1-3

「あれ、職員室に用事があったんじゃないのかい?」

「いや、ちょっとな……」


 教室に戻ると、すでに登校していた征徒から声を掛けられた。話している間に時間が経っていたようで、席の埋まった間をすり抜けながら首を振る。

 放課後まで待てというならば待つことに異論はない。しかし、今日までに固めてきた己の決意は何だったのかと思わないでもなく、屋代は感情を持て余し気味だった。

 征徒の近くに座りながら複雑な顔をした。


「珍しい。いつもならどんなことにも気合が入っているというのに、今日はやけに大人しいね。職員室に行くなんのも初めて聞いたし、何かあったのかい?


 黒縁眼鏡に、きっちり整えられた髪。

 もうすでに一時限目の準備を済ませた征徒にそう言われ、屋代は何とも言い難い顔になった。


「俺ってそんなに普段うるさいか?」

「騒がしいわけじゃないさ。ただやる気、というか、学ぶことに対して意欲的だ。なのに、今朝はやけに穏やかだと思ってね」


 征徒の言う通り、屋代にはいつもの熱意はない。やる気がない、といってもいいだろう。もちろん不真面目に聞き流す真似はしないし、授業をサボろうという不埒な行動は断固としてしないが、燃えるような熱がないのは事実だった。やはり、神職に就くことができないからだろう。成れないと分かっているのにやり続けるというのは、一種の拷問である。


「せっかく祈相術が使えるようになったんだ。傷も癒えたことだし、張り切って授業を受けよう」

「そう、だな」


 言葉で背を叩いてくる征徒に、屋代は歯切れ悪く言葉を返した。

 魔法と祈相術はその原理からして違っている。だが、それを説明することが出来ないため、こうした齟齬が起きてしまうのだ。屋代は祈相術を使えないし、今後も使えることはない。少なくとも、屋代の体に宿る種を取り除かない限りは。


「喜ばしいよ。ついに屋代も祈相術を使えるようになったんだ。これで馬鹿にしていた皆も見直すはずさ」

「あ、ああ。だといいな……」


 まずい、顔が引きつる。

 征徒が想像しているような術は使えない。いくら舞っても屋代が疲れるだけで術など発動しないのだ。もしも皆の前で踊るような事態になれば、見直すどころかほら吹きだと嘲笑される。


「そ、それにしても運が良かったな。あの事件で眷族と戦っておきながら、全員軽症で済んでさ」


 この話題を続けることは精神衛生上よくないと、方向転換を図る屋代。征徒は意図に気づくことなく頷いた。


「まったくだ。けど、それは運だけじゃない。僕らをかばってくれた巫女たちのおかげでもある」


 初代校長が起こした、神に復讐を図った事件。その渦中にいた屋代たちは、神によって作り出された眷族との戦いで傷つき、また操られた神によって重傷を負った。死にかけた屋代ほどでないにせよ、本来であれば寝たきりになっていても不思議ではない征徒が登校できているのは、その身を庇ってくれた存在が居たからだ。

 同じく神と対峙するはめになった、屋代たちを監督していた現役の神職、巫女たち。立場上の責任がそうさせたのか、彼女たちは我が身を顧みることなく征徒たち傍にいた者の安全を図り、その結果として怪我も軽症。数日立てば授業を受けられる程度に回復できたというわけだ。

 ただその一方で、巫女たちは決して軽くない傷を負ってしまった。治らない傷ではない、との話であったが、簡単な治療では済ますことができないほど重く、今も病院で眠っているという話だ。

 そのことを思い出してか、征徒の顔が暗くなる。


「不甲斐ないよ。咄嗟に体が動かなかっただなんて」

「あの状況じゃ仕方がないだろ。それより無事だったことを喜ぼうぜ」


 命を拾った身としては、そう言うしかない。征徒を救ってくれたことに多大な感謝を捧げる屋代だったが、そんな彼女たちに追い打ちをかけるようで心苦しい事実もあった。


「けど、浄環ノ神は……」


 口に出して、歯がゆい感情を表に出す。

 事件の際に操られた神は二柱。その内、巫女たちが奉じていた浄環ノ神は、どこかに幽閉されたという話を耳にした。他の神々によって自由を奪われたうえで、権能のみを利用できるように。まるで道具を扱うがごとき待遇に置かれているという。

