1-2

 国立神職養成学校。

 そこは、将来の神職を育てるこの国唯一の学校だ。神様が実在し人を統べている現在、彼らに仕える事は最も重要なことだと考えられている。神を祀る祭事を取り仕切り、時には荒ぶる神をその身で鎮める。人と神の距離を適度に保ちながら、それでも切らすことなく繋ぐ存在。それが神職であり、そんな者らを輩出するための養成機関なのだ。


「………」


 早朝。まだ登校している生徒の数もまばらな、教師であっても全員がそろっていない時間帯。

 清掃担当者が毎日丹精込めて掃除をしている、綺麗に磨かれた廊下の端で屋代は深く息を吸っていた。


「ふー」


 方々にはねるくせっ毛の髪が特徴的な、引き締まった体格を持つ屋代の眼前には、職員室と銘打たれた札を掲げる扉があった。普段は教師が出入りし、生徒であっても用がなければ入らないその部屋からは小さな物音が聞こえてくる。話し声からまだ少数のようだが教師自体はすでに来ていた。入るならば絶好の機会なのだが、屋代の体はその場からピクリとも動こうとしなかった。


「ふぃー、ふぃー」


 屋代は、ともすれば震えてしまいそうな体を必死で押さえていた。緊張のあまり強張った顔は赤く染まり、瞬きを忘れた瞳は見開かれている。口から洩れる吐息の荒ぶる様は、はたから見れば興奮しているようにも見えるだろう。あるいは、ここが職員室前という状況を考慮しなければ、好きな相手へ告白しようと緊張しているようにも伺えた。


「はふー。ほふー」


 だがしかし、ここにいるのは屋代である。神様を親に持つ、神によって育てられた養子。その恩を返すべく幼い日から舞を踊り続け、いつも遅刻寸前に登校する人間だ。そんな屋代が早い、と言われる時間に学校に足を踏み入れ、ましてほとんど近寄ったことのない教師の部屋を尋ねるには相応の理由があった。

 いっそ血走っていると形容しても構わない目を下にさげ、屋代は握りしめている封筒を見やった。皺にならないよう、絶妙な力加減をもって、しかし絶対に落とさないと手の中に保持するそれが、屋代を職員室へと足を向けさせた理由だ。


「……仕方がない、そうだ、仕方がないんだ」


 自分自身に言い聞かせるように、口の中で何度も唱える。ここに来るまでに、いや、封筒の中身を作ろうと決めたその時からいい続けた言葉は、自らを納得させるためのものだった。そうでもしなければ臆しそうになる心を、前に向けさせるための呪文だ。


「これは仕方がないんだ……………」


 一度、大きく瞬きする。強引に閉ざした視界は暗闇に包まれた。喧騒とも呼べない、まだ少ない生徒たちが立てる音が遠ざかる気さえして、屋代は心を落ち着けようと……。


「ああもう、納得できねぇっ」


 再び目を開いてそう吐き捨てた。勢い余って握りつぶしてしまった封筒に気づかぬまま、その場で歯噛みする。


「退学なんて……」


 退学届。屋代の手によって歪んだその文字が、封筒にしっかりと記されていた。


「けど、これ以外に道は……でもしたくないなぁ」


 呟き、釣り上げた眉をハに字に変える。文字通りの、学校の退学届。別に誰かに強制されたわけでもなく、屋代自身が書いてきたものだ。

 屋代とて不本意極まりない。できることなら今すぐこの封筒を破り捨てて何事もなく教室に戻りたかった。いつも通り授業を受け、祈相術を学び、ごく限られた者たちを楽しく過ごす。時折起こる神の悪戯に呆れながらも、穏やかな日常を過ごしたい。しかしそれは無理な話だ。なぜなら屋代は、神職に成れないのだから。


「…………」


 そっと、もう塞がっている胸の傷に視線を向ける。制服の上から指を滑らせるが、薄く肉付いたそこは、骨が露出するほどの傷があったと分からないほど、完璧な状態に戻っている。

 少し前、屋代は死にかけた。それも医術の神を持って助かるか分からないほどの重体、片足どころか半分以上あの世に連れていかれた、そんな死体同然の状態だった。にもかかわらず、この短期間で元の肉体を取り戻し、さらには学校に登校できるほど回復したのには当然理由がある。

