1-4

 未来の神職を担う子供を育てる教育機関とはいえ、何も神職に関わる授業だけを行うわけではない。数学、化学、現代国語、古典。およそ一般の高等学校で教わる知識も叩き込まれる。これは、学生たちに神職のみの一本道を示すのでなく、多くの選択肢を選べるようにという考えであり、また、神職とて神に関わる知識のみ持っていればよいわけではないことを現わしていた。

 だが、もちろんこの学校特有の授業もある。その代表的な一つが祈相術の授業だろう。一定の動作、祝詞。それらを組み合わせた舞を踊ることで様々な現象を操る、神の権能を模した人の術。神職にとって重要な要素を占めるその授業を前に、屋代は唇をひん曲げてぼやいた。


「……何の辱めだよ、これ」


 素足から伝わってくる床の冷たさに身震いしながら、軽く息を吐く。

 暖房器具などない、綺麗に磨かれた板張りの道場は冬が近づく季節に在ってひんやりとした空気に包まれていた。1人ひとりが十分に踊れるだけの広さを確保するためだろう、道場は広く、同時に百人は入れるほどの余裕を持っていた。静謐な空間と冷たい空気が合わさり、一種の厳格な雰囲気を醸し出す中にあって、学生はめいめい暖を取ろうと体をほぐしている。


「はぁぁぁぁ」


 簡易な袴に着替えた屋代もまた、その生徒たちに混じって柔軟を行っていた。瓦礫の中を走り回ったこともある屋代にとって、この中で踊ることは大した問題にならない。でこぼこと荒れた地面に加えて障害物が散乱している状況に比べれば、歪み一つない床など躓く要素は皆無だ。しかし、別の意味で屋代の気は重かった。


「俺は術を使えないんだって……」


 ざわめく生徒たちの中で、屋代の愚痴は誰にも聞こえず溶けて消える。

 白石にも話したが、屋代は術を使えなくなった。代わりとして扱えるようになった魔法は、祈相術のような舞を必要とせず、屋代が思い描けば即座に発動してくれる便利なものだ。舞の練習をしたところで柔軟体操以上の効果を発揮しない。つまり、この授業を受ける意味がほとんどない。加えて言えば、万が一にも皆の前で踊らされた日には、対外的に術が使えるようになった屋代が、やっぱり使えないのだと嘲られることになる。想像するだけで腹が痛い。


「…………」


 一瞬、ほんのわずかだか見学に回してもらおうかという思考がよぎった。ほら吹きだと見下されて、まあ、事実として嘘なのだが、それでも使えないと馬鹿にされるより、体の調子が悪いと授業を回避した方がいいのでは、と。

 だが、すぐさま首を振って邪な考えを払い落とした。この学校には白穂神に頼んで通わせてもらっているのだ。退学予定とはいえ、それはあまりに不義理というもの。自分の現状を誤魔化そうとする行為自体許せるものではなかった。


「仕方がない」


 せめて授業内容が舞の披露などにならないことを祈るしかない。ここにはいない自らが奉じる神様に心の中で念じつつ、屋代はぐるりと首を回した。


「それにしても、やけに人が多いな」


 道場に集まった学生の数に訝しむ。明らかに見覚えのない同学年らしき少年少女の姿も散見される。どういう事だと首を傾げると、横合いから答えが返ってきた。


「知らないの? 今日の授業は隣のクラスと合同でやるそうよ」

「合同? なんでまた……」


 屋代と同じ袴姿の波嬢の言葉に瞬きする。

 動くのに邪魔なのだろう、赤みがかった長髪を縛ったことで可愛い面立ちを前面に晒した波嬢は、尊大な仕草で腰に手を当てた。


「教師の数が足りないみたいね。この前の事件で一気に人手不足になったみたいよ。ま、辞めてった奴らに比べればしょうがないことなんでしょうけど」


 そう言って鼻から息を吐き出した波嬢に、屋代はなるほどと頷いた。

 先の事件で被害にあったのは、生徒だけではない。当時白穂神を攫うにあたり、学校を襲撃した先代校長。その凶行に巻き込まれた教師たちもまた、多くが傷つき重傷を負ったのだ。祈相術、神職関連の教職員でないものが大半だったこともあり、ろくな抵抗も出来なかった彼らは今も病院で治療中だという。おかげで教師の数は激減、授業内容の見直しや変更を余儀なくされた。そのあおりを受けての、今回の合同授業なのだろう。


