第3話
「……嘘だ、嘘だ……そんなの絶対に嘘だ」
見渡す限りの自然豊かな緑の環境と、上流から流れていく澄み渡った川。
九州の片田舎にあるこの辺鄙な田舎町は、それぐらいしか取り柄がない。
勿論、その取り柄さえも、他の自治体でも同じようなことが言えてしまう。
そんな何処にでもある、ただ何もない空っぽな町だった。
「ちょっと待ってよ。そんなに否定されたらお姉さんも傷つくんだけど」
と言えども——それはもう過去の話。
唯一誇れることが、この何の変哲もないど田舎に誕生したのである。
それは日本国内のみならず、世界でも活躍する天才芸術家の出身地であること。
で、その天才芸術家の名前こそが——
「嘘ですよね? 蝶羽舞希だって言うのは?」
世界で活躍する彼女が、何故こんな場所に居るのだ。
そもそも論、どうして怪獣の格好をしているのだ。
様々な思いが募り、龍野雅空は「ありえない」と呟きながら首を振った。
しかし、誰が見ても【変人】の異名が付きそうなお姉さんは言うのである。
「嘘を吐くわけがないだろ? 何の意味があるんだよ」
龍野雅空は否定したかった。
テレビや雑誌で彼女の特集を組まれたことがあった。あのときに映っていた彼女は大変可憐で、良識がある常識人というイメージがあったのだ。
言わば、それは芸能人やアイドルに「彼・彼女は一度もトイレをしたこともないし、彼氏・彼女がいるはずがないんだ!!」という一歩間違えれば、危ない思想に通じるものがある。
「私は正真正銘の蝶羽舞希だよ。それ以上でもそれ以下でもない、超天才芸術家の蝶羽舞希。それが私だよ」
蝶羽舞希。
再度、彼女の名前を聞き、龍野雅空は自分の目を疑った。国内のみならず国外でも活躍する天才芸術家の名前を聞いてしまったのだから。
芸術に足を踏み入れた者の中で、彼女の名前を知らないはずがない。彼女の才能に魅せられ、幾重の少年少女が憧れを抱いたものだ。どうやったら蝶羽舞希になれるのかと。
でも、誰もが彼女のような存在になることもなく、ただ誰の目にも映らない世界で勝手に散っていったのである。ちなみに彼女が建てたオブジェが、この町では観光スポットとなり、ドラマや映画撮影のロケ地に選ばれたこともある。
そんな雲の上の存在だと思っていた相手が、目の前にいる。
それが堪らなくおかしく感じて、龍野雅空は笑うしかなかった。
「でも、どうしてこんな場所に蝶羽さんが」
「相手の正体がわかった途端に、さん付けするのはあまりよろしくないぞ」
「……いや、本当に申し訳ないですけど、とっても有名なお方だったので」
「私は別に上下関係とか気にしないからさ。気軽に喋ろうよ、後輩くん」
後輩くん。
その呼び方通り、蝶羽舞希は龍野雅空の先輩にあたる。
龍野雅空が通う高校の卒業生なのだ。
実際に彼女は今までにも何度か母校を訪問し、大人たちに頭を下げられ、幾何学模様のオブジェを作ったこともある。アートとしての素晴らしさは詳しく分からないまでも、創造性の豊かさや発想力がズバ抜けているのが確かなものだ。
「そ、その……お姉さんは何しにここに来たんですか?」
稀代の天才と呼ばれる彼女が、こんな場所に来る理由は何もない。
その誰もが羨ましがる才能を発揮させるべきなのだ。
「仕事を頼まれたんだよ、市役所から直々にね。この町をもっと盛り上げてくれないかってね。無茶振りにもほどがあると思うだろ?」
怪獣姿のお姉さんは眉毛を僅かに上げた状態で微笑んだ。
その後、「でも」と強く呟いてから。
「まぁ〜私はこの町が好きだから、頑張ろうと思っているんだけどね」
世界の大スターになったとしても、蝶羽舞希は地元愛が強いようだ。
有名人になれば、多数の方々が地元を捨て、遥かに住みやすい土地へと移住していくのに。彼女の心はまだこの街への愛に飢えているのかもしれない。
「そもそもな話、私はこの町が大好きだ。自分が子供の頃から育った町ってのもあるけど……やっぱり嫌なんだよ。いつの日か、この町が消えてしまうことが」
詳しく話を聞いてみると——。
お姉さんの仕事は、地元を活性化させるアートを生み出すことらしい。(天才芸術家・蝶羽舞希のアートが見れる。それだけで、人々が集まると考えているらしい)
高校時代の同級生が現在地元の市役所で働いているらしく、「どうしても」と土下座までされて厄介な仕事を任されたようだ。
欺くして、蝶羽舞希という天才芸術家は凱旋し、己の魂を込めた芸術作品を生み出そうとしているらしいのだが……。
「アイデアが全然見つからないんだよねぇ〜」
天才と言えども、ただの人間である。
アイデアが思いつかなければ、どうしようもないのである。
勿論、天才と呼べる人間の中には何も考えずに、自分が思い描くままに芸術を生み出しただけで評価される方々もいることだろう。でも、それはあくまでも特殊例に過ぎない。特殊な才能を持ち、書き手のコンディションが整った上でない限り、その能力を十分に発揮することはできないだろう。
