2-7

 振りかぶられた腕はひどく大ぶりだった。けれどもその速さは屋代が反応できる限界値であり、そこに秘められた威力は耐久力をはるかに超える一撃である。視界の端でその動きをとらえた屋代は咄嗟に後方へ飛ぼうとするが、手に持っていた棍に足を取られてしまった。


「隙だらけ」

「ぐ、」


 淡々と粗雑な動きを指摘される屋代だったが、その言葉に返答する余裕はなかった。頬に突き刺さらんと迫るファナディアの拳に肝を冷やしながら、足を倒すことでどうにか回避する。


「次のことは考えてる?」


 が、当然そんな無茶な動きを取れば次の行動に繋がらない。慣性に従い泳いだ体を立て直そうと、片手を地面に立てて無理やり制御してみるが、そんな開ききった体勢をファナディアが見逃すはずもない。これもまたファナディアからすればゆっくりとした、けれど屋代から見れば全神経を注いでどうにか反応できる程度の速度で振り切られたつま先が腹にめり込む。


「ぉえっ!」


 止まることはできなかった。

 支えを失った屋代の肉体はファナディアの攻撃を受け入れる以外の道はなく、後ろに弾き飛ばされながら幾度となく地面を跳ねた。回転する景色、背中はもとより地面を削る顔面がひどく熱い。なんとかして動きを止めようと腕を振り回すが、土をつかめない。そのまま壁に激突するかと覚悟したが、ファナディアはそれほど優しい相手ではなかった。


「どーん」


 一瞬垣間見えた空に、ファナディアの姿が重なっていた。それの意味するところを悟った屋代は必死で足を動かし、どうにか固い地面を蹴りつけた。強引に進行方向を変えた結果、屋代の顔のすぐ真横をファナディアの靴底が通り過ぎた。派手な音、盛大な土埃。それに紛れてファナディアの不満そうな声が聞こえる。


「はぁ、はあっ」 


 自発的に地面を転がって距離を取り素早く起き上がる。握っていたはずの棍はいつの間にか手放してしまっていた。無手となった屋代だが、慣れない祭具はむしろ戦闘の邪魔になると、両手を構えた。いつファナディアが飛び掛かってきてもいいように、自らの魔法に意識を集中させる。


「はい、これ。しっかり持ってて」


 ファナディアから棍を投げ渡された。予想外の行動に面食らった屋代だったが、ファナディアから視線を外してどうにか受け止める。


「今日はそれの練習。忘れちゃダメ」

「……そうだったな。悪い」


 ファナディアの言葉に、屋代は熱くなりすぎていた頭を振り払った。いつもの訓練のように、ただがむしゃらに戦えばいいと言うわけではないのだ、武器を使いこなせるよう、とにかくその動きを体になれさせなければならない。自ら願い出た訓練の趣旨を忘れかけていた屋代は確かめるように棍を握った。


「ん、行くよ?」

「頼む!」


 宣言と同時、再び疾走してくるファナディアに、屋代は腰を落として迎撃の構えを取った。


 ◇


 白い雲が青い空を流れている。中天にはまだいささか遠い太陽が温かみのある光を降り注ぎ、遠くからはお出かけ日和だとはしゃぐ子供の声が聞こえてくる。それらの情報を五感で取得しながら、屋代は自宅の庭でぼんやり上を見上げた。


「どうしたの。もう疲れた?」

 

 庭に面した縁側に座るファナディアが小首を傾げた。


「いや、これで本当に上達してるのか分からなくてな……」


 視線を引き戻しながらつい、愚痴のような言葉を吐いてしまう。その目に映るのは、いっそ清々しささえ感じてしまうほど荒れ果てた庭の姿。数か月前までは素人なりに整備していたそこも、訓練が始まってから手を付ける暇もなく、むしろ訓練が激しくなるほど壊れていった。最近では訓練ごとに整備することも諦め、放置している状態だ。家主である白穂神は気にしなくていいと言ってくれるが、ぼろぼろになった庭を見るたび、こんな姿にしてまで行っている訓練に相応の価値はあるのかと疑問に思う日々だった。


