2-1
「それにしても、どうして教えてくれなかったんですか。防人学科のこと」
澄んだ青色が空を彩っている。雲は一つもなく、星の先まで見通せるのではと思えるほど、どこまでも広がっていた。
「もう少し早く教えてくれれば退学届なんて書かずに済んだのに」
遠くから鳥の鳴き声が聞こえてくる。子供のささやき程度の小さな声が拾えるほどに、あたりは静けさで満ちていた。
朝も早い時間。日が昇りだす頃合い。ほんのさっきまで世界を覆っていた暗闇が取り払われ、代わりに地平線の彼方から顔を出したのは暖かさを覚えさせる太陽である。夏と違って過ごしやすい時期だとしみじみ思う屋代の耳に、困ったような声が届いた。
「それについては申し訳ないのです。立場上、屋代に直接いうことは憚られていたです」
少女、いや、それよりも幼い幼女特有の高い声色。けれどその喋り口調は幼女のものではなく、どこか老人を思わせる落ち着いたものであった。
「でも屋代も悪いのです。私に黙って退学届を用意するなんて。聞かされた時は驚きすぎて椅子から飛びあがってしまったのです」
と、一瞬後にはその声通り子供のような拗ねた台詞。屋代の位置から見えないが、きっと唇を突き出して膨れ面をしているだろう。その様子が手に取るように分かった屋代は、バツの悪さを誤魔化すために曖昧な笑いを浮かべた。
「まあ、お互いまだまだ話し合いの余地があるということで………許してください、白穂様」
「ふふん、許してあげるのです。寛大な母に感謝するのですよ? 愛息子」
どこか冗談めかした言葉。そこに含まれた喜びの感情を聞き取り、屋代も頬を緩ませる。
白穂神。屋代が慕い、仕えることを至上とする神様。神としての記憶を失っており、自らが司る事物さえ忘却したため権能さえ振るうことができない落ちこぼれの神様。しかし、当人は気にした様子もほとんどなく、普段は引き取った屋代を養うため国立神職養成学校の校長として仕事に勤しむ、おそらく世界中を見渡しても一柱しかいないだろう変わった神様だ。
「感謝はいつもしてます、って」
そうして何より大事なこととして、彼女が屋代の義母であるという事実。親に捨てられた屋代を救い、この年になるまで育ててくれた。少し前までは恩人であり生涯かけて返すべき存在という認識であったが、とあるきっかけもあって、その関係性に変化が生じていた。
「よろしいのです。今日は屋代の大好きな鯖サンドを作ってあるので、なるべく早く終わらせて来るのですよ?」
「はい、ありがとうございます」
言葉遣いこそあまり変わらないが随分とくだけた態度をとるようになった。以前であれば考えられない、それこそ大恩人に何という言葉だと屋代自身が自罰的になっていただろうが、今では軽い冗談を口にできるようになっていた。その気安さが嬉しいのか、ここ最近の白穂神はどこか浮足立っているように見えた。
それは自分も同じかと、家族というものに苦しめられてきた屋代にとっても新鮮な言葉のやり取りに胸を弾ませていると、ふと、顔に影が差した。
「いつまで倒れてるの? 早く起きて。次の組手は魔法ありでいい」
地面に仰向けに倒れている屋代の上から、白穂神とは別の声が落ちてくる。逆光になっているからか目鼻立ちが判別できないその人の顔に、屋代はそっと目を細めた。
「ここまで痛めつけてくれたのはソーサーさんだと思うんだが……」
五体を投げだす屋代は、激痛の走る手足を意識して顔を顰めた。骨こそ折れてはいないだろうが、罅くらい入っていそうだ。起き上がることさえ困難な体にした張本人は、そんな屋代の恨めしい視線などどこ吹く風とばかり受け流した。
「それくらいで文句言わない。私と同じ魔法使いになったからには、その程度の怪我なんてすぐに直る。キミも実感しているはず」
「それはそうだが……」
