2章

1-1

 古い建築物が数多く残るその町は、美しい景観を保持する場所だと近隣諸国に知られていた。煉瓦で舗装された地面は、近代の統一されたコンクリートにはない人のぬくもりを感じさせ、その上に建てられた建物との調和が図られている。同じ色合いと材質をもって立ち並ぶ商店街の店先には、古木で仕上げられた看板が人目を引く。冬ともなれば住宅の煙突から煙が立ち上らない日はなく、夏には爽やかな風を感じる。何十年、何百年と積み重ねられた歴史の中で、その町だけがある時代を切り取ったかのように歩みを止めていた。決して取り残されたわけではなく、その時代だからこそ残せる何かを大切にしようと、そこに住む者らが自らの意思で足を止めているのだ。彼らの努力があり、そうして蓄えてきた技術をもって町は現代でも生きていた。

 観光地としても名が高かく、休日ともなれば人の出入りが絶えなかった。遊園地のように来場者を楽しませる遊具はない。しかし煉瓦を積み重ねて彩られた街並みは、どこか心を落ち着ける雰囲気を漂わせていた。それは何も、町の彩だけで作られたわけではない。そこに住まう者たちもまた、人々を歓迎する一因になっていた。朝早くから焼いたパンのこうばしい香り、道ですれ違う者への屈託ない挨拶、困っていれば誰かが手を差し伸べる自然な優しさ。あるいはそうした素朴な、郷愁を感じさせる空気に触れたいがために、外の人は足を運ぶのかもしれない。都会とは違う、穏やかなぬくもりとゆっくり刻まれる時間に包まれたいがために。

 そうして来るものを拒むことがない町は――――だから、災厄を招いてしまったのかもしれない。


「…………」


 破壊、粉砕、崩壊の嵐。

 丁寧に敷き詰められていた煉瓦は欠片に至るまで砂と化していた。街路を彩っていた花々は無残に散り風に踊ることなく燃え尽きる。今日まで何度も修繕を繰り返し、利用されていた建築物たちは原型を思い出せないほど瓦礫と化していた。町の方々で立ち上る煙は、あるいは壊されたことに対する住宅の抗議かもしれない。

 蹂躙されつくしたその光景を見て、誰が理解できるだろう。ここがあの美しい町並みを残した古都であったという事実を。優しい雰囲気に包まれた町などどこにもない。あるのは声なき悲鳴と今なお続く破壊の音楽だけ。

 そうして、それらを彩るのは赤い血しぶき。残骸の隙間から覗いているのは誰かの手足だったもの。虚ろな眼差しで空を見上げる女の体はどこにもなく、半開きの口からは新鮮な血液が垂れている。その隣では苦悶に歪んだ唇が特徴的な、顔の半分を失った男の死体が横たわっていた。住宅の下から伸びているのは助けを求めた腕、その先には人の足だけが地面に立っている。何人も、何十人もの人の死が添えられている。

 だが……少ない。たとえ破壊の風に巻き込まれたとしても、町の規模を考えるのならばこの数十倍の人が死していてもおかしくない。そしてよく観察してみると、倒れている彼らもまた町人とは言い難い服装をしていた。今でこそ自らの血と泥で汚れきっているが、元は無地の純白だったのだろう。丁寧に作られたと思しき服は、意匠の違いこそあれ共通点の多いものだった。神に仕える聖職者が着る服と同一のものである。


「………っ……」


 さもあらん。彼らはまごうことなき聖職者。奉じる神に仕えることを第一とする、現代社会においてもっとも重要な役割を果たす者たちだ。普段は神の神殿で奉仕し、時には自らの命をもって神を諫めることさえあるエリートたち。優秀、選ばれたもの。呼び方は何でもいいが、とかく優れた者たちと言って差支えのない、そんな存在が無様に躯を晒していた。ぽつり、と降り出した水滴が冷えた人肌に触れた。まるでそれに釣られたかのように、すぐに大量の雨となって地面を濡らしていく。流れる血とまじりあい独特の色合いを帯びさせながら、溢れた水が大地を流れていく。鼻を衝く臭いが立ち込める中、かすかな慟哭が空気を揺らした。


「………あぁぁぁっ」


 少女だ。まだ十代も半ば、ともするとそれより少し幼いくらいの見た目をしている。汚い地面に転がっている者たちと似た格好は、彼らと同じ存在なのだと示していた。しかし、彼らと違い、少女はまだ生きていた。