「って、それじゃあソーサーさんに失礼だよな。悪い」


 屋代はバツの悪い顔になると前言を撤回した。

 今日は休日。島への鉱物採掘へ行く日が目前に迫っている。絡亜の勧めによって、臨時とはいえ祭具を振るう機会を得た屋代は、使いこなすべくファナディアに無理を言って訓練を付けてもらっていた。

 とはいえ。


「私の方こそ。武器を持ったことはほとんどないから、適当な助言ができない。ごめん」

 

 そう言って眦を下げるファナディアに、謝らないでくれと、首を振る。

 訓練とは名ばかり、やっていることはいつもと同じ模擬戦である。屋代もファナディアも長物、それも棍を使った武術など知らないので、どうしても我流にならざる負えなかった。今から専門の講師を探して頼むのです、と約一柱ほど気合を入れていたが、わずか数日間の付き合いでしかないものにそこまでお金と時間をかける気にも慣れず。結局、それらしいことが記載された本を数冊読んで、模擬戦を繰り返すに至った。


「初めて三日と経っていないのに、上達を望む方が間違いか」

 

 だが、島へ行く日を変えることはできない。特別な能力はないにしろ、せっかく憧れていた祭具を振るえるのだ、せめて棍を振り回しても自分にぶつけることがないようにしたい。全力で走ることさえ難しい現状を思うと、それも遠い日になりそうだが。


「………むすー」

「……………えーっと」


 思わず遠い目になっていた屋代だったが、そこでふと、注がれる視線に気づいた。

 縁側の端、屋代からは絶妙に見えにくい位置から、小さな顔が覗いている。


「し、白穂様……? どうしてそんな処から見てるんだ?」


 家主の白穂神が、ジトッとした目で屋代を見つめている。その仕草は子供のごとく愛らしいかったが、その瞳に込められた意思の強さは比べ物にならない。もの言いたげな視線に、尻が揺れる。


「………本当に行くのです?」


 座り心地を悪くした屋代が白穂神の言いたいことを必死で推測していると、やがて伝わっていないことに諦めた白穂神はため息を一つ。。いつも通り整った白の袴姿を揺らして、ファナディアのすぐ隣に歩み出た。


「はい、3日ほど留守にします。必ず進級をもぎ取って来るので、待っていてください」


 拳を握り、やる気を表現する屋代だったが、白穂神の顔は優れない。人間を超えた非生物じみた綺麗な面立ちをすぼめた。


「私が言いたいのはそうではないのです。せっかく屋代と仲良くなれたというのに、3日も家を空けるなんて……」


 目を細めて、唇を尖らた白穂神の顔にははっきり不満だと描かれていた。その寂しげな眼差しに気づいた屋代は、気まずげに頬を掻いた。

 忘れていたわけではない。しかし、失念していたことは事実だった。白穂神にとって大事なのは、屋代が成績を残すことより1秒でも長く一緒にいることだ。家族という在り方にこだわる白穂神だからこそ、家を空けることが我慢ならないのだろう。


「…………」


 どうするの? と目線で問いかけてくるファナディアに返答もままならず、難しい顔で唸ってしまう。白穂神とて、屋代の状況は把握しているはずだ。今度の採掘にいかなければ進級さえままならないということも知っているだろう。だが、元から危ない道を選んでほしくないと訴えていた白穂神のこと、むしろ行かずに別の道を探してほしいとさえ思っているかもしれない。


「あー、えっと……」


 今日になって拗ねた顔を見せたのは、祭具を扱う屋代を見て本当に留守にするのだと実感が沸いたからか。貯めこんでいた不満が漏れだした白穂神に、慰めの言葉は見つからない。