治るからといってどれだけ怪我を負わせても構わない、とはならないだろう。そんな文句を口の中で転がしているうちにも、屋代の全身に力が入りだすのが分かった。数秒前まで指先を動かすだけでも痛みが走っていたはずが、嘘のように感じなくなっている。揺れるだけで鈍痛を発していたあばら骨が何度か呼吸をしただけで修復された。それまでの傷や痛みが拭い去られるように掻き消え、あとに残ったのは全身から発する汗の感触のみとなった。
「痛いものは痛いんだぞ…」
皮膚が切れれば血が出るし、殴られれば青あざも出来る。骨が折れれば悶絶するし、内臓が破裂した瞬間など死を覚悟したほどだ。精神的な痛みこそ経験してきたが、肉体的な意味での怪我はほとんどなかった屋代にとって、それら激痛の日々は耐え難いものであった。それこそ、こうして肉体が直ってくれなければ絶対に御免被りたいところだ。
「これ以上の怪我はすでに経験済み。何も問題ない」
「もしかしてあれも数えてないか? あの時は頭が振り切れていたというかなんというか、ちょっとおかしくなっていたんだよ」
ファナディアの指摘に、屋代は複雑な顔となって首を振った。
魔法使いとなったその時、屋代は重傷を負っていた。放置していれば数分で確実に死ぬだろう、死の淵から半歩以上はみ出てしまっていた。その時の痛みを思い出し、無意識に胸の真ん中を指でなぞる。皮膚の下、肉をさらに割って中の心臓に根を降ろしているだろう、植物の種を意識する。
「魔法使いになった以上、半端は許さない。十全に魔法を使いこなせる立派な魔法使いにする」
むん、と平らな胸を張ったファナディアに、ため息を吐き出したくなるのを堪えた。
「だから、俺は神職、じゃないな。防人になるんだって、言ってるだろ」
立ち上がりながら、全身に着いた草や泥を叩き落とす。
髪の毛の間に入り込んだ土の感触が何とも言えずむずがゆい。
「構えて。構えないならそのまま殴る」
「それはもうただの暴力じゃないか…?」
瞼を半分おろしている、屋代の見慣れた表情のまま両手を構えたファナディアに嘘はない。このまま屋代が棒立ちになっていればサンドバック代わりとして使うことだろう。素面のファナディアに少しばかり気圧されながら、屋代もまた半身となった。
「魔法を使っていいんだな?」
「うん。じゃないとこの組手に意味がない」
ファナディアの返答に躊躇いはなかった。屋代を侮っているのではなく、単純な力量差を見抜いているからこその発言。己の実力を確信している者だけが持つ凄み。屋代が魔法を使っても制することは可能であるという自信の表れだ。やる気も伺えない顔のわりに容赦ない言葉、屋代は顔を歪めつつも手の中に刃を生み出した。
「……鎌」
すっ、と、音もなく発現する魔法。握るのは剣の柄とそこから伸びる、死の神様が持つと言われている鎌に酷似した刃。前方に湾曲する片刃が屋代の顔を映した。
2度3度と、重さのない感触だけの刃を確かめるようにその場で振る。剣術など習ったことがないため、柄をどう握ることが正解なのか、刃をどのように振り下ろせばよいのかまるで分っていない。ひとまず重みがないのをいいことに、適当な構えをとって見せた。
「…………」
自宅の、より正確には白穂神の家だが、庭においてファナディアと対峙する。端くれとはいえ神が住む場所だけあって、その庭も十分な広さがあった。とはいえ、まさか組手など想定されておらず、綺麗に整えられていた地面はあちこちが捲られ荒れ果てていた。飾っていた花々は一カ所に避難させているので問題ないだろうが、動きが激しく成ればその限りではない。かといって全力で立ち向かわなければ嬲られるだけの時間となるので、軽いジレンマだ
「っし、行くぞ!」
せめてこれ以上庭が壊れませんように。
絶対に無理だと分かり切っていることを最後に願い、屋代はファナディアに突撃した。
――――――この組手という名の一方的な苛めが始まったのは、屋代が神を止めた事件の後のことだった。
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