4-4

「おお、なんと素晴らしい」

 

 冴木は感嘆の息を吐き出した。

 雲が天を多い、うす暗く陰った世界の中、集った多くの神職たちが地に伏している。


「っぁ」

 

 隣から聞こえる嗚咽のような声色を聞き流し、うっとりと目を細めた。そこかしこで倒壊している建築物、水が噴出し、電線が火花を散らしている。つい数分前まで綺麗に舗装されていた大通りも、冴木の操る白穂神にかかれば危険地帯に早変わり。生身で歩けば数歩も行かずに血まみれとなる危ない道となった。そんな場所で五体を投げ出し、力なく横たわる者たちのなんと無様なことか。水辺に打ち上げられた魚のごとく無力なその姿に、冴木の気分はどうしようもなく高ぶっていた。


「くくくく。記憶もない無能な神と思っていたが、これほどの力があったとは……私はなんと幸運なのか」


 屋代たちにも言ったように、白穂神に権能が備わっていること自体予想していなかった。もちろん神というからには何かしらあると考えていたが、とても使える能力ではないと考えていた。当初の計画では浄環ノ神の力で眷族を作り出し、神職たちを排除する予定であったが、白穂神の力があまりに強大すぎた。神職たちが祈相術を発動させる暇も与えられず空を吹き飛ばされる様は見ていて爽快であった。

 蹂躙された大地を踏みしめながら、冴木は万感の思いを口にする。


「ようやく、ここまで来たのだ」

 

 脳裏に浮かぶのは屈辱の日々。耳の奥で木霊するのは数多の嘲笑。

 自らの夢を嘲られ、唾を吐きかけられた過去があった。どれほど願い、焦がれ、そうして積み重ねた時間と技術も認められず。曲がった未来の先で見つけた別の光もごくあっさりと奪われた。


「今にして思えば感謝出来よう。なにせ、あれのおかげで社会というものが、神という存在がどれだけ理不尽な存在なのか知れることが出来たのだから」


 神の一声は簡単に人の夢を奪う。そして、奪ったことさえ気にかけることがない。校長という職を追われ、学校にいられなくなった冴木の末路は悲惨であった。どこに行っても憐みの目で見られ、そのくせ関わっては神に何をされるか分からないと遠ざけられる。腫れもの扱いで触れることさえ忌避され続けた。


「…………」


 あの頃を思い出し、冴木の眉間に皺が寄る。

 冴木に落ち度はない。少なくとも、自覚できる程度の大きな失敗はなかった。それでも、神に職を下ろされたという事実が人々の憶測を生んだ。ありもしない失敗談、一度とて受けたことのない刑罰、犯したことのない犯罪。ねつ造という意識さえないまま、無数の罪が作り出され、まともな職にありつけぬ日々。ままならない苛立ちをぶつけるように酒を飲む毎日を過ごした。


「ふっ」


 そうして、冴木は運命に出会った。長布を着た、見るからに怪しい風貌の男。しかし、酒に酔うのが日常と化していた冴木にとって、見た目など大して気にならなかった。鈍った思考は、見慣れないからこそ愚痴る相手にはもってこいだと判断して男に絡んだ。男も見た目とは裏腹に付き合いよく、気づけば自らの素性や鬱憤をぶちまけていた。

 神の不平を非難し、横暴を怒り、理不尽を嘆いた。己に力があれば罪を清算させてやると息巻いた。そんな冴木に、男は与えくれたのだ。神を操る神秘の短剣を。


「彼には感謝してもしきれません」


 そっと、冴木の横で立ち尽くしている白穂神に刺さったままの柄に触れる。途端、体を痙攣させた白穂神に構わず命令を下す。


「とどめを刺しなさい」


 震えながら持ち上げられる両腕。だが、その動きは半ばで止まる。


「っ、っう」

「ふん」


 痛々しく歪む白穂神の表情。こらえるように食いしばった歯の隙間から苦悶が漏れた。縛られ、命令を聞くだけの意識の端で、かろうじて残る彼女本来の意思が必死で抗う。


「またですか」


 先ほどもそうだった。瀕死まで追い込みながら、最後のとどめを刺さなかった。


「浄環ノ神とは比べ物になりませんね。その意思の強さだけは驚嘆に値します……、一体どこにそれほどの強さを隠していたのか」


 本当ならば、すでに白穂神は操れているはずだった。

 男に与えられた短剣は、刺した相手の思考を書き換える。少なくとも冴木はそう聞かされていた。男が浄環ノ神を操るため、穢れの対象を拡大させて人間に原因があると認識させた時も、さほど時間をかけず改変できていた。一度書き換えれば短剣を必要としない。なのに、白穂神がまだ踏みとどまって居ることに、冴木は地面を蹴りつけた。