「お、お土産買ってきます!」


 結局、色々と考えた屋代の口から出たのはそんな言葉であった。出張に行く親が子供の機嫌を取るような台詞だと頭の片隅で嘆きつつ、しかし一度吐いた以上は飲み込むことも出来ない。反射的に言葉を並べた。


「白穂様が好きそうなものを買ってくるので! 何がいいですか? その地の特産品? それとも伝統工芸品とか? もしくは小粋な雑貨でも、いや、というかもう懐が許す限り全部買い占めてきますよ!」


 これまでも学校行事などで居ないことはあったが、白穂神がこのような不平を漏らしたことは一度もなかった。いや、あるいは屋代が気づかなかっただけかもしれないが、こうしてはっきりと見せてくれるのは記憶にそうない。良き義母、良き存在として屋代に頼ることがほとんどない白穂神が取ったこの態度は、ある種の甘えなのかもしれない。神に対して不敬ではあるが、家族として接してくれているようで嬉しかった。

 そうした思いもあってか、考えるよりも先に口から言葉が溢れてしまった。


「白石先生に聞いたんですが、宿泊するのは島ではなくその近くの町になるみたいなんです。だから、その、1日ごとに帰ることも出来るので心配しないでください。いえ、むしろそうした方がいいかもしれないですね。採掘の進捗状況を報告できる上に、安否確認も万全。生のお土産も腐らせずに食べることが出来ます」


 えーそれはどうなの? という呆れた目を向けてくるファナディアは見えなかった。

 もはや自分でも何を言っているのか分からない。ほとんど脊髄反射、思い浮かんだ端から飛び出していく言葉の羅列は屋代の頭を置いてきぼりにしている。実際、島の近くから帰るためには数時間はかかる。睡眠をとらなければ実現可能ではあるが、体力的にまず無理だろう。採掘どころではなくなる。

 そんなことさえ思考から消えていた屋代のてんぱり具合に、拗ねていた白穂神も馬鹿らしくなったのだろう。毒気が抜かれたように笑みを漏らした


「だから、えーっと、白穂様?」

「ふふ、そこまでしなくても大丈夫なのですよ、屋代?」


 膨れ顔から一転、微笑ましげな目となった白穂神に、じんわり汗を流していた屋代も口を閉じた。本当にこれでいいのか揺れ動く屋代の瞳に、安心させるような声がかけられる。


「申し訳ないのです。ちょっとした冗談のつもりだったのですよ。だからそんなに心配する必要はないのです」

「そ、そうなのか……?」

「当然なのです……まあ本当はもうちょっと見ていたい気もしたですが、本気で焦ってくれたので良しとするのです」


 そう言って、からかうように目を細めた神様に深い安堵の息を吐く。

「ま、まあ白穂様が良しとしてくれるなら俺は構わないが……あ、でもお土産は買ってくるから、欲しいものがあったら言ってくれ。ソーサーさんもよかったら教えておいてくれ」

「私も? わかった。考えとく」


 一瞬意外そうな顔をしたファナディアだったが、世話になった相手にはとことん礼を尽くそうとする屋代の性格を分かってきたのだろう、苦笑を浮かべながら頷いた。


「島は周囲の海域を管理する神に治められているですが、どんな場所であっても危険は付き物です。くれぐれも注意するのです」

「他の鉱物を求める職人が帰ってこなかった、っていう話も聞いてないですし、大丈夫でしょうが……」


 当然のことながら、屋代たち以外の祭具職人も採掘のため島を訪れている。ある程度人数を絞って順次採掘させているのは、おそらく危険性を低くするためだろう。全員が一度に島を訪れ鉱山を掘り返せば、まだ調査の住んでいない場所で不測の事態が起こりかねない。それを避けるため、順番という形にしたのではないか。屋代たちよりも前に採掘に赴いた職人が怪我をしたという話も聞いていないので、早々危ういことにはなるまい。