「そうだ、後輩くん」
喋りかけられた瞬間、嫌な予感がした。
逃げたほうがいいのではないか。
そんな気持ちが昂る中、蝶羽舞希は続けた。
「手伝ってよ、私のお仕事をさ」
手伝うのは別に構わないが、どうして自分がと思ってしまう。
天才と呼べる彼女が一で書いたほうが遥かにいい作品を作れるのに。
それをわざわざズブの素人が手伝ったところで、それでは彼女の芸術を十分に発揮することができないのではないか。自分のせいで彼女の芸術作品を汚してしまうのではないか。
「どうせ暇なんでしょ? エロ本探しできるほどには」
「……だから、俺がいつエロ本探ししてるんですか!!」
「人は見た目が9割と言うし、エロ本探してそうな顔だったから」
「偏見が過ぎるわ! ていうか、エロ本探してそうな顔ってなんだよ」
「毎朝君が鏡の前で見る顔だよ!」
お姉さんの流れに呑まれてはいけない。
そもそも論、自分がわざわざもう一度芸術の世界に戻る必要はない。
蝶羽舞希という天才芸術家の前で、自分には何ができるとでも言うのか。
「お姉さんが一人で書いた方がいいんじゃないですか? どうして俺も手伝わなくちゃいけないんですか? 俺には全く理解できないんですけど」
「芸術にはね、適度なストレスが必要なんだよ。わかるかな?」
「適度なストレス? 俺はストレスの権化とでも言うんですか?」
ストレスの権化呼ばわりされるのは些か気分が乗らない。
それを察したのか、お姉さんも「こほん」と咳払いを挟んでから。
「今の言い方はちょっと悪かったかも。訂正するね、君はちょうどいい刺激になるんだよ」
「刺激? この俺が?」
「そうそう。何の代わり映えのない日常ってのは退屈するだろ?」
「退屈か……」
「うん、退屈なんだよ。それに君だって、暇なんだろ? ちょっとしたバイトだと思ってよ」
「バイトねぇ〜」
呆れ声を出す龍野雅空に、蝶羽舞希は胸を張って断言する。
「私の仕事に付き合ってもらう。でも、その代わりに私が10万円あげるよ。それに、私と一緒なら食事代も全部出してあげよう。それでどうかな?」
学生にとって、金欠不足は一つの問題だ。
どんなことをするにも、兎に角、お金が必要なのだ。
恋人を作るにしても、遊ぶにしても、先立つものはお金だ。
「どうだい? どうだい? 魅力的な提案だろぉ〜? 後輩くん〜」
大人になれば、10万円なんてはした金なのかもしれない。
だが、学生にとって、特に平々凡々な家で育った男子高校生にとっては、10万円なんて大金なのである。
蝶羽舞希はこちらの方へと歩み寄ってきた。
マスカットシャインみたいな甘い香りが漂う中、お姉さんは耳元で呟く。
「後輩くん」
彼女がサキュバスである。
そう言われても納得してしまいそうなほどに、甘ったるい声で続けて。
「10万円もあれば、あん〜なことやこ〜んなことまでできちゃうよぉ〜」
龍野雅空は己と戦った。
自分のちっぽけなプライドと、学生にとっては破格のバイト代。
どちらを優先すべきなのかと。
「どうする〜? お姉さん、とっても気分屋だから、早めに決めてくれないと、この話はなかったことになっちゃうかもよ〜?」
「……や、やりま」
待て待て。
本当にそれでいいのか。
自分は芸術を諦めるのだ。もう二度と関わらないと決めたのだ。
どうせ、関わったところで辛くなるだけだから。
またしても、才能がある人間と才能がない人間の格差を感じるだけだから。
「9万円」
「えっ……?」
「お姉さん、気分屋だから……バイト代、1万円減らしちゃった」
「そ、そんな……そんな話があるわけ!!」
「あるんだよ。自分の調子がいいときだけ、仕事が回ってくるわけないでしょ?」
「それはそうですけど……」
「8万円。次は、一気に5万円まで減らすからね」
才能がないから、芸術の世界から足を背ける。
それはまだ今度でもいいじゃないか。
このバイトが終わったら、辞めればいいんじゃないか。
「乗りました!! やります!! やりますから!! これ以上は!!」
人生とは、バッターボックスの立ったときだけ、バットを振ればいいわけではない。永遠に振り続けなければならないのだ。それをしない限り、球には当たるはずがないのだから。
「後輩くん。やるなら、最初からやると言わなくちゃダメじゃん」
「……決断するのに時間がかかるんですよ」
「決断してから決めればいいんだよ、別にさ」
「えっ……?」
「最初にやると言えば、君は、今——2万円を無駄にしなかった。だけど、君はグズグズとしていたから、バイト代を2万円も減らされてしまったんだ」
人生の先輩であるお姉さんは、可愛い後輩を叱るような口振りで。
「チャンスを逃した人間に、明日はない。これだけは覚えておくといいよ」
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