 屋代は目を細めた。


「魔法使い…」


 とある種によって生み出される存在。肉体に埋め込まれた種は人が放出する魔力という燃料を糧に、脳を含めた全身に根を伸ばす。その根を伝い魔力を体内に留めることで、人間が持つ膂力、神経伝達速度、あるいは治癒力といった様々な能力が飛躍的に上昇させる。そうした、本来であれば外に放出されるはずの魔力を体内で循環させた存在を、総じて魔法使いと称する、らしい。屋代も、種をくれた人から聞かされただけなので知識としては乏しかったが、とかく、生まれた頃より魔力が少なかった屋代でも魔法と呼ばれる術を使え、わずかな期間で肉体が再生できた。

 ただし、副作用というべき代償も当然あった。


「使えないん、だよな」


 そっと、足を踏み出し、手をひねる動作。


「灯よ」


 一言だけのごく簡単な祝詞を唱えてみるが、掲げた指先には何ら変化も起きなかった。一瞬、息を止めて注視していた屋代であったが、数秒待てど代り映えのしないことに手を振り払って嘆息した。


「まあ、そうだよな」


 祈相術、と呼ばれる術があった。人を統べる神々が有する権能、それを模した人が操ることのできる術。特定の動作、祝詞、儀式などを行うことで様々な現象を生み出す人の牙。今屋代がやったのは爪先ほどの小さな火を灯す術だったのだが、結果は見事に不発動、空気が揺らぐことさえなかった。

 これが魔法使いとなった屋代の代償。

 祈相術を発動させるための仕組み、すなわち自身が放出している魔力を呼び水として、周囲に漂う目に見えない魔力を集め、舞を踊って術と成す。その根本である魔力を体の外に流せないのだから、術として成立しないのは当たり前の話であった。


「はぁ……」


 とはいえ、これは、代償としては軽い方だろう。祈相術の使用は法によって固く律されている。特定の業種にでも就かない限り、一般の人間が普段の生活で祈相術を使うことはまずない。必要になる場面もほとんどないだろう。術が使えないからと言って不便を感じることもなく、むしろ魔法使いになったことで得られる健康体や身体能力、魔法といった固有の力を欲しがる人のほうが多いかもしれない。一般の人であれば何も気にならない、死からよみがえった代償にしては破格の値段だ。屋代とてそう思えるだけの能力が身に宿る種にはあった。

 問題は、屋代がその特定の業種を目指していたという事実だけだ。


「神薙、なりたかったなぁ」


 惜しむように廊下の景色を眺める。

 神職に就くための必須条件、その一つに祈相術の使用があった。神様と接するうえで彼らが引き起こす悪戯や癇癪、または世間一般で執り行われる祭事を円滑に運営するため、術を使えることは必要最低限の基準なのだ。今はまだ一年ゆえに術の発動ではなく、その過程である舞や祝詞をいかに正確にこなせるかで成績を判断されているが、本格的に学ぶことになる二年生からはそうもいかない。実習も多くなり、術として発動できているかも重要視されてくる。魔法使いとなった今、祈相術の使えない屋代ではどうあがいても二年生から先には進めないのだ……そもそも生成できる魔力の量が少なく、魔法使いになる前から祈相術を使えなかった屋代にはどのみち時間の問題だったが。

 とはいえ、屋代に後悔はない。そもそも魔法使いとならなければ屋代は死んでいただろう。何も成せないまま死ぬことに比べれば何百倍もマシであったし、屋代にとって大切な存在を助けることも出来た。魔法がなければ絶対に救えなかっただろう、誰よりも大切な相手を取り戻せたのだ。


「あぁ、でもなあ」


 一向に足が進まず扉の前で煩悶する。

 辞めたくない、神職に就きたい。別にこれまで掛けてきた時間が惜しいわけじゃないが、体が中に入ることを拒絶している。屋代が神職にこだわっていたのは、そも己のためではなく養母のためだ。この神職養成学校の頂点であり、訳アリの神様でもある彼女のため。屋代は神職に就いて学校の実績に一つとなり、いずれは神様の中に養母の居場所を作ろうと画策していた。ちょっとした事件をきっかけに、養母が本当に求めていたものを知った今では余計な考えなのかもしれないが、それでも神々から敬遠されがちの彼女の立場を固めることは悪いことではないはずだ。存在が認められれば発言力が増し。いつか神様の役に立つ日が来ることもあるだろう。