 もしもの時は魔法もある、と心の拠り所を服の上から触れた屋代に、ファナディアは忠告した。


「魔法は自由に使っても構わないけど、多用は禁物。魔力は体力がある限り生成され続けるけど、キミはの場合考えなしに使えば一気に枯渇する」

「……分かった。気を付ける」


 周囲の魔力を使用する祈相術とは違い、魔法は己の魔力によって使用する。生来その量が常人よりはるかに劣る屋代は、むやみに使うことが出来ないのだ。そこがネックだと顔を曇らせた屋代。せっかく使えるようになったのに制限があるのは痛い。

 屋代がため息を吐くと、白穂神が思い出したように口を開いた。


「そう言えば、伝え忘れていた事があったです」


 一秒前までのほほんとしていた顔が再び引き締まった。下がっていたはずの目じりが持ち上がり、心なしか睨むような目つきになっている。

 何を言われるんだと腰を引く屋代に構わず、白穂神は縁側から身を乗り出した。


「島に行くのはいいのです。それが屋代が目指す道に繋がっているのなら全力で応援もするのです。けど―――不純異性交遊だけはぜーったいに認めないのです!」

「はい?」


 屋代の目が点になった。


「普段の学校とは違う環境。見たことのない景色に胸を躍らせる二人。これまで気づかなかった魅力に惹かれて愛を芽生えさせる夜―――ダメです、ダメなのです!」


 自分で口にしながら首を大きく振る白穂神。その顔色を赤から青へとせわしなく変化させながら、絶叫する。言葉の意味を飲み込めずポカンとする屋代も構わず、自らの頭を抱えて己が想像をかき消そうともがいた。


「屋代はまだ十代、エッチなことに興味を持ってしまう年頃です。いくら白石教師が一緒にいようと過ちを起こしてしまう可能性は無きにしも非ず! 屋代を誘惑することは、天が、地が、神が許してもこの私が許さないのです! 屋代を奪いたくば私を倒してみせるのです!」

「ほへー」


 目の前に不倶戴天の敵がいるかの如く、白穂神はくわっ、と見開いた目で虚空を見つめて両腕を構えた。見るからになっていない格好だが、全身から放たれる気迫は尋常なものではない。小さな白穂神が巨人へと変貌したかのようだ。やってやるぞと言わんばかりの形相、謎に関心しているファナディア。


「そういえばそうか。男は俺一人なのか……」


 今更な事実に気づく。

 今回の引率である白石含め、島に行くのは屋代以外全員女子である。何も知らないものが見れば複数の女子を侍らせる最低野郎に見えなくもない………その実態は、屋代のほうがこき使われるだけの集まり。仲もあまりよくないなど、針の筵でしかないのだが。

 その事実を思うと喜びなど感じない。むしろ進級の件がなければ関りさえ避けたいところだ。

 白穂神が心配することは何も起きないと苦笑するが、その笑みをどうとらえたのか、白穂神の顔がぐるり、と屋代に向けられた。


「女の子に誘われても絶対に手を出してはダメなのですよ! 分かったです!?」

「りょ、了解です!」


 暴走していた時とはまた違った威圧。約束を違えればそれだけで命を刈り取られそうな迫力に、屋代は反論さえ浮かばず何度も頷いた。

 鼻を大きく膨らませる白穂神に拍手しているファナディアに釈然としないものを感じながら咳払い。


「ソーサーさん、そろそろ訓練を再開しよう」


 流した汗が蒸発し、火照っていた肉体からも熱が引いている。思っていた以上に話していたことを実感しながら、棍を振り回して感触を確かめた。時間には限りがあると急かす屋代にファナディアも立ち上がる。ちょうどその時、玄関から軽快な音が鳴った。