 眷族を多数生み出し、人の社会に混乱をもたらしたことに対する罰、となっているが、操られていただけの神に罪などないだろう。それでもこのような境遇を強いているのは。


「元に戻したいところだが……」

「そのための方法が分からない。確実なのは、神を操るのに用いられた短剣を手に入れることだけど……」


 周囲の生徒は騒がしい。始業前ということもあり、思い思いに口を開いて教室内は喧騒であふれている。屋代たちの声を聴かれる心配はないだろうが、それでも二人、自然と声を潜めていた。

 神を操るために使われた、事件後短剣は盗まれた。おかげで浄環ノ神は操られたままの状態、すなわち人間のことをこの世を汚す存在として認識したままなのだ。世に戻せば再び人に仇為すことになると、幽閉という手段は表向きの罰であると同時、神を守るための方法でもあった。

 浄環ノ神を直すには、征徒の提示した手段が最も確実だろう。操った原因を解析すれば、戻す過程も発見できるはずだ。あるいは治療専門の神による対応も有効か。どちらにせよ、もはや手を離れてしまった事件に、屋代たちが出来ることは何もなかった。


「はぁ、嫌なこと思い出した……」


 と、神について話が出たことで、屋代の頭に思い出したくもない記憶が再生された。思わず口をついて出た文句に、征徒が瞬きする。


「ああ、もしかして白穂神様のこと?」


 ああ、と、屋代は苦い顔で頷いた。操られたのは浄環ノ神以外にも、もう一柱、屋代が奉じる白穂神もその被害にあっていた。短剣を胸に刺された痛々しい姿が脳裏をよぎるが、完全に操られて居なかった彼女だけは救うことが出来たのだ。巫女たちには申し訳ないが、屋代個人としては胸を撫でおろす結果である。今は元の生活に戻れているが、しかし、そんな白穂神に向けられる人の目は複雑だ。


「くそっ、白穂様は何も悪くないだろ」

 

 苛立たし気に吐き捨てると、征徒が苦笑した。


「そうだね。今回の事件でいえば白穂神様はただの被害者だ。けどそれは、真実を知っている僕たちから見ればの話だ。何も知らない人たちからすれば白穂神様が引き起こした事件だと捉えるだろう。そして、僕らは真実を話せない。神様が操られるなんて世間に公表できるはずもないから、その誤解を解くことも敵わない」


 仕方がない、などと言いたくなかった。しかし、征徒の言い分は正しく、屋代も苦い顔で黙らざる負えない。

 操られた白穂神が街にもたらした被害は甚大だ。奇跡的にも人死は出していないが、手足を折るなど重傷者はいただろうし、後遺症が残る怪我もあっただろう。多くの建築物が倒壊させ、社会を支える交通網に混乱を齎した。被害を受けた多くの者は神の悪戯にしてはやりすぎだと、刻まれた恐怖と共に震え上がった。神が操られるなどという、絶対に知られてはいけない事実を伝えられない以上、それらの破壊は白穂神自身の意思によって起こされたのだと公表しなければならなかった。


「どんな理由であれ。あれだけの被害を出してしまったんだ。罰金がないだけましだと思うしかないさ」


 征徒の台詞に不承不承頷き返す。神の悪戯はどの神であっても起こしうる。それは神様に人のルールを押し付けた故であり、その結果もたらされる被害は規模に関わらず国が負担する事になっている。今回もまた、街を破壊しつくした白穂神にはその手の話は上がっていない。


