第7話
「才能がないから芸術の世界から逃げ出すか。偉いご身分だね、後輩くんは」
蝶羽舞希は挑発するような笑みを浮かべてきた。
才能がない。たったそれだけで諦めてしまうのかと嘲笑うかのように。
ただ、どれだけ煽られたところで、龍野雅空の心は変わらない。
心の中に宿った炎が完全に消えた現在、もう彼の心には情熱の灯火は付かないのだ。
「天才には分かりませんよ。俺の気持ちなんて」
「あぁ、私にはさっぱり分からないよ。負け犬の気持ちなんてね」
「ま、負け犬……」
「どうしたの? 顔がちょっとピキッとしたけどイライラした?」
蝶羽舞希は煽り体質のようだ。
人様を小馬鹿にするのが大好きなようで、先程から相手を不快にさせる言葉を使ってくるのだ。それが彼女の策なのか、天然なのかは、龍野雅空には分からない。
「もうキミは諦めるんだろ? 芸術の世界から」
「諦めましたよ。だから、もう別にどうでもいいんです」
「ただ、人生の先輩である私がイイことを教えてあげるよ」
「年寄りの説教はお酒を飲んだときにしてもらいたいですね」
「……まぁまぁ、ちゃんと聞いておきなよ。聞いて損はないから」
龍野雅空は不服そうな表情で抵抗してみたものの、蝶羽舞希は気にしなかった。
そもそも、自己中人間の彼女が人様の意見など聞くはずがないのだが。
「後輩くん。意外と世の中は才能の有無なんて関係ないと思うよ、お姉さんは」
「才能の有無なんて関係ない? それは天才側の意見ですね」
「私が天才か。そう呼ばれるのは悪くないが……私は少し出来がいいだけの凡才だよ」
「世界的に有名な天才芸術家がそれを言い出しますか?」
「言うよ、私は——」
だって。
そう呟いてから、日本を代表する天才芸術家——蝶羽舞希は続けた。
「今の私は満足できる作品が全く描けなくなってしまったんだから」
強い風が吹き渡り、長い黒髪が僅かに揺らいだ。
美人は髪型が崩れても、やはり美人のままだ。
涼しげな表情を浮かべて、蝶羽舞希は微笑んでいる。
「天才は失敗をしない人生を送っていると思っているだろ?」
彼女の問いに対して、龍野雅空は「うん」と頷いていた。
天才と呼べる人間は一度たりとも失敗しないと。
失敗をしない人生を送る彼・彼女が羨ましいと。
でも——。
「そんなはずがないだろ? 私は天才である前に人間なんだぜ」
龍野雅空は一つの勘違いをしていた。
天才を神様のような存在だと。
そんな神様と呼べる存在と戦うなんて無理だと。
ただ、違うのだ。彼等は人間なんだと。自分と同じ血の通った存在なんだと。
◇◆◇◆◇◆
龍野雅空と蝶羽舞希は展望台のベンチに座った。
二人揃って煌々と輝く夕陽を眺める。
たったそれだけで、龍野雅空はこの世界が自分たち二人だけしかいない気分になった。
勿論、そんなロマンチックな話など起こりもしないのだが。
「蝶羽さんは絵が描けなくなって怖くないんですか?」
「怖いよ。めちゃくちゃ怖い。今まで普通に描けていたものが描けなくなるのは」
自分が満足できる作品が描けない。
自分が理想とする作品を描くことができない。
その辛さを、龍野雅空は理解していた。
彼自身も高校生になって以来、一度も満足した作品を描いたことがないのだから。
「逃げようとは思わなかったんですか? 蝶羽さんはもう巨万の富も名声もあるでしょ?」
もしも自分が蝶羽舞希と同じ立場なら——。
そう龍野雅空は考える。
もしも自分なら、さっさと芸術の世界から逃げ出してしまうのではないかと。
若くで巨万の富を築き、名誉ある功績を讃えられているのだ。
現在の地位を失脚しない間に芸術家としての人生を終わらせる。
そうしたほうが、自分の評価が決して下がらないのだから。
「やれやれ、後輩くん。キミはまだ私のことを理解していないなぁ〜」
「理解も何も分かりませんよ。天才が考えることなんて」
「私は逃げないよ。どんなことがあっても諦め切れないんだよ」
「諦め切れない……?」
「うん。登山家が言うだろ? そこに山があるから登るんだと」
それと同じことだよ。
横に座る美人なお姉さんはそう吐き捨てた。
彼女のことを知れば知るほどに、感情的な人間だなと思ってしまう。
「私はね、絵が描きたくて描きたくて仕方がないんだよ。衝動的に描きたくなるんだ!」
相手の意思など関係ない。
聞く聞かないの有無など要らない。
暴走列車の如く、彼女の口は止まらなかった。
「頭の中で新たなアイデアが次から次へと生まれて、いつでもどこでも描きたくなるんだ」
「……それは大変ですね」
「あぁ、大変だよ。もう頭の中がどれを描こうか迷いに迷って、その場でヤっちゃうんだ」
「蝶羽さんではなくて、周りの人たちがですよ」
「ただ、芸術が私を呼ぶんだ。私に描けって。私に描いてくれって」
「…………天才の気持ちはやっぱり分からないです」
龍野雅空は天才ではない。
そう自分の中で理解しているし、自負している。
故に、蝶羽舞希の気持ちなど分からない。
ただ、彼女が本気で芸術と向き合い、芸術を愛していることだけは伝わってきた。
だからさ、後輩くん。
そう呟き、彼女は両肩を掴んできた。
琥珀色の美しい瞳に見つめられ、龍野雅空は言葉を失った。