「ん、誰か来た?」


 ファナディアが不思議そうに振り返る。時機を外された屋代は顔を顰めながらも、服に入れていた携帯端末を見やった。そこに表示されている時刻に嘆息。


「もうこんな時間だったのか……悪い、ソーサーさん。この間話した彼女だと思う」

「私に会いたがってる人?」

「そう。迎えにいくから待っててくれ」


 断りを入れてその場を離れた。

 荒れた庭から家を周りこむような形で玄関まで行くと、木製の厳つい玄関口の前にレイアが立っているのが見えた。だが、その姿を確認した屋代は思わず足を止めた。


「アルクセイさん。その恰好は……?」


 挨拶も忘れて、屋代はまじまじとレイアを眺めた。上から下まで覆う布地、ところどころ装飾の入ったスカーフ。元は純白だったのだろう、いくつかの箇所はほつれ、洗っても落ちないほど染みついた汚れが目立つその服は、どう見ても気軽な普段着とは呼べないものだ。


「これか? 私の仕事服だ」

「なるほど……?」


 ゆったりと空気をはらむ裾をつまんだレイアに、屋代は曖昧な顔で頷いた。

 外国では聖職者、といったか。屋代と違ってレイアは神に仕えていた身だ。こうした仕事服、つまり制服を持っていてもおかしくはない。しかし、どうしてそれを着ているのか分からない。


「それより早く入れてくれないか?…………いるのだろう?」


 いささか硬い声色で促され、首を傾げていた屋代は瞬き。

 突き出した胸部のせいで一回り以上膨らんでいるように見えるレイアを招きいれた。


「一応、話は通している。ソーサーさんも特に問題ないそうだ」

「そうか……………」


 続く言葉はなかった。二歩ほど後ろを歩くレイアの顔を伺えば、緊張しているのか、いささか以上に強張っているように見えた。鋭い瞳はほとんど瞬きをせず、一点に固定された首は周囲を気にする余裕もないようだ。あるいは、神の住居という理由もあるかもしれない。こうして人を招くのは何年ぶりだろう、と頭の片隅で考えながら口を開いた。


「ソーサーさんは庭にいる。俺は席を離すけど、なんなら家の中でゆっくりしてもらっても構わない。その時は一声かけてくれ」

「…………そうか。気遣い感謝する」


 そうしてほどなく、屋代が庭に戻ると、柔軟体操のつもりか手足を伸ばしているファナディアが見えた。


「あ」

 

 追従していた足音が聞えなくなった事を訝しみ振り返ってみれば、レイアは驚愕の表情で立ち尽くしていた。


「お、おい。大丈夫か?」


 目が零れ落ちそうなほどに見開かれた瞼、強張る頬が震え、引き結ばれていたはずの唇は舌がのぞけるほど開かれている。その顔で驚きという言葉を体現したレイアに、屋代は戸惑い瞳を彷徨わせた。レイアとファナディアを交互に見やる。


「その人が私に会いたがってた人? でもその服………」


 一方で、こちらは平素とさして変わらない。ファナディアは瞼の半分降りた目で、体を硬直させたレイアを眺めた。その反応は初対面の相手に対するものであり、二人の間に何かしらの関係もないと現わすものだった。


「何だ、知り合いじゃないのか?」


 レイアの言葉から、てっきり知っているものとばかり考えていた屋代が、やや拍子抜けしたように言う。


「……うーん?」


 ファナディアが眉を寄せて唸った。

 自身の記憶をたどるように何度となく瞬きを繰り返していたが、一向に出てこないのかその口から明確な答えは返されない。だが、その態度に刺激されたのか、固まっていたレイアが起動した。


「私を覚えてないのか……?」


 愕然とした表情。

 そんなはずはないだろうと、問いかけるような視線に対して、ファナディアはさらに首をひねったものの目じりを垂れ下げた。


「ごめんなさい。どこかで会った?」

「――――――――――」


 屋代は初めて学んだ。人とは、感情が振り切れると表情が消えてしまうらしい。ストン、と。それこそ家電製品のスイッチを切るかのように一瞬で真顔になったレイアに息をのむ。思わず後ずさりした屋代に構うことなく、レイアの見開かせた瞳はファナディアだけを映していた。