「それにしても白穂神様が、あれほどのお力を持っていらっしゃったとは驚いたよ。屋代は知ってたのかい?」


 操られていた時の白穂神と対峙した征徒は、その時のことを思い出したのだろう。軽く身震いしつつ、その顔にはっきりと畏怖の感情を浮かべた。


「いや、俺も驚いた。とういかたぶん、本柱も驚いたと思う」


 白穂神はいささか特異な神様だ。記憶障害を患っており自らがどんな神であったのか覚えていない。そのため何を司っていたのかも分からず、長年それが原因で神々から距離を置かれていた。しかし、操られていた時に振るった力はすさまじく、大木を自在に生み出し、まるで豆腐のように地面を、建物を破壊していた。生徒の中には、というか一般人も含め、表面的に敬っていても内心無能な神様だと嘲笑っていた者もいたはずだ。そんな彼らはこぞって驚愕したことだろう。屋代とてそんな権能が宿っているなど考えもしなかった。


「白穂神様は今後どうされるのか聞いてるかい? あれだけの権能を持っておられたんだ。他の神々との兼ね合いもあるだろうけどお社を建てられるだろう?」

「あー、いや。それなんだが、どうにも力は使えなくなったらしい……」


 この国にいる神はそれぞれ寝所となるお社を持つ。これまでは司るものも判別できず、権能を振るうことさえできなかったためにお社を持てなかった白穂神だが、その力があったのだと知られた今、彼女を奉じる場所が作られても不思議ではない。征徒の言うことに屋代も同意見だったが、首を縦ではなく横に振る。


「……一度きりしか使えない権能、というわけではなくて?」

「ああ。力があることは自覚できるそうなんだが、それをどう引き出せばいいか分からないそうだ」


 つまり、記憶を取り戻すなどしない限り、あれほど強大な権能を使うことは不可能、ということだ。

 屋代の台詞に肩透かしを食らったのか、征徒の眼鏡が少しずれ落ちた。


「そ、そうなのか。ということは、今後も?」

「ああ、校長として赴任し続けるみたいだな。まあ、それが良いことなのか判断できないが」


 白穂神としては、おそら気にしてないだろう。神々の輪に入れないことに多少寂しさを感じるだろうが、それより今の立場を楽しんでいるようなので問題あるまい。ただし、白穂神の唯一の信徒を自称する屋代としては、せっかくの機会を逃してしまったことを悔しく思う。

 こういうことに魔法が使えたらいいのに、と考えずにはいられない。


「…………」


 ふと、窓から見える景色に目が向いた。そこに映っているのはこれまで通りの風景であり、別段代り映えのしないモノだった。しかし、ここから少し先に行けば、破壊され尽くした街並みが広がっている。それをやったのが白穂神だと、直接目にしなければ信じられないだろう。今も多くの人が別の地域に避難し、あるいは移り住んでいる現実に、屋代の顔は自然と険しくなった。

 白穂神に権能を振るわせた初代校長、そして、その校長に手を貸したらしい人物を思い描き、いつか必ず報いを受けさせると心に誓う。


「―――間に合った……!」


 と、大きな音を立てて教室の扉が開かれた。騒がしい教室が一瞬静まり返り、何事かと無数の視線が吸い寄せられる。


「はぁっ、はぁっ」


 そこに、荒げた息もそのままに、額にうっすらと汗をかいた少女が立っていた。


「波嬢さん……?」


 征徒が目を丸くして落とした声が、教室内に零れた。それを合図にしたのか、大きな音に驚いていた生徒も体から力を抜いて元の話に戻っていった。

 再び騒がしくなった教室内を通り過ぎ、屋代たちの方によって来た少女、波嬢に手を上げる。


「よお」

「ん」


 どさっ、と派手な音を鳴らして抱えていたカバンを下ろした波嬢は、屋代たちに軽く頷くと取り出した水を一気に煽った。少女の小さな喉が高速で上下する。


「はぁぁぁ。おはよう。珍しいわね。アンタが先に来ているなんて」


 水を補給したことで落ち着いたのか、遅ればせながら返ってきた波嬢の返事に、屋代は心外とばかり顔を顰めた。


「俺が毎日遅刻してるような言い方はやめろ」

「事実でしょ。いつもアタシの後から入って来るじゃない」


 事実ゆえに言い返せない。登校前に祈相術の練習を毎日欠かさず行っていたから、大抵始業時間ちょうどに滑り込んでいた。走らずに登校しない日はなかったといっていい。


「けど今朝は僕より早く来ていた。屋代も生活習慣を見直してくれているんだよ」


 その言い方もどうだろうか。手助けのつもりだろうが、征徒の言葉は、まるで屋代が普段だらしない生活をしているように聞こえてしまう。休日を寝て過ごすだなんて怠惰な生き方をしたつもりはない。