「使途ヨ。殺さぬノンラバ我ガヤロウ」

「いいえ。浄環ノ神。ここで悪戯に時間をかけるのは悪手でしょう。我々の目的はあくまで学生。まだ未熟故分別もつかず、この世界を汚す事にためらいもない愚かな子供たちの抹殺です」


 掲げた腕をおろした浄環ノ神に、冴木は冷めた視線を向けた。浄環ノ神に施した改変は、あくまで穢れの対象および、冴木のみを信徒として認識する程度のもの。それがこうまでためらいのない行動を起こしているのは、もとよりそういった考えが浄環ノ神にあったからだろう。これまでは人の社会にとって重要かつ大切な存在だからと見過ごされてきた本性は、冴木に操られたことでむき出しになった。

 人の生命は、神にとってさほど重いものではないという事実。

 それを目の当たりにしても、冴木に怒りはなかった。すでに神という存在を見限り失望しているためだ。こんなものに依存している人々に、そして過去の己に嫌悪を抱くだけである。


「……まあいいでしょう。本番はこれからです」


 浄環ノ神にも言ったように、狙う学生たちはここに居なかった。ならば別の眷族に対処している者たちを狙うだけだ。

 冴木は将来を見据えていない。神によって地に叩きつけられ、男に救われたその瞬間から、冴木は未来を捨てていた。学生たちを殺害したその時が冴木の終わりである。


「行きましょう」


 冴木の命に神が従う。一柱は淡々と。もう一柱は無理やりに。

 砕かれて歩きにくくなった歩道は、冴木にしてみれば豪奢に彩られた絨毯だ。自分の先を暗示するような割れた舗装路を、確かな足で踏みしめる。

 それを止める者はいない。皆が皆、呻くだけの人形となって虚ろな眼差しを向けるだけだ。

 結局、神職といってもこんなものだ。かつて憧れた厳めしい雰囲気など表面上に過ぎず、一皮剥げば生身の人間。どれだけ気高い目標を掲げようと、胸を張って生きようと、多大な感謝を、あるいは崇拝を捧げても死ねば同じ。命の危機を前に、まだ動ける体より先に心が折れる。そうして敵であるはずの冴木の慈悲を乞おうと縋り、関わりたくないと体を縮こまらせる。

 強大な敵に立ち向かおうという気概はどこにもなく、地に伏せる情けなさに冴木がひときわ強く足を踏みだして。


「やっと追いついた」


 冴木の進路上に立ちふさがった少年に、片方の眉だけを器用に動かした。


「これは驚いた。いったいどんな手品を使ったのかね?」

「……種だよ。文字通り」


 致命傷を負っていたはずの屋代がそこにいた。

 白穂神によって付けられた傷は塞がれ、真新しいピンクの肌が服の隙間から見えている、血を流した跡が全身に見て取れたが、動きに支障はないのか二本の足でしっかり大地を踏みしめている、


「びっくり。本当に神様が人に従ってる」


 その隣には、屋代と同年代の少女。学生服姿でないところを見るに、一般人なのかもしれない。だが、ただの一般人であるはずもない。壊された街並みと倒れる神職、そして神を操る冴木を見て純粋に驚くだけの者を、そうとは呼ぶまい。


「それで、一体何の用かな? 私は少々忙しいのだが」

「面白いことを言うな。用なんて一つしかないだろ」


 屋代の発声は明瞭だ。少しも苦しむ様子がなく、疲労の色もほとんど見えない。本当に、この短時間に体を治療したのかと疑問と警戒心が湧き上がる。


「返してもらうぞ、白穂神を」


 冴木を睨むその目には、確かな光が宿っていた。祈相術を使えないという負い目と不安がちらついていた瞳が消え失せ、代わりに鎮座しているのは白穂神を取り返すという強さのみ。冴木はもとより神二柱を前にして一歩も下がらない、制する気概が満ちている。