「校舎が無傷だったのは不幸中の幸いね。おかげで授業が再開されるのは早かったし」

「……だな」


 多くの人を容赦なく傷つけた事件であったが、その中で校舎にはほとんど損傷がなかった。少し整えればすぐにでも使える程度の、ほんの小さな破損に過ぎなかったのだ。あるいはそれは、事件を起こした男の最後の未練だったのかもしれない。


「今から授業を始める。全員、こちらに注目!」


 白石ではない、初めて見る男性教師が声を張り上げた。別の組が混ざっていることを考慮したのか、整列は特にさせず、その場から自らに視線を集めさせた。


「白石先生は他の授業で忙しいため、本日は私が代行することになった。不満があるだろうが、そこは我慢してほしい」


 定型的な台詞を皆が聞き流す中、波嬢が忍び笑いを漏らした。


「授業で忙しい、って……くく」

「耳に聞こえてきそうだな」


 いや私は祈相術担当なんで他の授業なんてとても面倒、いえ手に余るんでいや本当に。

 屋代と波嬢、二人の頭に、必死に面倒ごとを回避しようとする白石の顔がよぎった。


「すまないが我々も忙しく、引き継ぎも上手くいっていない状況だ。なので今回は、これまで教わった祈相術、その舞の型の復習だ」

「なによ。新しい型は教えてくれないの?」


 不満を口に出したのは波嬢だけだが、それは一定の生徒も同意見のようだ。顔を顰める者もいれば、への字に口を曲げる者もいる。今この学校に残っているのは、理由は様々であれど巫女、神薙になるという志を同じくする生徒たちだ。向上心は常に抱いている。祈相術を学ぶという意味では意欲的なのだ

 もちろん、中にはどうでもいいと言いたげな者もいる。こちらは、実家が神職に近しい者だ。生まれた頃から神様と関わり、家の方針から神職になることを義務付けられてきた者らの反応。幼いころから実家で携わっていたからか、今更な授業に退屈しているようだった。


「これならどうにかなりそうだな」


 なるべく目立たない場所で静かにしていよう。そうすれば、注目されることなく授業を終えられる。

 嘘をつき続けなければならないことにしこりを残しながらもほっ、と安堵していると、男性教師の声が再度かかった。


「それでは各自、柔軟運動行ったのち、二人一組を作るように。しっかりと相手の型を観察し、どこが間違っているのか、また手順に誤りはないか指摘しあうんだ」

「げ」


 汗がまた噴き出した。ペアを作ってしまえば、しかも評価するなどされれば術を使えないことが一瞬で発覚してしまう。そんな事態を避けたかった屋代にとって最悪の形態である。

 しかも。


「ふ~ん、ちょうどいいわね。使えるようになったっていう祈相術を見られるいい機会じゃない」


 隣からそんな不吉な言葉をいただいてしまう。

 表情筋を固めた屋代に、コチラは自信ありげな波嬢。唇の端を吊り上げた挑戦的な笑みだ。


「なんなら神様を止めたっていう噂の祈相術でもいいのよ?」

「い、いや。あれは、その、色々と危ない……」


 ふーん、と興味津々に瞳を輝かせる波嬢から、目を逸らしたのは仕方がないことだった。


「つ、使うか……?」


 それしかないかもしれない。屋代が、本当は魔法しか使えないことを知っているわけではないはずだ。波嬢は純粋に興味を持って言っているのだろう。それを裏切るような真似はいくらなんでも出来ない。適当な舞でお茶を濁したいところだが、そうした誤魔化しが通じる相手でもなく、またそんなことをしてしまえば波嬢に軽蔑されかねなかった。


「楽しみね~。どんな祈相術を見せてくれるのかしら」


 道場の中は冷えている。なのに、滝のような汗が止まらない。

 期待に笑う波嬢に、もはやこれまでかと諦めかける。


「済まない、少しいいだろうか?」

「――もちろん、何ですか?」


 その救いの声に、屋代は瞬時に反応した。顔に喜色を浮かべてしまったのは仕方がないことだ。

 相手も確認せず振り向いた屋代は、そこに立つ少女に視点を合わせた。美しい少女だった。年頃は屋代と変わらないはずなのに、背筋が通っているためか、ともすれば年上のように見える。屋代たちと少し面立ちが異なっていたが、それは少女の美しさを損なうようなものではなく、結いあげた白銀の髪と意思の強そうな太い眉と合って少女の魅力を引き上げている。そうして、何より目を奪われるのは。