 屋代の抗議の視線に気づかないのか、征徒は軽やかに笑っている。


「むしろ、最近は波嬢さんの方が刻限間近なくらいだ。もしかして体の調子が悪いのかい?」


 波嬢もまた、屋代たちと同じ事件に関わり、巫女たちに庇われたうちの一人だ。

 危惧を言葉に表した征徒に、何を言いたいのか察した波嬢は軽く手を振った。


「問題ないわよ。怪我の程度でいえばアタシが一番軽傷だったのよ? アンタたちが心配するようなものなんか一つも残ってないわ」

「まあ、それもそうか」


 今も解き放たれたままの扉に、屋代は納得する。明らかに走ってきた様子からも、波嬢の怪我が完治していることが見て取てた。しかし、おさらに疑問がわく。


「じゃあなんでこんなに遅いんだ?」

「別になんだっていいでしょ。アンタには関係ないじゃない」

「いやまあ、それもそうだが……」


 よほど聞かれたくないことなのか、波嬢の顔を背けた。そのいかにも嫌そうな表情は、はたして質問内容に応えたくないからなのか。それとも屋代が訊いたからか。もしも後者であった場合、著しく心が痛いので話を掘り下げるのは止めておこう。

 こっそり肩を落とした屋代を横目に苦味が強い笑みを浮かべながら、征徒。


「ま、まあいいじゃないか。あんなことがあったんだ。こうして無事に登校してきているだけで喜ばしいよ」

「当然よ。怖気づいた馬鹿たちと一緒にしないでちょうだい」


 眷族と戦うことになり、さらに神に襲われるという人生でも滅多にない体験をした少女は、そういって平均的な胸を尊大に張った。さすがは名門、と征徒が口にする横で、屋代は何とはなしに教室内を見渡した。用意されている机は、そのほとんどが埋まった状態ではあったが、いくつか歯抜けが存在していた。置かれたままの教科書、放置された小道具。痕跡の残った机は、しかし、いくら待っても埋まることはない。なぜならそこにいたはずの生徒は全員いなくなったからだ。


「まったく、情けないにもほどがあるわね。あの程度で逃げ出すなんて」


 波嬢の言う通り、これまで屋代たちと同じ授業を受けていた生徒たちは学校を辞めていた。操られた神が作り出した眷族、彼らとの戦いはこの学校に通う全生徒を巻き込んだ。その中で命を落とした者こそいなかったが、怪我を負った者も少なくない。そうして、神に仕えるという輝かし理想と現実のギャップ、明確な死の気配に捕まった生徒たちは、学校を辞めていった。転校した者もいれば、あの事件がトラウマとなって登校自体を拒絶する者もいると聞く。屋代たちのように神と対峙せずとも眷族との戦いは生徒に確かな傷を残していた。


「……仕方がないよな」


 波嬢の言うことも分かるのだ。行き過ぎていたとはいえ、神という天上から与えられるものは恩恵だけでない。うっぷん晴らし、暇つぶし、あるいは人に対する敵対心。神の悪戯、などと呼称されるが、神様は人に優しいだけの存在ではなく、時に人を混乱に貶めることもあるのだ。それを飲み込んでこその神職であると、いわれてしまえば、屋代も頷かざる負えなかった。

 だがしかし、職の花形、現代社会で最も重要な役割。そんな言葉に踊らされ、輝く己のみを追い求めていた生徒からすればたまったものではなかっただろう。それほど容赦のない、文字通り命を奪う攻撃だった。

 通常の神の悪戯では、決して人の命を奪うような真似はしない。神々を統べる大神が、神の行動を牽制し共存させているからだ。人にあだなす神と認定されれば容赦なく制裁が与えられ消滅する。今回の場合、操られたことでその牽制も通じず破滅的なまでに権能が振るわれた例外といえたが、命乞いさえ意味をなさない苛烈な攻撃に心が折られてしまってもしょうがないことだった。