 ただ、今の屋代はその術を失ってしまった。神職になれなくなった体では、むしろ悪い意味で注目を集めてしまいかねない。他の神から目をつけられることは避けたかった。だから、学校を退学するという選択は間違っていないはずだ。ただでさえ祈相術が使えないからと馬鹿にされていた屋代が、祈相術とは全く別の力を身に着け、それが奇妙な種による効果だと知られた日には魚のごとく三枚におろさねかねない。そんな人間が所属していた学校というだけで、世間からの目も冷たくなるだろう。そうなる前に、己自身で決着を付けねばならなかった。


「すぅー………、はぁー………よし!」


 大きく深呼吸。立ち止まっていることは罪であると自らに言い聞かせた屋代は、決然とした覚悟を顔に浮かべた。引き締まった眉をそのまま。きっ、と顔を上げて扉に手を伸ばした。


「何やってんの?」


 が、その寸前に後ろから声を掛けられた。


「白石先生か……」

「おーい、何だその嫌そうな声」


 振り向いた先、まるで傷ついた様子の見えない白石が居た。国立神職養成学校で祈相術を担当している教師。他の教師が神職を育てるという仕事に熱意を燃やす中にあって、やる気と意欲を根こそぎ失ったかのような彼女は、今日もいつも通り気だるげな仕草で立っていた。


「なんかさっきから扉の前でぶつぶつ独り言言ってるけど。そこに居られると入れないじゃん。ほら、どいたどいた」


 ぞんざいな手つきで追い払おうとしてくる白石。

 まだ生徒である屋代が職員室の前で足踏みしているのに、何があったのか理由くらい尋ねて来てもいいのではないか? いや、積極的に理由を話したいわけでもないが、教師として、そんな邪魔者を見る目を向けてくるのは如何なものか。

 心の中で首をひねりつつ、一歩下がった屋代であったが、ふと白石から漂うアルコールの匂いに顔を顰めた。


「また酒か…」

「あん? いいだろ酒飲んだって。大人にはなぁ、飲んでないとやってらんない時があるの」


 屋代の呟きを聞きとがめた白石がずいっ、と顔を近づけてきた。よく見ると頬が赤らんでいるが、まだ酔っているのかもしれない。こうしてみると綺麗な顔立ちをしている、成長途中の屋代から見れば完成された面立ちの白石だが、しかし口から、というか全身から漂う酒の臭気がすべて台無しに居ていた。百年の恋も冷めそうだ。


「まったく、どうして私があんなことを……面倒は嫌だって言ってんのに……あの奇天烈愉快主任め」


 さらに数歩後ずさった屋代に構わず、白石はどこか座った目つきでここにはいない人間に悪態を吐き出した。言葉の意味は理解できなかったが、若干いらだった様子から面倒ごとでも押し付けられたのだろう。上からの命令には避けられないという、社会の嫌な側面を感じ取った屋代はそっと目を逸らした。


「で、お前は何で職員室にいんの? 用でもあった?」


 一通り文句を口にした白石は、ほんの少しだけ気が晴れたようだ。死んだ魚のように覇気のない目はそのまま、冷静になった部分が屋代が職員室にいるという状況に疑問を浮かべたらしい。


「担任に渡したいものが…」

「担任っ、ていうと椴松先生か? あの人は始業ぎりぎりにならないと来ないぞ」


 ほら、と白石に促されて職員室の中をのぞくと、まばらな教師の中に眼鏡をかけた担任の姿はなかった。せっかく今日に限り早く登校したというのに、無駄骨だったわけだ。


「渡すだけだったら私が預かってやってもいいぞ? ほれ」


 と、手を差し出してくる白石に、屋代は逡巡した。この場合、退学届けは担任に直接渡す必要があるのだろうか。いや、そもそも渡すのは担任でよいのか。この学校の校長である養母に渡すことは間違いであることは分かるが、学年主任に渡すべきなのか、それともまた違う先生に提出すべきなのか。そのあたり、退学届の書き方ばかりを気にしていたため調べてこなかった。今更ながら自身の計画性のなさに脂汗を流しつつ、屋代は握りしめた封筒を差し出すか否か迷った。