「っ、」


 でかい。女性にのみ存在する母性の象徴。まるでそこだけ突き出ているような、見る者すべてを魅了せんばかりに存在を主張している。本来は体を締め付ける服が意味を成していない。そんな圧迫感などないにも等しいと、余裕を浮かべているみたいだ。


「………なによ?」

「いや、なんでも」


 何とはなしに波嬢に目が移ってしまった。そこにある、大きくもなければ小さくもない、ごく平均的な胸に何も言うことなく顔を背けた。波嬢から放たれた殺人も辞さない凶悪な光に怖気づいたわけではない。

 屋代は意識して少女の顔を見やった。


「な、何か用か? えっと……」


 そこで、少女に見覚えがないことに首を傾げる。もちろん屋代も全校生徒を把握して仲良し、などということはないが、それでも髪と胸という、特徴的すぎる相手。直接相対しなくても見かけるだけで記憶に残りそうなものだが。

 屋代の困惑に気づいたのか。少女が片方の眉を軽く上げた。


「私を知らないか?」

「え、まあ……え、もしかして知ってないと拙い方?」


 神様関連の人? もしくは国の重要人物?

 屋代の心中に焦燥が湧き出てくる。神職になることだけに人生を費やしてきたためか、どうにも一般常識というか、その関係知識に疎いという自覚はあったが、まさか目の前の少女は知っていて当たり前、むしろ知らないと国民性を疑われるような人間なのだろうか。

 屋代では話すことさえ憚られる最重要人物かもしれないと、混乱しだした頭が妙な思考を繰り返す。


「いや、そういうわけでは……済まない、少々過敏になってしまっていたらしい」


 だが、どうにもそうではないようだ。眦を下げ雰囲気を和らげる少女に、屋代もよかったと安堵した。もっともこちらは、自分の知識が欠如しているという事実が露見せずに済んだが故にだ。


「アンタを知らない人間はこいつくらいのものよ、英雄さん?」

「なんだ海浪、知ってるのか?」

「むしろ神職に成ろうってやつがどうして知らないのよ」


 呆れた視線を向けられた。やはり、知っていないと拙いような相手だったか? 

 波嬢のジト目に狼狽える屋代だったが、当の少女は緩めた雰囲気を一転させ、硬く強張った顔をした。


「……私をそれ呼ばわりしないでほしい」

「ふ~ん? アンタの功績を知ってるなら誰もがそう呼ぶと思うけど……まあいいわ。それで、出てくるのは随分久しぶりみたいだけど、何か用なの?」


 え、結局凄い人なの? それとも一般人なの?

 答えのないまま流されてしまった話題に屋代が肩を落とす横で、波譲が問うた。


「………ああ、そこの彼にペアを組んでほしいと頼みに来たのだが、もうすでに組んでいるのか?」

「そうだけど……」


 波嬢の答えに、少女は困ったように眉を下げた。どうにも感情を隠すことが下手なようで、太い眉が上下する姿は愛嬌さえあった。


「組むだけなら、他にも生徒はいるだろ。そいつ等じゃダメか?」


 生徒の数は多い。屋代にこだわらなくても余っている者はいるはずだ。屋代はそう口にしながら、あたりを見渡した。


「ダメ、ということでもない。しかし……」


 少女が言いよどむ。その理由が分からず瞬きを繰り返す屋代とは別に、思い当たる節があったのか波嬢は軽く肩をすくめた。


「ま、組んでくれる相手は少ないでしょうね」

「…………」


 どういう意味だと、そう屋代が尋ねるより先に反応があった。ほとんどの生徒が二人組を作っている中、お互いに様子を探りあっていた残りの生徒たちが少女を見て、あからさまに避ける態度をとったのだ。まるで火に近づきすぎた虫のように、光に誘われておびき寄せられはするが、それが己を殺しうるほど凶悪な存在だったと認識した瞬時の判断。皆が皆、どこか気まずげに顔を背けた。