 屋代もまた、別の理由から学校を辞めようと考えているのだ。逃げ出した彼らを責める気にはならなかった。そっと波嬢から視線を逸らす。


「ま、いなくなった奴らなんてどうでもいいわよ。それよりアンタたち、アタシが来るまで何話してたのよ?」


 波嬢の問いかけに東雲と二人目を見合わせる。譲り合った結果、東雲の返答。


「今の話と関係あるものさ。白穂神様が今度どうなされるのか屋代に訊いていたんだ」

「ああ、そういう……」


 波嬢が納得だと言いたげに目を細めた。おそらく彼女の脳裏にも、先の白穂神が暴れた光景が映し出されているのだろう。普段接する神様像からは考えられない破壊の嵐は早々記憶から薄れない。


「そうね、あれだけの力だったもの。これまで権能も使えない神様って、内心馬鹿にしていた奴らも考えを改めたんじゃない?」

「ほぅ、なるほどな。白穂神を見下していたと。そうかそうか………命を捨てる覚悟は出来ていると受け取っていいんだな?」


 ぐるりと首を巡らせれば、気まずげに顔を背けた生徒が数人。肩を揺らした者もいた。

 神様を嘲笑う不届きもの、本来であれば袋叩きにしてもなお足りない憤りを覚えるが、直接言葉を聞いたわけではないので手は出さない。だがしかし、その顔は覚えたからな?

 屋代が瞳孔の開いた目で脳裏に焼き付けていく様、波嬢は面白がるように笑った。


「もしもお社に興味を持っていらっしゃったらなら言いなさい。アタシから口添えしてあげる。大神様ほどじゃないけど、上位神にも負けない立派なお社を立ててあげるから」

 

 口の端を吊り上げ自信ありげに笑う波嬢に、屋代は戸惑いながらも礼を述べる。

 波嬢の家は古くから神に仕える名門一族だ。それこそこの国の中でも5本指には入るだろう。そんな波嬢だから、古くから付き合いのある大工の一家や二家いても不思議ではない。冗談でもなく、頼めば指折りの職人を紹介してくれそうだ。

 今住んでいる家も十二分に立派な住宅だが、今後白穂神が記憶を取り戻したあかつきには、比較にならないほど豪華で、かつ壮大なお社を建てる可能性もなくはない。そんな場所にでーん、と腰かける白穂神を妄想してしまい、思わず幸福を感じてしまう。嬉しさのあまり涙が出そうだ。


「それにしても、意外なのはアンタもよ」


 白穂様に感謝し崇める人々、そんな彼らに手料理をふるまい笑顔の白穂神。それを近くで眺めながら鼻高々な己。そんな幸せ風景を思い描いていた屋代だったが、ふと波嬢に水を向けられて現実に立ち返った。


「……ん、俺?」

「そうよ。直接見てないけど、アンタなんでしょ? 白穂神様や浄環ノ神を止めたのは。やるじゃない」

「お、おう」


 波嬢の混じりけのない純粋な笑み。何ら疑うこともない素直な賞賛。

 屋代は柄にもなく頬を赤く染めた。これまで話す人話す人に、ことごとく疑われ、あるいは嘘だと見下されてきた。ここにきて、簡潔かつ率直な言葉は屋代の胸を熱くさせた。


「い、いや、俺だけの力ってわけじゃないぞ? というか、むしろソーサーさん一人でやったようなもんだ」


 とはいえ、事実はしっかりと伝えておかねばなるまい。屋代が首を振って訂正すれば、波嬢は眉間に皺を寄せた。


「ふ~ん、そんな話は聞いてたけど、やっぱり彼女も来てたのね」


 瀕死の重傷だった屋代を救い、さらに白穂神と共にいた浄環ノ神を鎧袖一触で倒してくれた。白穂神の攻撃もほとんど引き付けてくれていたし、正直、あのとき屋代がやったことといえば初めて使った魔法を白穂神に突き立てたくらいだ。おそらく屋代が居なくともファナディア一人で解決していただろう。それほど圧倒的な戦闘能力だった。