「うっ、うぁあっ、ああああああああ」


 だが、少女の状態も決して良好とはいえない。死こそ免れているが重症と呼んでも差し支えなく、体の至るところから血を流していた。打撲、切り傷はもちろん、何より明後日の方向を向いている腕が痛々しい。曲がってはいけない角度を取った腕は赤黒くはれ上がり、服の袖を内側から膨らませていた。

 少女は折れた腕を――しかし、かばうようなそぶりもなく、ただ涙していた。


「か、みさまぁ」


 もう一方の手から零れる光の粒子は、少女の眼前で淡く消えていく。そこに何があったのか、痕跡さえ残せず消滅していくその何かに少女の瞳から涙が止まらない。必死に掴み取ろうとする隙間から、未練もなく天へと還っていく。


「う――ぁぁぁぁ」


 苦痛と後悔と絶望と。あらゆる自責の念が少女の顔を歪めた。愛らしく整った容姿をぐしゃぐしゃにして、取り繕うことなく声を吐き出す。雨音が強まる中であっても消えることのない痛哭が、むなしく空気を揺らした。


「――――――――」


 そして、そんな少女の悲痛な叫びをかき消すほどの轟音が響いた。まるで世界そのものを揺らさんとするかのような爆音。近くに居れば鼓膜が裂けてそれだけで血を流すだろう。そう思わせるほどの音の暴力が、雨を吹き飛ばして瓦礫の町を席巻した。


「っっっ!」


 聞こえてきた咆哮に少女の体が震えた。俯けていた顔を跳ね上げる。天敵に見つかった小動物、あるいは捕食者に見つからないよう隠れ場所を求める被捕食者。少女は怯えているのだと自覚のないまま瞳を周囲に配り、破壊された町の中で唯一そびえたつ存在をとらえた。


「う、、」


 巨人、いいや、巨大な神がそこにいた。

 身の丈は天を付かんほど巨大だった。彼女が首を痛くしなければ頭を確認できないほどの全長。その体は光で編まれたかのように輝き、高さにふさわしい体格を誇っていた。はっきりと見ることのできない目鼻は潰れたようにくぼみ、重力に逆らう髪は一本一本が大蛇のごとく太い。見る者すべてに、己は神であると語り掛けるような神々しさを纏っている。知らぬものが見れば、どこぞの偉大な主神だと思っただろう。黙って立っているだけで拝みたくなるほど、人が想像する神様らしい神であった。

 しかし、その所業は人を慈しむ神のそれではない。


「―――!」


 おおよそまともな言語ではない、ただ音。口から放たれ町一つを包みこむその爆音だけで、まだ形を保っていた建築物が彼方へと吹き飛ばされた。体を伏せた彼女が恐る恐る視線を持ち上げれば、巨神を中心にして更地が出来上がっている。町にできた惨状と全く同じもの。何度となく耳に叩き込まれ、嫌というほど味わう羽目になった、攻撃とも呼べないような咆哮だ。美しかった町を、少女の大切な存在を、そして同僚たちを打ち壊した破壊の波。


「っ」


 彼女は強く奥歯を噛み締めた。その圧倒的な巨体を目の当たりにして、力を体感した今、巨神を見ただけで力が抜けそうになる。無力な獲物が捕食者の前で脱力するように、抵抗しても無駄なのだと本能が悟ってしまっている。見逃してもらおうとか、助けてもらおうなどと考えていない。ただただ、自分の命を諦めてしまうのだ。抗うことに意味はなく、むしろ苦痛の時間が長引くだけだと生存を投げ出そうとする。

 だがそれは、少女を生かしてくれた者に対してあまりに不義理すぎた。まだ死んでもいないのに、命を捨てるような行為をするなと、本能を義理で縛る。


「………」


 だが、踏みとどまったところで少女にできることはない。数多の神を倒した怪物、無数の権能を踏みつぶしてきた破壊神。人間ごときの術が通じるはずもなく、事実として少女の持つ術など意に介さず弾かれた。鼬の最後っ屁、蜂の一刺しにもならない。無駄に体力を使うだけで終わるだろう。では術ではなく物理的な手段であればどうか。大質量の砲弾ならば、あるいは多少の傷を負わせられるかもしれない。大量に、それも一斉射撃を行えば万が一の確率で倒せるかもしれない……そもそもそんな兵器を持っているはずもなく、また持っていても可能性の域を出ないという事実はあるが。