「なんだなんだ、どした。恥ずかしがってんのか? まさか恋文とかいう落ちじゃないだろうな?」


 なかなか渡そうとしない屋代に何を思ったのか、口の端を吊り上げ白石が茶化してくる。本気でそう思っているわけではないだろうが、屋代が職員室まで直接足を運んでいるという珍事に面白がっているようだ。はじめは興味なさげだった白石も、今は好奇心が刺激されたように目を輝かせている。


「確か椴松先生は今年で28だったか。んでお前が16…………いいんじゃないか?」

「あ、渡してくださいお願いします」


 じろじろと屋代を眺めまわしていた白石が言葉をこぼした瞬間、迷いは消えてなくなった。担任以上の感情を持っていない屋代は、変な勘繰りをされたくないと早々に封筒を手放すことにした。

 押し付けるように乱暴に手渡すと、白石が忍び笑いを漏らした。


「って、そんなに力入れるなよ。あーあ、もう、紙がくしゃくしゃになってるじゃん。紙ってのはもっと大切に扱えよ? 昔は作る手段が限られていたから最高品質のものは神様に捧げていたことさえある重要な品なんだから」


 え、そうなのか?

 さらりと披露された情報に屋代の目が点になるが、白石は白石で目を丸くした。


「退学届ぇ?」「ちょっ、声が大きい!」


 皺を伸ばして綺麗にした封筒、そこに記された言葉に白石の口から調子の外れた声が飛び出す。

 慌てて周囲を見渡すが、幸いにも生徒の姿はなかった。恥じることは何もないが、むやみに吹聴したいことでもなかった屋代は安堵する。


「いや、ちょっと、これ。どういうこと??」

「むしろ俺の方がどういうこと、と聞きたいんだが。なんでそんなに混乱してるんだ」


 過剰ともとれる驚きように、屋代は首を傾げた。白石とは特別交流があったわけではなかったはずだ。せいぜい祈相術の授業で迷惑をかけていた、程度の付き合いだったように思う。

 だというのに、白石は目をすがめながら書き間違い見間違いではないかと、封筒をひたすら凝視している。


「………うーん、これさ、校長には見せたの?」

「神様に? いや、言ってもいないが」

 

 白石の問いかけに否定を返す。

 祈相術を使えなくなりました。だから辞めます、とは、いくら養子の関係とはいえ、校長相手に言えることではなかった。相談することさえ憚れたので、今日まで友人にもいうことなく一人で考えてきた。そう答えた屋代に、白石はどこか納得したとばかりに頷いた。


「なるほどねぇ。だからこんな可笑しな物を作ってきちゃったわけだ。そもそもなんで出そうと思ったわけ? 何かあったの?」


 でも虐め問題なら面倒だから教えないで、と教師にあるまじきことを平然とのたまう白石。


「何があったも何も。一般的な祈相術が使えなくなったんだ。学校に在籍し続けることはできないだろ?」

「あ~、そう言えば聞かされたような気が……」


 白石が視線を明後日の方向に向けて思い出そうとする。が、一向に続きが出てこないことに屋代の目が呆れを帯びた。


「忘れたのか?」「あっはっはっ」「笑ってごまかすな」


 いやぁ酒は怖いねぇ、などと口にする白石に悪びれた様子はなかった。

 酒も飲んでいないのに頭痛を覚えた屋代は、自分で言葉にするにはいささか抵抗を覚えながら言う。


「この間の、神の悪戯で怪我しただろ? あの時、神経? 回路? が、壊れたみたいで、特定の祈相術しか使えなくなったんだ。まあ使えるようになっただけありがたいんだが、おかげで祭事なんかで使う術は一切発動できなくなった。これじゃあ神職になることなんて不可能だろ」


 文字通り欠陥を抱えた人間になったのだと語るが、真実はもっと単純。とある少女から貰った種を植えられたことで魔法が使えるようになっただけだ。ただ、そのまま事実を伝えると少女が困るそうなので、相談した結果今口にしたような嘘をでっち上げた。幸い、その場にいた人間は皆気を失うか動けない状況にあったため、知っているのは当事者二人、いや、のちに話をした神様も含めると三人のみとなる。