「才能があってもなくても、私は絵を描き続けるんだ」
「……………………」
蝶羽舞希の主張は最もなものだ。
才能の有無で続けるか諦めるか選ぶ。
それを決めるのは浅はかなものに感じるかもしれない。
実際、龍野雅空自身も、それが「逃げ」だとは理解している。
だが——。
「だから、俺に諦めるなと強要しているんですか?」
「強要とは失礼な。教育してるんだよ、後輩くん」
「蝶羽さんぐらいトップレベルの人間はいいですよ。描くだけで評価されますから」
「あぁ、そうだね。私ぐらいのレベルなら生み出すだけで感謝されるよ」
「そんな人間から言われても心に何も響きませんよ」
響かないとは言ったが、それは嘘だった。
蝶羽舞希の気持ちが死ぬほど理解していた。
ただ、それを素直に受け取ることができないのだ。
才能の有無など関係なく続ければ、自分が苦しむことは目に見えているのだから。
評価されない苦しみを今後も一生続く。
周りの人間が評価される中、自分だけが取り残されてしまうのだ。
才能がない自分がこれ以上傷付くのは明白なのだから。続けても無駄だと。
「腐ってる。腐りきってるね、キミの心は」
「蝶羽さんみたいに心が強い人間だけじゃないんですよ、世の中は」
「才能がないからって、その道を諦める必要はないんじゃないのかな?」
「芸術の世界は、誰かに認められないといけない。だから、俺みたいな才能なしの人間は」
「才能なし人間か。それをキミが言うのかい? あの水彩画を描いたキミが?」
あの水彩画。
それは——中学時代最後に描いた作品。
高校生になる前、丁度受験への不安や鬱憤を抱えていた頃に生み出したもの。
自分の芸術人生が最も輝いていた頃の作品で間違いない。
「蝶羽さんも見たんですか? あの佳作を」
「見たも何も、私が審査したからね。あの作品は」
「えっ……?」
「それに私が絵を描けなくなった理由は、キミのあの作品だ」
「…………ウソだ、そんなはずがない。あれは荒削りで佳作止まりで——」
「あぁ、そうだよ。キミが描いたあの作品は荒削りなままだった」
だけど、と呟き、隣に座る天才芸術家は拳を握りしめる。
太腿部分には、ズボンのシワができていた。
彼女は強い口調で言った。
「だけど、私の心を魅了するほどの情熱と作り手の魂がそこにはあった」
龍野雅空はもう覚えていない。
どんな気持ちで、あの作品を描いたのか。
何もかもを忘れて没頭していたら、いつの間にかできていたのだ。
「でも、今のキミが描く作品は空っぽなんだよ」
彼女は心配気な瞳を向けてきた。
「何かあったのかい? 心が空っぽになるほどの何か衝撃的なことが」
「本物の天才に出会った。ただそれだけの話ですよ」
龍野雅空が通う学校の美術部。
そこには二人の天才が存在するのだ。
一人は鹿森葵。もう一人は獅童啓真。
彼等に比べれば、自分が描く作品などちっぽけなものにしか感じない。
「俺はもう嫌なんですよ。これ以上天才と闘って負け続けるのは」
あの二人は何も考えていないだろう。
あの二人は芸術の才能があるから、才能がない人間の気持ちなど理解できない。
あの二人は凄いのに、アイツの作品は出来が悪いと言われたことがない奴等は。
今も、自分がなぜ芸術の世界から離れてしまったのか分からないだろう。
「才能がない人間が必死に戦う姿はカッコ悪いのかな?」
蝶羽舞希は疑問を呈してきた。
それに対して、龍野雅空は即座に言い返す。
才能がない人間代表として。
「カッコ悪いですよ。負け続けですから!!」
「私は人間として誇らしげに思うけどね」
蝶羽舞希はそう呟くと、胸ポケットからタバコを取り出した。
タバコを一度も吸ったことがない龍野雅空。
ましてや、両親も喫煙者じゃない彼にとっては未知の領域。
銘柄も全く分からなかった。
「龍野くんはタバコ無理な人?」
「俺は別に気にしません」
「それならよかった。気兼ねなく吸える」
彼女は手慣れ感じで蓋を開き、タバコを一本取り出した。
そのまま彼女はライターに火を付けながら「さっきの話に戻るけど」と呟き。
「私は誇らしいと思うよ。自分の人生を投げ捨てても、それでも描きたいものがあるという精神は。人生を捨てる覚悟がある人間しか、この境地に辿り着くことができないからね」
タバコと聞けば、嫌なニオイがする。
龍野雅空の認識ではそんな嗜好品だと思っていた。
しかし、蝶羽舞希が吸うタバコはフルーツの香りがした。
それも甘いブルーベリーのような香りが。
「才能がないからと言って、そこで諦めてしまえば、キミはただの敗北者だ」
ぷはぁ〜。
蝶羽舞希の口から放たれる煙。
それはモクモクと頭上へと浮かんでいく。
「でも、ここでもう一度頑張ろうと踏ん張れば、挑戦者にはなれるよ」
敗北者か挑戦者か。
物は言いようだ。
だが、挑戦者という呼び方は意外と悪くない。
そう龍野雅空が思っていると、蝶羽舞希がもう一度問いかけてきた。
「挑戦者であり続けることは、みっともないことなのかな?」と。
黒い稲妻は群青色の空を引き裂く 平日黒髪お姉さん @ruto7
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