「それなら三人で組もう。先生も特に言ってくる様子もないし。な?」

「………いいのか?」「しょうがないわね……」


 波嬢も仕方ないと頷いた。安心したように礼を述べる少女を加え、周りの生徒たちから距離をとる。祈相術には舞が基本だ。一年の後半にもなって、近くの他者にぶつかるような真似はしないが。踊るのに夢中になりすぎて周囲の確認を疎かにしてしまうこともある。事前に空いている場所を確保しておきたい。


「で、誰から踊るの? なんなら英雄、は嫌なのよね。えーと、」

「レイヤ。レイヤ・アルクセイだ。それ以外なら好きに呼んで構わない」

「そ、ならアルクセイさん。アンタが先にやる? 使う術を見てみたいのだけど」


 波嬢の言葉に、屋代は頭の中を疑問符でいっぱいにした。レイヤ・アルクセイと名乗った少女に水を向けた波嬢の言い方は、まるで自分たちが知らない祈相術を彼女が知っているかのようだ。見かけない髪色と顔立ちといい、アルクセイはこの国の生まれではないのかもしれない。何かしら事情を知っていそうな波嬢に説明を求めたいところだったが、本人が目の前にいるのに話を振る気はしなかった。

 唇を動かしながら言葉を吐き出しかねる屋代の前で、その当人は首を傾げた。


「期待しているところ済まないが、今日の授業は型の確認が主だろう。それにこんな狭い場所で術など使ってみろ。瞬く間に大惨事になるぞ?」

「あ、」


 珍しく、波嬢がきょとんとした顔をした。口を開けて目を見開いた様は、彼女が本当にその点を見落としていたことを現わしていた。


「そ、そうだったかしら。わ、悪かったわね。ちょっと勘違いしてたみたい」

「おぉ」


 頬を赤く染めて、若干早口になった波嬢が瞳を泳がせている。普段の強気な態度が崩れ、その奥に潜んでいる少女らしい慌てように、屋代は思わず息を吐いてしまった。何と表現すべきか分からないが、妙に心を動かされる顔をしている………ちなみに、屋代も指摘された点に気づいてなかった。舞を踊ることと、祈相術を発動させることが連結されていたためだ。型の確認だけなら術が発動しないことも不自然ではない。魔法のことを誤魔化せると、胸を撫でおろした。


「それで、どうする? アルクセイさんが先にやるのか? よく知らないが、何か凄い人なんだろ? だったらむしろ型を見てもらった方がいいんじゃないか?」

「そ、そうね。そうしましょう。初めはアタシから行くわ」


 何の気ない屋代の発言に、頭に上った血を下げようとしていた波嬢が乗った。

 屋代たち二人からさらに距離を取り、踊っても問題ない空間を確保する。まだ赤みの残る頬を両手で揉み解した波嬢は、鼓動の早くなった心臓を落ち着けるため深呼吸。数度ののち、開いた目からは動揺が抜けていた。

 後ろに下がった屋代とレイアが見守る中、波嬢が構えをとる。真剣な目つきで誰もいない中空を睨み、一つ、息を吸い込んだ。


「ふー―――」


 始まるのは舞。名を炎灯の型。視覚範囲内の対象物を火種として、対象物そのものから発火させるという、術としてはかなり強力な代物だ。当然、相応の型が用意されており、そのすべてを舞い踊るのは難しいといわれる。今回は術として発動させず最後まで踊るわけではないが、それでも要求される動きはかなりのものになるはずだ。

 唾を飲み込んだ屋代は、波嬢がどう舞うのかじっと見つめた。


「―――」


 まっすぐな足さばき。柔らかな手つき。力強いわけではなく、鋭いわけでもない。かといって目立つような悪い部分があるわけでもなかった。あえて言うのであれば。


「………舞だな」


 アルクセイが何とも言い難い顔で呟いた。特別に優れているのであれば驚くだろう、舞にもなっていない動きであれば指摘できただろう。しかし、波嬢の動きはどれも平均的なものだった。腰のひねりにキレがない。肩の動きが意識されていない。顔の向きが少しズレている。だが、型からはみ出てもいない。どこまでも平凡、特別に優れた部分が見いだせない。


「くっっ」


 苦悩を漏らしながらも必死の形相で息継ぎする波嬢も、そんな己を自覚しているのか歯を食いしばって足を交差させる。横に回転させた体を強引に立て直したため、揺れた上半身がさらに舞全体の完成度を下げてしまう。