 生身は論外。少女の肉体どうのという問題ではない。というよりも、肉体の強弱、耐久力など関係ないのだ。どれだけ鍛えようと人間の肉体には限界があり、そして巨神の体はその限界値をはるかに超える強度を持つ。少女が人間種の中で最強の腕力を誇っていたとしても、その拳は痣を作るどころか痛痒さえ感じさせないだろう。つまり意味がない。

 結論として、やはり、少女にできることは何もないのだ。巨神に目をつけられたが最後、戦いにもならず苦悶を上げながら握りつぶされ、転がる同僚たちと同じ末路をたどることになる。少女を生かしてくれた存在に謝れることだけが唯一の救いだ。


「……どう、して」

 

 だが、現実としてそうなっていない。先ほどから響く巨神の咆哮も、振り下ろされる拳も、少女とは全く見当違いの場所を狙って放たれていた。少女の存在に気づいたそぶりもなく、巨神は天を突かんばかりの巨体を暴れさせている。全身から放たれる光をさらに輝かせて、おそらく何かの権能だろう、神としての能力までも振るっていた。その矛先では――数人の人影が舞い踊っていた。


「なん、で……」


 少女の位置からではあまりに遠すぎて顔まで把握できない。だが遠目だからこそ、その異常さを把握できた。


「………なんでっ」


 巨神の攻撃を避けている。一薙ぎされるだけで容易に建築物が吹き飛ぶ、そんな拳を彼らは容易に潜り抜けていた。もちろん巨神の動きは大ぶりだ。技術的なことを言えば間違いなく素人の動きであろう。体の大きさが同程度であれば少女であっても簡単に避けられはするが、残念ながら巨神と人の大きさは象と蟻ほども違う。どれほど分かりやすい動きも、その速度が遅くとも、攻撃の規模が違いすぎる。

 破壊された様々な残骸が凶器となって飛んでくることも危険だった。元は人が利用するために作り出されたとはいえ、その強度は人体を超える物がほとんどだ。巻き散らかされたそれは、時に鋭い刃となって少女たちを襲った。

 だというのに、その人影は全てを回避している。巨神の体を踏み台にして、あるいは陰に隠れて。その動きはとうてい追いきれるものではなく、少女の目には一本の線のようにも見えた。


「………」


 ぐっ、と、さっきとは別の意味で口を引き結ぶ。極限まで開いた目が僅かでも見逃せないと瞬きを忘れた。

 息をつめて見ている少女の前で数多の術が乱舞し、そのたびに重心をぐらつかせて巨神が揺らいでいる。あれほど絶対的な壁として見えていた怪物が、少女たちでは体勢を崩すことさえできなかった大敵が、わずか数人によって打ち崩されようとしている。その事実に、少女は無意識に歯を食いしばっていた。


「私たちは――っ」


 巨神の眼前に、人影の一つが飛び込んだ。抜き放たれた拳が巨神の顔を揺らし、上体を泳がせる。

 武器らしい武器を持たず、先に考えた生身という狂気の状態でありながら、巨神を討伐せんと渡り合う。その姿に、少女の顔が知らず歪んでいた。


「私はっ」


 人を超える存在、それも神々でさえ歯が立たなかった相手を前に、人が立ち向かう。まるで作り話のようだ。超えることの難しい存在を打倒せんと、その身を奮い立たせる素晴らしい光景、伝説に記されるべき状況だ。これで巨神を倒せたのなら、偉業と呼ばれて称えられるべきものだ。万来の拍手を持って、彼らの名と姿は永遠に語り継がれるだろう。もしも彼女以外のこの戦いを目撃しているものが居れば、その幸運に感謝したかもしれない。


「――――」


 けれど、少女の顔に笑みはなく、さりとて彼らを応援する声を上げるわけでもなく。

 巨神の首がちぎれ飛んでも喝采を上げることはなく。

 暗く淀んだ目は、健闘を称え合う彼らをじっと見つめていた。腕の痛みが熱を訴える中、何かを堪えるようにじっと。

 ◇

『――どうかしたか、英雄殿?』


 電話越しに呼びかけられて、ふと彼女は意識の焦点を取り戻した。


「何でもない。気にしないでほしい」


 数瞬、過去へと飛んでいた。

 瞬きを繰り返して、彼女を視線をぐるりと周囲に向けた。窓に近い位置にある寝台、背の低いテーブルが1台、あとは食品を貯めておくための冷蔵庫と解凍器具。実際に少女が暮らしているため無機質というわけではないが、なんら装飾もなくほぼ白一色で統一された室内は住む者の心情をよく現わしていた。


