第5話

「こんなことを勉強して将来役に立つのかねぇ〜」


 死ぬほど退屈な学校の授業を受けながら、龍野雅空は頬杖を付く。

 教卓で声を張る教師には大変申しわけないが、全然頭に入ってこない。

 文系か理系かと問われれば、龍野雅空は文系側の人間だ。

 特に数学は苦手中の苦手科目であり、勉強意欲さえも全く湧き上がることもない。

 世の中の大人たちは「数学は重要な科目だ」と口を揃えていうものの、具体的にどんな分野で必要なのかは誰も決して教えてくれないのだから。

 故に、少々喧しい教師の声をBGM代わりに、昨日の出来事を思い返すのであった。


『そ、そこの少年〜〜!? た、助けてくれぇ〜!?』


 昨日の放課後、学校からの帰り道で出会った不思議なお姉さんのことを。

 怪獣の着ぐるみを身に纏う彼女は、世界的に有名な天才芸術家——蝶羽舞希。

 マイペースな性格で、人様の都合などを一切考えない傍迷惑な自己中人間。


『そうだ、後輩くん——』


 そんな人間が突如として言い放った言葉。


『——手伝ってよ、私のお仕事をさ』


 どうして不甲斐ない自分をお手伝い係に任命したのかは知らん。

 ただ、普通の男子高校生が働くだけで、8万円も貰える高額バイト。

 おまけに、まかない料理さえも振る舞ってくれるという高待。

 欲しいものを手に入れたければお金が必要な貨幣社会。

 金欠気味な若い男には断れるはずもなく、お姉さんの口車に乗せられるのであった。


◇◆◇◆◇◆


「龍野くん、どこ行くの?」


 放課後の教室内で、鹿森葵から喋りかけられた。

 今日もまた美術部に来いと言われてしまうのか。


「生憎だが……俺はもう部活に行く気は」

「何言ってるの? 今日は掃除当番でしょ?」

「…………あ、はい」


 我らがクラスで定められた掃除ルール。

 毎日男女二人の生徒が掃除当番を受け持つのだ。

 と言っても、机を動かすなどの面倒な作業はない。

 ただ、ホウキで床を掃き、埃やゴミを集めるだけだ。

 時間にしては、十分程度。大雑把にやれば、五分程度で済む程度。


「龍野くんはさ、高校卒業後はどうするの?」


 鹿森葵と喋るのは胸が苦しくなる。

 彼女と喋るだけで嫌でも美術のことを想像してしまうから。

 しかし、相手は何も悪くない。無難な質問をしているのだ。

 この質問は適当に答えてやるしかないだろう。


「普通に大学行って、適当に就職するんじゃないの?」

「ふぅ〜ん。大学はやっぱり美術系?」


 茶色の短髪。目元を隠すか隠さない程度に伸びた前髪。

 その奥に潜む向日葵のように輝く瞳が興味津々で見据えてくる。

 女の子に見つめられるのが苦手な龍野雅空。

 彼は照れを隠すために目線を逸らしつつも、塵取りの中へとゴミを集める。


「……いや、無難に法学部とかに行くんじゃね?」

「えっ!! どうしてどうして!! 一緒に芸術系の道に進もうよ!」


 大きな声を出した鹿森葵。

 彼女は不思議そうな瞳を向けたまま、こちら側へと歩み寄ってくる。

 グイグイと近づいてくる彼女に、龍野雅空は背中を後方へと傾ける。

 しかし、そこまでしても、女子高校生なのに、まだあどけない表情を持つ少女は真ん丸な瞳を向けてくるのだ。

 その距離は、僅か二十センチ。

 ほんの少しだけ顔が近づけば、唇と唇が触れるのではないか。

 そんな童貞らしい妄想を繰り広げながらも、龍野雅空は頭を横にブルブルと振って。


「ちょ、ちょっと待て。鹿森……お、お前……ち、近い、近いぞ、マジで」


 男女の距離感を測れない人間が、この世には存在する。

 男子と喋るように女子と接する男性もいれば。

 女子と喋るように男子と接する女性もいるのだ。

 で、鹿森葵はそんなタイプの人間。

 距離感が無駄に近く、ボディタッチも多いのである。


「えぇ〜。だってだって、龍野くんは芸術系の道に進むだろと思ってたから」

「……あのなぁ〜。前にも言ったけど、俺は芸術の道を諦めたんだよ」

「でも好きなんでしょ? 絵を描くことが」

「…………そ、それは」


 好きか嫌いかで問われれば、好きだ。

 それは間違いではない。


「だからと言って、芸術系の大学に入る必要はないだろ?」

「えぇ〜。でも好きなんでしょ? 好きなものを突き詰めるの絶対楽しいよ!」

「俺は現実主義者なんだよ。芸術で食っていけるほど、世の中は甘くないんだよ」

「食っていける食っていけないってそんなに大切なのかな?」


 鹿森葵は口元に指先を当てながら小首を傾げる。


「大学の専攻は自分の好きに選んでいいんじゃないの?」

「高い学費を両親に払ってもらうんだ。将来的に役に立つ学問じゃないとダメだろ?」

「じゃあ、逆に聞くけど……人生の中で役に立つ学問って何なの?」

「それは……その経済学とか法学とか?」

「龍野くんはさ、経済学者や弁護士にでもなるつもり?」

「そういうわけじゃないけど……日常生活を送る上で必要じゃないか?」


