頭部に向けられたまま、フィリッツはレオーナを抱いたままゆっくりと部屋を移動する。


「正義ってもんは生まれ育ちで変わるものだ。だから決まった一つのものを盲目的に正しいと信じ、それを他者に押し付ける者を私は軽蔑する」


 見上げた顔にはもう涙はなかった。


「私はカサドラの軍人で君はデューアの民だ。けれども、君の命が尊いものだと思う気持ちに嘘偽りはない」


 悲痛に歪んでいた顔は見る影もなく、凛々しい軍人然とした表情でフィリッツはレオーナの目を真っ直ぐに見下ろした。


「背負うものが無ければ、我々は良き友人になれたかもしれない。……世の中とはままならぬものだ。そうこの戦いで私は思い知った」


 フィリッツは僅かに笑んだ後、レオーナを荒らされておらず、綺麗なままの床にゆっくりと下した。


「戦争など、碌なもんじゃない」


 デューアに生まれた者は戦争を好機だと捉える。武功を上げてより強者になれるチャンスであると同時に、国を豊かにするために必要な手段だと。レオーナもそのように教えられて育ち、出兵する父と兄達を胸を張って見送った。だから、戦を否定する言葉に反射的に忌避感を覚える。


 しかし、フィリッツの苦虫を嚙み潰したかのような笑顔を見た途端、たった今自分が経験したことは全て戦によって引き起こされた不幸だというに気が付く。


 常識と現実の狭間で頭が混乱する。じっくりと考えるべきことなのに、そんな余裕など微塵もなかった。


 レオーナを床に下したフィリッツの腕が体から離れる。その手がゆっくりと移動して行きついた先は、腰にある剣の柄だった。


 何をするつもりだと目を見張った瞬間、玄人の速度で抜かれた刀身は振り向きざまに背後にいた青年の刃を鋭く弾いた。


「しかし、今更後戻りは出来ない。何故ならデューアによって苦しめられ、殺された多くの同胞の無念を晴らさずに私は死ねないからだ!」


 声を出す間もなかったが、青年は油断なく一歩後ろに下がるとすぐに体勢を整えた。フィリッツは先ほどまでの雰囲気が嘘かのように声を荒げた。


「年若い濃紺の頭髪の左官、デューアの前線指揮をしていたのは貴様だな。貴様が率いた軍によって我らカサドラ軍は戦況を覆され壊滅した! お前だけは生かしておくわけにはいかない!」


 明らかに怒気を孕んだ背中にレオーナが圧倒される中、青年の方は冷静だった。


「いかにも、戦の終盤で前線の指揮をとったのは俺だ。恨まれる心当たりならある」


 刃を互いに向けあっているのに青年の声は妙なくらいに落ち着いていた。


「心当たりどころではないだろう! デューアがこれまでにカサドラに対してしてきた所業は許されることではない! 善良だった部下が捕虜として貴様らの手に落ち、命からがら逃げ出して来た後、人としての道を踏み外すほどに気を病み、殺すことでしかその魂を救ってやることが出来なかったっ。お前たちは悪魔だ!!」


「…………悪魔と言われても仕方ない愚かな所業を我らの一部が犯したことは遺憾の極みだ。そのことに関する謝罪が無意味であることも重々承知している。俺の命一つで償えるのであれば、この首を差し出しても構わん。しかし、俺の首一つで治まらぬというのならば首をやるわけにはいかない」


「お前の首一つなどで足りるものか! デューアという悪の帝国が滅ばなくては我らに平穏など訪れぬ!!」


「ならば、この剣を下ろすことはできない。デューアにもそこの少女のように善良な者は存在する。俺には彼らを守る義務がある。アンタの本質も善良なのだろう。けれども、兵士となり剣を握り続ける限り、その刃を向けられた者達にとっては悪魔にしかなりえない」


 狭い室内で二人が本格的に睨み合う。それぞれが放つピリピリとした空気が殺気なのだと肌で感じ取った瞬間、レオーナは前のめりになって声を張り上げた。


「待って! やめてよっ。二人とも私の命の恩人なんだよ! 恩人同士で殺し合いなんてやめてよ!!」


 ついさっきまでレオーナにとっての悪魔をこの世から葬り去ってくれた二人が互いの事を悪魔だと言い合い、戦おうとしている。このままでは恩人のどちらかが恩人によって殺されてしまう。また、目の前で、人が、死ぬ。それは嫌だった。


 レオーナは何とか二人の剣を下ろさせようと必死に声を掛けた。蹴られた腹が痛むが、そんなことなどどうでもよいと思える程に一生懸命に。しかし眼前で睨み合う両者にレオーナの声は届かない。


 何故だ。どうしてこうなるんだ。


 二人ともレオーナを命の危機から救ってくれた。フィリッツは敵国の軍人だけれど、涙を流して仲間の所業を詫びだ。悪い奴だとは到底思いない。デューアの青年も駆け付けてくれて、今もなおレオーナをはじめとした国民を守ろうとしてくれている。


 互いが敵同士であることなど百も承知だ。フィリッツがこの地に現れたということは帰国するための逃げ道を求めてきたのであろうし、青年はそれを追ってきた追跡兵だということも予想できた。双方の発言から互いに仲間や大切な人の命を奪い奪われ、強い憎しみを抱いていることも想像できた。


 けれども、今この場で同じ正義感を発揮する二人がわざわざ殺し合わなくてはならない理由はわからなかった。


 仲間を殺してまで自分の命を尊重してくれたフィリッツを逃がしてあげたい。


 デューアの誇り高き強者に、心優しい人間を殺して欲しくない。心優しいフィリッツにデューアの民を殺して欲しくない。


 そんな感情が頭の中で激しく渦巻いて、考える前に頭に浮かんだ言葉を二人に投げかけ続けた。


 それでも、レオーナの想いは届かなかった。


 フィリッツが剣を振りかぶり青年に向かって刃を振り下ろす。それを躱した青年はずっと冷静だった表情を歪め、目にも止まらぬ速さで剣を横に一閃した。


 異常な程にゆっくりと、フィリッツが倒れていく。


 声にならない悲鳴が自分の喉から鳴った。音として声が頭の中に入ってこず、叫んだ分だけ喉が焼けるように痛んだ。


 駆け付けようと足に力を入れるが、腹の痛みで立ち上がることが出来ない。ならばと、腕の力で這っていこうとした。


「近づくな」


 返り血を浴びた青年が歯を食いしばってフィリッツを見下ろしていた。自分はフィリッツの盾になりに行くのだ、止められる筋合いはない。そう言い返そうとしたが、青年の目を見て言葉が出なくなった。


 なんで今更、そんな悲しそうな目をするの?


「もう助からない」


 青年は力無く言うと、これ以上苦しまないようにとフィリッツにとどめを刺した。




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