『そう言わんでくれ。我が国を救った英雄にもしものことがあれば一大事だ。不調、病気、環境の有無。何か問題があるならば些細なことでも教えてほしい』


 通話先からの男の声は、なるほど言葉通り心配そうな色に聞こえた。だが、少女は皮肉気に唇を歪めた。


「自国から私を追い出しておきながら随分と白々しいな。調子だと? ああ、貴方の声を聴くまではマシだった」


 男とは対照的に、少女の台詞は棘に満ちていた。内と外、両方に向かってびっしり生えた少女の茨に、男が苦笑する気配が伝わってくる。


『人聞きが悪いな。我々はキミのことを思ってそちらへの留学を進めただけだ。それに最終的に決めたのはキミ自身だったはずだ。非難するには少し間違っていないか?』

「ふん」


 少女は鼻から息を吐き出して返答を避けた。留学それ自体に興味があったわけではない。行先さえもどうでもよく、彼女はただ自国内に居たくなかっただけのこと。他国への留学という話を男から持ち掛けられて渡りに船だと乗ったのは彼女の意思によるものだ。

 男――少女の職場における知り合いであり、自国内における権力者の一人に言う。


「それで、一体何の用だ。定期連絡ならこの前済ませたばかりのはずだ」


 別に男は少女にとって保護者でもなければ身元保証人でもない。かつて少女が司祭だったころに付き合いのあった、職場上の関係に過ぎない。それでもあの事件からこちら、何かと世話を焼き、折を見ては少女を気にかけて来ることもあって、ほかの大人たちと違い会話する程度の交流があった。


『さっきも言ったとおりだ。コチラから提案した手前、キミにもしものことがあってはいけないからな。こうして随時電話しているのさ』

「そんなに気になるなら監視の一人でもつきておけばいい。いちいち話す手間が省ける」

『おいおい、何のためにキミ一人での留学を提案したと思っている? せっかく周りの目がない場所なんだ、ゆっくり羽を伸ばしてくるといい』


 その物言いは、肩をすくめて飄々とした調子で語る男の様が見えるようだった。少女はわずかに目を細め、窓から見える夜空を見上げた。


「………そうか。その気遣いは感謝する」


 本当に心の底から少女の身を考えてのものならば、だ。

 しかし、それだけではないことを彼女は知っている。男が立場上、少女の管理を担当していることを。身を案じているという言葉に嘘はないだろうが、それと同時に彼女という道具をいかに使えば己の利益、ひいては国の利益になるのかを計算している。そのためにも少女にはなるべく無傷な状態でいてほしい。男にとって、少女はそういう存在であるのだろう。


『なに、万全ならいうことなしだ。キミは我が国の英雄、無事でいてくれるというだけで勇気づけられる国民は大勢いる』

「―――英雄などと呼ぶな」


 手の中の携帯端末が軋む。うす暗い部屋の中、少女の瞳が瞳孔を開く。

 少女の雰囲気が変わり、今にも飛び出さんばかりの激情が渦を巻きだす。低い声色にわずかに漏れ出た怒りの感情、その些細な変化を聞き取った男が落ち着きを促した。


『オーケーだ。少し落ち着きなさい。キミがそう呼ばれること嫌っているのは知っている。そしてその理由も。だが、たとえキミ自身が否定しても我々にとってキミは英雄だ。キミが居てくれたからこそ、国は折った膝を再び持ち上げ歩き出すことが出来たんだ』

「ただの偶像だ。私が倒したわけではない」

『当然知っている。しかし知らない国民から見ればキミこそがスターだ。これまでもさんざん話しただろう?』


 聞き分けろと諭してくる男に、少女の眉間に皺が寄る。

 男の言っていることは、正直理解できなくもなかった。少女とて愚かではない。少女は英雄として在る事が必要なのは、理屈の上で知っていた。しかし感情は別である。己がそう呼ばれるべき存在でないことは、誰でもない彼女自身が分かっていた。本当にそう呼ばれて称えられべき者たちを知っているからこそ、余計に腹が立つのだ。


「もういい。要件はそれで終わりか?」


 だが結局、その苛立ちを発露することはなかった。男の言う通り、似たような問答は国内にいた時から行っていた。そのたびに諭され、なだめられ、熱した鉛を飲み込めと黙らされた苦い記憶が脳裏をよぎったからだ。これ以上続けても感情が込み上げてくるだけだと、いささか強引に話を打ち切る。