「はーん、そうだっけ……いや、しっかり覚えてましたけどね? 記憶してましたがね? ただほんの少~し脳の奥にしまい込んでただけだから」


 首を何度も縦に振る白石に、屋代は覚えているなら説明させるなと顔を顰めた。


「それで退学届か。でもなぁ、どうにも信じられないというか納得しかねるというか。正直聞いた時は耳を疑ったんだけど……神様を止めたって話、あれ、本当のこと?」


 聞いた時、といってはいるが今でも疑っているのだろう。疑念のこもった視線が屋代に向けられる。


「………本当だよ、一応は」


 もう何度となく尋ねられたことに、屋代は憮然となって答えた。

 屋代が魔法使いとなるきっかけになった事件があった。神様を操り、自らを虐げた神を相手に復讐しようと目論んだ先代校長が起こした事件だ。その過程において重傷を負った屋代は魔法使いとなり、とある少女と二人で操られた神と戦いその侵攻を阻止したのである。街や人に大きな被害をもたらしたその事件は、表向き神の悪戯、いわゆる人の社会に縛られた神による抑圧の発散行動として報じられた。

 その最たる理由は神を操るという、社会を覆す代物が使われたからだろう。当事者以外には秘匿され、関係者に伝えられたのは神の悪戯を止めた屋代のことだけであった。

 とはいえ、それを頭から信じる者は少ない。もとより祈相術を使えなかった屋代が特異な術を使えるようになり、あまつさえ神を阻んだという話は、屋代を知っている者たちからすればあまりに嘘くさかった。いっそ初めから実力があって隠していたのだといわれた方が信憑性があるほどだ。協力者がいたとはいえ神と対峙するとは、そして勝利するということはそれほど信じがたいことなのだ。白石が疑うのも無理はなく、屋代とてこれが自分のことでなければ訝しんでいただろう。


「ふ~ん、まあ上から聞かされてたけどさ。へぇ、そう。神様を相手にしたわけか。自分の意志で……だから………」


 信じる気がかけらも見えない白石ではあったが、口元に手を当て何事かを考える仕草を取った。屋代としては、事実を疑われることに面白いわけもなく、唇をへの字に曲げて抗議を示すほかない。


「ん、まあ一応小指の先程度は信じるか」

「それ、ほとんど信じてないってことじゃないか?」

「生徒じゃなかったらそれこそ寸毫も信じないっての」


 つまり、屋代個人としてでなく学校の生徒だからという、なんとも冷静な判断によるものなわけだ。個人的には不服ではあったが、信用される要素がどこにもないので言い返せない。

 数瞬言葉を探した屋代は、結局反論を諦めた。大きく息を吐き出して、踵を返そうとする。


「とにかくその退学届はお任せします。必ず渡してください」


 これ以上ここにいても仕方がない。机周りの整理もしなければならないと、頭の中でやるべきことを考える屋代だったが、ぽすっ、と頭に何かがのっかった。


「前言撤回。返すわそれ」


 思わず足を止めて頭上を探れば、それは白石に渡したばかりの退学届の入った封筒だった。


「どういうつもりだよ」


 これにはさすがに声音も上擦る。悩みに悩んで書き上げた屋代の一筆がこうもあっさりと返却されたことに、いっそ馬鹿にされているのかと感じてしまう。

 眉間に皺を寄せた屋代に笑いながら、白石は肩をすくめた。


「ははっ、まあそう怒るなって。おふざけでこんなつまんないことはしないよ。ただそれを出すのはもうちょっと待っとけってこと。具体的に言うなら放課後にしな」

「は、はぁ。なんで放課後……待てというなら待つけども……」


 その理由はなんだ。

 そう視線で問いかけてみるが、白石に応える気はないようでニヤ付く笑みを浮かべるだけだった。どうにもその、事情を分かっている風な優越感が鬱陶しい。屋代が瞳を鋭くしても変わらない態度に、話す気がないことを理解する。深いため息をついて、乱暴な手つきで懐にしまった。

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