「傲慢なことだ。返してもらう、などと」


 ため息を吐くふりをしながら、浮き出てきた汗を振り払う。順調だったはずの道が、急に阻まれた感触。自らの終わりが別の形に変貌してしまう危機感が、冴木の首を撫でた。


「馬鹿なことを」


 だが、冴木は気のせいだと切って捨てる。どんな術を使ったか分からないが、なるほど体は回復しているらしい。祈相術を使えるようになったかは不明だが、大方隣の少女に直してもらったのだろう。となれば、注目すべき屋代ではなく少女の方だ。他者を癒す、というより肉体に働きかける祈相術は聞いたことがなかった。


「ん、大体わかった」


 警戒する冴木をよそに、少女は納得したと頷いた。かけていた眼鏡を屋代の方に差し出し、自身は手足を伸ばして軽い運動を始めてしまう。


「大丈夫、まだ取り戻せる」

「本当か!?」

「うん」


 屋代たちのやり取りを聞いた冴木の額に線が走る。


「何を愚かな……彼らはすでに私の支配下。取り戻すなど、軽々に口にするものではありません」

「随分と珍しい短剣。どこで手に入れた?」

「………キミには分からない場所でですよ」


 珍しい、と指摘された冴木の頬が揺れる。だが、白穂神を知っていれば胸に突き立つ剣を怪しまない人はいないだろう。それだけで秘密を知られることは――。


「まるで生き物みたいに魔力を生成してる。そこから流れ込むように神を冒して操ってる」

「!?」


 あっさりと。男から教えられていた短剣の性質を看破された冴木が顔色を変えた。


「何故、そのことを……」

「見えただけ」


 少女の答えは端的すぎて、冴木には理解できないモノだった。


「つまり?」

「短剣を引く抜いて、それから君の魔法で神様を冒している部分を消す。水の神様は完全に変えられてしまっているから手遅れだけど、神様の方はそれで元に戻る」


 少女の推測に、屋代の唇が吊り上がる。


「了解!」


 急角度で跳ね上がる目じり。はたから見ても分かるほど全身に力が入り、前傾姿勢をとった。やるべきことが定まったからか、一片の迷いがない表情が冴木を貫く。


「………危険ですねキミは」


 一瞥しただけで短剣の、神を操る手段を看破された冴木は焦燥を現わした。どうやって見抜いたのか、それは今この場でさして問題ではない。重要なのは、白穂神を完全に操り切れていないことを知られたことだ。短剣を引き抜かれれば、冴木の目的は破たんする。それだけは何としてでも避けねばならない。


「浄環ノ神、白穂神」

「良イ。我二任せよ」「っっぅっ」


 浄環ノ神を前面に、白穂神をその後ろに下げる。


「とてもよい観察眼を持っているようだ。しかし、残念なことに現実が見えていない。キミたちの前にいるのは神だ。どうあがこうとも人ごときが勝てる相手ではない」


 いくら仕組みを把握した処で、実行できなければただの空論だ。看破された瞬間こそ焦ったものの、冴木には神が2柱居る。仮に少女が神職以上に術に精通していようと、神に勝る道理はない。むしろ、考えようによっては殺し損ねた屋代を改めて殺せる機会である。存分にいたぶった後に白穂神の手で命を奪うとしよう。