 ファナディアの異常な身体能力を知っている波嬢はさもありなん、と息を吐き出した。


「首を突っ込んできた理由も気になるとこだけど……やっぱり、あの動きよね。反則でしょあれ」

「確かに……彼女の身体能力は人の範疇を超えているように見えた。とてもではないがまともな術を使っていたとは思えない」


 波嬢の言葉を肯定するように、征徒も口を出す。その眼鏡の奥に潜む瞳に険しい色を浮かべて呟いた。


「まさか、禁術ではないだろうけど……」


 祈相術には肉体に直接作用するような術はない。しかし、間接的に作用させられるものもある。薬物、毒に似た効用を齎すことによる強化、意識に干渉することで肉体の活性化など。たいていの場合大きな効果は得られないが、副作用を考慮せずに使用すればその分上昇幅は広がる。屋代たちの国ではそういった術の使用は制限されているが、他国でも同じかは分からない。

 その点を無視することなくしっかし考えたうえで、征徒は一度頷いた。


「やはり、一度言っておいた方がいいかもしれない。禁術でないなら構わないけど、仮にそれに類する術であるなら危険だ。そういった術には大抵深刻な副作用があるとも聞く。使い続ければ彼女自身にも悪影響があるはずだ。使用は控えてもらおう」

「あ、あー、いや、違うぞ。あれはソーサーさん固有の術みたいなもんで、禁術じゃない。心配しなくても危ないことはないぞ」

「? 何よ、知ってるの?」

「ま、まあな。詳しく教えてもらえなかったが特に副作用があるわけでもないらしいぞ」 


 ファナディアも屋代と同じ魔法使いだ。ゆえに、術ではなく魔法なのだが、そのあたり説明できな屋代は言い訳苦しい言葉でしか返せなかった。背中に嫌な汗を流しながら、嘘を嘘で塗り固めるしかない。


「ちっ、なによ。アタシが訊いた時は教えなかったくせに……ってか、アンタも祈相術使えるようになったんでしょ? あとで見せなさいよ」

「お、俺の術もちょっと毛色が違ってるっていうか、独特だからな。たぶん、誰にも使うことはできないんじゃないか……?」


 なによそれ、と唇を突き出して不服を現わす波嬢に、しどろもどろ。嘘をつくという行為に全身の汗腺が開いている気さえする。波嬢の怪訝な視線が突き刺さり、一層焦りを促してくる。


「僕らの知らない術を自在に使えて、しかも事件を解決したなんて……いったい何者なんだろう、彼女」

「さ、さあ? 俺もよく知らない」


 東雲の呟きにこれ幸いと飛びついた屋代だったが、発言自体に嘘はない。ファナディアの正体、と呼ぶほどのことは分からないが、彼女がいったいどこの国でどんなことをしていたのか、屋代はまるで知らなかった。魔法使いとなるための種を持っていたり、大気に漂う魔力を見通す眼鏡を持っていたりと、何かと便利な道具を持っている少女ではあったが、そのあたり聞いてなかった。屋代の場合、そんな機会がなかったから、ではなく、気にならなかったから、という理由が大きい。助けてくれた恩人にいうことではないが、屋代にとって重要なのは助けてくれたという事実であり、彼女自身の素性はあまり興味がなかったのだ。


「屋代。今後はそう言った行動を控えたほうが良い、いや、控えるべきだ」

「なんだよ急に……」


 眼鏡の奥、征徒のあまりにも真剣な目で見つめられ、屋代は瞬きした。身を乗り出して詰め寄っていた波嬢も固い声色を不思議に思ったのか動きを止めている。


「いや、前々から注意しようとは考えていたんだ。今回の事件で神様と対峙することになったろう?」

「あ、ああ。けど、あれはどうしようもないだろ? 第一、あれは実習で決められたことだ。俺が勝手に判断したんじゃない」


 事件の影響で実習の内容が変更され、その結果として戦うことになったのだ。よく知っているはずだろう、と眉を上げれば、唇を引き結んだ征徒はゆっくり頷いた。


「うん、問題はそのあとの行動さ、屋代。僕らや巫女たちが倒れている中でキミは一人で神様を追っただろう? その判断が正しかったか僕にはわからない。結果として神様たちを止められたことに間違いはないし、それで救われた命もあったはずだ。けど、あまりに独断過ぎたよ」