「そうか、そうか……ふ、ふふ」


 怖い。ただ純粋にそう思った。

 全身の毛穴が開き、汗がとめどなく噴き出る感覚。未知のものに触れるような、あるいは幽霊などのような類いの恐怖ではない。どこまでも深く重い感情の波。直接向けられているわけでないにも関わらず、その圧力は物理的な衝撃を持っているかのように屋代の体を打ち据えた。

 澱のように溜まった怒りの感情。


「……んー?」


 それを叩きつけられているはずのファナディアは、若干の戸惑いを見せながらも揺らぐことはなかった。屋代のように強張るようなこともなく、自然体のまま、どうして怒っているのだろうと訝しむだけである。


「ふはっ、あはははは。ああ、何だろうな、これは。どう言えばいいのかも分からないな……」


 誰に向けることなく呟かれたレイアの独白。空虚な笑みと相まって、屋代の背中を怖気が走った。喜びも悲しみもない、ただ虚ろな笑声というのは、これほどまでに恐怖を喚起させるものなのか。

 感情が抜け落ちた顔で、力を失ったかのように首を曲げたレイアの言葉。


「あの日、あの場所での戦いが。私たちの決意がすべて無駄だったとでも言いたいのか? 私たちの存在は全て無意味だったのか? ああ、それなら―――死んでくれ、ファナディア・ソーサー」


 光の杭が放たれた。

 瞬きの間に生み出された黄金色の杭。人の腕ほどもあるそれが、レイアの手から射出された。遮るものが何もない庭で、無防備に立っているように見えるファナディアに向けて。銃弾並み、とは言えずとも弓矢ほどの速さでもって宙を翔け、そのまま目を見張るファナディアの胸に尖った先端を突き立てる。

 その直前に割り込んだ。


「っ!」


 反射だった。考えたわけではなく、気づけばファナディアの前に躍り出ていた。

 無意識で発動していた魔法、それがどんな魔法なのかさえ把握できないまま、遮二無二、持っていた棍で打ち払った。


「―――」


 レイアが驚愕に目を見張った。だが、実のところ屋代のほうが驚いていた。

 飛んでくる物体に、いや何らかの術を払い落とすような曲芸。昨日今日扱い始めた屋代ではまず不可能……のはずだった。しかし、まるで屋代ではない別の人間が棍を振ったかのように、金属の棒は杭をとらえることに成功した。打ち込む角度、時機。どちらも熟練の動きである。


「なんだそれは――!」


 叫びながら、レイアは黄金の杭をさらに放った。速度は変わらず、けれど一本だけだった先とは違い絶え間なく連射された杭は、絶妙に位置をずらすことで屋代がどこへ逃げても問題なく充てられるような攻撃となっていた。しかし、不意を打たれた先とは違い、屋代もまた十分に身構えていた。


「このっ」


 加えて、邪魔ものである屋代を排除しようと狙ってくれたのも助かった。背後にいるファナディアに、流れ弾ならぬ流れ杭がいかないようにだけ気を遣えばいい。全て、払い落とすだけだ。

 手、足、胴体、頭。屋代の全身にその鋭い切っ先を突き立てんと飛んでくる杭を、棍でもって迎撃していく。やはり、その動きも屋代が意識したものではない、言葉にすれば棍が勝手に動いているというべきか。まるで、いつ、どんな動きで振るえばよいのか、棍自身が屋代に教えているようだ。もちろん実際に振っているのは屋代であり、棍が動くはずもない。だが、一挙一動、杭を地面に落とすごとに、屋代の動きが矯正されていくのが分かった。