 冴木が浮かべた暗い笑み。しかし、それを見る少女の表情は変わらない。垂れ下がった目じりを、眼鏡をかけた屋代に向けた。


「私がかく乱する。どうにかして短剣を引き抜くから……キミは隙を見て魔法の準備をして」

「それじゃあソーサーさんが危険すぎる。俺も前に出るぞ」

「必要ない。ここに来るまでにも言った。キミは魔法を使えるようになったけど、身体能力は大して変わってない。前に出られると困る」


 少女は首を振って話を打ち切った。まだ何か言いたげな屋代を背後にかばい、浄環ノ神と対峙する。


「てっきり二人がかりで来ると思っていました。いいのですか? その蛮勇は身を滅ぼしますよ」


 たとえ二人同時に襲ってきたとしても死ぬまでの時間が変わるだけだが、と冴木が見下す。

 勝利することは確定していると嘲る冴木に対して、少女が訊き返した。


「そっちこそいいの?」

「おや、もしや、まだ眷族を作り出していないこと心配しているのですか? ならば不要というもの。浄環ノ神にかかれば眷族を作るなど造作もないこと。ほら」


 冴木の台詞途中から、すでに眷族は作り出されている。浄環ノ神の体から生まれるように、腹を突き破り巨大な顔、体と続いて外の世界に五体を晒す。


「ソーサーさん!」


 警戒を呼び掛ける屋代には振り返らず。

 少女の目は今なお眠たげで。ここに到着してからやる気というものを感じられないほど熱意がなくて。


「私を相手に神2柱だけで足りる?」


 神を前にして、普段と変わらない雰囲気を纏ったまま。

 そのことに冴木が慄然とした瞬間、眷族の首が千切れとんだ。

 ◇


「は?」


 それは誰が発した呟きだったのか。

 屋代だった気もするし、冴木か、はたまた浄環ノ神だったかもしれない。

 巨大な眷族の頭が空を舞っている。その光景にその場にいた者は一時思考を忘れた。


「え」


 残った眷族の体が飛散した。まるで横薙ぎの豪雨に見舞われたかのような大量の水が冴木たちに降りかかる。


「は」


 足、胴体、尻尾と丁寧にかつ徹底的に。眷族の体が消えていく。屋代の目にはそうとしか見えず、一瞬後に届く轟音が鼓膜を揺らして耳を傷める。


「え、ええええええ!?」


 屋代の驚愕をよそに、動き出したファナディアは止まらない。その背を追いかけることさえ難しい速度で、瞬く間に浄環ノ神に迫る。


「ッ浄環ノ神!」


 冴木の反応は早かった。そして、その声に応える浄環ノ神も。

 眷族が一蹴された現実の目の当たりにして混乱きわまる中で、自らの信徒を助けるべく周囲を囲む水を作り出した浄環ノ神は、美しい面立ちの顔に亀裂を入れながら腕を振るった。

 いや、振るおうとした。


「魔法パンチ」

「あ」


 何とも気が抜けるファナディアの声。しかし、その行動でもたらされる結果は劇的だった。

 浄環ノ神の腕が粉砕された。振りかぶられた浄環ノ神に合わせるように突き出されたファナディアの拳が、真正面から水壁を破り、神の腕を粉砕し、肩から先を吹き飛ばしたのだ。光となって消滅していく己の腕を、信じられないモノを見るような目で凝視する浄環ノ神。これまで体を傷つけられることがなかったからか、次の行動に移るよりも先に驚きが勝った。


「魔法キック」


 そうして惚けた隙をファナディアは見逃さなかった。一気呵成、息する暇もないまま鞭のごとく足をしならせる。側頭部、肩、脇腹、太ももと、脚力に物を言わせた連打を浴びせた。


「ばっ――」


 何かを口にしかけた浄環ノ神の頭が潰れる。流石に首こそもげなかったが、ファナディアによる脚撃によって削られた肉体は光をまき散らし、はるか彼方に飛んでいく。


「ごめんなさい。殺しはしないけど、動けない程度には弱らせておく」


 ファナディアは建物に突っ込んだ浄環ノ神を見送ると、首を巡らせて冴木に視線を合わせた。


「っっっっ」


 悲鳴を飲み込む音がした。あれほど強気だった冴木の顔が、見るも無残な色に変わる。

 なにせ、神を目の前で圧倒されたのだ。ファナディアの規格外すぎる身体能力に恐怖を覚えることはごく自然な反応だった。


「おぉう、本当かこれ」


 そして屋代もまた、ファナディアの戦闘能力に頬をひきつらせた。

 根本的に、浄環ノ神は戦いを司る神ではない。水を操り穢れを浄化する権能があり、その副次効果として数多の眷族を作り出せる力を持っていただけに過ぎない。なので、戦いにおいては他の神より一歩劣るとも見れるが、だからといってこんなにあっさりやられるような存在ではない。反撃を許すことなく一方的に叩きのめしたファナディアが異常なのだ。

 屋代はそっと、胸の奥に埋まる種の存在を意識した。


「し、白穂神――!」


 冴木の裏返った声が響く。後ろに下げていた理由も忘れて白穂神を盾にした冴木だが、その固まった表情を笑うことはできなかった。もし屋代が同じ立場であれば、間違いなく似た顔をしていただろう。


「ぁっ、に――」


 冴木に命じられて、白穂神の権能が発動する。大地を破り急激な成長を果たした巨木たちがファナディア目がけて襲い掛かる。


「へぇ」


 人間の胴体を超える太い幹、鉄製並みの木肌は当たるものならどんなものでも叩き潰す。それが数十の束となり、ファナディアというただ一人を殺すために全方位を囲った。


「ソーサーさん!」

「――――」


 焦らない、慌てない。抉りとられた胸の痛みを思い出す屋代の前で、ファナディアは変わらない瞳で周囲を観察する。足元を狙って薙ぎ払われる巨木を跳躍して回避し、左右から襲いくる鋭い先端をあっさりと掴んで体を持ち上げる。背後から迫る、頭上より落とされる木の鞭は回し蹴りでへし折った。一撃一蹴。ありとあらゆる角度から命を欲する巨木を、ファナディアは淡々と処理していく。常人ならば一秒でひき肉になっていそうな木の檻ともいえる状況で、傷一つ追うことがない。その視線は冴木に、そして白穂神に向けられていたが。