 征徒が怒っている。

 これまで全く気付いていなかったその憤りに屋代は目を丸くした。


「僕らはまだ学生だ。緊急事態であの場に駆り出されはしたけど、本来祈相術さえ使ってはいけない身分なんだ。監督者たる巫女たちを放っておいて危険な行動をとることは許されていない」

「それは、そうだが……」

「本来なら罰則があってもおかしくなかったんだ。注意だけで済まされたからと言って、安易に考えてはいけない」


 眼鏡の縁を指で押し上げる征徒のの言葉に、屋代は頬を掻いた。今回、巫女たちがいない場所で魔法を使った屋代には厳重な注意が与えられていた。屋代とて、祈相術ではなく魔法だから何の問題もない、などというつもりはなく、むしろ注意のみにとどまったことに驚いたくらいだ。神を止めた事実を、信用されなかったとはいえ警察や、国の神職を統括する組合が受け入れたのも同様。状況的に判断して辻褄があっているとはいえ、たかが一学生の言葉を認めたのである。


「…………」


 これには、おそらくファナディアが関わっているのだろう。神を止めた場に居たのは彼女だけであり、そんな彼女が何かしら口添えしたからこその結果だと推測している。ファナディアがいかな説明をしたのか定かでないが、正気を取り戻した白穂神と彼女のおかげで大きな罰もなかった、と思う。


「別に構わないでしょ。アンタの言う通りそれで助かった奴だっていたんだから」


 何も言えなくなった屋代を横に、波嬢が口を開いた。その顔はさっきまでとは違い、どこか挑発的なものに変わっていた。


「結果が良ければ、上の言うことは無視しても構わない、と?」

「命の瀬戸際に一々上の判断を仰いで行動できる余裕なんてあるはずないでしょ。それでもし死んでも、それは自身で決めた行動の結果よ。受け入れるでしょ」


 ね? と同意を求められた屋代は微妙な表情を作りながら肯定する。死にたいわけでは決してないが、それでも行動の結果を受け入れる覚悟くらいある。


「それこそ無責任だ。僕らの行動は巫女たち、ひいては彼女たちを選任した学校側が受け持っていた。勝手な行動は彼らに対して多大な迷惑をかけることになるんだ」


 むっ、と顔を顰めた征徒のの指摘は、なるほどと、思わせられるものだった。

 あの時はそこまで考えていなかった。白穂神を助けることだけに集中していて、他のことに思考を費やす余裕はなかった。だが、こうして振り返ってみれば、確かに屋代の行動は勝手だった。学校側、つまり生徒を監督する者たちの立場を考慮しない行為だったといえるだろう。


「悪かった。征徒のの言う通り、あの時俺は何も考えてなかった………が、後悔はない。もし同じ状況になったら、俺は一人でも走るぞ」


 屋代にとって大切な物はすでに決まっている。そのためならば、誰に非難されようとなりふり構わず動くだろう。

 一瞬和らいだ征徒の目が急角度を取った。


「屋代……」


 言葉の端に滲む強い覚悟を聞き取ったのか、征徒の顔が苦いものになる。ここで何を言おうと翻されないと理解したのか、口が止まった。纏う雰囲気がより固く変化してしまうのを肌で感じるも、屋代とて譲ることのできない一線はあるのだ。

 反対に、何故か満足そうな波嬢は黙ってしまった征徒に問い返した。


「それじゃあ、アンタがこいつと同じ立場にあったらどうするのよ。自分で言った通り何をすればいいのか訊いて回るわけ?」

「もちろん。まずは倒れている人たちの救助を行う。それから次にすべきことを仰ぐんだ」


 返答に遅延はなかった。迷いのないその言葉が、征徒が普段からそれを心掛けているのだと伺わせた。


「ふぅん、その間により多くの人が犠牲になっていても? 自分が無茶をすれば止められるかもしれないのに?」

「それは」


 下からのぞき込むように、波嬢が意地の悪い質問を繰り返す。征徒が言葉に詰まった。


「それは、けど、僕らが背負うべきものじゃない」


 しかし、迷いを振り払うように言葉を紡いだ。


「そもそもあの時僕らに許されていたのは眷族と戦う巫女の援護だけだ。それ以上の行動は認められていない。それはつまり、その行為以上のものをする必要がないとも言えるはずさ」