 経済学部や法学部。

 名前を聞くだけで、凄そうな学問に聞こえてくる。

 将来的に役に立つそうな感じが半端ない。

 実際にテレビ番組では、経済学者や弁護士などの特殊な人間が出演している。

 だが、どんなふうにその学問が役に立つのかは分からない。


「龍野くんってさ、自分の気持ちにも正直になれないんだね」

「……何だよ、それは」

「言葉通りの意味だよ。誰かと比べてばっかりで嫌にならないのかなってさ」

「煽ってるのかよ?」

「忠告してるだけだよ。自分の好きなことも満足にできないのかってね」


 別に、と呟きながら、鹿森葵は続けて。


「強要するつもりはない。ただ、あたしは龍野くんの活躍をもっと見たいんだよ」


 結果を残した人間は調子が良い。

 自分ができたのだから、誰でもできる。

 そう本気で確信しているのだ。

 結果を残せない側の気持ちを理解することもなく。


「うざっ」


 龍野雅空は舌打ちを交じえ、ゴミ箱へと向かう。

 それから後ろを振り向かずに、ただ一言。


「ゴミ出しはお前に任せるから。じゃあな、俺はもう帰るから」


◇◆◇◆◇◆


 掛け声を上げながらもグラウンドを走る運動部の生徒たち。

 彼等は何のために必死に頑張るのだろうか。

 いつの日か、彼等はプロになれる日を夢見ているのだろうか。

 どうせ、何者にもなれないなら、その時間を他のことに費やせばいいのに。

 個人の見解を抱きながらも、龍野雅空は学校の正門を出た。

 すると——生徒の大群があった。

 学校の近くにあるバス停。

 そこに生徒たちが集まるのは当然のことだが、今回はその比ではない。

 何が起きたのか。

 そう不思議に思いつつも、龍野雅空は野次馬精神を働かせて近づいてみた。

 そこに突っ立っていたのは、大人な魅力を醸し出す年上女性の姿。


「お姉さんみたいに可愛くなりたいです。どうしたらいいですか?」

「暴飲暴食を止めて、十分な睡眠時間を取る。それから適度な運動習慣」


 あと、と呟きながらも、年上女性は続けて。


「ストレスを溜め込まないこと。自分がやりたいことをただやること!」


 胸元が強調する鼠色のニットに、バイク乗りっぽい革生地の黒ジャケット。

 下は、美脚が一目で分かる黒のスキニーパンツ。

 一言でいえば、カッコいい系のお姉さん。

 女子が憧れる大人の魅力満載な女性とでも言うのだろう。

 実際、あまりの美貌に見惚れ、女子生徒たちが集まっているのだ。

 服をどこで購入しているのか。化粧品はどこのメーカーを使っているのか。

 質問攻めを受けながらも、笑顔で対応する彼女の姿——。


「ちょっとどういうこと!! 龍野くん、あたしだけにゴミ捨てを任せるなんて」


 龍野雅空は腕を掴まれた。

 背後から息を切らして歩み寄ってきたのは、鹿森葵。

 唇を尖らせる茶髪少女はご立腹な様子だ。

 この女は一度粘着すると、いつまでも追いかけ続けてくるタイプなのだ。

 これは面倒なことになったなと思っていると——。


「お〜い、後輩くん〜!!」


 大きな声が聞こえてきた。

 この声を聞いたことがあった。

 上下関係とは無縁な人生を歩んできた龍野雅空。

 後輩くんと人様を呼ぶ者なんて、一人しか知らなかった。


「——待ってたんだよ、キミのことをさ」


 稀代の天才芸術家——蝶羽舞希。

 龍野雅空が通う高校の元在校生。

 彼女は少女たちの群れを離れ、龍野雅空の元へと駆け寄ってきた。

 突如として現れた美人なお姉さんに、鹿森葵は驚愕の表情を隠せない。


「——————っっ!!」


 それは、目の前の女性が蝶羽舞希だと認識しているからか。

 それとも、龍野雅空がこんな美しい女性と関わりを持っているからか。

 その謎は解けない。

 兎にも角にも、鹿森葵は下唇を強く結んだままに、自分よりも頭一つ分身長が高い女性を睨みつける。

 その殺意じみた眼差しに気付いたのか、蝶羽舞希も琥珀色の瞳を見開いたままに。


「もしかして、後輩くんの彼女さん?」


 鹿森葵は彼女ではない。

 同じクラスで、同じ部活の仲が良い女子生徒。

 お互いに似ている感性やセンスを持ち、相性が良いだけで。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 龍野雅空が一人でに推論を出していると、鹿森葵は断言した。


「…………彼女じゃないです。あ、あたしと龍野くんは別にそんな関係じゃ」

「それなら、後輩くんを借りてくね。それじゃあ、行こっか」


 蝶羽舞希に腕を握られる龍野雅空。

 他の生徒たちから向けられる羨望の眼差し。

 今まで人から注目を受ける生活をしたことがないので、新鮮な気分だ。

 だけど、嫌な気は全くしなかった。逆に清々しかった。

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