 素質が、才能が圧倒的に不足していた。流堂であれば型の中により荒々しさを。征徒なら正確な動きの中にも不動の念が垣間見える。しかし、波嬢の舞からは何も見えてこない。かけた時間だけならば誰にも負けないが、あと1歩も2歩も何かが足りないどこまでも平凡な舞であった。


「…………綺麗だな」


 だが、屋代は目を逸らさない。神職にはなれないと退学届まで準備しておきながら、努力によってここまで頑張ってきた波嬢に感化される。指先が疼き、今すぐ自分も舞いたいと訴えてくる。 


「……ん、んん」「?」


 聞こえてきた咳払いに誘われて屋代は隣に目をやった。


「き、キミに一つ尋ねたいことがあるのだが、今いいだろうか?」

「俺に? まあ、いいけど」


 波嬢の舞はまだ続いている。激しく体を使い舞は数分で彼女に汗を流させていた。他にも多くの生徒が踊り、あるいは荒く息を吐く音、踊り切った者への評価を下す生徒の声が周囲に満ちている。誰にも聞かれないよう、アルクセイのひそめた声に屋代は瞬きした。


「……………」


 訊きたいことがある、といったわりに、アルクセイはなかなか次を話そうとしなかった。屋代が不思議に思い彼女の顔を見れば、その口は開かれ、しかし言葉を発することなく閉じられた。強張ったその顔からは迷いや緊張が伝わってくる。そこに、ほんの少しの。

 恐怖?


「キミは、つい最近一人の女性と街を歩い居ていただろうか?」

「街を? いや、そんな覚えは」


 ない、と答えようとした己の口を強制的に停止させる。


「あー、まあ、女性というか少女というか。確かに街を案内したな。それがどうした?」


 屋代を魔法使いへと作り替えた少女。最近になってこの国に来たという彼女へお礼代わりに街を案内したことは記憶に新しい。


「そうか……その子がどんな少女か教えてもらえないだろうか?」

「ん? ソーサーさんのことを? 俺が知っていることはほとんどないぞ?」


 だから教えられることはないと答えた屋代だったが、レイアにはむしろ最大の情報だったようだ。彼女、ファナディア・ソーサーの名を出した瞬間、レイアの瞳が大きく見開かれた。波嬢の踊りを眺めていた時とは比べ物にならないほどの驚愕を現わした。


「や、やはり彼女はファナディア・ソーサーなんだな? 何というか、常に眠たげな眼で茶色の髪をした女に間違いないんだなっ?」

「あ、ああ。そうだが。もしかして知り合いなのか?」


 さっきまでの落ち着いた雰囲気を豹変させたレイアに詰め寄られ、後ずさりしながらも両手を上げた。並べられた外見的特徴はファナディアのものと一致している。あの日、街を案内していたところを見られていたのは間違いないだろう。


「やはりそうか、あの女がこの国に………!」


 が、屋代の疑問が届いていないのか、レイアは独り呟くと沈黙してしまった。どうにもファナディアのことを知っている風である。まあ、ファナディアの詳しい来歴など知らないのでそういうこともあるだろうが、しかし、どうにもただの知り合いと呼ぶには複雑のようだ。


「興奮して済まなかった。訊きたいことはそれだけだ……」


 レイアはそう言うが、それにしては言いたげな顔である。眉を困らせ、小さく体を震わせる姿は言葉を我慢する子供のようだ。とはいえ、本人がこれ以上聞くことはないといっているだけに、屋代も突っ込んで尋ねづらかった。それに、ファナディアのことについてこれ以上話すことはなく、万が一にも魔法関係の情報を訊かれようものなら墓穴を掘りかねない。首筋に手を当ててぐるりと首を回す。


「……いや、一つだけあったか。あの女がこの国に来た理由を知っているか?」

「ん? そういえば聞いたことなかったな……」


 指摘されて屋代は自分でも尋ねたことがなかったと思い返す。命を助けられた恩人ではあるが、ファナディアとそれほど深い付き合いがあるわけではないのだ。そこまで込み入った話をしたことはないし、そも、理由自体にも興味がない。ゆえに、何かの機会でもない限り屋代から訊くことはないだろう。