 何度も瞬きしながら、征徒は自らに言い聞かせるように言を重ねる。


「仮に敵を見逃すことでより多くの人が傷つくことになっても、僕らが咎められる理由はない。そもそもの責任というのなら人を傷つける敵にあるんだ」


 征徒の台詞を、屋代は頭の中で理解しようと反芻する。

 もしも今、目の前で人が傷つけられたとしよう。その現場を見ていただけの屋代に、ではそれを止める義務があるのかと問われれば、そうではないのだ。もちろん心情的に止めるべきだと考え、行動することはよいことだが、社会的に見て屋代にそんな責務は存在していない。せいぜい、通報するくらいだろうか。

 征徒の言いたいことはそういうことではないか、と、己なりの解釈で受け取った屋代は口を波打たせた。征徒の主張は、おそらく正しいのだろう。一般的に見ればむしろ、屋代の行動などよりよほど賛同される意見だ。自分の置かれている立場を正確に把握し、その中で許される最大限の善行を行う。何も間違っていない、正しい行いだ。


「ぅぅん」


 ただ、どれだけ理屈で正しくとも、受け入れ難い意見である。心にもやもやとしたわだかまりを覚えた屋代と同じなのか、波嬢もまたつまらなそうな冷めた顔をしていた。


「アンタの意思は分かったは優等生。でもそれじゃあ他の生徒たちが死んでたわね。御愁傷様。棺桶に向かって僕は正しかったと胸を張ればいいんじゃない?」

「……………何が言いたいんだい? 波嬢さん」

「おい待て落ち着け。海浪も言い過ぎだぞ」


 屋代の静止も聞こえていないのか。椅子から立ち上った征徒が一歩、波嬢に近づく。窓から差し込む光によって輝く眼鏡が奥の瞳を隠している。しかし引きつったその口元は今にも爆発しそうなほど震えており、征徒の感情を如実に表している。


「はっ、何よ。優等生にしてはやけ沸点低いじゃない。もしかして図星だった? 大切なのは自分の成績だけで他の奴らのことは考えていなかったってこと?」


 波嬢もやけに突っかかる物言いだ。まるで期待していたものに裏切られた時の子供のように、掛けていた熱情以上の罵詈雑言を吐き出すことで衝撃を和らげようとしているみたいだ。

 歯を剥きだす波嬢は、もともと吊り上がっている瞳をさらに上へと上げて臨戦態勢、いつでも飛び掛かれる姿勢を取り出した。

 一触即発の空気が二人の間に漂いだす。その険悪な雰囲気は教室中に伝わり、いつしか喋ることを辞めていた生徒たちに注目されていた。

 慌てて二人の間に割って入る。


「お、おい。落ち着けって東雲。確かに俺も悪いところがあった。それは本当に済まないと思う。海浪も東雲の言葉を過剰に捉えすぎだ。別に犠牲が出ていいだなんて言ってないだろ」

「―――」「……………」

 

 仲裁だなんて、本来は征徒の役割だろう。思わず心のうちでそう愚痴りながら、屋代は取り繕った笑みで二人に話しかける。クラス内の視線を一身に集める中、どこに着地点を持っていけばいいのか分からない屋代がひたすら目を回していると。


「お待たせ―。授業始めるよー。さっさと席について~」


 間延びした口調で担任が入ってきた。


「……」「ふん」


 それが契機となり、征徒と波嬢の間に散っていた火花が消滅した。消化されたわけではないことを示すよう大きく鼻を鳴らした波嬢が自分の机に戻ると、征徒も口を開かないまま席に着いた。

 二人のはざまに立っていた屋代は、退学を決めた日に限ってどうしてこうなるのかと内心溜息を吐いた。

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