第2話
「見つけた!」
ダム上の道が終わりをむかえたあたりに、あのちいさな背中がかすかにあらわれた。その安堵していた体が、シャンと伸びたのは、追いかけてくるハイビームに気がついたからに違いない。
原付くらいになっていた速度が、急激に上がって、その背中があっという間に点になった。
「どんだけ元気なんだ」
ゆっくり曲がり、市道へ戻る。ペダルが床についてしまうほどに、アクセルを踏みしめる。ここからほとんど直線だ、遠くにちょっとしたヘアピンがあるが……。
「それまでには追いつけるよね」
こちとら、父さんが残してくれたラリーカーだ。賞だって取ったことがあるんだぞ。
「それ、フラグというやつ」
「言わないでよっ!? ってか、車がヒトに負けるわけがないって」
「だから、相手は幽霊」
「幽霊だかなんだか知らないけど、私に勝てるって思わないで」
となりでため息がした。何を思っているのか、小一時間ほど問いつめたくなったが、それどころじゃない。
水たまりを避け、鼻先をおばあちゃんへと向ける。その背中がみるみる大きくなってきた。あれ、想像以上に速く追いつけそうだぞ。
頭の中で、チリチリ何かが焦げた。
ヤバい――そう思ったときには、おばあちゃんが右側を並走していた。
「ええっ!?」
隣に、おばあちゃんの顔。そのヘッドライトに照らされた、顔はしわくちゃで、どう見たって人間だ。でも、人間は、法定速度をはるかに超えた速度で走り続けられない。
私は一度、いや、二度三度も見た。幻かと思った。そうじゃなかった。
コンコンコンと、おばあちゃんが窓をノックしてきた。ガチャガチャ、ドアハンドルをうごかす音。カギがかかっていると気がつくや否や、からだをぶつけてきた。
その衝撃といったら! まるでイノシシがぶつかってきたみたいだ。
「ちょっと! 体当たりはずるい、ルール違反だ!」
「ルールなんて、幽霊にあると思ってるの……」
確かに、一理ある。相手からしたら、勝負を挑まれている格好だし、もっといえば、ストーカーに追いかけられているのと一緒だ。……そう考えると、直接的な方法に訴えてくるのは自然だった。
タックルされるたび、車体が揺れる。足元で鳴き声がする。タイヤがすり切れ、地面に黒い線を残していく。
ハンドルが暴れて、そのたびに、腕が持っていかれそうになる。コイツ、パワステ積んでないから、ハンドルが重たいんだ。
「腕がもげそう……」
ブレーキをキック、同時にギアダウン。速度を下げて、おばあちゃんを前へ出そうとする。だが、急激な速度低下にも、ぴったりと追従してくる。なんだこのばあちゃん、ホントにばあちゃんか。
タックルのたびに、車体が左へと押しやられていく。今のところは法面しかないから、車がベコベコになるだけだが、この先をずっといけば、橋がある。橋の上でこんなことをされたら、どうなるかなんて考えるまでもない。
ハンドルに汗がにじんだ。夜の湖にダイブするくらいならまだいいとして、あのばあちゃんに、水の底の底まで引きずりこまれるのだけは勘弁してほしい。
「このぉっ! 私は泳げないんだぞ!!」
右に切り返す。手ごたえなし。すうっと霧のようにその姿がかききえた。
「あ、あれ」
「相手は幽霊だっていってるじゃない」
「マジか、マジなんだ。な、なにか方法は……」
天井からドンドンと鈍器で叩かれているような音がする。やつはルーフにいるようだ。
「方法ならある」
「じゃあ、早くやって! このままじゃあ、死んじゃうって!」
少女はちいさくため息。それから、数珠に片手をとおし、目を閉じた。その間にも、バンバンドンドン、幽霊の猛攻撃は続いている。この車、普通の車よりもスカスカだから、マジでヤバいかもしれない。もしかしたら、天井を突き破って、手が伸びてくるかも――。
金属がひしゃげる音、ねっとりした湿気とともに、刺すような雨が降りこんでくる。