「!?」


 ふ、と瞳が屋代を見た。すぐに逸らされたが間違いない。それを合図と受け取った屋代は、大きく深呼吸をした。


「―――――よし」


 顔を引き締めて、片手でもう一方の手首を掴む。

 脳裏に再現するのは、先ほどファナディアから聞かされたこと。屋代の体に何が起こり、そうして何を出来るようになったのか。


「魔法使い。魔法、か……」


 ――――魔法使いは魔力を体の内側で循環させた存在。元来、魔力をとどめられない人間が、特別な種を使うことで魔力を中に閉じ込める。そうすると、肉体の各種機能、反射神経や治癒力でさえ比べ物にならないほど向上する、らしい。それを聞いた時はファナディアの超人的な身体能力の理由を知れたと喜んだものだが、残念ながら屋代はほとんど向上しなかった。これもまた道理で、魔力を生成する能力が極めて低い屋代では、魔力を循環させても大した効果は見られなかったのだ。幸い、治癒力、再生能力はあがったので重症部分は癒えたが、それだけでしかない。なので、屋代にはファナディアのような動きをすることは不可能だ。

 本命は魔法。これもまた、種によって魔力を内に循環することで得られる術だ。脳内にまで根を下ろした種、その根っこを通じて送り込まれる魔力が脳に覚醒促すことで使えるようになる……という話だ。


「ふぅー」

 

 そして、屋代はすでにその確信があった。これまでの、できるかどうかも分からない祈相術などとは違う。明確な言語として、すでに屋代の頭には魔法が思い浮かんでいた。あとはそれを言葉に出して、現実に発動させるだけ。


「はぁー」


 緊張で汗がにじみ、無意識に震えが走る。祈相術を使えなかった日々を思い返され、発動できないのではという不安がよぎる。


「白穂神」


 だが、人を傷つけることを強要されている白穂神に比べれば、どうでもいい。ここで屋代が動かなければ救えないと思えば、己への不信はいくらでも蹴りつけられる。

 眼前で広げられる攻防を目に刻み、ぐっと手に力を籠めた。


「―――無跡の槍」

 

 魔法を、発動する。

 脳に何かが流れ込み、すさまじい勢いで全身を伝わりだす。屋代という人間の内側を、出口を求めて一直線に駆け抜ける。

 手のひらに伝わる熱。そこから放出される魔力が形を成していく。

 見た目は粗雑な槍だった。持ち手もなく、柄と刃の境界線もない。一本の木から削り出したような、両端が鋭く尖っただけの、槍とも呼べないような棒。深い紫紺に彩られたそれが、屋代の手の中に生み出された。


「――あぁ」


 感動が屋代の中を走った。幾度となく夢に見て、何度となく願った。祈相術と違うと言えど、今、屋代は間違いなく自分の意思で術を発動してのけたのだ。思わず涙ぐむほどの喜び、しかしそれに浸っている暇はなかった。

 改めて、生み出したばかりの槍を握りしめる。


「これが俺の魔法」


 記憶の魔法。

 それが、屋代に発現した魔法だ。ファナディアの話では発現する魔法は人によって異なるようだが、屋代のそれは主に記憶や記録に干渉する魔法であるようだ。今生み出した槍は、その最たるもの。魔法使いとなった時点で屋代の脳内で目覚めた槍は、刺した対象の記録を消去する。ただし、試し運転をする時間もなかったので、どこまで消せるのか、どれほどの時間を対象にできるかは屋代でも未知数。

 それでも今は、眼鏡があった。


「これでしっかり狙えってことだよな」


 ファナディアに渡された眼鏡を通してみる世界は、相変わらず色とりどりの光で満ちていた。その中にあって、白穂神に刺さる短剣から特徴的な光が断続的に広がっている。おそらくあれが白穂神を操る術であり、あの光を消しさえすれば白穂神は助かるのだろう。