 屋代のぞんざいな返答に肩透かしを食らったのか、レイアは気の抜けた顔になった。


「そうか……いや、答えてくれて礼を言う。申し訳ないが私はここで失礼する。彼女には素晴らしい舞だったと伝えてほしい」


 そう言って、くるりと踵を返した。


「は? まだ授業の途中――」「では」「あ、おい――」


 屋代の声がむなしく響く。

 咄嗟に出た手が呼び止める暇もなく、レイアは振り返りもせず道場を歩き去ってしまった。背筋を伸ばしながらも足早に去っていくその背が瞬く間に小さくなり、やがて屋代の視界から消えてしまった。何も掴めず宙に差し出したままの腕を揺らしながら、屋代はぽかんと口を開いた。


「え、本当に返った……?」


 これには屋代も唖然としてしまう。

 体調が悪くなった? 気分が優れない? それとも屋代が何かしてしまったのか? レイアが退席した理由を頭の中で模索する。きっかけとなったのは、ファナディアのことだろう。だが、それがどう結びついて帰ることになったのかまるで想像できない。


「ふぅー。っと、どうだった、アタシの舞は―――って、アルクセイさんは?」


 そこに、舞を終えた波嬢が歩み寄ってきた。かすかに上気する体温、全力でやり遂げた者だけが浮かべられる満たされた笑み。そんな彼女にどういうべきか迷った屋代は、うまく伝えることは諦めてありのまま言うことにした。


「悪い、急用かなにかは知らないが彼女は帰った。けど、波嬢の舞は素晴らしかったって言ってたぞ」

「はあ? 帰ったぁ?」


 笑顔から一転、波嬢の顔に青筋が浮かぶ。その急激な変化に既視感を覚えつつ、屋代は首を頷かせた。自分で言っておいてなんだが、やはりあまりに唐突な状況変化についていけない。何か落ち度があったのではないかと、脳内で自らの言動を再現する。


「はん、なによ。やっぱり何も変わってなかったってことね。相変わらず身分を鼻にかけた嫌な奴」

「相変わらず?」


 自己問答を繰り返していた屋代は、波嬢の台詞に意識を引き戻された。


「……そういえば、アンタ何も知らなかったわね。アルクセイは英雄って呼ばれてるのよ」


 そうして波嬢が語り始めた内容は、およそ現代のこととは思えない話だった。


「アンタも薄々気づいていたでしょうけど、アルクセイはこの国の出身じゃない。別の国で司祭として働いてたそうよ」

「司祭? それって、俺たちでいうところの神職のことだよな? まさか資格持ち?」 


 屋代の顔が驚きに歪む。この学校に通う生徒たちの目指す場所に、レイアはすでに立っているということか。

 強い視線を投げかけるが、波嬢の答えは変わらなかった。


「資格かは知らないけど、母国で神に仕えていたそうよ。たしか12かそこらでって話。今が17歳であたしたちの一つ年上だったから、働いてた期間は短いけどね」


 まったく、冗談ではないと波嬢が鼻を鳴らした。資格を取るために日々汗水流して勉学に励む波嬢にしてみれば、そう面白い話ではないだろう。


「はぁぁぁ」


 屋代の口から洩れたのは感嘆。羨む気持ちはあれど、それを上回る驚愕が包み込む。いったいどれだけの努力と、それに応える才能があったのだろうか。一度、舞を見させてもらいたくなった。

「ん? けどどうして学校に通ってるんだ? それも国外まで足を伸ばして」

 屋代の率直な疑問に、波嬢は肩をすくめた。


「理由までは知らないわよ。とりあえず順番に話すけど、ある時司祭だったアルクセイの周辺で事件が起こったのよ…うぅん、違うわね。事件じゃなくて災厄、というべきかしら」


 波嬢はアルクセイが出ていった扉に視線を移した。誰もいない無人の出入り口に瞳を細める。


「暴神がアイツの国を襲ったのよ」

「暴神………?」

「そう名付けられた特異な神様。理性のない災害。人の言葉なんで意にも介さず、ただただ地上に存在するすべてを破壊しようと暴れまわる存在のことよ」


 理性のない神様がどれほど恐ろしい相手となるか、屋代は身をもって経験している。屋代一人であれば勝つことはほぼ不可能。ファナディアの協力があって初めて対峙することが叶う、嵐のような力が脳裏に蘇る。