「馬鹿な! 私の術を――!?」


 レイアの愕然とした声が耳を過ぎる。

 屋代は返す言葉を探さず、両目に集中力を注いだ。己の発動した魔法に内心戸惑っていたが、ひとまずこの場においては有用であるため放置する。


「いい加減にしろ! 何のつもりだ!?」

「うるさいっ黙れぇ!」


 絶え間なく打ち続けられる杭、その全てを迎え撃つ屋代の動きが洗練されていく。屋代自身が杭をさばくのに必死過ぎて感じる暇もないが、端から見ているとそれが良く分かるだろう。杖を振るうのに邪魔な動き、足運び、腰のひねり具合から腕の力の入れ具合まで。ファナディアと訓練していたころとはもはや別人。瞬く間に素人の殻を破り、初心者の域を超えようとしている。


「っくそ、何故だ、どうして私は。お前は――」


 息を乱し、それでも手を止めようとしないレイアの呟きが聞えた。しかし、何を言いたいのかさっぱり理解できない屋代は、口を開いては辞めるよう叫ぶしかない。


「――、 止めろって言ってるだろうが!」」


 このままではらちが明かない。レイアの自制に見切りをつけた屋代は、杭が途切れた隙をついて走り寄った。


「はっ、はっ――お前こそ、私の邪魔を――!」


 息を切らせて、顔中を脂汗まみれにしながらも、アルクセイの眼光は衰えない。今すぐにでも屋代を、ファナディアを殺してやると殺気に満ちている。後先のことなど思考にないのだろう、歯をむき出しにするその形相に、屋代はなぜか泣いている子供を幻想してしまった。


「っっああああああ!」


 魔力によって強化された脚力でもって、レイアへと肉薄する。開いていた距離を一足で詰める屋代に対し、アルクセイもその手から杭を放ち続けるが、その勢いは減衰していた。乱れた息が術の行使を邪魔し、疲労に震える腕が上手く狙いを定めさせていない。それでもがむしゃらに足掻く姿を、屋代は見開いた目でとらえた。

 頭に当たりそうな杭を落とし、脇を通り過ぎようとするものは上にはね上げる。足元に来れば飛んで避け、前に行くことを辞めはしない。


「私は――」


 レイアの独白。それを最後まで言わせず、屋代はその眼前に棍を突きつけた。


「やめろ。これ以上動けば棍で殴るぞ?」

「………………」


 流石にこの距離では何もできないのか、レイアが悔し気に歯ぎしりした。きっ、と睨みつけてくる視線は屋代を射殺さんばかりだったが、やはりどこか弱弱しさを感じさせた。握りしめた拳を震わせながらも動きを止めたレイアに、屋代もひとまず息を吐いた。


「な、な、な、」


 と、それまで唖然と見ていた白穂神が再起動を果たした。


「な、なにが起こったのです!? 屋代のお友達が来たのかと思ったらいきなり光って、そうかと思えば今度は屋代がとっっっても早く動いて気づけばかっこよく決めていたのです!」

「―――………」」


 白穂神の存在に気づいていなかったのか。レイアが息を漏らした。敵意が薄くなり、尖っていた目も若干和らいだ。


「とにかく何故なのか理由はさっぱりなのですが、喧嘩はよくないのです! 二人とも、そこになおるのです! これから人との関係や大切さをじっくり教えてあげるのです!」

「え、俺も?」


 白穂神の言葉に思わず振り返った屋代、どこか的外れな台詞でもって争いはやめるよう訴える白穂神。そんな二人の反応にレイアは何も言わず、静かに目を細めた。そうして踵を返す。


「あ、おいっ?」

「――――――………」


 一度だけ振り返られた。レイアの目が屋代の後方、未だ自分が襲われた理由を分かっていないファナディアに向けられた。きょとんとした顔で首を傾げるその姿に、レイアは瞼を閉じると、屋代と白穂神を一瞥して去ってしまった。


「何だったんだ……」


 最後まで一言もなく帰ってしまった。

 一切の干渉を拒むかのような背中を、襲われたはずの屋代たちは唖然と見送った。

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