 屋代は目標をしっかりと見定めて、意識を集中させた。


「っ、何をやっているのです。彼もまとめて始末しなさい!」


 屋代が構えた槍を見た冴木が血相を変えた。明らかに祈相術とは違うものであると、自身も術を使えるからこその判断。ファナディアだけでなく屋代をも攻撃範囲に捉える。

 だが、それは悪い手だ。


「いいの? 届くよ」


 すぐ近くで聞こえたファナディアの声に、冴木が驚愕の眼差しで振り返る。が、その時にはすでにファナディアは距離をとっており、寸前まで彼女がいた場所を白穂神の巨木が打ち据えた。

 屋代も狙うというのなら、その分ファナディアへの攻撃密度が減る。今でさえ早すぎるファナディアを捉えきれていないのに、ここに来て手を二つに分けるとどうなるか。そのことに気づいた冴木であったが、他の手を思いつけない。皺が刻まれた自分の手を見下ろして煩悶とする。

 その姿を悠長に観察している余裕は、屋代になかった。


「おおおおおお!」


 槍を握りしめながら、必死の形相でひた走る。


「ちょ、これ、走りずらい!?」


 重さなどまるでないが、とにかく邪魔で仕方がない。腕を振るたび体のどこかにぶつかり、時には瓦礫に挟まれそうになるなど、鬱陶しいことこの上ない。普段舞うために玉串くらいは持つが、自身の身長と同程度の長物は未体験であった。今後は練習が必須である。

 そんな未来を想い、縺れそうになる足を叱咤して白穂神に突撃する。


「キミ……」

「悪い! けど、この魔法がいつまで持つか分からない!」


 ついでにいつまで逃げ続けられるかも不明である。なので、隙を探すなどといっていられないと主張する。屋代と違って多少息を弾ませた程度のファナディアは呆れた目を向けてくるが、それ以上何も言わず屋代に追従した。


「私が短剣を奪う。キミが槍で神様を貫いて。言っておくけど、その魔法で余計な部分を刺せば神様自身の記憶が消えるから」

「お、おお! 了解だ」


 もとよりそのつもりはなかったが、ファナディアに念を押されて頬を引きつらせた。己の一刺しで白穂神を救えるかどうかが決まると考えれば、槍を握る手に汗が滲む。


「っっっ、はやく、っ、早く殺しなさい!」


 完全に余裕をなくした冴木の声に促され、白穂神の巨木が猛る。前後左右、上下に至るまであらゆる角度から打ち払われる攻撃を屋代は目を見開いて避け続けた。魔法使いとなったことでほんのわずかだが身体能力も上がっている。今までの屋代であれば間違いなく死んでいる状況であって、生きているのがその証明だ。

 それでも完全に回避することはできず、腹をかすめただけで痣が作られ、飛び散った建築物の破片が足を切り裂く。傷ついた端から徐々に回復するとはいえ、痛みは感じる。それでも足を止めない屋代に冴木が気圧された。蒼白にした顔面で、震える手足に視線を落とす。


「私は――」


 何かを葛藤するような呟き。結論を急かしてくる状況に冴木が答えを出そうとするが、それより先にファナディアが白穂神に届いた。冴木の目が暗く染まる。


「っやめ!」

「取った」


 悲鳴が木霊する。長い年月を重ねて老成したとは思えないほどの絶叫が、冴木の口からほとばしった。柄を握り一息で短剣を引き抜いたファナディアは、勢いのまま冴木に肉薄。反応する暇も与えず意識を刈り取った。

 そうして屋代が突貫する。


「白穂神様!」

「やし、ろぉ」


 唇を震わせた白穂神に、笑みが浮かぶ。しかし、歪められた影響は完全には消えない。冴木の命令を忠実に守ろうと、白穂神の意志を無視した体が巨木を解き放つ。

 真正面の地面から突き出された木々が視界を奪う。白穂神の目が見開かれた。


「やし」

「邪魔だ!」


 跳躍。巨木の隙間から、屋代が飛び出した。


「返してもらうぞ、俺の神様を!」


 槍を引き絞る。一度として扱ったことがないからか、持ち手も格好も決まっておらず、その態勢は不完全。けれど、研ぎ澄まされた瞳はレンズを通して狙うべき場所をたがえない。瞬きをおしみ、ただ一点のみを注視する。


「これで―」


 踏み込む。もはや遮る障害物のない、白穂神へと続く道。温かみを帯びた白穂神の魔力を汚す色を目がけて槍を放った。


「消えろ!」


 寸分たがわず、貫いた色が消失する。微笑みを浮かべた白穂神を、屋代は勢いのまま抱きしめた。

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