「なるほどな。その暴神を鎮めたから英雄って呼ばれているんだな」


 納得だと大きく頷いた。そんな危険な存在を止めたとあれば、英雄と呼称されてしかるべき所業だ。

 だがしかし、アルクセイの態度を思い返して首を傾げる。それほど凄い、国を守った偉大な少女だという風には見えなかった。彼女自身、英雄呼ばわりされることを嫌がってもいた。

 どういうことかと頭をひねる。


「………そうね。国を壊すような神様、いえ、そんな意識さえ持っていないただの災厄を鎮めた彼女は英雄と呼ばれるようになったわ。けど当然、そんなことを一人の人間ができるはずがない。当時、その戦いにはアルクセイの国の神様だけでなく、近隣の神々、彼らに仕える多くの司教、司祭が参戦したそうよ」


 波嬢が一つ呼吸を挟む。よく見なければ分からない程度に、その表情が硬くなっていた。


「そうして、生き残ったのは彼女一人だった。それもあって彼女は現代最後の、悲劇の英雄なんて呼ばれもしてるわ」

「―――」


 その時屋代の頭をよぎったのは、同情ではなく深い理解。レイアが英雄と呼ばれることを嫌う理由が分かったからだ。一体何人の神職、聖者が戦いを挑んだのか。放っておけば地上を破壊しつくす神を相手に逃げ出すものだっていたはずだ。それでも覚悟を抱き、あるいは引けない決意をもって立ち向かった。その結果、一人生き残ってしまったと。


「それが今から三年くらい前の話。今でも時々、どうして暴神が地上に降りてきたのか議論を交わされるわ。ただ、神様たちは何も教えてくれないから、あんまり実のある話じゃないのよね。歴史が間違った方向に向いているからその修正のため、なんていう話も出るほどよ。まあ、何年経っていても取りだたされることがあるくらい大きな事件だったわ」


 そこでジトッとした目を向けられた。波嬢だから知っているのではなく、他国で起こったこととはいえ大事件であるはずの災害をどうして知らないんだ、とその目は語っている。

 それに対し、屋代は気まずげに視線を泳がせた。


「そ、そんなに大きな事件の当事者が留学してきたんだ。周りは放っておかなかったんじゃないか?」

「……そうね。来た当初は、ニュースにも流れたくらいよ。けど、アイツはそのすべてを無視した」


 波嬢が唇を曲げる。


「記者はもちろん、野次馬のように話を訊きたがる生徒も全員。もちろんその気持ちも分からなくないわ。仲間を亡くした事件のことを、面白半分に引っ掻き回す世間に辟易するのは当然よね。けど、いくら何でもその全部を切り捨てなくていいでしょう」


 当時を思い出したのか、憤懣やるかたないと波嬢が息を吐く。今にも地団太を踏みそうな雰囲気に屋代は冷や汗をかいた。

 今の言い方、さては波嬢もレイアに突撃したうちの一人だな。波嬢に限り、現代の英雄だのと茶化して話しかけたりしないだろう。大方、異国の術を見せてほしいと頼みに行ったに違いない。そうして、周囲と同様バッサリ断られた、と。


「で、でもそんな凄い奴がどうしてこの国に来たんだろうな? それに、わざわざ学校に通うのも不思議だ」

「さあ? 誰とも話をしようとしないから知らないわ。登校することも滅多にないほどだし、誰も知らないんじゃない?」


 だから今日、彼女の方から話しかけてきたことに驚いた。そう語る波嬢に、屋代はつかの間思考する。自国を離れ、屋代たちの国に留学してきたレイア。英雄呼ばわりされるのを嫌い、周囲とかたくなに話そうとしない彼女。その真意はどこにあるのか。


「お高く留まってるだけよ、きっと」


 嫉妬交じりにそう吐き捨てた波嬢は、話は終わりだとばかり背伸びした。


「ほら、いなくなった奴なんてどうでもいいわよ。それより次はアンタの番よ。アタシが見てやるんだから、下手な舞なんて踊るんじゃないわよ?」

「ああ、」


 そう言えばまだ授業中だったな、と、話に夢中になっていた屋代の目が覚める。袴をひるがえし、手足を傷めないよう入念な準備に入ったが、ふとあることに気づいた。


「そう言えば、アルクセイさんの国の神様はどうなったんだ。戦いには参加したんだろ?」


 振り向き問いかければ。

 波嬢は僅かに目を伏せて答えた。


「もちろん――ほかの神々と同じく、天に還られたわ」

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