反射的に天井を見た。見上げなければよかったと、すぐに後悔した。
おばあちゃんの顔が、こっちを見つめて、ケタケタ笑っていた。
思わず、ブレーキを踏みしめたくなった。そうすれば、さしものばあちゃんも吹っ飛ばされるだろう。――でも、やらなかった。ぶつかってもすり抜けるやつに、慣性の法則は期待できそうになかった。
その、不自然に折れ曲がった枯れ木のような腕が、少女へと伸びていく。その華奢な首をへし折らんとする。
「危ない――」
私が叫ぶよりも早く、少女の口が動いた。あまりに早く、切れ間のない言葉は、ナムアミダブツと聞こえた気がするが、穴から入ってくる風切り音、唸るエンジン音のせいで、さだかじゃない。
瞬間、腕がべきべきと音を立て、吹っ飛んでいった。腕だけじゃない、おばあちゃんのからだが木っ端のごとく、宙を舞った。
「やった!」
「まだだよ」
くるくる光のなかをスピンするおばあちゃんは、地面をゴロゴロしたかと思えば、立ち上がり、ふたたび走りはじめた。吹きとばされたのなんか屁でもないよとばかりに。
「……なんてばあちゃんだ」
「タフな幽霊。やっぱり、根元からどうにかしなきゃ」
「結構走ってるけど、ホントに隠れ家みたいなのってあるの」
「ある、はず」
「歯切れ悪いね」
「実際に確かめたわけじゃないから。でも、そうじゃなきゃこんなに走りつづけられるわけがない」
「幽霊にも、エンジンとかガソリンってあるのかな」
「活動限界という意味ではある。霊界のものが物質界に干渉するためには、チャネルを合わせなくちゃならない。そのためには莫大な霊的エネルギーが――」
「待った。その話はあとで」
私が言うと、少女のやわらかな頬がぷくりとふくれた。申しわけないが、そうでもしなきゃあ、ずっと話しつづけそうだから。そんなの、気が散っちゃう。
橋を通り抜け、また法面が現れる。ひび割れ雑草だらけのコンクリートは、どこまでもまっすぐ伸びているように思われたが、遠くの方で、左方向へと鋭角に曲がる。そこだけ、ヘアピンカーブになっているのだ。
「ごめん、そうじゃないとヘアピンで舌を噛んじゃうから」
「ヘアピン?」
「すごいカーブってこと!」
ブレーキを踏むと同時にハンドルを切り、ドリフトする。イノシシのように一直線に走っていた車にブレーキをかけたらどうなるか、その上でドリフトをしたら。
気分は最悪だ。前からぬりかべのような重力の壁が迫ってくる。それはすぐさま横方向へ変わるが、シートベルトが食いこんでくるからどっこいどっこい。
そんな中でも両手両足は動かさなきゃならない。素早く、でも、タイミングは間違えないように。
車が悲鳴を上げる。豪雨ではかき消せないエンジン音とスピン音が、深夜の森へと吸いこまれていく。
だが、そんなことには構ってられない。思ったより、車体が滑った。前を走るおばあちゃんのせいだ。穴が開き、車体はべっこべこ。タイヤもすり切れる寸前。私の堪忍袋も爆発しちゃいそうだし、ありとあらゆる状況よりも、条件が悪かった。
怒りの源であるそいつは、今や手を伸ばせば届く距離にいる。少女の不可思議な一撃は、クリティカルヒットしていたらしい。
外から内へ、差し込む――。
揺れる車体、外へ流れていこうとするコース、ハンドルを逆に切る、何とかここさえ乗りきれば。
車のお尻が滑る。カーブの終わりへ向くヘッドライト。
右の窓に、こちらを驚いた表情で見てくるおばあちゃん。それらすべてがゆっくりゆっくり流れていって。
アクセル。
踏みしめた右足からエンジン音が伝わってきた。遅くなっていた時の流れが、いつもどおりになる。
加速するヘッドライトの光のなかに、怨霊のすがたはない。
私は、ターボばあちゃんを抜きさっていたのだ。
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