 少女の態度に、男の安心した声が続く。


『いや、まだ終わりじゃない。国に進展があった、今日はそのことを伝えたくてな。キミも気になっていただろう?』

「……聞く」


 男の話に、少女は頷いた。見抜かれているのは少々癪に障るが、確かに気にはなっていた。あの事件によって大きく傷ついた祖国がどうなったのか。


『例の協会が支援してくれているため、復興はどうにかめどが立った。距離として少し離れてはいるが他の神も協力してくれるそうだ。ただやはり、以前に話した通り他国との合併は決定事項となった』

「そうか……」

『ああ、しかし悪いことではない。これまでも経済的にはつながっていたようなものだ。文化的な擦り合わせは難しいだろうが、我々にとって国が大きくなるとも捉えられる』


 キミのおかげだ、と言われて少女の口がへの字に曲がる。他国との合併、と一言で言われても少女にその困難さを理解することはできない。こと政治について少女は関わっておらず、いかに男がその話にこぎつけたのかも分からなかった。祖国の文化、通貨など、他国のそれと話合わなければならないことは数多いだろう。苦労しそうだが、何とはなく、自分の名前と立場を使われたと察して少女は心に靄を抱いた。


『キミが帰って来るころには見られる程度には元に戻っているはずだ。期待しているといい』


 言葉の端々に誇らしげな響きを纏わせる男に、少女は目を細めた。思い浮かべるのは故郷の姿。事件の直接被害は受けなかったが、それでもそこに住む人々の顔は確かに変わった。不安と恐怖に苛まれ、それでも破壊された町に支援の手を差し伸べようと足掻いていた姿が記憶にこびりついている。彼らが一息つけるというのであれば、それは確かに朗報だろう。

 少女にとっては、ひどく複雑なものであるが。


『私からの話はこれで終わりだが、キミからも何か言っておくことはあるか?』

「いや―――ある。少し前、この国であの女を見かけた」


 ない、と言いかけた口を止める。僅かな迷いの後、言葉を紡いだ。


『…それは確かか?』

「私が見間違えるものか。あれは確かにあいつだった」


 少女の瞳の先、薄暗い部屋の中にあって、まるでそこにいるかのように視線を厳しくする。無意識に奥歯を噛み締めた少女に充てられるように、通話越しの男が沈黙した。


『………しかし、いや、居ても不思議ではないか。もとより彼らは世界のどこにでも足を延ばせる。その島国に居たとしても別段可笑しな話ではないが』


 偶然か、それとも何らかの意図があっての行動か。

 男が困惑している様子が手に取るように分かる。少女も初めて見た時には目を疑った。この世には自分とよく似た人間が3人いるという話も聞いたことがある。だから、他人の空似なのだと考えもしたが、どう見てもあれはあの女だった。少女の瞳に焼き付いて離れない姿と何ら変わることのない立ち姿、思い出すだけで腕に力が入る。


『いくら問い合わせても情報を得ることが出来なかった彼らの内の一人がその国に……いや、不用意な接触は避けねばならんか……』


 今からでも人を送ればあるいは、と、少女のことも忘れて呟く男。少女は息を吐き出した。

 あの事件の詳細を少女から聞いている男は、ゆえに、情報に飢えている。わずか数人で事件を収束させた人物たち。人間の枠組みをはるかに超えた能力を有しているという話は、事実を前にして確かな証拠となっていた。支援を受けている立場である以上、強引に頭を突っ込んでは軋轢となるが、詳細を得る機会を前に男の思考が加速しているのだろう。

 無理にでも話を聞くべきか否か、そのあたりの面倒な思考は男がすればいいと、少女はなげやりに思う。少女にとって重要なのは、今この国に、女がいるという現実だけだ。そして、それは手を伸ばせば触れられる距離にある。

 無意識に持ち上げていた腕を振りおろした、


「私からの報告は以上だ。次は定期に連絡する」

『やはり強引な方法は……ん。あ、ああ、分かった。報告感謝する。……くれぐれも先走った行動はとらないでくれ』


 ピッ、と切られた携帯端末を放り投げる。

 最後に余計な言葉を加えられた少女は、しかし、男の危惧を現わすかのように冷めた視線をした。


「ファナディア・ソーサー……」


 窓から見上げる夜空には星明りを見つけることはできない。薄く雲の覆った景色に呟きを落とし、少女は荒々しくカーテンを引いた。

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